Friday, December 19, 2008

祭りのあと


はぁ。中米からの研修生たちが帰国して2日。やっぱり疲れてずっと寝てた。今朝は朝から有馬の金の湯に浸かりに行って、整体の先生のところへ身体のメンテ。午後余裕があったら映画でも行こうと思ってたけれど、お昼ご飯を食べたら夕方まで寝てた。起きたら一瞬ここはどこでいつなのかわからないほどだった。

11月の26日に彼らが到着してから、ぼくはずっと一緒に行動をともにしていて、彼らがJICAの宿泊施設に泊まるときは一緒に泊まり込むし、西宮に来てからは夕方から深夜か明け方か、ホームステイ先で彼らが眠りにつくまで通訳としてついている。朝はまたすぐ起きて、一人の研修生の介助のためにまた出かけるという生活。午後の空いた時間を家のことをしたり、足りない睡眠時間を補ったりして使っていた。研修生たちも、勉強だけをするつもりできていたので、まさか毎夜2時3時まで話し込むと思っていなかったから、かなり疲れていた様子だったけれど、ぼく自身も最後までよく持ったと思う。

期間中よく、「楽しそうですね」って言われたので、半分冗談で「人生でいちばん楽しいかもね」って答えていたけれど、残りの半分はほんとうにそう思っていたと思う。何でなんだろう?
おそらくたぶん、ひとつはぼくはラテンアメリカの人との方が、感情の疎通がうまくいくんだろうと思う。ちょっとしたことで手をつないでみたり、肩を組んで歩いてみたり、何気ない瞬間に目があってお互い微笑んでみたり。はじめて日本を出て、北米から南米にかけて旅行して、あのとき感じて救われたと感じた感覚を、おそらく今回も感じていただろうと思う。

日本人は抑圧されている。そうだろう。たぶん。写真は先日の日曜日、最後の休日でメンバーの何人かは海遊館へ向かう。9時の集合だったが、時計はすでに10時になりつつあるのがおわかりかと思う。悠々と2階のILルームから登場のサンドラ嬢from Nicaragua。ぼくたちも最後この中南米時間に慣れつつあったかも知れない。彼らは勉強に来たが、ぼくたちの何かも確実に変わった。
それが交流とか交換とかいうものだろう。

Thursday, November 13, 2008

aguas calientes dorados(金の湯)

夕方から、久しぶりに有馬の金の湯へ。おそらく昨年の6月以来。今日はあのときのように疲弊しきってはいない。ほんの骨休め。
車を駐車場へ停め、ドアを開けて外へ出たら、裏の山の空気がふっと流れてきて、とても心地よい。観光客が上がったり降りたりする坂を金の湯へ。
ゆっくり浸かっていようと思ったら、あいにく韓国人の団体客と同じタイミングになって、別にいやではないのだけれど、大声の外国語が側で鳴りつづけているとあまり落ち着けないので、彼らが出て行くまで、身体を洗ったりしながらしばらくやり過ごした。有馬は最近とくに新しい店も増え、彼らのようなアジアからの客もずいぶんと多くなっていると聞く。それ自体はけっこうなこと。
静かになった温泉でじっくり汗をかいて、そしてあがった。

帰りはもう暗くなっていて、帰りの坂を車で上っていると、満月の月が正面の木の陰から覗いている。真っ暗な道路がヘッドライトが照らし、これも最近またよく聞いているマデラ・フィーナアルバムの音量を上げて響かせた。ぼくはなろうと思えばいつでもラティーノになれる。

Huellas del padado(過去の足跡)

もうそろそろ、中米からの研修生も来るし、iPodの中もサルサやレゲトンでいっぱいにしとかなくちゃなって、物置と化している実家の元自室から持って帰ってきた一枚。1998年プエルトリコの歌手オビー・ベルムーデスのデビュー盤"Locales"だ。最近家でも外でもなんかずっと聞いちゃってる。ぼくはずっとフォローしなかったけれど、この後はサルサではなくふつうのポップスを歌って、それなりに人気が出て成功したはず。マイク・リベラとコンビを組んでこの頃のニューサルサをプロデュースしていた、ファン・ゴンサレスが単独でプロデュースして、それまでのサルサのテイストからさらにロックやポップスの味つけを濃くしていたのが特徴だった。キューバの新しいサルサが現れ、すでにレゲトンも登場していて市場は劇的に変わりつつあったから、それまでメインストリームを行っていたプエルトリコのサルサも変わらざるを得ない時期だった。音楽としてはおもしろかったし、当時もよく聞いていた一枚だったと思うけれど、どうしたら売れるかっていう「仕掛け」の部分が見えすぎていて、ぼくたちが愛していたそれまでの、身内だけで作っちゃいましたノリのサルサからどんどん離れていっているのが寂しくて表向きは批判的なことを言っていたと思う。

ふぅ、そんな頃からもう10年も経っちゃったんだ。おかげでそんなしがらみた思いからも自由になって、この音楽を楽しむこともできるわけだ。そして、やっぱりこのジャケットはインパクトがあったよなぁって思ったら、たしかぼくはこのジャケットをデザインしたアートディレクターにインタビューしたことがあったって思い出した。そんなことももう忘れちゃってた。10年だもんな。彼はミゲル・リベラと言って、ニューヨークに住むラティーノだった。連絡先はジャケットにあるクレジットにあったから簡単につかまった。当時のニューヨークの新しいサルサは彼がほとんど手掛けていたから、面白い話しがたくさん聞けた。それをラティーナに送って載せてもらったのだけれど、同じ理由でぼくはこの頃の新しいサルサに批判的だったから、このおしゃれなジャケットのことを語ることによって、そのマーケティングのされかたについて言いたかったのだと思う。記事のPDFを置いておきます。興味ある方はどうぞ。<PDF>

Saturday, November 1, 2008

Periódico de Ayer(昨日の新聞)

昨日、iPodに落としたスペインのラジオ局Candena SER のLa ventanaという番組を聞いていたら、Vanguardiaという新聞が、過去の新聞をすべてネットで公開しているという話しをしていて、その担当者が電話のインタビューで答えていた。おもしろそうなので早速アクセスしてみたら、なんかものすごいことになっていた。
過去の記事というのは、だんだん公開されるようになっていて、Googleでも検索できるし、登録さえすればNY Timesなども読める。Vanguardiaがすごいのは、これをPDFでやっていて、当時の新聞そのままの形で読めるということだ。確かに記事だけ読めれば、何かを調べて確認するだけだったらそれで事足りるかもしれなが、実際当時の新聞を見ていると、写真があり、他の記事と並んだ取りあげられ方のバランスが分かったりして平面的なものが立体で見えるようなリアルさがあった。しかも、それが1881年2月1日から昨日の新聞まですべてだ!

例えば、エクトル・ラボーが亡くなった、1993年7月1日の記事はこんな風だ。「プエルトリコの歌手47歳。心筋梗塞で入院していた病院で死亡...」。ねすごいでしょ。そのままYoutubeへ行って、"Periodico de Ayer"でも聞いてみたくなるよね。

しかし、こんなのに比べると日本の新聞はひどいね。金のことしか考えていないように見えちゃう。

Friday, October 31, 2008

『小川プロ訪問記』

父親が癌で入院、手術という慌ただしい毎日に、スペイン語講座の講師をしなくてはならなかったり、単発の泊まりの介助が入ったり、嵐のような日々だったけれど、なんとか通常ペースに。なんとなくここから外へ出たくて、神戸に映画を観に行った。新長田の神戸映画資料館で、『小川プロ訪問記』と『帰郷―小川紳介と過ごした日々』の2本立て。平日の昼間とはいえ、前に小川伸介の『峠』を観たときは、38席しかないこの劇場もかなり埋まっていたのだけれど、今日はぼくを含めて2人とやや寂しい。
小川伸介本人には興味があっても、その関連ものにはそれほどということか。『帰郷―小川紳介と過ごした日々』は、2005年の作品で、映画学校の学生の卒業作品だというが、その中でインタビューを受けている当時の助監督飯塚俊男は、そうしたすべて小川伸介のために周囲が献身し尽くしていたかつての状況を、反省と批判めいた口調で答えている。『小川プロ訪問記』では、牧野で大島渚にインタビューを受ける小川伸介の後ろで、微笑みながらそれを聞いているまだ若く初々しい飯塚も一緒に記録されている。そうした姿を思い浮かべながら後年の話しを聞くとまるでユダのようだと思いながらも、飯塚の気持ちもほんとによくわかるとも感じていた。そして、これ自体がもうすでにドラマなんだと思った。他にも小川の映画に出演した牧野の人たちのその後も追っていて、丁寧なとてもいい作品だった。
『小川プロ訪問記』では、大島渚がインタビュアーだったのだが、小川プロの人たちも含めて、みんな百姓で、つまり農作業をする場所でそれなりの作業着を着ている中に、ひとりとってもおしゃれな茶色の革のスーツで現れて、長靴を履いて小川にインタビューしているのが笑えた。しかし、やはり小川伸介の迫力がやはり違った。圧倒的で、今日もまた世の中にはこういう凄い人がいるんだなって身が引き締まる思いで帰ってきた。
それにしても、こんなまったく金にならない映画を収集公開しているこの団体は、貴重だ。敬意を表したいし、潰れないように何かできることがあればやりたいと思う。

せっかく長田に来たんだからと、帰りに「みずはら」で、牡蠣とすじ肉のお好み焼き。ビールを一杯やりながら、焼いてくれた80は超えてるだろうと思われるおばあちゃんと一緒に、さんまのまんまを見ながら、Daigoとの他愛のない会話に笑っていた。おばあちゃんとてもかわいい。至福だ。

Monday, October 13, 2008

『外国語学習の科学』

外国語の学び方を書いていて、手頃なサイズの本だったらつい買ってしまう。今さら手品のように目が覚めたら話せるようになっていたなんてことを信じはしないけれど、せめて無駄な方法はやめておいたり、色々自分が気づかなかっった方法を捜したり、見直したりするのには、やはりたまにこんな本を読んでみるのもいい。岩波新書から新しく出たこの『外国語学習の科学』は、母語以外の言葉を学習することを学問の対象とした、SLA(第二言語習得)という研究をもとに外国語習得について書いた本で、今まで経験でおおざっぱにこうだとか、こうした方が効果的と言われていたことを、検証してもっと妥当だと思えるレベルにまで検討している。
研究の成果に基づいて、色々な方法の外国語学習の方法の変遷が示されているのだけれど、興味深かったのは、この「第二言語習得研究」という分野が、それまでの外国語学習のアプローチが、言語学と心理学の研究に基づいて学習者がそれにどんな反応をするかという検証をすることなく提示されたのに対して、学習者が誤用したらとその誤用は学習者の心理的なプロセスを反映するはずなので、それ自身を研究対象とした1967年のピット・コーダーの論文に始まるという所で、1967年という時代と、学習者という「当事者」へと研究のポイントが移動していくことを考えると、この頃にはほんとうにあらゆる分野で、こうした動きがあったんだとあらためて感じた。

書いたように、これをやればすぐ話せるなんてことは書いてない。インプットとアウトプットでは、インプットが重要だが、アウトプットもそれに適度に加えていかなくてはならないと、当たり前の結論。インターネットで外国語は読み放題で、いろんなニュースなんかも聞ける。ネットの時代になってインプットを確保するのはそれほどむつかしくなくなったけれど、すぐに話せる外国人の友人がいるわけでもないので、アウトプットはずっとぼく自身も課題だと思ってきた。熱心なときは、ボルヘスの短編を丸暗記しようとしていた時もあったけど、最近はニュースなどを聞き流すのがいいとこ。いいきっかけなので、アウトプットのために、この本に書いてあった方法を採用させてもらって、去年スペイン語で書こうと思って作ったまま放ってあったブログをまた取り出して、少しずつでも書いていこうかなって思う。あんまり他人の目を気にする必要もないので、一番本音が書けたりしてね。

Friday, October 3, 2008

『コロッサル・ユース』

なんとかく、最近よくあるパターンで休日の映画。九条のシネ・ヌーヴォでペドロ・コスタの『コロッサル・ユース』を観る。
先月末から上映されていたんだけれど、職員旅行でマカオなど行っていたものだから、一週間たってやっと観れた。『ヴァンダの部屋』で描かれた、リスボンにある移民街が再開発で取り壊される様を、ヴァンダとその周辺の人物を通してさらに追っている。ほとんど劇的な展開はなく、彼ら家族の日常的なシーンが淡々と進む様子を、例によってときおり睡魔に襲われながら観ていた。
ペドロ・コスタの「サーガ」と呼んでいい物語の続編は、よく話題になる、これはフィクションなのかドキュメンタリーなのかという点で言えば、今回は前作よりかなり明確に演出するという意志が明確だったように見えた。事はこれからに関していて、それには、演出という想像力が必要じゃなかったのかと思う。おそらくショットが固定されているからだろうけれど、ペドロ・コスタは、小津との比較がよくされているけれど、「むしろこれは溝口じゃないか!」と叫びたくなるシーンがいくつかあった。
Youtubeにもいくつか動画がアップされてます。

お腹が減ったので、帰りに九条駅近くの「チング」でお好み焼きを食べながらビールを一杯やって帰る。

Monday, September 22, 2008

コミックオペラ

久しぶりに詩を作った。何年ぶりっていうくらい。ひょっとして10年とか。コスタリカからパナマへ行ったときの、もわっとした感覚を置いておこうと思って、帰ってからずっと書きたかったんだけれど、やっとできた。久しぶりなので、新しいものが入るかと、自分ではもう少し期待していたけれど、実際は昔仕込んだ芸からあんまり出てないなぁって感じ。がんばってまた違ったスタイルを発明しよう。


