Tuesday, December 13, 2011

大山崎あたり


もう先々週の週末になるのだけれど、京都の中村のお母さんが、お姑さんが長く住んでいた家を処分するつもりということで、西向日の古い家に残った炭を使って皆に肉などを焼いて振る舞ってくれた。佳代ちゃんの介助者の人を中心に集まった人たちでしばし小宴。付近は閑静な住宅地で、ここに来て一挙に寒くなって庭の木々が赤くなったのが道一面に広がっていた。雨が降ってあいにくの天気だったのだけれど、慌ただしい日常から逃れてほっとした時間だった.
阪急の京都線に乗って高槻までは特急、あとは各停に乗り換えて行った。この路線は大学時代毎日のように行き来していたものの、このあたりをローカル線で走るのは初めてかも知れない。ちょっとした旅行気分で、通り過ぎる駅名をあらためて確認している。

Friday, April 23, 2010

『ウルトライスモ』

『ウルトライスモーマドリードの前衛文学運動』という本を買った。先週大倉山にあるかかりつけの漢方の先生のところへ行った帰りだ。坂田幸子という慶応の教授が書いている。国書刊行会2010年2月19日発行。
現代スペイン詩の歴史には少なからずラテンアメリカ人が関与して、節目ふしめで大きな役割を演じているーというようなことが書いてある。
ルベン・ダリオ、ビセンテ・ウィドーブロ、それからわたしの大切なホルヘ・ルイス・ボルヘス。
ウィドーブロは、チリの大学の授業で読まされた。が、覚えているのはビオレタ・パラがどこかの歌で彼の名を口ずさんでいたことだけだ。
不眠で悩んだサンティアゴの小さな部屋を出て、毎朝階下の大通りから「Macul12」というバスをつかまえる。疲労を残したままの身体は寒く霧のかかった郊外の町へと運ばれていく。職場にボランティアに来た女子学生が偶然わたしと同じ学部に通っていたことを知る。「Macul12」という懐かしい符合。
バスが轟音をたてて変わった信号を走り抜けていく。わたしはまたきれいな女の人に見とれていて、車に轢かれそうになった。

昨夜のこと。わたしはTwitterでおどろくような告白を目にしていた。わたしがその人のことを知ったのは、先日のチリの地震のとき、緊急医療の支援で詳しいレポートを現地から送ってきてくれていたからだった。ドクターだ。彼には、一緒に暮らしている実の娘のほかに、息子が一人いるというのが、話の骨格なのだが、単純な浮気で出来た隠し子というのとは少し違う。「彼女」(と彼は記していたが)は、意志してシングルマザーになることを望んでいた。彼は、それを語る「彼女」に感銘して、「彼女」のシングルマザーになる希望の手助けをしたのだという。その結果出来たのが彼の息子なのだという。
彼に、「彼女」は彼が娘のことをTwitterでつぶやいているのを見たと言った。あなたは自分のことしか考えていない、息子がTwitterを見ることもあるのだ、そうしたら自分にはまだ会ったこともない姉妹がいることを知ってしまうこともあるのだと責められたという。
チリの地震。サンティアゴ。カルメンとのコーヒーを飲みながらの延々としたおしゃべり。思春期の子供にとって両親の離婚というのは、大地震にも匹敵する出来事なのです、という河合隼雄の言葉が、わたしの人生の折々に浮かんではまた沈潜していっている。
サンティアゴを去る日、行きつけの中華料理屋へ飯を食いに行き今夜遅くここを発つんだというと、骸骨のような顔をしたウェイトレスが、意味深げな笑いを立てながら、最後にここに来たのね、と言った。わたしは冗談でそれに応える気力も尽きているほど疲弊していたのだと思う。

Thursday, February 11, 2010

ぴーちゃん


きのうの朝ぴーちゃんが亡くなった。出勤の仕度をしているときに妹より電話があって、たった今亡くなったというので、慌てて飛び出して実家へ向かった。ぴーちゃんはまだ温かく眠ってるようにも見えたけれど、頭を持ち上げると首はやっぱりぐったりしていた。
誕生日が1月4日だったので、17年と少し生きたことになる。長生きだった。そして当たり前に家族の一員だった。震災の前の年で、寒くて雪が降って、積もった雪の上をまだおぼつかない足で走っていたのを覚えている。この頃のぼくは、最後に長期の南米での滞在を終えて帰った時期で、様々な方面で人生に完全に行き詰まっていた。日々をほぼベッドで暮らしていて、外出するのは週に一度の精神科通いといった生活だった。そうは言わなかったけれど、見かねた母親がぼくを元気づけるとか、刺激を与えるような気持ちでもらってきたようないきさつもあったかと思う。名前はぼくがつけた。サルサに狂っていたので、ソノーラ・ポンセーニャのボーカリストの名前をもらって、ピッチーとした。だからこの犬の正確な名前はエクトル・ピッチー・イノウエなんだと、会う人会う人に説明していた。17年間にはさすがに様々なことがあった。地震もそうだし。その翌年にぼくは自殺未遂事件を起こしてる。なんとかそうした状況を脱して、その後ぼくは実家を出て近くに部屋を借りることになったのだけれど、入れ替わりのように妹に子供ができて、家の中は子供中心に変わっていった。彩ちゃんはそれでも、みんながぴーちゃんばかしかわいがるのを、最後までおもしろくなく思っていた。とにかくそうした17年のすべての瞬間にぴーちゃんは立ち会っていたわけだった。

