Saturday, December 12, 2009

Pe=Po

最近あんまり更新してないですね。
Twitterばかしやってるからかも。Twitterには色んなマイノリティーの運動をやってる人がいてそういう人たちの活動をみるのも楽しみのひとつです。
そんななかから、面白い動きと思ったものを転載します。

******************************


The Personal is Politicalをテーマにしたインディペンデント・マガジンpe=po
2010年1月創刊記念パーティ開催

【日時】1月17日(日)午後2時〜5時
【場所】京都千本 Colori Cafe コローリ・カッフェ
京都市上京区千本通出水下る十四軒町394-1-113
   JR・地下鉄東西線 二条駅より徒歩10-15分
【会費】1500円 1ドリンク付き( 2杯目からはキャッシュオン) アルコールもあります。簡単なスナックはありますが、ご飯はありません。

<詳しくはこちら

Monday, November 9, 2009

Costa Rica (2)

サンホセでの1日目は、こちらのリハビリ審議会での意見交換会。期せずして、ここの事務局長とまるで行政交渉のようになった。臆せず対等に話すのを見て、ウェンディ、アイーダらの成長が著しいのが一見してわかりちょっと感動ものだった。こうしたときこの仕事がやめられないと心の底から思う。
その後の三日間は、ここHotel Heradurradでの国際セミナー。初日の歓迎パーティでは昨年グァテマラに行って行ったセミナーに来てくれたチョー小さい女の人や、見学させてもらったリハビリ病院の院長先生に再会。こちらを覚えてくれていたのがとても嬉しかった。パナマ、ドミニカ共和国、ペルー、エルサルバドルから招かれてきた当事者たちはみんなとてもエネルギッシュで明るくいつも笑っていて、いつもはパーティといっても何を話していいのか分からなくて居心地の悪い思いもするのだけれど、この夜はほんとに楽しかった。
セミナーの初日は、畑くんの話、2日目の分科会では自立生活センターの介助派遣についてぼくと畑くんと松島くんで話した。金曜の最終日は朝から代表が全体会議で自立生活運動について話した。
自立生活運動に関しては、とてもみんな関心を持ってくれていると強く感じた。パナマから来た当事者もぜひパナマでも展開したいと言ってくれていた。閉会式がそれを象徴していて、専門家集団がCBRを発展させる目的でつづいてきたこのプロジェクトにもはや彼らの姿は後ろに隠れて、まるで当事者たちの決起集会のようになっていた。

昨日今日はここサンホセのホテルでゆっくりしている。明日からまた地方の町を回って来週またここへ戻ってくる予定。

Tuesday, November 3, 2009

Costa Rica (1)


オハンチャ、サンタクルースのセミナーを終えて、昨日首都サンホセに戻って来ました。
昨日は、移動だけだったのでやっとゆっくりできて、時差ぼけもほぼ解消した感じ。オハンチャは6月に研修に来たウェンディと介助者のカレンの故郷。少し南に車を走らせると海岸に出る暖かい町だ。人口は1万に満たない。
エアコンのない会場は暑く、声も通らないのでこちらの集中力はどんどん落ちて行く。なんとかこなして、ウェンディの家で一服。急な依頼で夜はカレンの高校でぼくと松島くんとが、介助者の仕事について話す。最高に疲れたけれど、同じくらいの達成感があった。
翌日は、近くのサンタクルースという町で、当事者だけのセミナー。バスでオハンチャから道すがら障害者の人たちを拾いながら行ってだんだん増えて賑やかになっていくのが楽しい。
ニコヤという町で一泊。夕食を食べて、夜遅くまでペレスセレドンから来てずっとぼくらと同行しているアイーダ、ジゼルと話す。けっこう深い活動の話になって時間を忘れるくらいだった。

昨日の日曜日、日中の移動でコスタリカの豊かな自然を堪能しながらサンホセまで。もうすっかり忘れていたような生命力のようなものが自分のなかで呼び覚まされていくのを感じる。

Sunday, October 25, 2009

介助者たちは、(2)

前トピックでお知らせしたかりん燈イベント昨夜無事終了しました。50人くらいの来場。身内の人が介助者・友人含めて10人近く来てくれていて、とても面白かったと言ってくれたのが何より嬉しかった。
東京の第1回イベントは150人くらい集まったというから、それに比べると少ない気はするけれど、お互いの顔が見えるくらいのちょうどいい規模じゃなかったんじゃないかと思う。前半の山下さんのグループ・ゴリラの話には、生き残り?である障大連細井さんのフォローが入って、話に立体感が出てさらに膨らんでよかった。今の介助者という横の繋がりだけじゃなくて、こうした縦の繋がりっていうのも面白いなぁって思う。

自分の持ち時間は15分、時間はあっという間に過ぎるので慌てて、いつものことだけれど、言おうとしていたことをいくつか言い忘れてた。ここでちょっと補足しておこうと思う。ぼくは、介助者の話となると、仕事がきついとか給料が安いとか悲惨な話になることが多いのであえて逆の話をしようと思った。