     コミックオペラ

ルイースが身体を折りたたんで抱えられ、
そのバンの座席に腰をおろした。
さようなら!また会いましょう!
バンは去って、私たちが見たこともない、彼の、小さな
町へ帰るだろう。街角の雑貨屋の鉄格子の陰から
誰かが私たちを眺めている。San Vito,聖人の町。
Saint Vitus de Lucania:
その守護聖人のために皆狂ったように
踊り明かすのだという。脳性麻痺の、
不随意運動みたい、私の舞踏病
の姉さんみたい、

そしてラリーが運転する車で私たちは、パナマへの
小道(sendero)を行く。砂利道をしばし。それから、
停まった。

ラリーが、ノリエガ顔の国境警備兵と話す声が
漏れてきて、「ここはチリキ県で...」と聞こえる。

長く外国で歌ってきたルベンが、
ようやくパナマへ帰ってきて、これからは
この土地のために歌うだろうと、宣言した曲で、
彼が、「チリキ!」と呼びかけた声が、
ふっと二重になってよぎっていった。
(Chiriqui!)           ああ、私のチリキ、




(そうして私たちは無事にパナマに潜入したのだ。)
私たちの行程はまるで、
旅芸人の記録だ。
町から町へ移って、興行を
打つ。国境を越えるたびに
何度「あなたたちは家族(familia)ですか?」と
訊かれたことか。"¿Quién es papa?"、いったい誰が
お父さんなんですか?
いいえ、私たちは家族なんかじゃ。
私たちは一座 (una compañía)、
町から町へ移って、芸を披露
する。シロッコの吹くあの町で、小銭を集めて回って
いたのも私たち。そう、たしかに私たち。

私たちの小さな音楽つきの芝居。
コミックオペラ。いつものように男と女。
(追っ手はまだ来ない)。
しっかりこっちを見て。嘘はつかないでね。
(なんとたくさんの履行されなかった約束の数々)。
いったいどうしたらいいのかしら。
もう一度あなたを愛したら?
あなたがそうしているように?
愛する?
(行くべきか、戻るべきか...。)
そう、愛してみる。


1950年代に入植したイタリア人たち。
(私たちはふたたびサン・ビートにいる)
そのとき持ち込まれた
ピザ・ハウスのレシピ。
私たちのピザの夕食。
コーヒーを飲みながらお喋りをしていると、
コンザレスさんの家族が、
誕生日用のケーキをたくさん、
車に積んで帰った。
お母さんの後を、子供たちがついてゆく。
ラリーの別れたパナマ人の女房。
カルロスはニカラグア人の女に逃げられた。
ピピッと、ラリーが車を開ける音がした。
さようなら、
またあした。

(so many promises broken....)
人生はすべて、コミックオペラのようだ。






(大好きなKに)

Saturday, September 13, 2008

『パルチザン前史』

ふう。昨日作った焼きそばに、すじこん入れてそばめしにして食ってやった。卵を割って半熟にして。超うまい。しかし食い過ぎだな。

昨日の休日は、JR新長田の駅前にできた神戸映画資料館に小川伸介と土本典昭のドキュメンタリーを観に行った。小川伸介は『牧野物語・峠』。土本は『パルチザン前史』。全共闘運動の末期、京大・同志社・大阪市大での闘争を追っている。機動隊に突入されだんだんエネルギーが消耗する課程を、京大パルチを率いる滝口修を中心にカメラに記録している。(「全共闘を解体せよ!全共闘の既成性、自然発生性を解体せよ!全共闘をソヴィエトへ、労学ソヴィエトへ、革命的に解体せよ!」(滝田修、『パルチザン前史-京大全共闘〈秋〉のレポート』69年12月))。
全共闘運動というのは、余程興味を持って色々知ろうとしないと今では過去のものになっているし、当事者も含め、過去のものにしたい人もたくさんいるだろう。映像もそうで、東大の安田講堂が機動隊に突入されるシーンは何度もテレビの番組で引用されるけれど、それ以外は皆無に近い。ぼくも今回初めて、活動家の間近で、卑近な行動を見たと思う。
ぼくらが大学に入った頃は、学生運動=ダサイって感じで、学生運動やっている人は風呂にも入らず、身なりも気にしないなんて思われていたけれど、今回まず最初に感じたのは、みんな意外にちゃんとしていて、しかもオシャレじゃん、って思った。
たとえば、ゴダールの描く活動家は、彼が引用するからおしゃれに見えるんだって思っていたけれど、じつはゴダールはけっこう、当時の若者のファッションをかっこいいなって思って撮ってたんだと思う。
デモに、女の子も混じっているし、街で買い物してそのまま来ましたって感じの女の子が、活動家が会合をしているのを遠巻きに眺めていたり。その感じは、先年ベルトルッチが『ドリーマーズ』で描いたものとほとんど違いがないと思った。世界中の若者たちが(たとえばビートルズを聴きながら)同時に同じことをしていたんだというのが、いくつかの映像を並べてみてみると実感することができる。

ぼくの母校や、大阪市大にも機動隊が突入してバリケードの封鎖が解かれる。思えばここで書いた表さんは市立大学の全共闘の議長だったから、まさにあのバリケードの内側にいたわけだ。この映画の中心人物の滝口修も映画の中で予備校の講師をしているし、よく知られているように東大の山本義隆もそう。ぼくが駿台で表さんの授業を受けていたのは81~82年頃だからこの敗北から10年ほどの時期。10年くらいで色々な思いがこなれているとは思えず、当時の表さんの心うちというのはどんなものだったんだろうと改めて想像する。

そして、この2年後には『さようならCP』が来る。学生運動崩れの活動家が、障害者運動の支援者になったとも聞く。ここで始まった障害者の運動はまだつづいているし、結局運動は必要なところでは否が応でもつづけなくてはならないということだ。ラテンアメリカで解放の神学や社会主義がずっと必要とされつづけているようにね。

Wednesday, September 10, 2008

チャリで行こう!メキシコ

昨年、メキシコから帰ったときに書いて『Latina』に送ったボツ記事。なんかムカツクからパソコンの奥に放っておいたんですが、もったいないから載っけます。環境とかエコとか最近の話題も盛り込んだ面白い記事だったのになぁ。以下記事です。

 久しぶりにメキシコシティへ行ってきた。じつに14年ぶり。ちょうど前回帰国する頃通貨ペソがデノミする直前で、盛んにそのお知らせがされていたから、現在の紙幣や貨幣は私には初めてで、物を買う度にあらためてこれはいったいいくらなんだろう?と考え直さなければならない始末だった。セントロには、セブンイレブンスタバマクドが当たり前にできており、夜中や日曜日にはすべて店が閉まってしまったかつてとは隔世の感。こうした外資系のチェーン店の他にも、メキシコブランドのファミリーレストランも、通りに一つといった感じで増えていて、昔よく学校の帰りにお昼ご飯を食べたごくごく庶民的な定食屋も、小ぎれいなレストランに変わってしまっていて、少し寂しく思った。
 今回は、"死者の日"に合わせて行った。ちょうど日本のお盆にあたるようなこの日には、骸骨の人形やお菓子を飾って死者を弔う。ソカロには舞台が出てマリアッチの楽団の演奏し、何万という人の波が夜遅くまで押しかけていた。前月の末に見舞われた洪水の被害で、南部にあるタバスコ州にあるビジャエルモサでは、何十万という人々が避難しているというニュースが新聞やテレビで連日報道されているのが、同じ国のこととは思えないような光景だった。
 そうしたお祭りの日々が一段落した日曜日、本紙でもお馴染み、チャリ好きでも知られるメキシコシティ在住のライター長屋美保さんに誘われてサイクリングに行った。事前に長屋さんから話しを聞いていてはいたものの、メキシコシティと自転車というのが、あまり結びつかず、サイクリングというのにさらにピンと来ないまま、早朝の約束の時間にアラメダ公園へと向かった。だんだんと寒さを増していくメキシコシティの朝の空気はとてもきれいで、ベジャスアルテスや、周辺の建物もみな輝いて見える。しかし、空気がきれいなのは当然で、なんとメキシコシティを東西に走る大通りレフォルマが通行止めになって、自転車と、歩行者の専用道路になっている。すでに自転車に乗って気持ちよさそうにその道路を走る人たちがいる。アラメダ公園には、テントが一つ立てられていて、数人の人がそこらへんに座りながら、何を待つともなく、待っていた。「ここで自転車借りれるの?」と高校生くらいの女の子に訊くと、そうだというので、私たちも待つことにする。9時から、自転車が借りられることになっていて、私たちはそれよりずいぶん前から待っているのだけれど、その9時は当たり前のように過ぎ去っている。なんとなく待つ人が増えてきたなって思ったら、あっという間に列になったので、私たちも慌てて列に加わった。
 身分証明の代わりにパスポートを預けて借りた自転車は、マウンテンバイクもどきのメキシコ製自転車で、変速ギアは付いてはいるものの、かなり重いところで固まって動かない。ブレーキも甘いし、空気ももう少し入れたいところだけれど、まぁ仕方ないということで、出発。車の通行が規制されているのは、レフォルマだけではなく、大聖堂や大統領府が並ぶ、ソカロを中心とした歴史地区全体が歩行者と自転車に開放されており、私たちは普段車と人混みと格闘しながら歩いている道を、大統領府の裏側、メルセあたりまで行ってUターンする。アラメダ公園まで帰ってきて、今度はベジャスアルテスの裏手、北側のイダルゴを通ってレフォルマに入った。
 それからは、メキシコ一番の大通りを独り占めにしているような爽快な気分で、地下鉄クアウテモク駅あたりまで。折り返して再びアラメダ公園まで戻ってきた。約1時間半ほどの行程だったが、排気ガスが有名だったこの町が年月とともに変わりつつあることを実感し、これまでとは文字どおり、違った角度でメキシコシティを眺めた時間だった。
 後日、なにげに町をぶらついていると、ソカロの片隅に、「チャリで行こう」と書いたブースがあり、自転車のレンタルとプロモーションをしていたり、NHという高級ホテルの前には、私たちが借りたおんぼろな自転車ではなく、まだ真新しい自転車が並べられているのを見かけたりと、どうも町を挙げて、自転車を推奨する運動中であるらしいことがわかった。
 帰国後さらに調べてみると、この運動は、メキシコ市の環境局が中心に進めており、日曜日にレフォルマへの自動車進入を規制して歩行者天国にするのは、この一連のプログラムの主軸であるらしい。もともと、昨年12月に就任したマルセロ・エブラルド市長の前職で、現在のフェリペ・カルデロン大統領との大統領選に僅差で敗れ、現在でもその正統性をめぐってしばしば市民の抗議行動も見られるロペス・オブラドール氏が市長だった時代に立案された政策で、環境や資源、市民の健康など私たちが抱えているのと同じ問題を持つメキシコ市がその解決策として始めたことだ。前職と同じ左派のPRDに属するエブラルド市長になっても、この政策は継続され、今年3月にこの政策の継続とその目的を新に説明したプログラムを発表している。それにしたがって、メキシコ市は、自転車専用道路を整備し、自転車をレンタルしたり、メンテナンスや水分の補給を目的としたブースを設置しており、バスや地下鉄への持ち込みも実験中で、それらを乗り継いでの通勤も推奨されている。政府の関係者には毎月第1月曜日には自転車の通勤を義務づけて、市長自ら自転車通勤している。この4月から始まったこの規則のことを当時の新聞で調べていると、休暇で逃れようとした議員が後で叩かれたりしていて、最近はどこの国の議員も監視が厳しくたいへんだ。私が、たまたまホテルの前で見つけた自転車も、メキシコ市から市内のホテルに贈られた250台の自転車の何台だったようだ。ホテルには、自転車で市内を廻るスポットを載せたマップもあるようなので、観光で行く予定の方はぜひ試してみてみると興味深いと思う。




今年の<自転車天国>のスケジュールはここに載ってます。去年記事を書くときに見つけた素敵なブログ、"Ciudad en Bicicleta"は、世界中での町で自転車がどう受け入れられつつあるかの情報をスペイン語で提供してくれています。著者はメキシコのグァダラハラの人なので、やはりメキシコの情報が詳しいです。

Monday, September 8, 2008

悪魔たち

泊まり明け。何度となく起こされヘビーな夜だった。お昼ご飯を食べて、横になって起きたらもう夕方だった。なんとなくそこにあったからという理由で、ほんとうに久しぶりにバジェナートをかけながら、週末ばたばたしていてたまっていた洗濯物を洗って干す。Los Diablitos、悪魔たち。夕焼けに、流れてくる風がとても心地よく、バジェナートがぴったり合う。ひょっとして今初めてバジェナートのことを理解したのではないか?などと思う。
晩ご飯は龍園。日が落ちても心地よい風はつづき、ビールをやりながら幸せ感に浸っている。客はぼくだけ。親父さんと息子さんの会話を横目に聞きながら、一日親子で過ごすというのはどんな気分なんだろう?などと想像している。あるいは職人さんの人生であるとか。ずっと鳴りつづけているAMラジオで話している女性が、かつみ・さゆりのさゆりであると、かなりしてから気がついた。和田アキ子や、キャンディーズの古い曲が流れている。ここはいったいどこなんだろう?酔ってふんわりした頭で考える。台湾を感じるとは、台湾へ行くことではなく、その「台湾料理・龍園」と書かれたのれんの向こうを想像することなんだろう、そう思ったら、自転車が一台通り過ぎて行った。
ビールを2本と、手羽の唐揚げ、茄子と豚肉の炒め物、焼きめしが本日のメニュー。甘いものがほしくなって、帰りにビバでアイスクリームを買った。レジの女の子がおつりを渡そうとして、その手がとっても大きい。こんな大きな手をした女の子に出会ったことがあると思い出してみる。ほんとはすぐにわかってはいるんだけれど。

