Wednesday, February 25, 2009

監禁


西宮ガーデンズができて、仕事帰りにふらっと映画を見に行くという新しい習慣ができた。昨夜はイーストウッドの『チェンジリング』。アンジェリーナ・ジョリーがアカデミーの主演女優賞を逃したやつだ。映画は老いてますます盛ん、イーストウッドの安定した仕上がり。今朝のスペインの新聞には来月もう新作が上映されるとアナウンスされていた。

映画の中で、汚職にまみれた警察が、しつこく抗議を繰り返す面倒な市民を精神病院に送り込むシーンがあって、ちょうど一月前くらいにBSで『カッコーの巣の上で』を見たこともあって、「新しい精神医学」が出てくる前の精神病院の非人間的な患者への扱いをあらためて考えたりしていた。

どちらの映画にも、無理やり投薬したり、電気ショックを与えたり、ロボトミーの手術を施したりといったシーンが出てきて、精神病院に対するイメージにはこの頃の病院に対するイメージがいまだに影響を与えているだろうし、監禁拘束は現在でもまだある。けれど果たして、映画に登場するこうしたイメージは映画的な演出ではないのか?という疑念も出てこない訳ではない。

たまたまそんなとき、中井久夫先生の最新刊『日時計の影』を読んで、そこで彼は、現代米国看護学の創設者の女性の伝記を紹介していて、かなりの分量を引用しているのだけれど、その描写は中井先生自身をも驚かせている。そのまた一部を引用してみます。



翌週、その医師(フリーマン博士)は、自分の「ロボトモービル」-ロボトミーの器具を搭載した小型トラック-を運転してやってきた。彼は病棟を巡回すると「そいつ、それから、あいつ」と無作為に患者を選んだ。患者一号が彼の前に押し出された。彼はその女性のこめかみに電極を当てると気絶するまでショックを与え、それから彼女の左まぶたをあげて、アイスピックに似た器具を彼女の眼の中に突き刺した。それを引き抜くと、血のついたアイスピックをアルコールの入った嘔吐盆に浸し、それから次の患者に移った。(中略)次から次へと管理された無関心な暴力の流れ作業を無慈悲に進めていき、その後には血だらけで盲目になた四〇〜五〇人の患者が残された。
(『バーバラ・J・キャラウェイ『ペプロウの生涯・ひとりの女性として、精神科ナースとして』星野敦子訳、医学書院)

この箇所を読むと、映画に出てくることなどまだ可愛らしいのではないかとすら思えてくる。
これは1958年の出来事なのだけれど、この頃アメリカでは、ロボトミーの実験手術のために国から資金が出ていたらしい。検索してみたら日本でも1975年まで行われていたという。ちなみに、『カッコーの巣の上で』は1976年の映画だから、かなり生々しい現実を描いた映画だったということだ。

ぼくらは、障害者の自立生活センターというところで働いていて、そこでの最も重要な仕事は、施設に収容されている障害者を地域に返すというものなのだけれど、もちろんそれは重要なことなのだけれど、かつて障害者の施設でも、女性の子宮を取ってしまったり、他にも正常に戻すという名目で様々な外科手術が行われていて、こうした映画をみたり文章を読んだりして、あらためてこうした現実を改めるための運動だったのだということを、確認しておいてもいい。

今読んでいるのは、ハイデガーの『ツォリコーン・ゼミナール』という本で、これはハイデガーが『存在と時間』で追求したテーマを、医師など哲学を専門としない人に向けて講義した記録を纏めてある。目の前の当たり前の光景のやや斜め後ろに隠れている現実との微妙な差異をひとつひとつあげていく。なかなかこんな濃厚な読書体験はできないだろう。
その哲学が生まれる背景として、20世紀がテクノロジーというものにいかに支配されていたかということを気づかされた。科学という名でどれだけの残虐さが許されてきたか。20世紀の残虐さというのは、ナチスドイツだけに押しやられて、他は免罪されているかのような印象を受けるかも知れないけれど、世界中がそんな残虐さに満たされていたというのが真実。ハイデガーがそれから「人間らしさ」というものを守るために、まるでたったひとりで闘っているようなイメージが浮かんでくる。ぼくたちはもうすっぽりそんな中にいて生まれてきたからわからないだろうけれど、色々と考え直すことは大切だと思う。