話と言っても、自分の介助者としての略歴を話しただけ。介助者になったきっかけ、TRYのイベントに参加して少し自立生活センターというものに少し近づいたこと。それから支援費制度導入にあたって政治の季節がやってきて、障害者運動自体の面白さに目覚めていったこと。さらに職員となって働き出して海外支援に関わりだして、より仕事をするモチベーションが保てるようになっていったこと。ざっとこうしたことを通して、自分の「介助者としてのアイデンティティ」が、登録介助者が抱える不安定さや不安感からだんだん安定していったことを話そうと思っていたのだけど、肝心なところが抜けちゃったような気がする。

繰り返して強調しておきたいのは、「〜のため」という動機では、この仕事だけじゃなく、多くの仕事っていうのはつづかないんじゃないかと思う。とくにこの分野は「恵まれない障害者の人のため」という風な動機で始まりそうなことが多いだろうから、その重点をなんとか自分の中に捉え直していった方がいいんじゃないかということ。ぼくはたぶん幸運なんだと思うけれど、大学時代からずっと読んでいる、ドゥルーズやフーコーの思想や、それ以降のラテンアメリカでの経験がすべて、今の仕事に重ね合わせることができている。こんなことは幸運すぎる例だと思うけれど、運動に介助で関わる人たちがそれぞれ自分のバックボーンを持って、それを運動に反映できればこの運動自体ももっともっと「イケている」ものになるんじゃないかな。(「立岩さんは障害者運動、とりわけ自立生活運動を「社会科学をする人間として、この四十年間の日本社会でいちばんイケてる運動だと思う」と言いきった」こちゅかる子氏Mixi日記より)。

ただ、参加してくれた人たちの多くの意見には、やはり依然としてずっと続いている介助者の経済的な問題や健康のことなどほぼまったく解決できないまま置き去りになっていることが分かった。こうしたことも昔はもっとシンパシーを持って聞けたのに、自分はこうした介助者からかなり遠くに来ちゃってるなぁとも感じた。どうしたらいいんだろう?すぐにはうまく考えられない。もっと実態を知らないと。個人的には、これを介助者の横断的な問題と捉えなくても、それぞれの自立生活センターだったり事業所だったりで解消できるレベルのこともあるんじゃないかと思った。うまく運営できていない事業所をできているところがサポートするだけで、そこに属する介助者の生活は多少ましになるんじゃないかな?って。

ひとまずニーズはあることはわかったので、こうした集まりはまたやった方がいい。今度はもっと介助者のひとたちが直接話をできるような機会を。そこでうまくやれている事業所の話を聞けばそれを自分のところに持って帰ることもあるだろうし。


それでは、そろそろ荷物纏めてコスタリカへ行ってきます。
コスタリカからはTwitterで中継します。
http://twitter.com/tksh21

Wednesday, October 14, 2009

介助者たちは、

今月24日に、以下のような企画で少し話すことになりました。いくつかのポイントで話せることがあると思うのですが、さてどこポイントで話そうかな?って感じです。企画の前半でお話しされる山下さんの『健常であることを見つめる』は、青い芝時代に存在した介助者の会、グループ・ゴリラについて実際にゴリラに所属していた人たちにインタビューした力作です。一読して、障害者と介助者には、なんというか愛憎のドラマツルギーみたいなものがあって、お互い離れては生きていけないはずなのに、まるで夫婦が行うようなトラブルを繰り返しながら歴史を作ってきた。この時代に起こった問題は、ほぼそのまま現在にまでも持ち越されてるんじゃないんだろうか?と思ったのがまずの感想。

たとえば、ゴリラが青い芝本体によって潰された原因となったのは、施設から出てきたばかしの障害者たちが、なかなかすぐには、シャバの速度について行けず、社会性が身につかないままなのを健常者がカバーしているうちに、実権を健常者が持ってしまったことに対して、障害者側の怒りを買ったためと指摘されているが、自立生活センターが、とくに支援費以降事業所としての性格を強くしたのと同時に、事務を任される健常者に乗っ取られてしまったなどというのは、噂ではよく聞くし、実際JILなんかでも問題になっている。もっと身近に介助現場でも、介助のペースを介助者が決めてしまうなんてことは、目の前で起こってることでもある。

こういうことを介助者のぼくが言うと、障害者の人たちには、利用者の人にもっと能力を高めて欲しいっと言ってるようにすぐ取られてしまうのだけれど、そうじゃなくてたぶんそのときにぼくが言いたいのは、自立生活センター自身が自己決定という看板の下で、どこか能力主義的なところがあって、内部にも差別構造がある。介助者は、むしろその構造を内在化しているだけかも?って考えることもできる。青芝の時代にはそういうのってなかったのかな?って遡って見直してみることもいいかもしれない。原因はともかく、自立障害者の背後に自立できない膨大な数の障害者がいるのは事実だし、何となくそういうことに疚しさを感じながら、日々の活動をしていたりする。何か別な道、そういう構造を無効にしたり、障害者・健常者という区別自体を無効にしたりしてしまう方法とか、を夢想しながら。