Saturday, September 6, 2008

Hanna


<大きな地図で見る>
グスタフがアメリカ南部に接近したときには、あんなに日本でも騒がれていたのに、その数日後のハリケーンでハイチの人が500人ばかし死んでもそれほどでもない。このアンバランスにちょっと目眩すら感じる。というかぼくがテレビ見てないだけ?
ハリケーンは「ハンナ」という名で、日本時間今日午後にはまたフロリダあたりに上陸するらしい。シーズンとはいえ、さらに「アイク」「ジョセフィーヌ」と予備軍がつづいている。しかし最近災害があると簡単に1000人近い人が死んでしまうのはほんとに怖い。

Wednesday, September 3, 2008

Google Chrome

昨日からから今日にかけてネット上はこの話題で持ちきりだけど、ぼくも早速ダウンロードして試してみた。ぼくはもともとGoogleびいきで、みんななんでYahoo!みたいな馬鹿な検索エンジン使ってるんだろうって?って思っていて、メールからカレンダー、ブログを読むのもGoogleを使ってる。それがブラウザ自体を出すって言うんだからそれは楽しみじゃないわけはない。だからじゃないんけれど、今朝なんとなく早朝に目が覚めてしまって、どうせだから4時くらいと言われていたダウンロード開始を待った。
アクセスしてみるとまだダウンロードは始まっていなかったので、Twitterで世界の人がつぶやくのをなんとなく眺めていたら、「クロームをダウンロードした」とか「クロームから投稿した」っていうのが、混じりだしたので、ぼくも行ってみたらちゃんと始まっていて無事ダウンロード。

で、使い心地ですが、これはとってもいいです。シンプルで、サービスが過剰すぎな最近のブラウザに比べて、 ブラウザ自体が主張することなく、中身に集中できる。よく言われる速度はそれほど速く感じなかったけれど、Gmailとかドキュメントとか、Googleのサービスを使うのはもうこちらがスタンダードになるのは間違いないです。面白いのはアプリケーション・ショートカットという機能がついていて、それをGmailで作るとそのショートカットはメールクライアントのようになるし、Documentで作ると、そのショートカットをクリックして立ち上げると、ブラウザを開くのではなく、まるでワードを立ち上げるような感覚で開くことができる。

ぼくはWindowsでは、Operaを長年使って来たんですが、Googleのサービスとの相性はいいとは言えず、だからといってFirefoxも完全に乗り換えるのには今ひとつって思ってたので、これで理想的なブラウザに出会った感じ。

Monday, September 1, 2008

中井久夫『臨床瑣談』

あと何冊中井久夫先生の著書を読めるのだろう。すでに70台も半ばになり、大病もしている。それでも出版のペースが落ちないのは、彼自身がそれを感じてできるだけ今のうちに書き残しておきたいと考えているからのようにも見える。ぼくが最も敬愛するエッセイストだ。
先月出版されたこの『臨床瑣談』は、いつもとちがって専門の精神医学から離れて、医師として、そして患者として関わった現実の臨床での、本当にすぐに役に立ちそうな実践のいくつかが書かれている。

それほど長くない6編を収めたエッセイではあるけれど、ぼくたちがふだん忘れてしまいそうなことに細かく注意を促してくれている。精神科に来る患者に、どれだけの身体的な不調が隠されているか。専門化しすぎていたり、データに埋もれてしまっているなかから、いかに本質的なものを見つけ出していくか。細菌学者から精神科医になった経歴から、様々な経験を幅広く生かしていく方法などなど。

中井先生自身は、自分の立場を「リアリズム」であるとこの本のどこかに書いてあったが、リアリズムとは、この世界への信頼であり、「愛」なのだと思う。それを取り戻さなくてはならない、と絞り出すように語ったドゥルーズのシネマの一節を思い出す。

Friday, August 29, 2008

『いま哲学とはなにか』

ぼくは、一応大学で哲学を専攻したんだけど、まぁ、読みたい本だけ読んで適当に論文書いて卒業しただけで、ちゃんと哲学史すら勉強してない。ぼくがつるんでたグループは哲学だけじゃなくて、音楽や映画やアート全般に興味があって、むしろ映画やライブに行くことの方が価値があることだって思ってた(あるいはそうした全部が哲学だというドゥルーズの考えに忠実だった)。それは今でもそう思ってるんだけど、それにしてもオーソドックスなお勉強をないがしろにし過ぎたって思いはずっとあって、なんとか死ぬまでにはちゃんとそんな諸々を帳尻あわせて死にたいななんて思う。

だから、本屋さんでこんな本が新しく並ぶとやっぱり手にしてしまうもので、最初は、哲学史のおさらいをさらっと読めるような感じで買っておいたんだけれど、でもこれはちょっとすごい本だと思う。

ギリシャからハイデガー・レヴィナスの現代哲学を、現代の問題に関連づけながら、シンプルに語って行く。そのシンプルさがちょっと尋常じゃなく、まるで親が子供に本を読んで聞かせるような調子で最後まで読めてしまう。たしかに現代というのは、とても複雑で、何をどこから解きほぐせばいいのかわからないくらい。でももともとは何だったのかって考えて、もう一度ちゃんと基本を押さえて生きていかなくちゃいけないなって思う。

しかし、この人生と同じで、まったくシンプルなだけではない。「他者という謎」という章では、著者のレヴィナスの読解を基にして、ちょっと現代流のコミュニケーションに慣れすぎたぼくたちには、理解を超えた他者論が展開している。「しかし、人はどうして苦しむ他者に惻隠の情を抱くのだろうか。どうして、苦しむ私は他者に助けを呼ぶのだろうか。おそらく、他者の苦しみに巻き込まれる私は、この偶然出会った他者の古い知り合いだったのだ。見知らぬ隣人への私の責任は、私の自由に先立って、記憶を絶した過去のうちにあったのだ。.......」etc..この章をその前の章の終わり、ハイデガーとヘルダーリンを論じて、この私という存在の深遠さを語った箇所から続けて読んでいくと、今日はとりあえずオリンピックを見てうち高じてはいるけれど、日々なにげに感じている不安というものにあらためて目を向けて、それをいとおしく感じたくもなる。そこでの文体はほとんど詩のようだ。

ポストモダンの哲学への批判から始まって、オーソドックスな哲学への回帰は、90年代から現れたと思うけれど、哲学の必要性は現代ではもっともっと高まっていると思う。
(ぼくが書きたかったことは村上陽一郎が毎日の書評でちゃんと書いてくれてるね)。

Wednesday, August 27, 2008

日記

ちょうど4年前の今日から、日記を書きつづけている。といっても、このブログのことではなくて、モレスキンのノートを使った完璧に昔ながらのアナログなものだ。
昔旅行ばかししていたころは記録はつけていたので、その流れで帰国してしばらく日記のようなものを書いた時期はあったが、今回のように継続して何年も書きつづけるのは初めて。日記を書こうかなって思ったきっかけは、ちょうどその頃、ふっと去年の今頃って何してたっけ?って考えてみたのが最初だった。そうしたらまったく思い出せなくて、こんな風に人生が過ぎ去っていくのはあんまりなんじゃないかと思った。そんなときに、本屋をぶらついているとたまたま、昔予備校で英語を習っていた表先生が、日記の効用についての本を出しているのを発見して、立ち読みしているうちに、これは日記をつけるしかないなって思えてきた。
表さんは、ぼくが人生の中で影響を受けた人物の一人で、予備校では英語の授業はほとんどされずに、ほとんどマルクスとかフッサールとかの話ばかし聞いていた。大学で哲学をやったのもその延長線にもちろんあるし、言葉の背景にあるものが理解できずに言語を理解することは不可能だという教えは、今もスペイン語や他の言葉をやるときに、ぼく自身が実感していることでもある。
それでも、おかげで大学に合格して、予備校を卒業して別の文化圏に入ってしまい。彼の名前を口にしたり、聞いたりすることもなくなってしまった。20年以上経って、ふと手にした本はなんとなくビジネスマン向けのハウツーもののようで、その外見にちょっとがっかりもしながら読んでみると、また昔のようにちゃんと影響下にいる自分がおかしかった。

今回日記をつけるのに、はっきり決まりを作ったわけではないけれど、できるだけ余計なことは書かないでおこうと思った。自分の考えとか、何々についての考えとかはできるだけ書かない。時間が経ってその日がどんな日だったかを思い出せるように最低限のことだけ書いていく。朝何時に起きて、何を食べ、どこへ行って何をした。夕食は何を食べ、何時に就寝したか。天気も毎日は書いていない。記憶に残るくらい寒い日とか暑い日に記すくらい。

読み返すと、毎日はおそろしく淡々と過ぎて行っている。日記をつけ始めた1年後には、頭を坊主にしていてそのときはそのときでテンションも上がったのだろうが、数年前の頃のこととして振り返ると、その淡々とした日常に飲み込まれるように収まっている。最近はばたばたしていて、2〜3日分を纏めて書くこともあって、1日分はもっと簡潔になっている。だいたい筆が乗って文字の量が多い時期は、なんとなく調子がよく、逆は体調が悪かったりしている。法則がないようで、じつはちゃんとバイオリズムにそって進んでたりしている。ブログにその日あったことを書いた日は、ほんとに淡泊。

Thursday, August 21, 2008

temblar(11) google maps

生来の飽きっぽさと、なかなかテンションを保ちきれなかったりして、このtemblar「揺れる」シリーズはもう1年もほったらかしている。次々新しい状況が現れてそれに対応しているうちにだんだん集中できなくなるというのもあるだろう。そんな間にも、日本でも大きな地震があったし、もちろん四川省の地震があった。まるでそうしたことをみんな忘れてしまったようにオリンピックを楽しんでいるけれど。

きのう、たまたまグーグルマップにアクセスしたら、現在の地球上での地震の発生状況がリアルタイムで確認できるコンテンツがあることを知った。新しいサービスではないようだけれど、これはなかなか興味深い。<Real-time Earthquakes>
一昨日、福島の方で地震があったけれど、その直後には最近行ったコスタリカでも揺れていることがわかる。コスタリカの地震について知りたければさらに詳しいこんなページにアクセスできるようにもなっている。震源は首都サンホセの南85キロ、プンタレナスの南東130キロということだ。
その後も、フィリピンやギリシャ、ソロモン諸島などで地震があった。マグニチュード6くらいまでの地震ならほとんど恒常的に起き続けているのがわかる。

それは揺れつづけているぼくらの人生と同じだろう、というのがぼくが言おうとしていることだった。さっき確認すると、今日の日付ではまだ地震は確認されていない。その平安な時期はどれだけつづくのだろう。『私の人生の映画』にもこんな一節がある。

 数ヶ月後、チラカ叔母さんは帰ってしまっていたが、ラ・ポッチーはまだ帰るつもりはなかった。そこへひとりのチェロキーインディアンが現れた。それともスーだったか。来たのは夜明け前で、午前4時頃、父はすでに仕事へ出かけていた。インディアンは、やけになって戸を叩きだし、ほとんど壊してしまいそうだった。それは、ダコタ・リーの父親で、混じりっけのないインディアンだった;肌は赤くはなかったが、銅の色のようで、まるでチリ人のようだった。そして、ハーレーのバイクに乗っていた。インディアンの髪は、私がこれまで見たことものないくらい長く、ベニスビーチのヒッピーたちよりももっと長かった。母とラ・ポッチーは、叔母の一族の畑からとれた赤ワインで彼を落ちつかせることができた。
 イングルウッドは、危険な地域になりつつあった。ある夜、向かいに住むメキシコ人家族のまだ未成年の息子が、車で通った若者のグループに撃たれた。母は、怯えて生活するのにも限度があると言って、テオドロ爺に、お金を借りた。父は、牛乳からパンへと替え、アッシュ通りのアパートから、サンフェルナンド渓谷のいちばん町外れへと移った。そして、イングルウッドへは、誰かが空港へ到着したり、出発したりするときだけ戻った。一方、ラ・ポッチーはマイアミへ行き、数年後フリオ・イグレシアスの秘書になった。誰も気づいていなかったが、私たちは人生で最良の時期を迎え始めていた。

Monday, July 21, 2008

オペラ

ふぅ。何てことだろう?人生にまだこんな楽しみを享受する糊代があったなんて。そこそこ年齢を重ねてきて、まぁこんなもんかなって感じてしまう物事も多くなってしまったけれど、まだ鳥肌が立って、涙がこぼれそうになるようなものがあった。

昨夜は、兵庫芸術センターで、約1年前からチケットを確保していたパリ国立オペラ公演。出し物はビル・ビオラの映像が付いたワーグナー『トリスタンとイゾルデ』。
午後3時に始まった公演は、2回休憩を挟んで、終わったのが8時過ぎと長丁場だったけれど、長いとはまったく感じなかった。繊細な演奏と美しい歌がつづくのは、瞬間瞬間が快楽で、最後のイゾルデの独唱が終わろうとしたときには、永遠にこの時間がつづいたらいいのにと思った。思春期になって、色んな大人の映画を夢中になって見始めた頃のどきどきした感覚が急に甦ってきて、自分の中にまだこんな部分があったんだと驚いたり、ホッとしたりしたような気分になったりしている。
終演しても拍手は鳴りやまなかった。それはほんとうに素晴らしいものを体験した後の拍手で、幕が再び開いて、独唱者たちと楽団員と客席が一体となった感覚になったとき、オペラの凄さとは、舞台のそちらでやられていることで終わるのではなく、そちらとこちらとをごちゃ混ぜにした人生そのものを感じさせるところなんだと思った。だから客席から送られる拍手は、舞台で熱演した人たちに拍手を送っているのと同時に、辛いことも楽しいこともありながらも、何とかここまで生きてきた自分自身に対する労いでもあるんだとふと感じた。

