Monday, December 31, 2007

Zacatecas

昨日は半日、今日は、思わぬ休みで大掃除ができた。部屋をきれいにしてやまとの湯へ浸かりに行く。ららぽーとへ忘れていた買い物に行って、年越しの準備完了。世間では明日から正月と言うことなんだろうけれど、われわれはいつもどおり仕事。ぼくはどちらかというと年末家のことをやりたい性分だからそれができたら正月はどちらでもいい感じ。

で、いつものように旅行記のつづき。

サカテカスへは、今回を含め、3回行っている。最初は87年の秋。2回目は90年の終わり頃。そして今回。行く毎にまるで違う町へ訪れたようで、不思議な気分になった。最初のときはエル・パソのユースで知り合ったイギリス人、ジムという青年とだった。今回と同じようにエル・パソからバスに乗り朝早く着いた。ローカルバスに乗ってセントロへ向かうと、朝霧の中をコロニアル風の建物が石畳の道路から立ち上がって、信じられないくらいチャーミングに見えた。ぼくは当然気に入ったのだけれど、同行のジムは「こんなチープな町はいやだ」と言いだし、ぼくも初めてのメキシコで一人で旅行するには不安もあったので、しかたなくそのまま彼の言うとおり、メキシコシティ行きのバスに乗って、数時間の滞在でこの町を去った。
2回目は、大学時代の友人が、ぼくがメキシコシティの大学でスペイン語を学んでいるときに訪ねてきて、彼と一緒にロサンジェルスまでバスで行く途中に寄ったのだった。その時は偶然、ゼネストか何かそんなときに巡り合わせて、町は所々封鎖されているし、車も人もほとんど見かけなかった。町は誇りっぽく、廃墟のように見えた。
そして今回。メキシコ自体が以前より、景気もよくなっているのだろうけれど、活気があって人も多く。これまでで一番居心地がいいと思った。

やはり今回も、朝早く着いた。
バスの運転手が「サカテカス」というので、降りたのはいいのだけれど、どうも前に来たときとは雰囲気が違う。間違えた?と思うが、売店に置いてある新聞がサカテカスなんとかという名前だったので、気のせいかと思い直す。
外へ出て、ガイドブックでチェックしたホテルへ行こうと、客引きをしているタクシーの運転手に告げると
、それはサカテカスだよ、ものすごく遠いからバスに乗った方がいいと言う。「でも運転手はサカテカスって言ったよ?」というと、「たしかにサカテカス県ではあるけど..」だと。

そこらでぶらぶらしている若い衆が、チップ欲しさにローカルバスの乗り場に案内してくれた。
まだ夜は明けていない。バスに乗り込むと、大学生くらいの女の子たちがたくさん乗り込んできて、空いているぼくの横へも座った。いったい何時に起きたんだろう?きれいに化粧や身支度もしていて、窓もきっちり閉まらないぼろバスとのギャップが激しかった。

小一時間で、サカテカスのセントロに着いた。後で調べてみると、サカテカスにはセントロに近い新しいターミナルと、この郊外のターミナルと二つあるらしかった。荷物を担いで、さらに町の中心をめざす。時間は通勤時間になっていて、学校へ行く学生や、職場に向かう車で道はごった帰している。安い宿へ泊まるつもりだったが、まだ一晩バスに揺られて到着すると、弱気の虫が顔を出して、まぁいいかともう少しましなところを捜す。

メルカードに近い宿へチェックイン。カードが使える宿に泊まったのはメキシコではたぶん初めてだった。部屋は小ぎれいで、やはりここでよかったと思う。熱いシャワーを浴びようと思い蛇口をひねってしばらく待ってみるが、なかなか出ない。しかたなく生ぬるいお湯で、暗いバスの中でカバンの中が、こぼしたコーラでびちゃびちゃになっていたので、洗濯する。しばらく洗濯していても、いっこうにお湯が熱くなりそうもないので風呂は諦める。サカテカスはかなりの高度で、朝はもの凄く冷える。さすがに水を浴びる気にはならなかった。