以下企画のお知らせです。

介助者の生き方・働き方を考える集い in 大阪

「介助者たちは、どう生きていくのか?」パート2  

これから、介助者・介護者の生き方、働き方が問われてきます。これまで、地域で自立生活を送る障害者の介助の多くは無償でした。無償の中でも介護に入り続けてきた健常者はいました。その人たちはどのような思い、気持ちで障害者の介助に入り続けたのでしょうか?
2000年代に入り、介助が明確に仕事として位置づけられるようになりました。そして、障害者の地域生活が進展すると同時に介助者の数も増加しました。ボランティア感覚の人もいます。次の仕事が見つかるまでの腰掛け気分の人もいます。障害者の地域生活を支えることにやりがいを感じている人もいます。また、見えないところでしんどい思いをかかえている人もいます。介助・介護が仕事化していく中で、私たちにとっての課題は何でしょうか? 私たちには何か置き忘れたものはないでしょうか? 私たちが仕事を続けて行く上で必要なものは何でしょうか? そして、私たちは、どのような思いや気持ちでこの仕事を続けていくのでしょうか?
 今回の企画では、介助者・介護者のこれまで、今、これからについて、介助者・介護者として生き、働く人たちの声を聞きながら、いろいろな意見交換をしていきたいと考えています。



前半 
 トーク 「介助者・介護者たちはどう生きてきたか?」

山下 幸子
(障害学、介助者  著書に『「健常」であることを見つめる 1970年代障害当事者運動/健全者運動から』)


後半
 トークセッション 「介助者たちは、今どう生きているか? そして…」

〈出演予定〉
井上武史 (メインストリーム協会)
佐々木彩 (画家、介助者、陽のあたる毛の会)
廣川淳平 (JCILコーディネーター)
渡邉 琢 (かりん燈)
他ご来場の参加者のみなさん

日時:2009年10月24日(土) 18:30〜21:30(18:00開場)

場所:ドーンセンター (5階特別会議室)
(地図 http://www.dawncenter.or.jp/shisetsu/map.html)
・京阪「天満橋」駅下車。 東口方面の改札から地下通路を通って1番出口より東へ約350m。
・地下鉄谷町線「天満橋」駅下車。 1番出口より東へ約350m。

参加費:500円

お問い合わせ:かりん燈 mail:karintoukaijo(a)yahoo.co.jp (←(a)を@に変換してください。いたずらメール対策です)

協力:コマイナーズ

Sunday, September 27, 2009

『介助現場の社会学』

長くうちの自立生活センターで、介助の仕事をしていて、この春から神戸学院大学で教鞭をとっている前田くんが本を出しました。『介助現場の社会学』というタイトルから想像できるように、前田くんが実際に介助の仕事から得た様々な体験がもとになっています。昨年出版された山下幸子さんが、青い芝の時代の介助者グループ「ゴリラ」について書いた『健常であることを見つめる』もそうだけれど、立岩さんが95年に書いた『生の技法』に影響を受けた研究者たちの研究の成果が、そろそろ形になり始めたのかなとも思う。
アマゾンにはまだあがってませんが、10月発売とあります。ぼくはこの週末の障害学学会で一足先に手に入れてきました。とりいそぎお知らせと宣伝。ゆっくり読んでまた感想など。BK1はこちら

Thursday, August 20, 2009

Twitter x Willie Colón


ここのところつづけて、新しいテクノロジー、とりわけiPhoneがこれまでの世界に与えている変化をかいつまんで、書いている。インターネットが開いた変化の波にはいくつかあったと思うけれど、今はその何回目かの大波が来ているのだと感じる。

ちょうど10年ちょっと前くらいだろうか、Webを巡回して情報を集めることを、コンピュータに詳しい人だけじゃなく一般の人がふつうにやり始めた頃、ウィリー・コローンが自分のホームページをファンとのインターフェースにして、まるでその後は、ニューヨークという土地の呪縛から解き放たれたかのように、メキシコのクラブを中心に拠点を移してしまったことを思い出している。もちろんニューヨークでサルサを聞く人はどんどん減っていて、メキシコを拠点にせざるを得なかったのは、多分に営業的な判断があったのだろうけれど、音楽的なキャリアを見渡してみても、この人には、「新しいこと」への独特の嗅覚があって、すぐに飛びついて、自分のものにしてしまう。

こんなことを思い出していたのは、話題のTwitterを、もちろんウィリーも始めていて(Willie Colón)、ここ数日まるで憑かれたように「つぶやいて」いる様を刻々とチェックしていると、おそらく彼が、この新しいメディアを、音楽関係者がよくやるお知らせや、宣伝的な使い方ではなく、自分の何かを「表現できる」と考えてそれを使っているとすぐに分かってきたからだ。

