シネ・ヌーヴォでやってるファスビンダー特集の最後の日。先週観た1本に、今日は2本、一週間毎日4本づつ上映していたが、結局3本しか観なかった。
今日は『シナのルーレット』と『哀れなボルヴィザー』。ともに1976年の作品。先週観た『少しの愛だけでも』もそうだけれど、どれもまったく救いがない。どこか生き方に不完全さを抱えた登場人物たちは、それを埋めようとじたばたはしてみるのだけれど、どちらかというと、その不全さは大きくなるばかりで埋まることはない。救いのないまま映画は終わり、残されたぼくたちが救われることももちろんない。が、それが人生だろうし、少し譲歩してみても、それも人生なんだろうと思う。
それは、もちろんファスビンダー自身が抱えていたものでもあっただろうし、ぼくが彼に惹かれるところでもある。
『シナのルーレット』を学生時代に観て、毎週のように入り浸っていたフランス語の先生のところで皆で酒を飲みながら、この映画に出てくる「シナのルーレット」の遊びをやったことを思い出す。それを発案したぼくは、おそらくこの映画の、足の不自由な娘だったのだと、今あらためて思う。他人と自分のどうしようもない悪意を直視すること。ゴダールのどこかの本に、「ファスビンダーのやり方は、オレたちはみんな最低なんだ。まずそこから話しを始めようじゃないか、というものです」と書いてあって、その箇所がぼくはとても気に入っていたことを思い出した。この言葉を、今再び、思い起こしておいてもいいだろう。
今日の昼は、母親の誕生日で、一緒に食事に行く。芦屋の三佳で鰻丼を。年月は経ち、色んなことを忘れ、様々な変化もあるということだ。
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