11月の終わり、ぼくがコスタリカに一月いて帰った頃、メールでだいぶ弱ってるときいていたのだけれど、じっさい歩いてもふらつくほどだった。けれどそのときはなかった食欲もしばらくしたら取り戻して、また元気になって散歩にも出だしていた。無事に年を越し、誕生日のすぐあとにぼくの大学時代の友人たちが遊びに来て、あの犬がまだ生きてるんだと驚かれもしていた。そういう間にまた体調がすぐれなくなってきて、すでにここ数年耳も視力もずいぶん衰えてきているのがさらにひどくなっていった。心配でぼくも毎日実家へ顔を出すようになったが、それでも散歩にうながすと、行きたがるので、もう数え切れないくらい歩いた道を、何倍もの時間をかけてゆっくり歩いて帰ってきた。今から考えると、そうしたことがもうすでに別れの儀式のようで、その儀式を遡るといつまでか分からないくらいで、今日の日のダメージを少しでも和らげようと少しずつ少しずつ準備をしてきていたのだと思う。

今日の祝日は、実家の家族も全員そろっていて、雨がいつ降ってもおかしくない天気だったので、朝まだもちこたえている時間に、庭の隅に穴を掘ってみんなで埋葬した。そうして昼には人が死んだときにするのと同じように、寿司を食べ、元気だった頃のぴーちゃんの話をした。家族は、悲しむというより、なにか一匹の犬を看取った、軽い達成感を感じているようにも見えた。一段落して自分の家に帰っていると、何もしていないのになんだかぐったり疲れていると感じた。ひとりになると悲しいんだろうなと思い、誰かが永遠にいなくなったときのあの独特の寂しさがやってきた。

Sunday, February 7, 2010

シルビアさん


一昨日金曜日、コスタリカより美しい女性の来客があったので、もともと休みの日だったのだけれど事務所まで出かけていった。
シルビアさんはJICAのコスタリカ事務所で働いている現地職員で、ぼくたちが毎年受け入れている研修生たちを募集して、送り出すまでを担当している。障害当事者である研修生たちは、はじめて飛行機に乗ったり海外に出るのも初めての人も多かったりするのでパスポートのとり方から教えたりしていると言っていた。ぼくらが初めてシルビアさんに会ったのは、一昨年6月にその秋から始まる中米研修の下見のためにコスタリカを訪れたとき、初日の打ち合わせでだったが、ぼくらがおもに活動しているのは彼女のいる首都サンホセではなく地方の町でが多いので、それ以後は、そんなにしょっちゅう顔を合わせているわけじゃなく、セミナーがあったときに挨拶を交わしたりする程度だった。彼女がぼくらにとってとくに印象深いのは、コスタリカ人の現地職員であるのに、かなりちゃんとした日本語が話せるからだった。

それもそのはずで、彼女は9歳から15歳にまるまで、お父さんが大学に留学していたので家族で長崎に住んでいたことがあったからだそうで、今年30歳になる彼女は忘れていたらしいのだけれど、JICAで働き出したのを機にだんだん思い出してきたと言っていた。
その間、一家の中ではスペイン語は禁止だったらしく、コスタリカ人の両親と彼女と彼女の弟で日本語で会話している様子を想像すると、なんだかおかしくて笑えてきた。

シルビアさんは今週から始まる2週間の研修に参加するために来日したのだけれど、せっかくだからとその前に一週間前倒しで来ていくつか訪問したかったところを回っている。研修生を送り出す役目なのに、実際に研修所がどんなところか知らないので、それを知っておきたかったと東京と大阪の研修所を回り、そのついでにぼくらの事務所にも立ち寄ってくれた。「ここに来るのが夢だった」なんていう嬉しい言葉も言ってくれていた。午前中ときいていた訪問も、お昼ご飯を食べて、気がついたら午後3時を回っていて、ようやくかつてお世話になった人たちの待つ九州へ去っていった。今年の研修は夏になりそうで、3月か4月くらいにはテレビ回線を使った選考が始まるので、そのときまた顔を見ることができるだろう。