満足感の支配する雑踏を駅の方角へ向かいながら、オペラに狂う人がいるのもよくわかると思い。南米の山を越えてオペラハウスを作ろうとした男の映画があったのを思い出す。その監督ロッシーニのオペラの演出をして舞台で拍手を浴びているNHKの番組があったことなどもあわせて思い出した。

Saturday, July 19, 2008

蒔かれた種

コスタリカで最後にやったセミナーの様子が、むこうの一流紙に取り上げられて、帰る前の日に手にすることができたので、みんなちょっとした達成感を味合うことが出来た。やってる最中は夢中であまり気がつかなかったけれど、かなりハードなスケジュールだったので、こうして形に残ると単純に嬉しい。写真はインタビューの様子。
サンホセのセミナーで、おそらく今度研修で日本に来る女の子が、「今日本から来て蒔かれた種を、私たちで育てていきたい」と締めくくっていたのが思い出される。ほんとうにそうなればいいと思うし、彼女はもうすでに行動をこしてもいるので、おそらくそうなるだろう。

以下訳文です。原文はこちら


        日本人が、障害者の自立を勧める

私たち障害者は、無益であったり、用をなさない存在ではない。かわいそうに思われたり、すべてなんでもしてもらわないといけないこともない。今やこうした考えは変える時だ。私たちも人間であり、自立してある権利がある。こうしたことを広く知ってもらう必要がある。

こうして、昨日、日本の大阪にある自立生活センター代表廉田俊二氏は、エレディアにあるリハビリ審議会で数十人のコスタリカ人障害者を鼓舞した。53歳の俊二氏は、生まれ故郷で屋根から落ちて以来、39年間車椅子で生活しており、現在は日本で、身体的精神的な障害があっても、家を出て、一人で生活し、危険や不安があっても、自分自身で判断しながら生きることを主張しながら運動を率いている。

こうした中には、重度の精神的な問題があったり、脊椎が損傷した人も含まれる。

「それが本当に生きることです。多少危険があっても、その危険や自分に責任のあることを人任せにしない」。こう語り、こうした運動は日本では30年前から始まっていると言う。

俊二氏は、(*)障害者を雇用しない企業からの罰金からなる補助金で運営される、自立生活センターが各地にできることを勧め、そこでは、障害者の手足となる人たちがいて、障害者は自分の取りたいもの触れたいもの、どこへ行きたいかなどの考えを実現することができる。

「こうした人たちは、手助けをするだけで、彼ら自身が決定をすることはありません」と語った。

「目差していることは、障害があろうとなかろうと、それぞれの人が、その人の人生の主人公になるということで、障害が、その人がよく生きたり、充足して生きたりするのの妨げになったりしたらいけないということです」。こう語る俊二氏は、日本国際協力機構(JICA)の招きで、今回コスタリカを訪れている。

「もしある人が、手がなく生まれてきても、それはその人がどんな靴下を選んだらいいかといった能力や権利がないことにはならないし、裸足でいたいのに何でも適当に履かされるのを我慢しなければならないということでもありません」、こうつけ加えた。

「家族が、障害を持ったメンバーを、実際はそうではなくても見捨てたようになるのが嫌なのはよく分かります。しかしそれは、彼らが家を出て、その人に相応しい生活をして幸せそうにするのを見ることでもあるのです」と語った。

「わかりやすい言い方をすればですね。私は自立して生きています。もしここに障害をなくす薬があったとしても、私は飲まないでしょう。私は幸せですし、私のしていることや、現在あるものを楽しんでいるからです」、こう主張した。

その日本人は、自立について語ることは、生き残ることについて語ることであり、尊厳を持って生きることでもあると強調した。「変化は障害者自身が起こさなければなりません。何かよくなるかもと待っていても何も変わりません。今すぐ行動を起こさなくてはいけないし、それを障害者自身がやらなければならないのです」。

1986年俊二は、大阪~東京間の600キロの道程を、車椅子で旅しながら、駅が彼らにとってより使いやすいものになるよう訴えて歩いた。

注記)(*)「障害者を雇用しない企業からの罰金からなる補助金で運営される、自立生活センター」この部分は、コスタリカの新聞記者の勘違い。事実ではありません。ちなみに、廉田俊二氏は現在47歳。年齢も間違ってますね。

Friday, July 18, 2008

中国式ルーレット

シネ・ヌーヴォでやってるファスビンダー特集の最後の日。先週観た1本に、今日は2本、一週間毎日4本づつ上映していたが、結局3本しか観なかった。
今日は『シナのルーレット』と『哀れなボルヴィザー』。ともに1976年の作品。先週観た『少しの愛だけでも』もそうだけれど、どれもまったく救いがない。どこか生き方に不完全さを抱えた登場人物たちは、それを埋めようとじたばたはしてみるのだけれど、どちらかというと、その不全さは大きくなるばかりで埋まることはない。救いのないまま映画は終わり、残されたぼくたちが救われることももちろんない。が、それが人生だろうし、少し譲歩してみても、それも人生なんだろうと思う。
それは、もちろんファスビンダー自身が抱えていたものでもあっただろうし、ぼくが彼に惹かれるところでもある。
『シナのルーレット』を学生時代に観て、毎週のように入り浸っていたフランス語の先生のところで皆で酒を飲みながら、この映画に出てくる「シナのルーレット」の遊びをやったことを思い出す。それを発案したぼくは、おそらくこの映画の、足の不自由な娘だったのだと、今あらためて思う。他人と自分のどうしようもない悪意を直視すること。ゴダールのどこかの本に、「ファスビンダーのやり方は、オレたちはみんな最低なんだ。まずそこから話しを始めようじゃないか、というものです」と書いてあって、その箇所がぼくはとても気に入っていたことを思い出した。この言葉を、今再び、思い起こしておいてもいいだろう。

今日の昼は、母親の誕生日で、一緒に食事に行く。芦屋の三佳で鰻丼を。年月は経ち、色んなことを忘れ、様々な変化もあるということだ。

Saturday, July 12, 2008

『少しの愛だけでも』

今日は昼からお休みをもらって、京都コンサートホールへ高橋悠治さんのピアノコンサート。2年前の同じ時季に、高知の美術館のホールにゴールドベルクを聴きに行って以来だろうか。
今日のプログラムは、バッハの平均律から数曲選んで始まり、ブゾーニを3曲。休憩を挟んで、高田和子を悼んだ悠治さん自身の作品とカタルーニャ人の作曲家モンポウの『沈黙の音楽』。アンコールにはジョビンの曲をやるなど、なんてシブイ選曲。辺境なんて言葉すら浮かぶ。
クラシックの音楽家が売れてテレビに出て、ほとんどポピュラーとの境がなくなってしまった現代、悠治さんはひとりで闘いつづけている。取るに足らない人が多い中、数少ない心から信用できる人だ。曲を作りピアノを弾く。何という心許ない武器に見えるが、一度音がホールに響けば何という強力なのかと思う。これもまた闘争の最小回路だ。そういえば最近ホームページにサパティスタに想を得た合唱曲の楽譜もアップされている。

大阪へ戻り、ミンガスでカツカレーを食べて九条のシネヌーヴォ。今日から始まったファスビンダー映画祭で、75年の作品『少しの愛だけでも』観る。親子の葛藤。愛情。欲望と消費。精神分析。時代のアイテムがすべて揃っている。ぼくらがファスビンダーを見始めた頃彼はもうオーバードーズで逝ってしまったいたが、ダニエル・シュミットや同時代のドイツ映画に出てくる彼はとにかくかっこよかった。そして今でもぼくのアイドルでありつづけている。
シネ・ヌーヴォは若い人もそうでない人も取り混ぜてかなり多くのお客さんで一杯で、それがまた嬉しいところだった。

Thursday, July 3, 2008

イングリッド・ベタンクールの解放

パンナムハイウェイを、パナマの方に向けて南下して行くと、山がちの風景が、徐々に平原に変わってきて植物の葉っぱも広いものになっていく。
もうそこは、中米ではなく南米なんだという感覚が肌で感じられるようになる。運転手のラリーは、パナマはコロンビアから独立したから、中米には入らないと言っている。中米+パナマと言うんだと。
たしかにもうそこにはコロンビアがあるという匂いがしている。

今朝はびっくりするニュースが入ってきた。6年間もコロンビアのゲリラFARCに幽閉されていた、元大統領候補イングリッド・ベタンクールが解放された。コロンビア軍が展開して解放にこぎ着けたようで、ウリベ大統領にしてはしてやったりだろう。この件に関しては、ずっとベネズエラのチャベス大統領と主導権争いがつづいていたから、チャベスにとっては大きな失点となった。メキシコのウニベルサルがこの観点で論じている。

Tuesday, June 17, 2008

A Costa Rica

では、ちょこっとコスタリカ&グァテマラへ行ってきます。コスタリカでは、ほとんどパナマ国境の町まで行く。まるで、どさ回りの一行みたいだ。

今読んでるガヤトリ・スピヴァクの『スピヴァク みずからを語る』から。

....でも私が見つけた対処の仕方は、これはけっして、みなには勧めません、コスモポリタンになるのではなく、多くの家を見つけるというものです。ある場所に入って、その場所に属するようになるわけです。ばかげた話があるんです。私は外国で道を聞かれるんです。ちょうど着いたばかりで、言語もわからないし、サリーを着ているのに。なぜでしょうか。私のなにかが、そこに住んでいるのを示すに違いありません。

Friday, June 6, 2008

液晶絵画

昨日たっぷり降ったので、今日は朝からいい天気。
午前中、自転車のお掃除をしていると、ちょうど注文していたタイヤが届いたので、そのまま流れでタイヤを填める。新しいタイヤと金属部分の油汚れもすっかりとれて気持ちいい。

昨日、利用者の人について枚方の病院まで行った帰りに、京阪の駅で「液晶絵画」という展覧会の掲示を見つけ、面白そうなので、夕方から中之島にある国際美術館まで行ってくる。阪神福島から歩いてすぐ。液晶の画面をキャンバスに見立てた作品の展示。ブライアン・イーノやビル・ヴィオラといった欧米の大御所に混じって、中国の若い作家、ヤン・フードンチウ・アンションといったアーティストの作品が面白い。なんとなく聞いていたけど、中国は、アートも元気だ。中国大陸は表現の宝庫で、まだまだ行き詰まることがないと思った。

雑誌で見たタベルナ・エスキーナというスペインバーが近くだったので、帰りに行ってみる。接客のいちいちがなんとなく気に入らない。タパス2、3品食べてそうそう引き上げる。

もう少し何か食べようかななどと思いつつ、ふらふら梅田まで歩いた。途中、人通りも少なくなり寂れた感じが。昨年行ったダラスの街で、以前は人も歩いていなかった地域が再開発で小洒落たレストランなどが出来ていたのを思い出した。誰かが考え、誰かが投資して、タダみたいな土地の値段が上がって誰かが儲けている。ここも同じなんだなって考えているとじきにJRの駅に着いた。

『移動の技法』#13

ひとつの映像。窓際に佇むひとりの若い男。灰色のウールが弱い光に浮かんで背景に溶け込んでいる。そう、夜は明けたのだ。人々と車はふたたび動き出したのだ。(馴染みの両替屋が遠くに小さく見えている)。そして友はやはり来なかったのだ。そして彼はひとりでサンティアゴに帰るのだ。彼はなぜバッグを持って扉を開けて出ていかないのだろう。(ひとつの映像....)。あるいは、その木の椅子に腰かけないのだろう。それともベッドにうつぶせになってそれを愛撫しないのだろうか。(ひとつの....)姿勢。垂直の、。視線。なにも映さない、。可能なことは背後にあって彼には見えず、薄いガラス板の冷たさだけが現実を表現している。投影されたその映像。いちまいのガラス板。それが真空の空に変様するとき。部屋。ひとつの、。

Sunday, June 1, 2008

Alma

先週木曜に中米を襲ったサイクロン「アルマ」。
各地でかなり被害が出ている模様で、とくにニカラグアではかなり被災者もいるようです。今月後半訪問するコスタリカでも、橋などが流されている様子で、ぼくらが行く予定のペレス・セルドンまで向かうパンナメリカン・ハイウェイが閉鎖されていて、復旧まで最低一週間かかるそう。大丈夫か?