彼の「つぶやき」は、ときに英語ときにスペイン語、あるいはそれらが混じり合ったもの、多くは誰かか、あるいは自分で考えた警句が、間髪入れずつづいていく。それを見ながら、まるでアーティストが紙にあれやこれやと書き殴っている草稿が、目の前で書かれているような気がしてくる。
考えてみると、限られた字数で、考えやイメージを纏めるのはまさに作詞の作業と同じ、彼にはお手のものだろう。さらに、Twitterというものが、何らかの完成へ向かっているのではなく、(まるで人生のように)流れゆくプロセスそのものが刻々と移ろっていく様を表している、ということを再確認させてくれる。

iPnone x español

iPhoneには、大辞林や、ウィズダム英和・和英辞典など、物書堂のとてもiPhoneらしい辞書がいくつかあってこのためにiPhoneを買ったと言っていいくらい。

当然スペイン語の辞書も入れておくと便利だろうなと、いろいろ探してみてて、いくつかあることはあるようだけれど、満足いくものはまだ見あたらない。

探索の途中で、辞書ではないのだけれど、面白いものをひとつ見つけたので紹介しておこうと思う。RAEútilという正確には、ソフトウェアで、スペインの王立国語アカデミーのWeb辞書にとてもスムーズにアクセスできるようになっている。インターネットに繋がってないと役に立たないわけだけれど、まるでふつうの辞書をひいているよう感覚で、インターフェースがひじょうに洗練されている。

iTunesにはレビューもなく、日本語で書かれているサイトも見あたらなかったので、あまり知られていないようだけれど、とても素晴らしアプリケーションです。スペイン語学習者はぜひ手に入れてみたらいいと思う。Mac上で使うWidgetもあります。

Sunday, August 16, 2009

iPhone x Nicaragua

今回のニカラグア行きは、ぼく個人にとってはもちろん、発売日に手に入れたiPhone3GSを持ってはじめて日本の外に出るということだったのだけれど、事前に想定していたような使い方はほぼ思っていたとおりにできたんじゃないかと思う。
以下備忘録的に。海外での使用例として共有できたらいいと思う。

1)伊丹〜成田
成田では有料のWifiが複数飛んでいたけれど、国内なので3G回線で。搭乗と同時に機内モードにする。ここをはじめいろんなサイトが指摘しているとおり、海外での使用はパケット料金の割引が適応されないため、知らずに使って法外な請求が来るのを避けるため。以後帰るまでほぼ機内モードのままだった。

2)ヒューストン
到着したら、機内モードを解除。ATTの3G回線に接続されソフトバンクから海外での使用の注意書きが送られてきた。

アメリカではどこでも無料のwifiが飛んでるのかと思ってたけど、そういうわけでもなく空港ではboingoのサービスが使えた。実際には行きと帰りの数時間しか使わないのだけれど、一ヶ月$7.95のサービスに加入してみる。オンラインで決済したらすぐに繋がった。さっそくTwitterfon proで、Twitterに到着の写真をアップしてみる。

ハドソン川に不時着した飛行機のニュースを最初に報道したのはTwitterを使っていた乗客だったというのももう伝説になってるけれど、今回一番やりたかったのが、Twitterで、むこうの活動を画像・映像つきで伝えるということで、何とかすんなりとできそうな感じ。

3)ニカラグア
ニカラグアでの3G回線は、Claroという会社がキャリア。確認してすぐにまた機内モードに戻した。

ニカラグア滞在中は、ずっと首都マナグアのIntercontinentalというとってもいいホテルに泊まった。ぼくらは海外で仕事に行くときは、たいていとてもいいホテルに泊まるのだけれど、ぼくらが行くのは途上国が多く、そこで車いすに対応してくれるホテルとなるとだいたいこんなクラスになってしまうのだ。
ここでのインターネットは有料。同室の同僚と一週間$40をわけわけした。名前と部屋番号を入力すればパスワードが発行される。チェックアウトのときに料金と一緒に請求される。有線もあるし、無線がホテル全体どこでも飛んでいたので、まさにiPhone向きのホテルだった。

ホテルの前にモールがあったのだけれど、そこでは部分的に無料のWifiがキャッチできた。そういえば、打ち合わせに行ったJICAニカラグア事務所内も無線LANになっていたっけ。

Twitterは、なにか起こったらその場で送れるのがいいのだけれど、ホテル内での出来事はほぼそのとおりにできた。外に出ての活動は写真を撮っておいて、後でホテルに帰ってからアップする、ふつうにブログを書くような感覚でやった。

空港にも一部無料のWifiが飛んでいるのに帰り間際に気づいた。上の写真は出国を待っている時間にTwitterにあげたもの。

3)ふたたびヒューストン
帰りは便の関係で一泊しなくてはならず、去年泊まったEcono Lodgeというモーテルに一泊。ここのWifiは無料。ここの電話番号をパスワード代わりに入力したらすぐに使えた。この気楽さがアメリカっぽくてよかった。


一週間の滞在で、メールをチェックして返信し、いくつかのSNSを回ったり、ブログを読んだり、iPhoneがあれば日本での習慣がほぼ途切れることなく継続していた。本格的にテキストを入力したり、大きい画像を扱ったりしない以外は不自由に感じることはまったくない。iDiskやDropboxがあれば自分のパソコンを持ち歩いているのと一緒だし、むこうで知り合った人に、写真を見せて色々説明することもできる。もうちょっと便利すぎて、iPhone前の生活には戻れないよね。

Friday, August 14, 2009

中米のともだち #7


前の記事に書いたとおりニカラグアに行ってきました。

 JICA大阪が企画、うちの事務所が実施して去年からやっている、中米のコスタリカ、ホンジュラス、グァテマラ、ホンジュラス4カ国の障害当事者を日本に招いて、ゆくゆくは障害者自身が運営して自立支援や介助サービスを提供する自立生活センターを各国で作ってもらおうという研修コースのフォローのためだ。

