Friday, March 27, 2009

また一人

ここ数年のサルサというのは、一枚一枚葉が落ちていく樹のように見えるけれど、また一人。
コンフント・リブレのマニー・オケンド亡くなった。()一報はエンデル・ドゥェニョがFacebookに載せたメッセージだった。新聞で確認すると、心臓病の治療で入院していたニューヨークの病院でだそうだ。
写真は、左からチャーリー・パルミエリ、オケンド、モンゴ・サンタマリーア、ビセンティコ・バルデス、50年代のサンフランシスコでのもの。これで写真に写っている4人はすべて亡くなったことになる。

再会

もともとは、今あちこちで話題の、Pokenを注文したところから始まる。Pokenというのは、キーホルダーに付けるようなマスコットで、マスコット同士の手と手とを合わせると、お互いのEmailアドレスや、ブログのURLなんかが、交換できるようになっている。「電子名刺」みたいな感じで売り出されている。もともとスイスの会社が発売したらしく、ヨーロッパではもうすでにかなり広まっているようで、ようやく日本でも発売になった。プロモーションもかねて、あちこちでPokenオフ会や、パーティなんかも開かれている。

で、TwitterやFacebookのIDもそこに登録できるので、すでに登録しているTwitterに、せっかくだからFacebookもやっておこうと思った。今はぼくはもうほとんど書くことはなくなっちゃったけれど、90年代半ばから、2001年くらいまでは、ずっとプエルトリコのサルサをフォローしていて、ずいぶん雑誌に記事も書いた。
最初に、記事にしたクト・ソトというプロデューサーが、彼の知ってるミュージシャンを紹介してくれて、スタジオ・ミュージシャンにはかなりの知り合いが増えた。ぼくが記事を書き始めた頃というのは、ちょうど、Windows95が出た頃で、本格的に世の中がインターネットというものを使い出したときだった。
クトは、昔気質のミュージシャンで、そうしたツールとは無縁で、現在でもそうだけれど、「ぼくのコンピュータで調べる」なんて言いながら、電話の向こうで手帳を広げて、ぼくがコンタクトを取りたい音楽家の連絡先を教えてくれていた。

そうした中に、すぐにコンピュータを、連絡を取るためや、もちろん作曲やアレンジにも使い出したのが、ヒルベルト・サンタ・ロサやビクトル・マヌエルのプロデューサーをしている、ラモン・サンチェスやホセ・ルーゴという、当時はまだクトのもとでアレンジを頼まれていた人たちがいた。90年代のサルサはほぼ、この人たちが作っていたというくらいの活躍だった。

彼らは色んな話をしてくれたし、ぼくはそれで色んな記事を書いた。
が、サルサからレゲトンへという流行の移り変わりは、顕著だったし、ぼくの関心も自然にそちらの方へ行って、本業の方で手一杯になってだんだん、雑誌に記事を書くこともやめてしまった。

Facebookに登録する途中で、コンピュータの中にあるメールアドレスをFacebookが勝手に調べたら、プエルトリコのミュージシャンたちがみんなFacebookに入っていて、そこで繋がって色々、情報交換や仕事を見つけたりしているのがわかった。ホセ・ルーゴ、ラモン・サンチェス、ドミンゴ・キニョネス、ロニー・トーレスなんて言う人たちと再会して、ホセ・ルーゴが送ってくれたメッセージに添付してあったのが、このビデオだ。ぼくは彼が初めて自分名義で出したアルバムを記事にしたことがあったが、今度はもっと本格的。ボビー・バレンティンへのオマージュのこの曲の冒頭で、並ぶ2人の真剣な眼差しがかっこいいね。プエルトリコのミュージシャンには与太公みたいなのが多いけれど、ラモン・サンチェスとホセ・ルーゴは、音楽への興味、様々な分野への情報網の張り方、などなど別格に他の人とは違う。こうして生き残っているのは当然なんだろうと思う。