諦めてテレビにスペイン語版のCNNを流したまま、毛布を重ねたベッドに潜り込んで、一眠りする。

Saturday, December 29, 2007

Viskningar och rop

先週から昨日まで、衛星放送のシネフィルイマジカで、この夏になくなったイングマル・ベルイマンの特集をやっていた。朝から夕方まで、3本くらいの映画を連続で毎日やるのだけれど、さすがに全部見ることは不可能で、昼に家に帰ったときに、1本か、1本半の作品を見るという生活をしばらく過ごした。
ベルイマンを知ったのは、小学校6年くらいの時、淀川さんがやっていたラジオ番組でだったと思う。中学になって親に隠れて映画を見に行くようになった頃、これくらいは見ておかなくてはならない、教養として見る映画監督のリストのひとりだった。当時はそれほど過去の映画をすぐに見れる環境ではなかったから、2本立てでどこかの映画館に廻ってきたときにはなるべく見るようにしていた。写真を載せた1973年の作品『叫びとささやき』は、そんな中の一本で、このあたりからベルイマン作品はリアルタイムで見るようになったのだと思う。『野いちご』とか『処女の泉』(淀川さんはいつもこれをお上品に[おとめ]と読ませていた)などはNHKの名画劇場で見たような記憶がある。なかなかその後、見なおすという機会もなく、今まで過ごしてきて、今回初めて見る作品とともに、あらためて見て色々感じることがあった。
ぼくがもともとそういう性向を持っていたのか、あるいはベルイマンの映画に影響を受けたのか、今となってはどちらがどうなのかよくわからなくなってしまったが、人間の生きる表面的なものだけではなく、その奥に隠れていることとか、それを動かしている原理を考えたり、突き詰めていくような傾向は、彼の映画やそれに登場する人物とよく似ていると思った。よく難解だと言われるベルイマンの映画を、昔はやはりそのとおりだと思って見たりもしていたのだけれど、今回はその流れや、登場人物が感じたり考えたりすることが本当によく理解できて、それに身を任せて見ることが気持ちいいくらいだった。
面白かったのは、一面北欧的な真面目すぎるような、登場人物たちの行動のきっかけが、思いの外生々しい嫉妬や、欲望だったりするのに気づいたことで、それはイタリアのネオリアリズムにあったような終戦直後の貧しさからくる苦しみや悩みではなく、ある程度満ち足りた人たちが感じる倦怠や空虚感といった現代のわれわれが感じるような悩みに近く、戦火を逃れた北欧だからできたのか、とくに50年代の作品は、当時の他の映画と比べてかなり先を行っていたのではないかと思う。
昨日は、起きて出掛ける支度をしながら、『ファニーとアレクサンドル』と『リハーサルの後で』を横目で見る。雨の中事務所の大掃除。介助の仕事で抜けて、作業所のお疲れさまパーティへ戻る。今年の初めにごちゃごちゃあった女の子としばらくぶりに顔を合わした。自分でも意外なくらいどきどきして動揺しているのに気づく。すでに済んでしまったと思った感情が甦ってきて苦しいくらい。こちらで会話しながら向こうの会話の輪でお喋りしている彼女のことが気になってしようななかった。こうした感情こそ、ベルイマンの映画に登場する人物が感じていたことだろうと、また映画のことを思い出し、感情の繋がりがまた繋がりを生む。

Saturday, December 22, 2007

SINO

サカテカスまでのバスの隣は、モレーノの大男だった。セラーヤに行くと言い、ぼくはサカテカスだと応えたが、交わした会話はほとんどそれくらいだった。なんとなく話しにくい空気があって、窓側の彼の向こうの風景を見るともなく見ていた。「メキシコに住むものは皆、ひと事に余計な口出しをしない術を身につけているようだった...」というバロウズの小説の一節をふと思い出した。
 乾いた草原にサボテンが点々として、奇妙な形の山の間をバスは走り抜けていく。することもないので、iPodを取り出して、出発直前にダウンロードして入れてきたカフェ・タクーバの新譜SINOを聴く。この旅の中で何回かトライしたけれど、微妙にちがうという感覚があってすぐにやめていた。カフェ・タクーバの前作はもう4〜5年前で、その間に90年代が頂点だったスペイン語ロックのブームも冷めてきていて、日本にいてカフェ・タクーバというバンドも少し遠い存在になりつつあった。国境を越えてどうだろう?少しは作用するだろうか?麻薬を試すように流してみた新作は、とても新鮮だった。
 カフェ・タクーバのメンバーとぼくとはほぼ同年代で、聴いて育った音楽のバックボーンも似ている。そして、ぼくとメキシコとの関わりはほとんどカフェ・タクーバの活動している時期と重なっている。だから今度のカフェ・タクーバのSINOというアルバムで、彼らが自分たち自身の活動や人生を振り返った曲をいくつも入れているのを、あらためてじっくり聴いていると、まるでぼくが自分の人生を振り返っているように歌詞が染み渡るように聞こえてきた。それはたぶん若いときには絶対恥ずかしくて書けなかったような直接的なもので、そうしたものを隠すことなく歌えることが人生と経験を重ねてきたことなんだろうと思った。それはこの旅でぼくが一貫して感じつづけた落ち着いた感情とどこか繋がっているように思った。
 深夜になって皆が眠って静かになっても運転手が流すメキシカン・バラードが鳴りつづけていた。一番前の席の女性が、おそらく音を落としてくれと言ったんだろうと思うが、運転手は「何だって?音を上げろって?」と言った。ほとんど嫌がらせに近い。
5時だか6時だか、まだ夜が明けない頃、バスはターミナルに到着して運転手は「サカテカス」と言った。