 コスタリカ、グァテマラは去年すでに事前調査に行っているので、残りのニカラグアとホンジュラスも調査しようというのが、もともとの計画だったのだけれど、未だに解決しないホンジュラス国内の混乱のため、訪問をニカラグアだけにして、そのかわり去年と今年の研修生を全員ニカラグアに招待しようということになった。ニカラグアの去年の研修生サンドラがすでに、ニカラグア最初の自立生活センターを立ち上げたので、そこへ皆を招いて、お祝いして、さらに刺激を受けてもらおうという意図もあっただろう。

ぼくたち日本からのメンバーの一週間の滞在の真ん中3日間が、自立生活センター立ち上げに合わせてのセミナーになっており、研修生たちもそれに合わせて招かれていた。事前にグァテマラの今年の研修生の1人が仕事のため欠席であることが知らされており、直前去年の研修生の1人がお母さんの病気のため急遽来られなくなった。2人の欠席のため研修生12名+介助者2名、来られなくなったグァテマラのホセマリアの介助をする予定だった18歳の青年もやってきていたので、合計15名の大所帯だった。ぼくは、今年の研修生と別れて間もないので、どこかこのグループの一員であるような気がまだしているのが自分でおかしかった。今年のグループはたいへんだったけれど、それだけ関わりも深かったんだと思った。なるたけ色んな人と話をしたかったのだけれど、誰かと話していると誰かと話せないわけで、楽しい再会もかなりフラストレーションが溜まるものになってしまった。

研修の3日間は、自立生活運動についてと、実際の交渉のやり方。3日目は介助者についてで、演習はぼくが担当してやった。夜は夜で、研修生たちが作業が今どれくらいまで進んでいるかをインタビューして、研修生たちからの相談にものったりで毎夜遅くまで話し込んでいたので、なかなかハードなスケジュールだったと思う。

セミナーの他には、去年と今年の研修生が所属する団体の事務所を訪ねたり、障害者の家庭や施設の訪問。最終日には地方の町に行って障害者の雇用に熱心な日本とメキシコの合弁会社の工場を訪ねたり、サンドラの団体の地方支部を訪問したりした。マナグアはどこが中心か分からない、お世辞にも美しいとは言えない町だったけれど、一歩マナグアをでるとニカラグアは美しい。ゆっくり旅するときっと虜になる素敵な国だと思った。

自立生活センター立ち上げという「名目」で一連の行事は行われているのだけれど、じつはこの自立生活センターには、ちょっとなんちゃってなところがあって、サンドラの団体自身が、女性障害者の団体として始まっていることやポリオや片足切断など比較的軽度な障害者の団体であることで、どこまでぼくらが求める重度障害者のニーズやサポートが考えられているのだろうか、ぼくら自身やや疑問に思っている部分もある。開所式に行って事務所がスロープになっていなかったのが何より印象が悪かった。

しかしながら、実際に介助派遣用に、イギリスのNGOと政府から予算を取っていて、制度とはなっていないから、期間限定で介助派遣も行われることになる。こうしたことを僅か半年でやってしまったサンドラのエネルギーと政治力も侮れなく、最後空港でまた涙を見せている彼女と別れるとき、結局彼女が誰よりも情に篤いのだとも感じて帰った。

3日目のセミナーが終わって、最後に研修生全員と集まっているとき、iPhoneを持ち歩いていつでもメールチェックできるぼくのところにグァテマラのJICAの担当者からメールが来て、病気だったホセマリアのお母さんが亡くなったと知らされた。みんなが集まっているこんな時にタイミングがよすぎるなぁと思いつつ、彼と仲のいいホンジュラスの研修生に知らせた。この集まりが終わる頃には、みんなで彼を励ます言葉を書いて寸志を贈ることに纏まっていた。それまでぜんぜん見ず知らずだった人たちが、こうして集まって、もうみんな家族のようになっているから、その家族に不幸があってももうそれを自分の家族に起こったことのように感じている。そうした当たり前のことを感じた。

Friday, July 31, 2009

中米のともだち #6

研修生たちが帰って、考えるとまだひと月もたってないのに、彼らがいるときと今の日常とがあまりに差違がありすぎるので、なんだかずっと昔の話か、あるいはもともとなかったことのようにすら思えたりする。

彼らが帰る間際、6月の28日にホンジュラスでクーデターがあり、研修できていたメンバーのうち2人の女の子がホンジュラスから来ていることもあり、夜ネットで知った事態を朝事務所で伝えると、そのひとりのお父さんが警察で働いていることもあってずいぶんと心配していた。ちょうど彼女らが帰国するとき、クーデターで隣国コスタリカに追い出された前大統領セラヤが、飛行機で強行帰国しようとしたところ、クーデター派が軍隊を使って閉鎖。彼女らは一晩マイアミで足止めを食らう羽目になった。

以来、コスタリカのアリアス大統領が仲介して、話し合いで決着を付けようとしてはいるのだが、なかなか両者が譲り合うことなく現在まで膠着状態がつづいている。今日入ったニュースでは前大統領支持派と軍隊が衝突して、けが人と逮捕者が出ている。