Thursday, May 29, 2008

ランジェ公爵夫人

今日は、職場の障害当事者スタッフが、シンガポール航空に搭乗拒否されたことに対して起こしていた裁判の控訴審判決の日。午後から大阪高裁に集まって判決を聞く。結果は棄却されたが、原告が搭乗拒否される理由はないとつけ加えられており、実質勝訴と同じ。みんなまあまあ満足な感じで散会した。

夜の仕事まで時間があるので、シネ・ヌーヴォまで行って、79歳になるジャック・リヴェットがバルザックの小説を映画化した『ランジェ公爵夫人』を見る。19世紀パリの社交界を舞台にした恋愛映画。恋愛と言っても、ひたすら微妙なやりとりと駆け引きが繰り返されるだけ。即興の演出で知られるリヴェットは今回、かなりきっちりしたプランを立てて、そのとおりに演出したらしいけど、一見した感じはいつものリヴェットの感じから遠く離れたような気はしない。テロップが間にはさまってつづいていく語り口もいつものリヴェットと同じだった。映画が自動的に語られるのではなく、明らかに語っている何かがあるという感覚。でもそれは監督かというとそうでもない。

(あらすじ)パリの華やかな舞踏会でランジェ公爵夫人は、モンリヴォー将軍と出会う。公爵夫人に激しい恋心を抱くモンリヴォー。公爵夫人は思わせぶりな振舞いで彼を翻弄し続ける。追い詰められたモンリヴォーは、たしなみや信仰を理由に拒絶する公爵夫人を、誘拐するという手段に打って出る。それを機に恋に目覚めた公爵夫人。彼女はモンリヴォーに熱烈な手紙を送りはじめるが、彼は徹底的に無視する。拒絶されたと思いこんだ公爵夫人は、失意のうちに世俗社会から離れてゆく・・・。

Wednesday, May 28, 2008

『レモン』・闘争の最小回路

せっかくなので、かつてラティーナに書いた『レモン』の紹介文を再掲します。たかとりコミュニティセンターへこのビデオ作品の上映会を見に行ったのは、2003年の、たしか少しひんやりし始めた頃だったと思う。ぼくのこの年の春に今の職場の職員になり、それ以降もそれまで書いていた雑誌へ気になった音楽や本や映画のレビューを投稿したりするのをつづけていた。そうするうちに、日常障害者の人たちを過ごす時間がどんどんリアリティを高めて行って、文章を書く方がなんていうか、電気製品の使い心地を試して書いているのとあまり変わらないような気がして、空虚であまり身が入らなくもなった。なんか解離した感覚をもっとぴったりさせたいと思っていたときに出会ったのが、この上映会で、書くこととここで生きていることがうまく重なってくれ、それまでのフラストレーションも解消した。
でも結局、関心の比重は日々関わっている障害者運動の方へシフトして行ったし、この上映会で、ぼく自身がビデオに関心を持ったり、障害者運動とビデオを結びつけるような方へ行ったりしたので、記事はあまり書かなくなった。久しぶりにこの『レモン』のことを考えていると、これも闘争の最小回路のいい見本だと思う。日本に暮らす民族的なマイノリティの女の子が、周囲の支援を得て、ビデオと編集ソフトというごくごくささやかな武器を手にしただけで、これだでの表現ができるというのは、ぼくらすべてにとって希望になると思う。

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 松原ルマちゃんの作品上映会を観に行って来た。松原ルマちゃんって誰だ?という人には、ひとまず「未来の映像作家だよ」って答えておけば、あながち間違いでもないと思う。 
場所は神戸市長田区にある鷹取教会敷地内のペーパードーム。震災直後に建てられた「紙の教会」だ。このあたりは、神戸の地震でも最も被害の大きかったところ。鷹取教会も司祭館を残して火災にあって焼け落ちてしまった。ペーパードームは、廃墟から立ち上がった希望の象徴でもあった。松原ルマちゃんは地元の中学の3年生で、2ヶ月の時に日本に渡ってきた日系ブラジル人の三世である。今回の上映会では、2002年彼女が中学一年生の時につくった『かべのひみつ』、翌年の『FESTA JUNINA 23rd June』、そして今回できたばかりの『レモン』が上映された。これらの作品は、鷹取教会を拠点に活動するNPOたかとりコミュニティセンターが、ブラジル、ペルー、ベトナム、韓国など様々な文化背景を持った子供たちの自己表現をサポートする"Re:C"というプログラムの中から出来てきたものだ。 
 "Re:C"というネーミングには、「録画」を意味する[recording]や、~に関しての[re]と[child/comunication/community]の組み合わせ、「子供たちからの手紙」を意味するE-mail返信の[Re:]、などの思いが込められている。活動は、子供たちによる映像制作、作品づくりをサポートするスタッフの勉強会、社会への発信となる作品上映の3点を中心に2002年から始まっている。 
 松原ルマちゃんが、最初に手掛けた『かべのひみつ』は、震災時鷹取教会の外壁や周辺の壁に描かれた壁画の謎について、関係者や近隣の住民にインタビューしていくもの。次作『FESTA JUNINA 23rd June』では、毎年6月に行われる関西ブラジル人コミュニティのお祭りをリポートしている。処女作ではともだちたちと一緒に作っていたのが、ここでは自分一人で企画からつくっている。そして『レモン』。この間のプロセスはそのまま彼女の成長のプロセスにも重なるのだろうが、じっくりと技術を学び、地力をつけ、考え方を深め、そして一気に飛翔するような感覚がある。『レモン』は、思春期に入りかけた彼女のじつに瑞々しい内省の記録であり、ニューヨークやロサンジェルスにおけるラティーノの文化活動を見つづけてきたわたしたちが、ついにはそれがこの国でも生まれつつあることを確認した瞬間でもあった。
 「レモン」は、松原ルマちゃん自身を表現している。ブラジルに生まれながらも、わずか2ヶ月で日本に渡り、姿形も黄色人種の日本人そっくり、搾ってみても中身もレモン。私はこれからどうなるのか?誰もが不安に駆られそうになる年頃に、さらに国籍の不安定さが加わる。どこか不安定なカメラワーク。「編集するのが楽しい」と語る彼女によって、短くカットされた「世界」と「彼女自身」。
 松原ルマちゃんは、3人姉妹の末っ子で、上のふたりがブラジル人、あるいは「外国人」として自分を定義づけつつあるのに比べ、彼女はポルトガル語も十分に話せず、家族の中でも浮いたように感じ孤独感を抱えている。次女のユミちゃんが02年につくった『日系ブラジル人の私を生きる』では、ニューカマーである自分自身が、この社会で生きる困難さをはっきり意識しながらも、それを乗り越えて生きようという意志が告げられている。年代が上がるにつれもっとはっきりとブラジル人として自分を考える長女のユカちゃんとの距離はもっと感じられるだろう。
 「私は誰なんだろう?」こうした問いは、家族にそして自分自身に何度も繰り返されるが、にわかに答えが出るわけでもない。ラストシーンで、須磨の海にプカプカと浮かぶレモンを慈しむような彼女自身のナレーションが救いでもあり、何かしっかりした未来を感じさせもしていた。
 上映会の後、参加者によって作品の感想を述べあう時間が持たれた。関係者やメディアや教育の研究者の発言の後、お父さんのネルソンさんが自身の体験を話された。自分はブラジル生まれの2世で、名前もブラジル人の名前がついているのに、ブラジルでは「日本人」としか呼ばれなかったときもあり、苛められたりもした。今度日本に働きに来たときには逆に、外国人としてしか扱われない。こう話したとき、ルマちゃんは咽せるように泣きだしていた。家族の中で何かが伝わって共有された瞬間であり、見ているわたしももらい泣きしそうになってしまった。そして、この家族、そしてコミュニティの持つ途方もない豊かさを実感した瞬間でもあった。その後ネルソンさんが、国籍なんかどちらでもいいじゃないか、みんな同じ人間なんだから、と話したとき、「人権」という本来抽象的な概念がこうしてはじめて実体を持って生きていくのだと認識した。 子供たちが制作した作品のはホームページでもみることができ(http://www.tcc117.org/tdc/kids/rec/)、またビデオも発売されている。わたしが、他にとくに興味深かったのは白川エリアネちゃんがつくった『2002年 海』。夏の海水浴の思い出をブラジルのポップスとともに編集しただけのものなのに、なぜだが涙がぼろぼろ出てきてしまう。これがサウダージという感情なんだろうか。

*)Re:Cの活動については、たかとりコミュニティセンターの活動報告を参照しました。

Monday, May 26, 2008

流行歌

この記事を書いてから、ほんとに何年かぶりにアナ・ガブリエルのCDを出してきて、懐かしく聞いてみたり、Youtubeでライブを見たりしてると、たぶん彼女の一番有名な曲で、1989年のヒット曲"Quién como tú"で歌われているシチュエーションが昔から今ひとつよく理解できていなかったことを思い出し、週末ぐらいから再チャレンジしてみた。わたしと彼と彼女が出てくるのだけれど、彼だったはずの所が、彼だか彼女がよく分からなくなって頭が混乱する。
誤解の始まりは、女性が「あなた」と呼びかけているのは、別れた彼のことだとばかし思っていたのだけけれど、よくよく考えると、どうもそうではなく彼を奪った恋敵のことだったんだ、と長年の疑問が氷解した。だから、訳詞はこんな感じになります。



彼の枕の香水の匂いを、あんたはよく知ってるわね、
真っ白いシーツの湿り気も、
あんたは運がいいわ、彼を自分のものにできるんだから、
蜜の味がする彼の唇を感じてね、

あんたが、彼に愛の言葉を語るの見て、時間は止まってくれない、
私は外にいて、待つ人もいない、

あんたみたいな!毎日、毎日彼といる、
あんたみたいな!彼はあんたの腕の中で眠っている、
あんたみたいな!

あんたみたいな!毎夜、毎夜、彼の帰りを待っている、
あんたみたいな!優しく彼の熱を冷ましている、
あんたみたいな!

狂ったような夜を、あんたは味わっているのね、
彼の腕の中では時間を忘れてしまう、知ってるわよ、

あんたが、彼に愛の言葉を語るの見て、時間は止まってくれない、
私は外にいて、待つ人もいない、

あんたみたいな!毎日、毎日彼といる、
あんたみたいな!彼はあんたの腕の中で眠っている、
あんたみたいな!

あんたみたいな!毎夜、毎夜、彼の帰りを待っている、
あんたみたいな!優しく彼の熱を冷ましている、
あんたみたいな!


色々調べているうちに、この曲を作ったきっかけを語る彼女のインタビューを発見。

AG: "Quién como tú"を書いたときは、最悪だったの。人生で最も好きだった人が、他の人と結婚しちゃった。わたしは、結婚しないでって頼んだのだけど。だからこの曲はそのライバルに対して書いたの。

--いくつだった?

AG: 28くらいだったかしら....そのあとその人が戻ってきたとき、"Es demasiado tarde"を書いた("Es demasiado tarde"は「遅すぎるわよ」)。

90年の暮れだったか、メキシコシティからバスで北上して、やっとロサンジェルスに着いた。ダウンタウンのメキシコ人街のディスクショップで、「アナ・ガブリエルの新しいのある?」って聞いたときに店のセニョーラが教えてくれたのがこの曲"Es demasiado tarde"だった。彼女が初めて出したランチェーラの曲だったんじゃなかったかと思う。

Saturday, May 24, 2008

住田雅清インタビュー

かりん燈のブログに『おそいひと』の主演住田さんのインタビューのリンクが張ってあったのを見つけたので、こっちからも行けるようにしておきます。<住田雅清インタビュー>

ちょっと逸れるけど、この映画にも出てくる福永さんが、障害者運動の礎になった人たちを訪ね歩いて、インタビューして作品に纏めた『こんちくしょう』っていう映画が去年上映されて見に行ったんだけど、最後のクレジットを見て監督している村上桂太郎さんってどっかで聞いたことがある名前?ってよく考えたら、ぼくこの方から手紙を頂いたことがあったのでした。

というのは、鷹取で外国人の子供を支援している、たかとりコミュニティセンターという団体があって、そこで松原ルマちゃんというブラジル3世の女の子がビデオを作って上映会をするという集まりがあったので行ったんですが、その『レモン』という作品があんまり素晴らしかったので、ラティーナに送って記事にしたら、後日そのセクションの責任者である村上さんから丁寧なお手紙を頂いた次第。記事を書いても書きっぱなしがほとんどであんまり反応があることはないので、ぼくもとても嬉しくて今でもそれを手帳に入れて持ち歩いているほど。
でもみんなけっこう狭いところで仕事してんだなって思った。

Friday, May 23, 2008

『移動の技法』#12

宿は深夜になっても交通の音でわたしのよこたわっているベッドにもその振動が伝わってくるほどであった。わたしはどこにいるのだろう。わたしの宿だ。朝寝をするために8時にやってくる朝食を夜番の親爺に断って来たところだ。何十年も使われているようにみえる木の椅子が木目の床に置かれている。(スナップ)。わたしはどこにいるのだろう。わたしの宿だ。それをたしかめよう。冷たくなった窓硝子に頬を寄せてみよう。息でそれを曇らせてみよう。(そのなかをヘッドライトが流れてゆく)。友は来ないだろう。(裏切ったのはどちらだ?)ラジオからは流行歌。繰り返し繰り返す「(裏切りの主題)」。(恋にはつねに勝者と敗者がいる....)。運動と静止。いかにして「移動の技法」はそこなわれるのか。ホテル・ビクトリア1992年7月5日。