Saturday, December 15, 2007

Comicopera

iTunes music storeをうろうろしていると、ロバート・ワイアットが、新譜を出しているのを発見。前作Cuckoolandが、2003年のリリースだから、4年ぶりのアルバムということになる。そのままクリックしてダウンロードしたのは言うまでもない。
ブライアン・イーノ、ポール・ウェラー、フィル・マンザネラが参加し、ワイアットの自宅と、マンザネラのスタジオで録音されている。ワイアット自身はもうすっかりスタイルが完成されているアーティストだから、誰がゲストで参加しているといってそれがどうというわけではないだろうけれど、たしかに興味深いメンバーだと思う。タイトルのとおり、アルバムは3幕の劇仕立てになっていて、それぞれ"Lost In Noise""The Here and The Now""Away With The Fairies"とタイトルがついている。3幕目はイタリア語とスペイン語で歌われていて、最後の曲はキューバのソン。ゲバラに捧げる歌になっている。
しかし、これは恐ろしいアルバムだと思う。ワイアットだからいいとか悪いとか言うことなく聴くんだろうけれど、ほんとに心の底から感動した。音楽への信頼を取り戻せたことと、まだこうして感動できる自分に少しホッともした。
何トラック使ってるのか分からないくらい、様々な楽器がコラージュされて、かなり作り込んであるはずなのに、聴いた感じはどちらかというとアコースティックな自然な感じがするの不思議。
消費しちゃわないように、ゆっくり聴きたいね。
UKの主要なメディアからもレビューが出ている。"Independent""Gurdian""BBC"

Friday, December 14, 2007

Gustavo Dudamel

"Gustavo Dudamel"で検索してここに来てくれる人が増えてきたようなので、この間ラティーナに載っけた記事を全文アップしておきます。
11月にメキシコへ行ったとき、あと一週間くらいでドゥダメルとユース・オーケストラが、がBellas artesでコンサートをやるという新聞広告を発見し、ただでさえ幸福なメキシコ滞在がさらに帰国が惜しくなる思いになった。
ベネズエラの状況もその後変化があった。先日、国民投票があって、大統領の任期を撤廃するなどの提案が審査されたが、否決された。報道では、チャベス大統領の指導力が低下するのではと言われているが、ぼくは逆にベネズエラの民主主義の健全さがアピールできて、ベネズエラという国に対しての信頼度は増したのではないかと思う。