そういうわけで、本当だったらすでに今頃はホンジュラスとニカラグアへ調査へ行っていたはずだったのだけれど、こちらの予定も変わり、一週間遅れで明日からニカラグアだけの調査とセミナーに行ってくる。そのかわりじゃないけれど、去年と、先日お別れしたばかりの今年の研修生たちが、マナグアに集合することになった。ホンジュラスで待っていた研修生たちには可愛そうだけれど、またみんなと会えるのが嬉しい。

今回は、iPhone持参で行くので、Twitterをチェックしてもらえれば、Wifiを拾えるところで、むこうの様子も伝えられると思う。Twitterfonでは、ビデオもアップできるようになったしね。
http://twitter.com/tksh21

Tuesday, July 7, 2009

中米のともだち #5

5月の25日から始まった、中米の障害当事者を集めて自立生活運動を教える2年目の研修も、先日日曜、ひとりだけ残っていたグァテマラの女の子を見送ってやっと終わった。
土曜日の見送りの日には5時に起きなくてはならないのに、最後の夜ということもあって朝の4時までみんなで飲んでいた。最後にはみやげ用にトランクに収まっていた日本酒まで登場して、起きるとふらふらしていたけれど、6時に宿舎出発に遅れるわけには行かず、同室のグスタボの介助をしながら大急ぎで支度をする。2年目でそれなりにやることは分かっているはずだったけれど、やはりそのときになると色々不測の事態も起きる。

なんとか空港には間に合い、最後の別れとなった。今年はメンバー間で、いくつか揉め事もあって、それでかなりエネルギーを割かれた。直前に喧嘩していた女の子2人が、涙を流しながら仲直りしていたのを見て、ほんとに今年のグループは中学か高校生みたいだったなと思った。

今年は、介助者を連れて来た障害者が2人いて、それはどんな重度な障害者でも介助を使えば誰でもどこでも生活できるという自立生活運動のもっとも根本の考え方に近い研修になったと思う。その2人のコスタリカから来た男の子と女の子が誰よりもたくさん涙を流していたのが面白かった。

おそらく、障害当事者は、自分で書類を送り、それにパスして来日という、ある程度自分の予想した範囲で物事が起こったのだろうけれど、介助で来た2人は、その当事者に付き添うという、ある意味受け身な立場で来たので、起こった物事がすべて自分のことのようで自分のことじゃない、介助者独特の感覚で過ごしていたのではないかと思う。

多くの人が自分の人生を変えたと言っていたけれど、それがいっときの感情ではなく、引き続いて持ち続け、ほんとに人生を変えるような体験にしてもらったら嬉しいのだけれど。

Wednesday, June 17, 2009

中米のともだち #4

先週の月曜から一週間、東京での研修を終えて、今週からやっと西宮へ帰っての本番。今年は西宮に帰ってくるまで3週間もあって、ここまでに結構疲弊した。体調を崩す人が多かったり、メンバー間のコミュニケーションがうまくいかないのでその仲介をしたりで、予想外の労力がかかった。たいへんだけど、それだけ「関わっている感」も高く、やりがいも感じている。
西宮に帰ると、こちらのスタッフががっつり関わってくれるので、やっとホッとして一休み。
写真は1986年設立、日本で初めての自立生活センターヒューマンケア協会での中西正司さんの講義。グァテマラから来たロレーナの食いつきぶりが見ていて面白かった。

Friday, June 5, 2009

中米のともだち #3

2週目に入った今週、研修生たちは、午前と午後一日使って、日本語の勉強をしている。去年の研修生たちがあまりにも日本のことを知らないということが反省として残ったので、今年から加わったプログラムの一つだ。名前と出身を話す自己紹介や店に入って困らないように料理を覚えたりしている。もちろん、一週間でちゃんと話せるようになんかはならないので、どれだけ効果が期待できるかは分からないけれど、少しずつ片言のことでも毎日口にしているのが見ていて可愛らしい。
今は授業中だ。昼間の宿泊棟は誰もいなくて静か。昨日、カレンが甲状腺を腫らしていたので、同行して千里中央のクリニックまで行ってきて、さっきまたロレーナが熱があると言うと、発熱外来まで連れて行かれた。インフルエンザじゃないかと、ちょっとした騒ぎになって、部屋を変えたりしてばたばたしている。少し休息できるはずだった、今週の日中が何か慌ただしいまま週末になってしまった。

今日は授業が終わったら、キッチンルームを借りているので、みんなで国の料理を作ることになっている。ロレーナが来れなかったらちょっとかわいそうだけど。

Thursday, June 4, 2009

中米のともだち #2

JICA大阪宿泊10日目。毎日があっという間に過ぎていくので、数えて10日も経っているのでびっくりする。昨日は、同僚と交代で日中少し西宮に帰って気分転換。帰りにデパ地下で、葛まんじゅうを買って帰って、研修生たちと一緒に食べる。なんとなく「帰ってきた」という感覚でいる自分に気づいておかしい。

