Friday, January 29, 2010

El Cantante


アメリカでの公開が2007年だから、もう3年前の映画。日本でJloはともかく、エクトル・ラボーって言っても誰も知らないから、一般の映画館ではなくアートシアターでの上映となる。
 時代の考証はよくできているし、ラボーに関して誰もがよく知ってる出来事が織り交ぜられて、それにマーク・アンソニーが歌うラボーの名曲が続々と流れて、ぼくはまぁふつうに楽しんで帰ったのだけれど、帰ってちょっと調べてみると、色々批判もありとくに身近にいた人たちの評判はあまりよくないようだ。
 その筆頭がウィリー・コロンのものでもともと彼のサイトに公開直後に載せられたもの(*1)が、様々に引用されて残っている。全文が載っているページを見つけられなかったのだけれど、引用は「映画の作者は、われわれのコミュニティを適切に扱っていない」と始まり、結局ラティーノ=ジャンキーと言ったに過ぎない。芸能界とドラッグとの結びつきはラティーノに限らずブリトニー・スピアーズなどなど多くの例があるのにと皮肉たっぷりで終わってる。ウィリーは、最近でもメディアに登場するラティーノのイメージが変わっていないことを批判する文章を発表したりしているので、ラボーの扱いについてはとくに彼の琴線に触れる部分だったのだとも思う。他にもラボーの父親役で出演したイスマエル・ミランダやチェオ・フェリシアーノ、ミュージカル『誰がラボーを殺したのか』でラボー役をやったドミンゴ・キニョネスの感想を載せた文章がネット上では流通しているようだ(*2)
 何を見たいかによってこの映画はまったく違ったものに見えるのだろうけれど、ラボーが「エル・カンタンテ」という曲そのものに、自らの虚像に苦しみながらも、どこか進んでそれを生きるところもあって、最終的にそれにのまれてしまったような人生を生きてしまったのなら、そんな虚像の部分は十分楽しめたのではないかと思う。
 ぼろぼろのブロンクスの風景と摩天楼がそびえ立つニューヨーク。そして自然豊かで人情がまだ残るプエルトリコ。まるでお伽話の中の決まった役割のようにそれぞれがちゃんとそんな風に表れてくれる。ジャンキーのラボーはぼくらの期待どおり病んで、破滅していく。ウィリーがどう思っても、イメージの方がときにはずっと強力であったりするのだ。