月刊ラティーナ10月号

 クラシックファンのあいだでは、すでにかなり話題になっているようだけれど、ラテンアメリカに関心ある方々にはどうなのだろう。グスタボ・ドゥダメル。1981年生まれ。弱冠26歳、ベネズエラ出身の指揮者だ。
 クラウディオ・アバド、サイモン・ラトル、あるいは、ダニエル・バレンボイムといった現代の巨匠たちに絶賛され、彼らの後見のもとにデビューしたドゥダメルの、まずこれまでの経歴をざっと見ておこう。生まれはバルキシメト。カラカスから西方280キロほど行った町だ。カラカスからマラカイボへ向かうハイウェイのちょうど中間あたりにある。父親がサルサのオーケストラでトロンボーンを吹いていたというのが、いかにもベネズエラらしい。すでに幼いときから和声や対位法を学び、10歳のときに初めてヴァイオリンを持って、同時に作曲の勉強も始めている。14歳の時に指揮の勉強を始め、18歳の時に、ホセ・アントニオ・アブレウにひきつづき指揮を学び、彼が創設したシモン・ボリバル・ユース・オーケストラの指揮者になっている。
 ドゥダメルが一気に世界的な名声を得たのは、2004年、南ドイツの名門、バンベルク交響楽団が主宰する第一回グスタフ・マーラー指揮者コンクールで優勝してからで、以後世界中のオーケストラから引っ張りだこの活躍。今シーズンは、ウィーン・フィルやベルリン・フィルでも指揮をする予定になっている。2009/10年シーズンからロサンジェルス・フィルハーモニーの音楽監督に就任することも決定した。
 そして昨年、ドイツ・グラモフォンからベートーヴェンの交響曲第5番と7番のカップリングで、レコーディング・デビューも果たしているのだが、この録音は、彼が現在音楽監督を務めているベネズエラ・シモン・ボリバル・ユース・オーケストラとのレコーディング。このオーケストラがまたドゥダメル自身と同じくらい興味深く話題にもなっている。
 ユース・オーケストラと言うくらいなのでもちろん、25歳くらいまでの若い演奏家たちによってこのオーケストラは構成されている。しかしこれはたんなる若ものたちのオーケストラというだけでなく、今年67歳になるホセ・アントニオ・アブレウが組織した、Sistema Nacional de las Orquestas Juveniles e Infantiles de Venezuela(ベネズエラの若ものたちと子供たちのオーケストラの国家システム)のトップオーケストラということである。スペイン語で短く、「システマ」と呼ばれているこの組織は、ベネズエラ全国に散らばった「核(nucleo)」と呼ばれる地域のオーケストラから優秀な才能を持った演奏家が集められ、学費や生活費の援助をもらって英才教育を受けることができる。幼いドゥダメルもここでコーラスを始めている。キューバの音楽やスポーツ選手の育成に似ていて、一見すると現在のチャベス大統領の社会主義的な政権で作られたものかと思われがちだけれど、創立は1975年と30年以上の歴史がある。州の補助を受けて運営され、政府とはずっと一定の距離を保っていたらしいが、チャベスの時代になって、うまく彼の進める「革命」とマッチし、今では国の潤沢な資金も得ている。集められた子供たちは、家庭に問題があったり、ドラッグに手を出していたりしている場合が多く、この「システマ」は、たんに音楽を教えるだけでなく、音楽を通じて、社会的な繋がりを回復することを目的としており、音楽教育そのものが生きていくための職業訓練になっている側面もある。ブラジル人にとってサッカーが占める役割をやっているという見方もされているようで、「核」と呼ばれる各地のオーケストラは200以上もあり、そこからどんどんキャリアアップしていく様は、まさにナショナル・チームへ至るブラジルのサッカーのようだ。多くはプロになったり、音楽教育の道へ進んだりするのだが、その中には、最年少でベルリン・フィルのコントラバス奏者に合格したエディクソン・ルイスなどもいる。
 さて、そのベネズエラの俊英たちの奏でるベートーヴェン。そして今年になって発売されたマーラーの交響曲5番だが、一見して若者らしいテンポと生きのいい演奏と言っていいだろう。ただそうやって気持ちよく高校野球でも見るような気分で聴いて終わりかと言うとそうではない。彼らの速度は最終楽章に近づくにつれ、どんどんスピードを速め、これ以上行くとカオスになってしまうというぎりぎりのところまで行く。それはほとんど心地よい音楽体験とは逆の、目眩と吐き気すらを起こさせるようなもので、それだけ彼らの抱えているエネルギーの内包量の高さを思わせているだろう。このエネルギーは、明らかに現在のベネズエラの「革命」の持っているものと共振している。しかし、このオーケストラが、フランス革命の影響を受けて南アメリカの解放者となったシモン・ボリバルの名を冠されていて、21世紀のボリバリアーナ革命真っ盛りのベネズエラで、そしてやはりかつて革命の中を生きたベートーヴェンの交響曲を演奏しているというのはどういうことだろう?この状況をどう理解したらいいのだろう?ここ何年もクラシックの世界は、古楽的なアプローチが主流で、オーケストラもどんどん規模が小さくなってきていた。ドゥダメルとシモン・ボリバル・ユースというのは、その中で久しぶりにオーケストラらしいオーケストラだと言え、だから、口の悪い人などは、行き詰まったクラシック界の新しいマーケティングの成果だと言ったりもするのだけれど、そういった人は、歴史の大きな流れの中、現在のベネズエラで何が起こっているかを、21世紀の革命の中で、誰と、どんなエネルギーが解放されているかをあまりよくわかっていないのだと思う。あるいは、たんにニュースを見聞きして知っていただけの私にしても、そのエネルギーの実体を、はじめて目の前にしたのだ。