Thursday, May 22, 2008

闘争の最小回路

ラテンアメリカ関係のメーリングリストに著者のトークショーの案内があって、なにげに検索していると、この本を見つけた。『闘争の最小回路』。南米の政治空間に学ぶ変革のレッスン、という副題が付いている。
現在のラテンアメリカは、10年前とは別の大陸のようで、ほぼすべての国で左派が政権を取った。通貨危機があり、国がぽしゃってしまったような状態から立ち直っていく様子は、現地のニュースをWebでチェックしてだいたい把握していたつもりだったけれど、その足下で、国民一人一人が作り上げる様々な「運動」があることは、向こうのメディアを表面的にチェックするだけではなかなか知ることはできないし、じっさいぼくもほとんど知らなかった。最近やっとNHKなどでもドキュメンタリーで取りあげられてかいつまんでは知れるようになったけれど、それ以外は相変わらずだと思う。
この本は、そうした日本での情報の不足のかなりの部分を埋めてくれるものだと思う(出版社の案内)。大ざっぱに言って、南米は、80年代の軍事政権下やその後の民政移行した政権で、合衆国主導の新自由主義的な政策を取るようになる。政府による開発事業は、どんどん国内外の資本に売り渡され、極端な貧富の差が生まれる。ちょうど現在の日本と同じ状況だ。根絶やしにされた民衆は、自分たちでなんとかするしかないような状況に置かれ、持っているものがほとんどなくなった民衆からさらに奪い取ろうとする資本に対する抗議行動も起こった。民衆の判断は、もうどの政権を選ぶかではなく、政治自体を拒否するというものだった。各地に小さな自治組織が生まれ、それは国から何かを受動的に受け取る存在ではなく、自分たちの力で創造的に物事をアレンジして生みだす能動的なものだと著者は評価している(表象代理の拒否や受動→能動といった枠組みはドゥルーズからのものだ)。
現在起こっていることは、それが日本でもかろうじて知ることができるものなのだけれど、その運動の成果を左派の進歩的な政権が吸収しながら国家へ回収している課程だとして、全部を否定するわけではないけれど、いくらかの危機感を留意させながら、運動と国家の関係を細かく分析している。

興味深かったのは、自分が障害者運動に関わっているので、自分たちがやっていることとの比較をしながら読むからなのと、今の日本が、やはり南米と同じように、どっちの政権を選んでも同じような、ほとんど政治が麻痺してしまった状況に置かれてしまっていて、そんな状況で何ができるか?とか何をしたらいいか?などと考えるきっかけになるからだったと思う。

2003年の支援費制度以前の障害者運動は、まさに「闘争の最小回路」だったと思う。ほとんどの団体は任意団体だったし、生存の実体を作ってから、後から制度ができてくるという状態が何年もつづいた。支援費になって、障害者はほぼ24時間の介助が受けられるようになったし、ぼくらが食えているのもそのおかげといえばそう。しかし、しっかり制度に縛られたような感覚がないわけでもない。今は運動の最前線はロビーイングだから、末端の障害者は何をやっているかもわからず、デモの時だけ人数に加えられる。運動の創造性は著しく減少してしまっているというのは否定しがたいと思う。

ぼくも末端の介助者だから、その末端の障害者と日々向かい合っている。そこが生き生きとしていなかったら、何のための運動で何のための交渉なのか?って思わないこともない。それで、だからその「闘争の最小回路」をなんとか作動させられないか?って考えたりする。それはたぶん実体のない「地域」という言葉に実体を与えるものなんだとも思う。

Wednesday, May 21, 2008

『移動の技法』#11

そうして陽もおちる。わたしはマリサにいとまを告げて彼女の家を後にしふたたびバスを捕まえ宿へと戻るのだった。(おそらくそれを《ただしく》示さねばなるまい!)。それは《いちまい》のガラス板であるが、それには、“Valparaiso”と行先が告げてあり、基本的にモノトーンの光と闇、揺れ、そして記憶で構成されている。記憶とは楽譜のようなもの。失われもすれば、ひょんなところからあらわれ、様々な仕方で演奏されるための。ビーニャ・デル・マルをこえてそのバスは光の岩礁となったその街へと突入する。速度が光の記憶と擦れる音がしている。「バルパライソは昼間は汚いけれど夜はとってもきれい」。若い女が耳もとで囁く。その寂しげな声にたまらずわたしはバスを飛び降りた。人気のない広場。船のない港。男たちがいない港。女たちがいない港。モートン・フェルドマンの乾いたエロティシズム。いかにして「移動の技法」はそこなわれるか。卵(*)。壊れた、。


(*)ドゥルーズ『シネマ2時間イメージ』にこんな一節があった。
.....われわれは身体を信じなくてはならないが、生の胚芽を信じるように、聖骸布やミイラの包帯の中に保存され、死滅せずに、舗石を突き破って出てくる種子を信じるように、それを信じなくてはならない。それはあるがままのこの世界において、生を証言するのである。われわれは一つの倫理あるいは信仰を必要とする。こんなことをいえば、馬鹿者たちは笑いだすだろう。それは他の何かではなく、この世界そのものを信じる必要であって、馬鹿者たちもやはりその世界の一部をなしているのだ。

『移動の技法』は、何か「信仰」のようなものを失っていく課程でもあったと思う。

Saturday, May 17, 2008

The Arcade Fire


このあいだ、アルベルト・フゲーのブログをチェックしていると、あるバンドが気に入ってるという記事があった。

actualmente escuchando, por freeways
ardiendo de calor mientras cae la noche en la ciudad de los angeles y los demonios,
The Arcade Fire
el disco se llama The Neon Bible
como la novela perdida de Kennedy O´Toole

confieso que no los conocia
no tenia idea
una amiga me los pasó
gracias
great gift

ahora estan entre mis bandas favoritas---
ya asocio ELEI con ellos

tema favorito:
uno q dice que Mi cuerpo es una celda..

eh...como el tema de Hormigas, de la banda sonora de Se arrienda...
el tema de Valdivia y Heyne mas letra de...
más letra mia?

si, igual
sincronía
hermandad cósmica


今、日が落ちて燃えあがるような天使たちの町(あるいは悪魔の...)ロサンジェルス
のハイウェイを走らせながら聞いている。

ザ・アーケード・ファイア
アルバムタイトルは、「ネオン・バイブル」
失われたケネディ・オトゥールの小説と同じだ。

正直、彼らのことは知らなく、よく分からなかったのだが、
女友達がくれた。
どうもありがとう。
すごい贈り物だ。

今は私のお気に入りのバンドの一つになった。
LAは、彼らと結びついている。

気に入っている曲はこう歌っている。
「私の身体は独房のようだ」。

ああ、"Se arrienda"のhormigasのテーマと一緒だ。バルディビアとヘイネの曲だが、むしろ私の詞に近い。

そう同じ。
シンクロ。
宇宙的な友愛だ。







ジョイ・ディビジョンのイアン・カーティスを描いた映画を観たあと、一緒に行った職場の若い友人にこのバンドのことを話すとよく知っていた。昨年のライブにも行ったという。後日、今出ているかぎりのCDを焼いてもらって、ぼくも今とても気に入って聞いている。とくにインフォーマルで出ている、オースティンのロックフェスでやったものを収めたやつがいい。どうもありがとう。グレート・ギフトだ。

Monday, May 12, 2008

ラテンアメリカの自立生活運動

コスタリカでは、通訳もしなくてはならなくて、日常的なものはまぁ問題ないにしても、専門的な用語は少し仕込んでおいた方がいいので、ネットで色々調べていると、ちょうど自立生活運動の歴史を書いたPDFファイルが見つかったので、ダウンロードして読み始めている。[PDF]
自立生活運動の哲学から、歴史、そして各国の歴史、これからの未来と課題などが書かれていて、本一冊がファイルになっているので、300Pにもなる。ひとまず、ラテンアメリカの自立生活運動のところから読み始めたら、日本の歩みとも重なるところもあってなかなか興味深い(同じ文章の英語版がここにあった)。

ラテンアメリカの自立生活運動はブラジルから始まっているようで、実際スペイン語で自立生活センターを意味する、Centro de Vida Independienteを検索すると、そのほとんどがブラジルのものであることが多い。自立生活運動の考え方が80年代に広まったのは、日本と同じで国連の障害者年がきっかけになっているのも同じ。88年の8月にアメリカの障害者運動のリーダーとの接触があり、その12月には、リオデジャネイロに初めての自立生活センターができている。[Centro de Vida Independiente Rio de Janeiro]2003年時点で、ブラジル国内では20の自立生活センターがあり、1999年には、日本のJILにあたる、CVI Brasilができている。西宮の友好都市であるロンドリーナ市にもセンターがあるようだ。2001年には、メキシコでラテンアメリカの自立生活センターのネットワークができており、19の国が参加している。

国連の障害者年があって、アメリカの自立生活運動の指導者との出会いがありというのは、日本とまったく同じ。代表が障害者自身でなければならないとか、組織の決定の過半数は障害者でなくてはならないなど自立生活センターを規定する諸々の項目もそのまま敷衍している。まだそこまで読んでいないが、ブラジルやラテンアメリカ、第3世界特有の問題もあるようだ。というか、今やブラジル・ベネズエラなどは資源大国で、アルゼンチンは食糧資源の宝庫。第3世界という用語ももはや死語ですね。昔読んだセリーヌの小説で、第一次世界大戦前のヨーロッパで、南米からの移民が大威張りで歩いているといったシーンがあったのを思い出した。日々きな臭い匂いがしてきて怖いね。

Saturday, May 10, 2008

コスタリカ

昨夜、第七藝術劇場へ入ろうと、ビルの下へ向かっていると、ふと隣にコスタリカという喫茶店があるのに気づく。コーヒーがうまそうな昔ながらの喫茶店風。七藝には何度も来ているのに、この喫茶店がコスタリカという名前だったとは知らなかった。あるいは、気にしなかった?
やはり、来月仕事で、コスタリカへ行くことになったから、無意識にアンテナを張っていて、こうしたものは引っかかるんだなぁって思いながら、一枚。付近は風俗の呼び込みのお兄さんであふれている。

職場では、もう何年もアジアから障害者の研修生を受け入れていて、そこで学んだ研修生が伝える形で、韓国、台湾、ネパール、パキスタンにどんどん障害当事者による支援団体が生まれている。今回はじめて、中米からも受け入れることになって、来月その事前の調査に通訳がてら行くことになった。
ぼくの人生には、いくつかの段階があって、映画ばかり見ていた思春期。大学へ入って、ポストモダン系の哲学を勉強したこと。大学を出たあと長いことラテンアメリカをぶらぶらしたこと。などなど。

こんな下地を持って、あんまりこれといった考えもなく今の障害者の世界に関わりだして10年。とりわけ職員になったここ数年は、自分は今までやってきたことをここで総合しているんだという意識を強く持つようになって、実際、映画を作ってみたり、一時あまり読まなくなっていた本をもう一度取り出して、そのアイデアを再確認したりしてみるなんてことをつづけていた。ふしぎなもんで、そういう風に思い出すと、自然と向こうから流れはやってくるようで、職場ではアジアから研修生が来てるから、こんな風にラテンアメリカから来たら面白いなって思ってたらホントになってしまった。これまでやってきたことは、一時まったく自分の中から消えていたものもあるけれど、スペイン語だけは忘れちゃいたくないなって思ってたから、細々とでも継続的に触れてきた。インターネットの時代になって、そんなに苦労せずとも毎日習慣のように向こうのサイトにアクセスできるようになったのも大きい。何でも続けておくもんだなって、普通に思う。語学というのは、仕事になると緊張感があるから、それでやったことでまた一段上達するので、今回もまたうまくなれればいいね。

Friday, May 9, 2008

おそいひと

十三の七藝に、西宮の障害者、住田さんが主演している『おそいひと』を見に行って来た。
9時からのレイトショーなので、やまもとで、すじネギ焼きでビールを一杯やってから行く。卵が多めの生地がやわらかくおいしい。ふだんは西宮市内で暮らしているので、たまにこんな時間に大阪へ出てきて、隣の方で、ドラマに出てくるようなサラリーマンの人たちが、会社や仕事の話しをしているのが妙に新鮮に感じる。

じつはこの映画のエキストラとして、おそらく5~6年前くらいだったと思うけれど、利用者の男の子と一緒に狩り出されて行ったことがあって、その後完成したという話しも聞かなかったし、なんとなく時間とともに忘れてたのが、先日七藝のサイトをチェックしているといきなり上映の予告があってびっくりした。
主演の住田さんは、ぼくが働いている団体とはまた別の西宮の障害者団体の事務局長で、ぼくはこの映画にも出てくる、そこの代表の福永さんの介助に1年くらい入っていたから、住田さんにも何回か会ったことがあった。

エキストラに行ったときは、どんな映画を作っているのかまったく分からなく、たぶん少し寒い時期で、早く終わってくれないかなって思って待っていたくらいだったと思う。今日はじめて、仕上がった作品を見ると、想像していたものとまったく違っていて驚いた。
まず、色彩がぜんぶ落とされて、モノクロームになっていて、所々最近のデジタル技術を使ったギミックで、映像がデフォルメされている。住田さんの特徴的な顔がクールでうまく仕上げてあると思う。障害者の映画というのは、無意識にドキュメンタリーか、それに類するものと思いこんでいるから、これだけでも、なかなかじゃないかと思った。
映画は、住田さんと大学生の介助者の女の子との交流が、恋心めいたものへと移る前半と、それが叶わず通り魔になって、殺人を繰り返す後半に別れる。なぜそれがいきなり人殺しってことになるのか?よくわからなかったのだけれど、最後の最後、友人たちが住田さんを驚かせようと誕生日の準備をしているところに、血みどろの住田さんが帰って来るところで、なんか監督の意図はよく伝わっていて、それはとても説得力があったと感じた。
つまり、ぼくらの団体はそれほどでもないと思っていたけれど、それでも普段かなり「いい人」モードで生きてるよなって思わされた。なんかあればケーキを用意してしまうような。まぁ、それはとてもいいことなんだけど、そんな白い感情ばかりだけじゃなくて、血みどろなものとか、どす黒いもんがあったり、そうした色んなものがあって、自然なんだろうと思う。これは、障害者をノーマルに描くという、最近の潮流とじつは、そんなに違いはないのだけれど、そこに監督流の「表現」が加わっているところが新しいと言えるか。

Thursday, May 8, 2008

『移動の技法』#10

そのときカフェは心おきなく思考を爆裂させることのできる場所となる。なぜなら誰にもわたしは見えず、わたしはそこに流れている音楽にすぎず、たとえば街のどこででも聞こえる流行歌のワンフレーズであるからだ。そしてわたしはこっそり下宿をぬけだしカフェにおもむき、わたしの思考を誰も盗みはしないことを確認しているのだ。そこでわたしは宛名のない手紙を何通も書き、それが湿った曇り空の西風にふッと飛ばされていく様を目にしたりもするのだ。ウェイターは手を前に組んだまま何事もなかったかのようにそこに立っており、“camarero!” という声に反応してくるりと歩みを進ませるのだった。そのときだ。「どうしたの?これは、いったいどうしたことなの?」そんな女性の戸惑いの叫びを聞いたのは。しかし、音楽のように微かに響いてくるその声がどこから届いてきたのかと考えていると、それは、ジル・ドゥルーズロッセリーニの『ストロンボリ』について語ったくだりからだった。テーブルが砕けて、冷房の部屋から夏の光へと粒子となって飛びだしてゆく。ふせてある10個のグラスが融けて店主の声のあたりを、すッと流れ落ちてゆく、大理石の床がぐっしょり波立って、老人が三人りサーフしている。南洋の観葉植物には「取扱注意」のラベルが、、。、さあ、時間だ。(しかしいったい何の?)