Pokenから思わぬ展開で、かつての人脈が復活したのだけれど、肝心のPokenは、人気沸騰でまだ届いてない。

Monday, March 23, 2009

フラハティ

忘れないための覚え書き。


そうです、生きていくってことは、動き続けるということなのです。このことがどんなに深い真実であるかといことを、一本の素晴らしい映画がはっきり見せてくれます。顕微鏡によって捉えられた、原形質の中で繰り広げられる、律動感にあふれた生命の流れと正確に測られた動き、私たち生命体の原素材というべきものが、そこにはあります。この動きがふと途絶えたとしても、それを測るものさしまでも壊すことは出来ませんし、動きが再び始まって、ほら、まるで音楽のように、美しいメロディを作り出し、ビートを刻みます。この映画が美しいのは、この律動感あふれる神秘の世界に、素直に奥深く入り込もうとしているからなのです。それは一方で、私たちを物理や化学の世界へ誘い、他方で、哲学や宗教や詩への領域へと連れて行ってくれます。レオナルド・ダ・ヴィンチは言っています、「暖かさのあるところに生命は宿り、生命のあるところには愛の運動があるものだ」。愛の動き、生命の神秘的な律動—これこそ、映画にいのちを吹き込むものです。例えば、陶工が粘土から見事な形を作るのを、映像にして心に思い描いてみましょう。映画のカメラは、この動きの流れと密接で親密な関係を結んで映像を織り上げ、私たちの視界に引き込みます。見ているうちに、私たちは陶工の手の動きを自分のもののように感じ始めるのです、まさしく陶工が心と技を込めて粘土に触っていくように。その瞬間、私たちは陶工の魂に触れ、そのまま溶け込んでしまいます—その想いを共有し、まるで生命を分け合ったかのように一体化していくのです。ここにいたって私たちは、『モアナ』の世界を満たしていた、あの微細なこころの動きを通り抜け、『ナヌーク』で見出した、あの「神秘的な参入」の世界に再び足を踏み入れるのです。これこそカメラという機械(マシーン)に導かれて、私たちがたどる「道」なのです—それは、私たちの見ている世界に全く新しい次元を切り拓きます。生き生きと脈打つ生命という神秘のリズムに揺れ、愛の力に引かれながら、私たちは魂のさらに奥深くへ、魂の合一へと運ばれていくのです。

フランシス・H・フラハティ『ある映画作家の旅』ロバート・フラハティ物語(小川伸介訳)

Friday, March 20, 2009

阪神なんば線


昨日の春分の日、WBCの日韓戦を見終えて、天気もよくなっていたのでふらっと開通した阪神なんば線に乗ってみた。この開通は、よく行く九条にあるシネ・ヌーヴォに行くのにとても便利になるので、最近うきうきするニュースの一つだった。
大学の卒業式が多いのか、駅には晴れ着のお嬢さんがちらほら。いい天気だけれど風は冷たく、甲子園駅から見える六甲山がすっきり見える。
17時12分の快速急行は、さすがに初日で休日とあって満員。
窓際に立って、外の風景を確認しながら難波まで行った。尼崎で停車すると、向こう側のレーンに近鉄の列車がすれ違って、微妙な違和感。尼崎で列車を連結するらしく、少し手間取っている様子。かなりお客さんも多く予想より時間もかかっているんだろうと思う。尼崎からは昔からある西大阪線、といっても長くこの沿線に住んでいるけれどこの路線を使うのは初めて。むしろ自転車のツーリングで走ったことのある風景としてなじみの地域だ。
西九条を過ぎて、延長した路線に入ると、すぐに地下に潜ってしまうのでどんなところを走っているのかわからないのがちょっと残念。地下になると新しくできた駅をいくつか通ってすぐに難波に着いてしまった。ほんの少しの距離が何年も放っておかれたんだなって思う。難波では、ふつうに近鉄のホームに停車したのがへんな感じだ。

Wednesday, March 18, 2009

黄昏

もう先週のことだけれど、ニューヨークのサルサ・プロモーターでRMMレーベルの経営者だったラルフ・メルカードが亡くなった(*)。この2年ほど脳腫瘍のため闘病中であったということで、亡くなったのはマンハッタンの病院でだった。娘さんら家族に看取られての死であったということだ。上の写真はGoogleで検索していて出てきたもの。エクトル・ラボーの『Recordando a Felipe pirela』が出た時だから1979年か。いちばん左に映るメルカードは、67歳だったということなので、まだ30代だった。ジェリー・マスッチもいて皆の混じりっけのない笑顔がなんとも幸せそうに見える。改めて彼のバイオグラフィー(*)を読んでみると、ヴィレッジ・バンガードやチーターでのライブなどの仕掛け人として本当に天才的なプロモーターだったんだなと思う。RMMというレーベルで世界中にサルサを持って行ったのは、グローバリズムと足並みを揃えていて、それは90年代にアメリカの株が上昇していくのにもテンポを揃えているようにも見え、ぼくはRMMというサルサの帝国が支配する中で、そうでないサルサを探すというのがぼくがやることだと思ってやっていた。
ファニアがアフリカやアジアに出掛けていったのもメルカードのアイデアだったらしく、ファニアのまるで革命の輸出に見える拡大主義も、RMMの帝国主義的な覇権主義もじつは、メルカードという人物で結びついてたんだと今頃になって知る。RMMというレーベルでサルサは広く知られたのと同時に本当に無味乾燥な音楽にもなってしまった。そのことを批判的に書こうと思ったらいくらでも書けるし、ほんとはそんなことをいっぱい書こうと思ったのだけれど、ラルフ・メルカードがいなかったらおそらくサルサという音楽は、また別なポジションにあったんだなと思うとなんだかそんか気持ちは失せてきた。