今年のグループは去年のグループほど纏まりがない。けれど、それはでもいいこと何じゃないかって思っている。何かを作っているというプロセスが、毎日目の前で繰り広げられていて、これはどこかのリアリティーショーじゃないのかと錯覚するほどだ。今日は先ほどまで、この建物にいかにバリアーが多いかを、所長に訴えに行く相談をみんなでしていた。話は脱線して、様々な方面へ流れていくのだけれど、それのひとつひとつがお互いを知る手がかりになっているのだろうと思う。

写真は、先週土曜日海遊館へみんなで出掛けたところ。どこを歩いていても、カルガモの親子みたいに見える。

Friday, May 29, 2009

中米のともだち #1

たぶん自宅以外の出先かブログを書くという初めての経験だと思う。
中米4カ国からの障害当事者を研修生として迎えて、中米での自立生活運動の促進をすすめるJICAのプログラムで、今週の月曜日から大阪吹田の万博公園の近くにある大阪国際交流センターに宿泊中。
今年は3年の予定の2年目。昨年と同じように、コスタリカ・グァテマラ・ホンジュラス・ニカラグアの4カ国から7人の研修生が来ている。研修生と同じ部屋で寝起きを共にして、ここと東京と西宮での研修でのサポートをする生活が約一月つづく。なかなかヘビーだけれど、とてつもない喜びも感じることも出来る希有な仕事だ。まだ5日目が終わったところだけれど、もうすでにかなりの喜びを感じながら毎日暮らしている。

写真は昨日、雨にもかかわらず梅田まで出掛けた様子。ほぼ全員電車は初めての図。

Monday, May 25, 2009

涼宮ハルヒ

Twitterでフォローしてるコロンビアの女の子経由で知った。
ちゃんとスペイン語字幕版がyoububeにあがってるんですねぇ。

レゲトン

明日からまた中米4カ国から障害当事者の研修生が来るので、ぼくはほぼ一月付きっきりになる。ラティーノだから、やはり音楽が好きで、ちょっとしたパーティにiPodを持参しておくとほんとに便利で、適当にそのへんのテレビとかに繋ぐと即席のDJが出来る。
レゲトンは無敵で、まるで魔法のようにすぐに盛り上がる。ということで、今日の午後はCDからいっぱいiPodにレゲトンを追加しておいた。また楽しみだね。
それで、ジャケ写をつけたりするのにネットで色々探してるとこんなオールドスクールなレゲトンの動画を見つけて、しばし見入っていた。レゲトン創世記の熱気にやられて、久しぶりにレゲトンブログも更新しちゃった。
<BloggerReggaeton>

Thursday, May 21, 2009

葬儀

一昨日、ある葬儀のために枚方へ行ってきた。亡くなったのは友人の父君で、葬儀に出席するかどうかは微妙な関係かと思う。友人とは1982年大学入学以来のつきあいだから、なんともう25年を超えた。友人は大学卒業して新聞社に入社して、その後いくつかの出版社を渡った後、今は誰でも一度は手にしたことのある情報誌の編集に携わっている。福岡や名古屋、東京を転々として昨年春16年ぶりに大阪に帰ってきた。転勤先を訪ねたこともあったけれど、近年はぼく自身も時間が取れなくて、何年も無沙汰をしていた。

昨年の春に転勤の知らせをもらって、これでまたちょくちょく会えるかなって思っていると、父君が癌を患って、予後があまりよくないようで、友人は仕事以外は病院へ通う日々でなかなか会えず、このゴールデンウィークも会えたらいいねって言っていたものの結局そのままになって、明けたらすぐに訃報が届いた。後になってたいへんな時期だったんだなって気づく。

父君とは、友人の家へ遊びに行くと外出から帰ってきた折りに挨拶を交わす程度だったけれど、ぼくにとって友人の父親まで知っているのは珍しいケースで、たしか最後にお会いしたのは、ちかと一緒に6年ほど前の正月に実家へお邪魔したときで、ぼくが買って行った手みやげを、友人が「お父さんこれもらったよ」と言ったときに、何か一言かけたか眼をやっただけだったかしたと思う。もの凄く寒い正月で、震えながら帰ってきたのを覚えている。

葬儀は今のパッケージになったもので、それ自体はとくにどうこう言うものではないけれど、最後に喪主の友人が挨拶をしているのを聞いて、話がとても上手で、ここ数年ずっと編集長をやってる彼のぼくがあまり見たことのない部分を知ったような気になった。自分は不肖の息子で、何年も親元を離れていたと話したとき、彼にも父君に対しての様々な思いがあったんだなと今更ながらに了解した次第だった。

そうした1時間を、やはり昨年癌を切った自分の父親のことや、2年前に胃癌を切ったと、ごくごく最近知った恩師の夫人のこと、昔遊びに行ったときのこと、色々あったけど今やはりぼくはこうしてここにいることなど思って過ごした。辛いこともあるけれど、人生のこうした実感のある手触りは、しかし愛すべきものだ。

Tuesday, May 19, 2009

Saturday, May 9, 2009

Devorame Otra Vez


Lalo Rodríguez Ven devorame otra vez 美しすぎる、この美学。
(コロにはオスバルド・ロマンが入ってる)