Wednesday, May 7, 2008

オタクという謎

この放送局のいいのは、30分毎に時報が鳴ることで、この「同期」している感覚がなんか大切なんだなって気づく。たんにスペイン語が聞きたいのではなく、今この時にやっている放送を聞いていたいという欲求だったんだなって。
何だろうそれって?

このあいだ、こんなことを書いた後に、大澤真幸の新刊『不可能性の時代』を読んでいると、「オタクという謎」という章に、こんな一節を見つけて、ああ、たぶんこんなことなんだろうと思った...

鉄民さんのこうしたオタク的情熱の前史を探るとすれば、切手マニアではないか。切手蒐集は、鉄道マニアと並んで、古典的な趣味である。郵便のネットワークは、電気・電子メディア以前には、鉄道と並んで、あるいは鉄道以上に、人々にとって広域の普遍的な世界へのつながりを実感させてくれる手がかりだったのだ。外国の切手が好まれたのは、単に意匠がめずらしかったから、だけではない。その切手が、遠隔地へと広がる社会空間への想像力を刺激したからである。

大澤真幸のこの本は、彼の最近の、ナショナリズムと多文化主義を同時に超える、という離れ業をコンパクトに新書にしたもの。あまりにコンパクトすぎて、簡単な例を引いて、論証が終わってしまうので、説得力という面では今ひとつ。ホントかな?という思いが最後まで消えない。『ナショナリズムの由来』のような大著をやはり読まなくてはならないのか。

Tuesday, May 6, 2008

病院(2)

すぐ退院のはずが、体調はそれほど悪くはないそうなんだけれど、血液検査の値がなかなか平常値に戻ってくれないようで、入院はつづいている。で、今週は病院での泊まり介助。夕方6時に入って、翌朝10時まで。けっこうな長さ。
5時に、病院近くの洋食屋さんが、開く時間に行って、カツカレーを食べて病院へ行く。日付がかわる前にはお休み態勢に入ったが、呼吸器の高圧設定が、低めに設定してあるらしく、眠ったらすぐアラームが鳴り出す、本人は気にせず気持ちよく眠っているみたいだが、そうなればなるほど、アラームは鳴りつづけこっちはたまらない。ほとんど、一睡もできないまま朝。
洗面して、買っておいたサンドイッチを食べ、カーテンを開けて、曇り空の朝の空気を感じると、どこかの旅先で目覚めたような気分になった。案外気分はよく、眠っていないようで、どこかで眠っていたんだと思う。

10時に終わって、大倉山から歩いて、降りる。新開地、西元町、元町と歩き、途中本屋へ寄っていたりすると、昼近くに。うどんでも食べて帰ろうかなと思っていたが、三宮で通りがかった洋食屋さんがおいしそうだったので、入って食べることに、また揚げ物で、疲れてなんだかそんなものが欲しいのかとも思う。ミンチカツの定食に、昼間からワインを一杯やって帰る。
昨日もそうだけれど、神戸の洋食屋さんは仲のいい家族で経営されてて、そのチームワークが見ていて楽しい。どこか懐かしい雰囲気と味。

Saturday, May 3, 2008

時報

そういうわけで、スカパー!のTVEは終了し、最近はiPodにダウンロードしたBBCやNHKのスペイン語ニュースを聞いたり、インターネット経由で、スペインの国営放送を見たりして、スペイン語に触れるようにしているんだけれど、コンピュータのモニターに画面がちらちらするとどうも気になるので、ここのとろ同じ国営放送のラジオを聞き流していることが多い。
どうも、スペイン語を聞くということに関して、オンデマンドというのは、ぴったり来なくて、なんとなくお勉強している感じになってしまうし、目の前に画面があると見てしまう。ながらでやる方法はないかなぁって思っていて、結局ラジオを流しっぱなしにしている。部屋のテレビの音を消して、つけっぱなしにして、ネットのラジオでスペインの放送を流して、コンピュータに向かうというスタイルに落ちついた。
この放送局のいいのは、30分毎に時報が鳴ることで、この「同期」している感覚がなんか大切なんだなって気づく。たんにスペイン語が聞きたいのではなく、今この時にやっている放送を聞いていたいという欲求だったんだなって。
何だろうそれって?

Thursday, May 1, 2008

『移動の技法』#9

この部屋は静かすぎるので、すこし、ざわつかせてみよう、と考えた。いや、ざわついているのはむしろこの部屋だ。そう、ここはひとつのカフェで、みなが5時のお茶のために集まってきているのだった。ここはひとつのカフェであるからここはすべてのカフェであるのだ。そして無限のわたしがここにいるのである。(ヘンデルのバロック音楽がこのうえない心地よさを享受させている)。名もない女がわたしのまえにコーヒーを一杯はこんできたが、その女は《グロリア》と名づけられている。それはわたしの知っている《グロリア》と肌の色はおなじであったが、年恰好はまるで違ってまぎらわしいので、わたしはその女を《グロリアおばさん》と呼ぶことにした。グロリアおばさんがはこんでくるのは、コーヒーだけではなく日替わりの定食もはこんできていた。わたしは彼女を愛したが、わたしは《彼女》を愛したわけではない。わたしが愛したのは彼女の滑るように歩くその仕方であり、わたしが食べた後、「どうだった?」と訊ねたその口もとと目つきだった。そして、微かにしわがれたその声。、つまり、わたしは彼女を愛していたわけだ。ある日いつもするようにその声を聞きに行くとそこに居たのは若いウェイターで、わたしは二度と彼女のその声を聞くことはなかった。その瞬間から世界は崩壊しはじめた。マリアを捜しにわたしはその階段を上ってゆき、「マリアを捜しているのだが....」と言うと、そこにいた若い女は、「わたしがマリアよ」と言った。《注意》。千のマリアがわたしを待ち伏せにしている。1992年10月5日。サンティアゴ。バスはイタリア広場を回ってメルセに入る。公園の緑。ブローニュの森はこんな匂いがするのだろうかとわたしは考えている。

Wednesday, April 30, 2008

『移動の技法』#8


そして、当然のようにわたしはこの部屋でひとりでいるのだ。部屋がそこになんの感情も情緒も満たされぬとき、ひとつの窓があれば救いとなるだろうか。天空がフレーミングされ、それは記憶へと変容する。(血を引き裂く夕映え!)。カルメンは、大通り沿いの部屋でテレヴィを観ている。わたしは通りと反対側の個室。冷たくなった乳白色の壁。その冷たさを感じるためにそれを愛撫している。頬、そして掌。感じる、冷たさ。もうひとつの姿勢。アラン・ドロンモニカ・ヴィッティ<の>冷たい熱情。天空。壁。世界。愛。

Tuesday, April 29, 2008

シネマ2*時間イメージ


最近家では、ドゥルーズの『シネマ2*時間イメージ』を読みながら、参照されている映画を借りてみたり、モティベーションを高めて、ビデオの編集をしたりということをつづけている。
このブログに『移動の技法』をアップロードし始めて、サンティアゴの下宿で、持って行っていたドゥルーズのインタビュー集を何度も繰り返し読んでいたことを思い出し、『移動の技法』にも引用されているのだけれど、そのおおもとが、『シネマ2*時間イメージ』から来ていることがよく分かる。

『シネマ2*時間イメージ』は、映画が、今は娯楽の一つでしかないように思われてもいるのだけれど、ではなくて20世紀に始まった、思考のまったく新しい方式であることを述べている。ドゥルーズの最初の本はベルグソンについてのものだったのだけれど、ベルグソンが活躍していた時代と映画の誕生は同時期で、その思想との関連性はよく言われていて、この本にも何度もベルグソンは参照されていて、ほとんどベルグソンについての本であると言ってもいいくらい。
頭おかしいくらいのアイデアで溢れていて、ほとんど理解不能なところも多いのだけれど、ときおり、こんなため息がでるような文章が現れる。

現代的な事態とは、われわれがもはやこの世界を信じていないということだ。われわれは、自分に起きる出来事さえも、愛や死も、まるでそれらがわれわれに半分しかかかわりがないかのように、信じていない。映画を作るのはわれわれではなく、世界が悪質な映画のようにわれわれの前に出現するのだ。『はなればなれに』でゴダールはいっていたものだ。「現実的なのは人々であり、世界ははなればなれになっている。世界のほうが、映画で出来ている。同期化されていないのは世界である。人々は正しく、真実であり、人生を代表している。彼らは単純な物語を生きる。彼らのまわりの世界は、悪しきシナリオを生きているのだ」。引き裂かれるのは、人間と世界の絆である。そうならば、この絆こそが信頼の対象とならなければならない。それは信仰においてしか取り戻すことのできない不可能なものである。信頼はもはや別の世界、あるいは、変化した世界にむけられるのではない。人間は純粋な光学的音声的状況の中にいるようにして、世界の中にいる。人間から剥奪された反応は、ただ信頼によってのみとりかえしがつく。ただ世界への信頼だけが、人間を自分が見かつ聞いているものに結びつける。映画は世界を撮影するのではなく、この世界への信頼を、われわれの唯一の絆を撮影しなくてはならない。われわれはしばしば、映画的幻覚の性質について問うてきた。世界への信頼を取り戻すこと、それこそが現代映画の力である(ただし悪質であることをやめるときに)。キリスト教徒であれ、無神論者であれ、われわれの普遍化した分裂症において、われわれはこの世界を信じる理由を必要とする。これはまさに信仰の転換なのだ。........


サンティアゴの下宿で、何度もドゥルーズを読んでいたのは、まさに「世界への信頼を取り戻す」ためだっただろうし、今でも基本的に日々やっているのは、自分をこの世界に繋ぎ留めるための努力であると言い換えられるかも知れない。

『移動の技法』#7

そしてまた曲線の主題。夕刻、西日射す頃その緑色のバスはアラメダを右折してマルコレタへ入りビクーニャマッケンナへ向かうカーブをゆっくり曲がる。バスの小窓からフッと風が流れて「移動の技法」がやって来た。至福なる時間。しかしながら起こったことはこれだけ。つけ足すことも差し引くこともなにもない。それをわたしは「移動の技法」と名づけた。サンティアゴ。

整理しておこう。夕刻。バスの曲線運動。思いがけない微風。(ローレン・ハットンの髪がフワリと靡いている)。そして、客席に漂う通奏低音のような疲労。天駈ける旋律を奏でているのは誰なのだろう。(誰なのだろう)。隣のバスクセンターでは、名も知らぬ球技に男たちが興じる音がつづいている。血を引き裂く夕映え!サンティアゴ。ビクーニャマッケンナ765番地。

Monday, April 28, 2008

『移動の技法』#6

目を開けても閉じてもその暗闇はかわりはしない。音楽も鳴らぬなら不眠の夜は記憶の映像が封印された霊廟を破って生きたひとさながら耳もとで様々な言葉、言葉にならぬ言葉を囁いていくことだろう。階下のいまは使われていない海岸側の食堂で、ひとり老人が古風な背広姿で立ってこちらを見ていたのはその日の昼のこと。薄い窓からの光に老人は影となっている。「セニョール?。ここは....シニョーレ?」。無言。そして、フェードアウト。(コノデンワハバンゴウガカワッテオリマス)そのコンピュータライズされた音声によって街は崩壊しはじめる。ノン(否)。壊れたのはわたしの記憶だけ。街はキリル文様に変形するだろう。「いいですか。あなたの頭が壊れたのじゃなくって、グランドキャニオンにひびが入ったと思ってごらんなさい(*)」と彼女は言った。彼女とは誰のことだったのか。街の鍵は誰が握っているのか。ベルナルドはそれを放棄した。教皇に糞を投げてやった。老人の影が立っている。彼はどこに行きそびれたのか。そばでテーブルを囲んでいたひとたちはどこへ行ってしまったのか。わたしもそのなかのひとりであったのだろうか。わたしもひとつの影であるのであろうか。マリサに会わなければ、でなければわたしは壊れてしまう。バスはキルプェに向かった。ジョン・セカダのヒット曲ががんがん鳴っている。陽光のもとそれはカーブを回る。(、、、、、、)!

(*)“Listen! The world only exists in your eyes -- your conception of it. You can make it as big or as small as you want to. And you’re trying to be a little puny individual. By God, if I ever cracked, I’d try to make the world crack with me. Listen! The world only exists through your apprehension of it, and so it’s much better to say that it’s not you that’s cracked -- it’s the Grand Canyon.”