Friday, January 29, 2010

El Cantante


アメリカでの公開が2007年だから、もう3年前の映画。日本でJloはともかく、エクトル・ラボーって言っても誰も知らないから、一般の映画館ではなくアートシアターでの上映となる。
 時代の考証はよくできているし、ラボーに関して誰もがよく知ってる出来事が織り交ぜられて、それにマーク・アンソニーが歌うラボーの名曲が続々と流れて、ぼくはまぁふつうに楽しんで帰ったのだけれど、帰ってちょっと調べてみると、色々批判もありとくに身近にいた人たちの評判はあまりよくないようだ。
 その筆頭がウィリー・コロンのものでもともと彼のサイトに公開直後に載せられたもの(*1)が、様々に引用されて残っている。全文が載っているページを見つけられなかったのだけれど、引用は「映画の作者は、われわれのコミュニティを適切に扱っていない」と始まり、結局ラティーノ=ジャンキーと言ったに過ぎない。芸能界とドラッグとの結びつきはラティーノに限らずブリトニー・スピアーズなどなど多くの例があるのにと皮肉たっぷりで終わってる。ウィリーは、最近でもメディアに登場するラティーノのイメージが変わっていないことを批判する文章を発表したりしているので、ラボーの扱いについてはとくに彼の琴線に触れる部分だったのだとも思う。他にもラボーの父親役で出演したイスマエル・ミランダやチェオ・フェリシアーノ、ミュージカル『誰がラボーを殺したのか』でラボー役をやったドミンゴ・キニョネスの感想を載せた文章がネット上では流通しているようだ(*2)
 何を見たいかによってこの映画はまったく違ったものに見えるのだろうけれど、ラボーが「エル・カンタンテ」という曲そのものに、自らの虚像に苦しみながらも、どこか進んでそれを生きるところもあって、最終的にそれにのまれてしまったような人生を生きてしまったのなら、そんな虚像の部分は十分楽しめたのではないかと思う。
 ぼろぼろのブロンクスの風景と摩天楼がそびえ立つニューヨーク。そして自然豊かで人情がまだ残るプエルトリコ。まるでお伽話の中の決まった役割のようにそれぞれがちゃんとそんな風に表れてくれる。ジャンキーのラボーはぼくらの期待どおり病んで、破滅していく。ウィリーがどう思っても、イメージの方がときにはずっと強力であったりするのだ。

Saturday, December 12, 2009

Pe=Po

最近あんまり更新してないですね。
Twitterばかしやってるからかも。Twitterには色んなマイノリティーの運動をやってる人がいてそういう人たちの活動をみるのも楽しみのひとつです。
そんななかから、面白い動きと思ったものを転載します。

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The Personal is Politicalをテーマにしたインディペンデント・マガジンpe=po
2010年1月創刊記念パーティ開催

【日時】1月17日(日)午後2時〜5時
【場所】京都千本 Colori Cafe コローリ・カッフェ
京都市上京区千本通出水下る十四軒町394-1-113
   JR・地下鉄東西線 二条駅より徒歩10-15分
【会費】1500円 1ドリンク付き( 2杯目からはキャッシュオン) アルコールもあります。簡単なスナックはありますが、ご飯はありません。

<詳しくはこちら

Monday, November 9, 2009

Costa Rica (2)

サンホセでの1日目は、こちらのリハビリ審議会での意見交換会。期せずして、ここの事務局長とまるで行政交渉のようになった。臆せず対等に話すのを見て、ウェンディ、アイーダらの成長が著しいのが一見してわかりちょっと感動ものだった。こうしたときこの仕事がやめられないと心の底から思う。
その後の三日間は、ここHotel Heradurradでの国際セミナー。初日の歓迎パーティでは昨年グァテマラに行って行ったセミナーに来てくれたチョー小さい女の人や、見学させてもらったリハビリ病院の院長先生に再会。こちらを覚えてくれていたのがとても嬉しかった。パナマ、ドミニカ共和国、ペルー、エルサルバドルから招かれてきた当事者たちはみんなとてもエネルギッシュで明るくいつも笑っていて、いつもはパーティといっても何を話していいのか分からなくて居心地の悪い思いもするのだけれど、この夜はほんとに楽しかった。
セミナーの初日は、畑くんの話、2日目の分科会では自立生活センターの介助派遣についてぼくと畑くんと松島くんで話した。金曜の最終日は朝から代表が全体会議で自立生活運動について話した。
自立生活運動に関しては、とてもみんな関心を持ってくれていると強く感じた。パナマから来た当事者もぜひパナマでも展開したいと言ってくれていた。閉会式がそれを象徴していて、専門家集団がCBRを発展させる目的でつづいてきたこのプロジェクトにもはや彼らの姿は後ろに隠れて、まるで当事者たちの決起集会のようになっていた。

昨日今日はここサンホセのホテルでゆっくりしている。明日からまた地方の町を回って来週またここへ戻ってくる予定。