Thursday, December 13, 2007

Borderland

チェックアウト。チェックインしたときの、このホテルの責任者らしい女性は、「ご利用いただきありがとうございました」のような意味のことを英語で言ったと思う。
歩いて、再びグレイハウンドのバスターミナルへ。ホテルのロビーから持って行ったエルパソ・タイムスをパラパラめくりながら、国境を越えるバスを待っていると、この地域のニュースの頁が出てきた。"Borderland"、なんという香しい響き。小一時間待ってバスに乗り込む。乗客はぼくの他数人しかいない。運転手は白人系で長身、マッカーサータイプのサングラスをしている。動き出すとすぐに音楽が鳴って、それはノルテーニョだった。すでにメキシコに入った安心感。昨日は手前までしか行かなかった橋を、バスに乗ったまま、向こうの方まで見わたす。
税関に着いて問題なく通過して、他の乗客がバスに戻るのにつられて再びバスに乗ると、バスは動き出す。ふと考えると入管を通ってなかった。他の乗客は皆メキシコ人だから、入管には用がなかっただけだった。
運転手に、「イミグレはもう過ぎたの?」と訊くと「そうだ」と答える。「ぼくは日本人だからイミグレ通らないとだめなんだよ」と言っても、さあねって顔。とうとうフアレスのバスターミナルまで行ってしまった。
しかたなく、再びタクシーで国境まで。ホルヘという運転手が案内して連れていってくれて、パスポートにスタンプを押してもらってツーリストカードをもらう。さらに再びバスターミナルへ戻ると、サカテカス行きのバスは10分後に出るという。とても暖かい日でTシャツになりたいくらい。またメキシコへ来たという感慨に浸る間もなくバスに乗り込んだ。

Monday, December 3, 2007

El Paso(2)

部屋へ入る。窓からは町の北側の郊外が見える。窓のすぐ下は幹線道路で、車が高速でとばしている。その道路を渡ったコインランドリーで洗濯をしたことがあるのをふと思い出す。シャワーを浴びて、ロビー横の食堂で簡単なバイキングの朝食。日曜の朝で、メキシコから来たと思われる家族連れがテーブルを囲みお喋りしながら朝飯を食べている。
部屋へ戻ってひと眠り。

昼過ぎに起き出し、町へ。日曜日ということもあって、鄙びた雰囲気。しかし、週が明けても同じようなものだというのは明日になればわかること。ぶらぶらとあちこち歩きながらそのまま国境まで。たくさんのメキシコ人が、買い物に来ている。ビデオを回していると、警備をしている係員が口笛で警告しながら近寄ってくる。女性の係員が「ここの建物を撮影するのは禁止されてるのよ」と言う。「建物は撮影してない」。撮ったところを見せる。「どうしてここを撮ってるの?」「Siempre la frontera me apasiona mucho...」。最初は消せと言っていたが、しばらくすると無言で行けと言う。

当てもなくぶらぶらしていると、やはりお腹がすく。夜まで待って少しましなものを食べようと思ったけれど、我慢ができずどこかへ入ることにする。が、休日でレストランはことごとく閉まっているので、しかたなくマクドへ。エル・パソの落ち着いた空気を味わいながら、ハンバーガーを頬張り、コーヒーを飲む。

暗くなり、まるで退社時間が来たように、メキシコ人たちが国境を越えて帰って行く。ぼくもスーパーで適当に夜に食べるものを買って、ホテルへ帰る。テレビをつけると、メジャーリーグのワールドシリーズ最終戦、コロラドと、ボストンの試合をやっている。あっけなくレッドソックスが勝って番組が終わった。時差ぼけのまま、夜行のバスに乗って、すっかりリズムがおかしくなっている。昼間たっぷり寝たのにまたすぐに眠たくなる。