“Baby, et up all her Spinoza?”

“I don’t know anything about Spinoza. I know -- “ She spoke, then, of old woes of her own, that seemed, in telling, to have been more dolorous than mine, and how she had met them, overridden them, beaten them.
F. Scott Fitzgerald "The Crack-Up"

Sunday, April 27, 2008

病院

週末急に呼吸器くんが入院し、病院へは救急車で行ったので、車椅子を届けてほしいということで、昼過ぎから事務所の車に車椅子を積んで、神戸大学病院まで行ってくる。最近、iPod用のFMトランスミッターを使い始めたので、連休に入って道は混雑して、普段よりかなり時間はかかったが、退屈はぜずにすんだ。
肺炎ということだったが、案外顔色はよくたいしたことはなさそうで、一安心。しばらくお喋りして帰ったら、もう薄暗くなり始めていた。いつもはこれから泊まりに入る時刻で、ぼくの最もハードな曜日のはずなのに、仕事がなくなんとなく手持ちぶさたな感じ。
何人かに声をかけてみたけれど、みんな予定があるということで、帰宅し一人でうちの近くにある台湾料理の店龍園で、ビールを一杯やりながら、鶏手羽のからあげと焼き飯。おそらく昔つきあってた女の子と来て以来で、4年ぶりくらいか。そのときは隣の方の席で江本が食っていた。ここはうまいんだけれど、カウンターだけの店なので、店の人との距離が近すぎて一人ではあんまりいかない。一人で行って改めて店の中を眺めてみると、まったく違った店に見えた。

Saturday, April 26, 2008

『移動の技法』#5

眠れぬ夜にロンドが舞っている。目を開いても閉じてもその暗闇はかわりはしない。かつて修道院だったとも言われるその宿の夜の静けさ。(「旅に出ると記憶に押しつぶされそうになる」)、いつか旅行者の友人がわたしに呟くように語った。ロンドの速度が増し、舞踏病の姉さんが階上で惚けたように爪先を交錯させるのが見えるようだ。姉さん。そして夜の静けさが破け、天上が破け、姉さんが降ってきた!姉さん、。白い花嫁。1992年12月24日。ウルグアイ69

Thursday, April 24, 2008

『移動の技法』#4

褐色のマリア。その皺の入った年老いた顔。それは何年経っても年老いたままだった。わたしは日毎に老いていく。わたしの青年期と老年期。メキシコ・シティ。たとえば、ホセ=アントニオ。トーニョ。一枚の写真のなかで彼はアロハシャツを着て右手にナイフ左手にバナナを握りベッドに腰かけている。目は笑ってない。そしてわたしの部屋のまえに座り込んで言う。「疲れきっている」。精神的にも経済的にも破綻をきたしている、どうかもっと安い宿を探しにゆくのにつき合ってはくれまいか。そしてわたしたちはセントロ中その安い宿とやらを探しに潜ったり上ったり半日を費やしたわけだ。(インディオの群につぶされそうなひとりの白人とひとりの東洋人。チューブ。管。)疲労はわたしにも伝染しており、ホテルにはあと半ブロック。帰る寸前、にやりと笑って彼はわたしに言うだろう。「と、いうわけで結局ここにとどまることにした」。わたしの部屋の洗面台には洗いかけの衣類が残っている。そんな一日もある。メキシコ・シティ。(そうしたあいだにも老マリアは、モップで廊下を拭っている)。老化と疲労。活力はけっして伝わらないと言ったのはフィッツジェラルド(*)だった。メキシコ、翼ある蛇

(*)I felt a certain reaction to what she said, but I am a slow-thinking man, and it occurred to me simultaneously that of all natural forces, vitality is the incommunicable one. In days when juice came into one as an article without duty, one tried to distribute it -- but always without success; to further mix metaphors, vitality never “takes.” You have it or you haven’t it, like health or brown eyes or honor or a baritone voice.
F. Scott Fitzgerald "The Crack-Up"

Wednesday, April 23, 2008

『移動の技法』#3

国境を越える、このことが現実味を帯びて感じられていたのはいつの頃だっただろう。メディアが報道していたウェットバックが当たり前のようにして眼下の川を渡っていく。わたしはポケットに一杯になったペニーを数えて通行料を払う。落としたペニーは拾ってはいけない。それなら食べてしまおう。(口腔。暗闇に輝く金属。チリン、と音がする。)「あれは?」教会の鐘の音?「ウルグアイ69」。何度この番地を口にしたことか。D・H・ロレンスホテル(*)。すぐうしろには、巨大な古い教会があって、その筒型の屋根がうずくまっている動物の背のように盛りあがり、円屋根はふくらんだ泡のようで、黄色や青や白のタイルをのせて、きつく青い天空にきらめいている。長いスカートをつけたインディアンの女たちが、せんたく物をかけたり、石の上にひろげたりしながら、しずかに屋根の上で動いている。動いている。うごいて、いる。「何時だい?」。マリアがモップで廊下を拭きながらわたしの部屋に来てそう訊ねるときそれはいつも夕方の5時だった。夕方の5時になるとマリアはわたしの部屋のまえで立ちどまり、モップで廊下を拭う手を休め、スッと腰をのばし軽く息をして、「何時だい?」と訊ねる。それは、夕方5時だった。かくしてリオ・グランデ川を渡る。エル・パソ

(*)Postcard from D.H. Lawrence, Hotel Monte Carlo, Avenue Uruguay 69, Mexico City to Mary Cannan; 12 Apr. 1923.

He likes Mexico better the longer he stays and is tomorrow going to Puebla, then to Tehuacan and Orizaba; may take a house here; he is 'getting tired of travel' but when he tries to come to England something in him 'resists always'; refers to the picture on the verso, 'the third young man is a young Amer. friend [Willard Johnson] - the others the two Mexican chauffeurs'; asks if she is 'sitting good and still'; signed 'D.H.L.'

The card is addressed to 'Mary Cannan, 42 Queens Gardens, Hyd[e Park], L[ondo]n; it bears a red 1.5d stamp and a brown 10 centavos stamp and is postmarked 'Mexico D.F. 12 ABR 1923'; the verso of the postcard is a photograph of Frieda Lawrence, D.H. Lawrence, Willard Johnson and 2 Mexican Chauffeurs.

Tuesday, April 22, 2008

DOS HORAS

チリの作家・映画監督アルベルト・フゲーが、自作の"Cortos"を映画化しているそうで、自分のブログで公開している。
興味深いのは、これがパナソニックのごくごく普通のデジカメを使って撮られていることで、チリの新聞でもそのことにスポットが当てられて紹介されている。フゲーは、この"Cortos"という作品のDVDヴァージョンを作りたいんだと自分のブログに書いている。それにしても、昨今のデジタル商品の進化のテンポはおそろしいくらいで、おそらく子供の運動会を撮っているお母さんが持ってるHDビデオカメラの方が、一時代昔のカメラよりよっぽどクリアに撮れるんだろうと思う。むしろ、プロのクリエーターと呼ばれる人たちが工夫してヴァージョンダウンした機材を使い始めているような感じもする。それにルミックスのレンズはライカだしね。末端の商品にこうしたレンズが付いている、このごちゃまぜ感が現在なんだろうか。
「ご覧のように、何にもなくて、まるで書くように撮影している」。機材がこれほど軽くなればこうした感覚はどんどん進んで、映像作品はますます個人的なものにならざるを得ないだろう。しかし、こんなことはすでにゴダールが1980年代に考えていたことを忘れてはいけない。彼は、監督が自分で8㎜のように撮影できる35㎜カメラをアトン社の技術者に作らせた。『パッション』の冒頭の息をのむようなシーンはそれで撮られていたはずだ。
アルベルト・フゲーに関しては、『ユリイカ』の3月号に、安藤哲行という方が「マッコンドとクラック 新しいラテンアメリカ文学をめざして」という一文を寄せていて、たぶんぼくがラティーナに載せた以外では、日本では初めてのフゲーの紹介になってるんじゃないかと思う。 

Monday, April 21, 2008

Cervantes TV

ミクシーのコミュニティ経由で知ったのだけれど、スペイン語学習の膨大な情報を網羅しているヴァーチャル・セルバンテスなんかもやってるスペインのセルバンテス協会が、ネットテレビも始めている。
この手のサイトは、とくにスペインでどんどんできていて、毎日の話題が見られるMobuzzTVもそう。今どんどんできているこんなサイトを色々集めたこのサイトも便利。

セルバンテスTVのプログラムに、コロンビアのカルタヘナで行われたガルシア=マルケスへのオマージュの模様を映したものがあったのだけれど、バジェナートの演奏に囲まれたガボのなんという幸福そうな表情。このしっかり保存されている「文化」の香しさはなんということだろう!
それに比べてぼくらの毎日なんてまるで紙切れみたいだ。

『移動の技法』#2

友人がひとりいた。旅に出るまえに一本のカセットテープを作ってくれ、そのなかに、ビーチボーイズの 『Party』が入っていた。ビートルズのヒット曲を彼らがパーティ仕立てで吹き込んだものだ。当時のわたしの宿はグレイハウンドの座席で、一日街をぶらついて、夜になるとバスに乗り込んで犬みたいに、眠る。眠るまえのわずかな時間、ウォークマンでそれを聴きながら、頭のなかでひとりパーティをやる。(点滅するライト。10トントラックが追い抜いていく。)一日誰とも話さなかった夜。どこからともなく立ちのぼってくる消毒液の匂い。(それはアメリカの匂いだ)“You got to hide your love away ”が流れて来たとき、更けた夜の空に月が浮かんでいて、グレイハウンドは波のうえをアップダウンする。ゆっくり、、そう、ゆっくり。サクラメント=「移動の技法」。

Saturday, April 19, 2008

『移動の技法』のための覚書



職場の若い友人が、ぼくが昔に書いた文章をおもしろがってくれるもんだから、調子に乗って別ブログに載せていたものをリンクつきで再掲してみた。10年も前に書いたもので、もう書いた当時のことは忘れていもするのだけれど、まったくプライベートに書いたもので、自分の書いたものの中ではやはりもっとも愛着があるものだと思う。
これは1997年に書かれていて、その前年には大量服薬で病院に運ばれたりしているし、98年にはすでに今の仕事を始めていたので、何か狭間の移行期に書かれていて、どこかそれまでのことにけじめをつけたかったのだと思う。

これは、一言で言うと、何年も旅をつづけていて「消尽」してしまい、あの旅の一瞬が捕らえられなくなった様子を描いている。散文詩のような形式はボルヘスの影響だし、当時読んでいたベケットや、ドゥルーズのベケット論の影響も見られる。昨年かその前の年かに読んでいた本に、次のような一節を見つけて、自分がやっていたことが、ほぼ正確な形で定式化されていると感じた。遅かれ早かれ留保された到着はやって来ざるを得ず、これを書いた時がそうだったのだと思う。ちなみに、ぼくはここで初めて「わたし」という一人称を使った。これ以後、媒体に書くときは「ぼく」ではなしに「わたし」で書くことにしたと記憶している。

「ニューエイジ・トラベラーは1970年台末にイギリスに登場し、非常に多様な階級を出自とする新しいコミュニティによって構成されている。彼らは職業や体面、家族についての支配的な価値観を拒否するという点で共通性を持ち、持続可能で、より有機的な生活様式に基づくオルタナティブなライフスタイルを求めている。彼らは脱物質的な価値観の表現とみなされ、純粋に「文化的な」社会運動を代表している。ニューエイジ・トラベラーは、支配的な社会を変革しようと望むよりも、自由の支配するロマンティックなオルタナティブを求めてそこから避難する。しかし、境界的な瞬間や旅の途上の瞬間にしか自由を見いだすことができないのであるから、そこでの要点は到着の一時的な留保につきる。」ジェラード・デランティ『コミュニティ』p201-202
『移動の技法』は、その「瞬間」がどんどん切り詰められて、最後にはなくなってしまう課程である。



『ミスター・ロンリー』→ハーモニー・コリン→ヴェルナー・ヘルツォークという流れで、もう何年かぶりに『小人の饗宴』を見ながらこれを書いているのだけれど、とても素晴らしい。身に染み入るような、この素晴らしいという感覚はいったい何だろう?

Friday, April 18, 2008

『移動の技法』#1


「移動の技法」は予告なくやって来る。そのときわたしは古びたサニーの後部座席に身を包まれており、その夜は大晦日の晩で、女友達の家族とともに新年を祝ったのだった。(クンビアがまがりくねっていた)。わたしをゲレロ地区にあるその家からセントロのホテルへと送り届けようとしていたのは誰だったのか。その男をもうわたしは覚えていない。むしろ、こう言うこともできるだろう。その匿名性は、「移動の技法」のためのひとつの条件であったと。車がレフォルマ・ノルテからラサロ・カルデナスを通って、どこかの小道から突如としてソカロのサーキュレーションに入ったとき、「移動の技法」はやって来た。ソカロは12月になるとその四面に巨大な電飾のモザイクを描き、クリスマスと新年を光り輝かせる。(..feliz navidad..feliz año nuevo..)それは一瞬のことである。その瞬間を捉えたものに幸いあれ。そしてまたそれは永遠でもある。が、永遠は捉えられない。車はゆっくりとその循環に入り、大統領府と反対側の車線を走る。ゆっくりと、そう、ゆっくり。あるいは停車したかも知れない。車窓が電飾を切り抜き、そのとき「移動の技法」が訪れた。彼の顔面には電飾が明滅していたのだろう。彼は気づかない。記憶されているのは疲労とある種の姿勢。それを形容することは、むずかしい。疲労とある種の姿勢。移動の技法。