HE LLENADO TU TIEMPO VACIO DE AVENTURAS MAS
Y MI MENTE HA PARIDO NOSTALGIAS POR NO VERTE YA
Y HACIENDO EL AMOR TE HE NOMBRADO SIN QUERERLO YO
PORQUE EN TODAS BUSCO EL SALVAJE DE TU SEXO AMOR

HASTA EN SUEÑOS HE CREIDO TENERTE DEVORANDOME
Y HE MOJANDO MIS SABANAS BLANCAS RECORDANDOTE
Y EN MI CAMA NADIE ES COMO TU
NO HE PODIDO ENCONTRAR LA MUJER
QUE DIBUJE MI CUERPO EN CADA RINCON
SIN QUE SOBRE UN PEDAZO DE PIEL AY VEN

DEVORAME OTRA VEZ, VEN DEVORAME OTRA VEZ
VEN CASTIGAME CON TUS DESEOS MAS
QUE MI AMOR LO GUARDE PARA TI
AY VEN DEVORAME OTRA VEZ, VEN DEVORAME OTRA VEZ
QUE LA BOCA ME SABE A TU CUERPO
DESESPERAN MIS GANAS POR TI

HASTA EN SUEÑOS HE CREIDO TENERTE DEVORANDOME
Y HE VUELTO A MOJAR MI CAMA Y DESEANDOTE
Y EN MI CAMA NADIE ES COMO TU
NO HE PODIDO ENCONTRAR LA MUJER
QUE DIBUJE MI CUERPO EN CADA RINCON
SIN QUE SOBRE UN PEDAZO DE PIEL AY VEN

DEVORAME OTRA VEZ, VEN DEVORAME OTRA VEZ
VEN CASTIGAME CON TUS DESEOS MAS
QUE MI AMOR LO GUARDE PARA TI
AY VEN DEVORAME OTRA VEZ, VEN DEVORAME OTRA VEZ
QUE LA BOCA ME SABE A TU CUERPO
DESESPERAN MIS GANAS POR TI


きみのちょっとした時間を、アバンチュールで埋めてやっただけなんだ
もうきみに会えないと、ぼくの心はノスタルジーでいっぱいだよ
愛を交わしていると、知らずにきみの名を呼んでいる、
どんな女にも、きみのセックスのワイルドさを求めてるんだ

きみがぼくを貪っているのを夢にさえ見てしまうよ
きみのことを思い出して枕もぬれる


もう一度ぼくを貪って、来て、もう一度ぼくを貪って、
きみが欲しくて、また枕がぬれた
ぼくのベッドで、もうきみみたいに
肌の隅々までぼくのからだを描き尽くす
ような女はいない だから来て、

もう一度ぼくを貪って、来て、もう一度ぼくを貪って、
来て、もう一度きみの欲望でぼくを罰してほしい
ぼくの愛はきみに取ってあるんだから
もう一度ぼくを貪って、来て、もう一度ぼくを貪って、
ぼくの唇はまだきみの味がしているよ
きみのためにぼくの欲望はまったく萎んでしまってる

Wednesday, May 6, 2009

Rode NTG-3

やっと、ビデオカメラのマイクを純正のあまり役に立たないやつから、もうちょっとましなものに変えて、なんとなく日常を試し撮り。
ソニーのもともと付属してたやつは、もうほんとに子供だましのようなものだと、薄々は気づいてはいたけれど、この業務用ガンマイクの価格破壊と呼ばれている、RODEのNTG-3を試してみると、ちょっと今まで撮った分を全部取り直した気にもなってくる。まったく素晴らしい音が録れていて、撮影自体の楽しみが何倍にもなった感じにすらなる。


読了したばかりのロベール・ブレッソンの『シネマトグラフ覚書』の中のこんな記述。
「天から降ってきた驚嘆すべき機械。わざとらしい作り事を飽きもせずに反芻するためだけにそれらを用いることは、もうあと五十年もたたぬうちに、常軌を逸した愚かしい行為と映るようになるだろう。」

あるいは、
「移植。映像と音は、移植されることでたくましくなる。」

または、
「予見の力、この名を、私が仕事に用いる二つの崇高な機械に結びつけないわけにはいかない。キャメラとテープレコーダーよ、どうか私を連れて行ってくれ、すべてを紛糾させてしまう知性から遠く離れたところへ。」



『ラルジャン』を初めて見たときに強く感じた「倫理的」という言葉を再び思い出すこと。もう二度と忘れないように。

Friday, April 24, 2009

ブランニュー

昨年末、よりによってクリスマスイブの日に、交差点を通過しているところ車に引っかけられて、3年間乗ってたトレックのロードレーサーが廃車になってしまった。つぶれたからまたすぐ買えるような値段のものじゃないし、そのうち考えようと思いつつ4ヶ月。暖かくなってそろそろ欲しいなぁ〜って思い始めると、止まらないんですよね、自転車って。

身近で、最近フレームから組んで完成させた人がいて、そういう手もあるのかななんて調べてみると、結局けっこうな額になっちゃいそうなので、やはり完成車を探す。昔から憧れで前はちょっと手が出なかったクラインの自転車をこの際なので選ぶことにした。

先週の金曜に寄ってみた本町のトレックストア大阪へまた行って、まぁもう決めてしたし、フィッティングしてもらって、そのまま乗って帰ってきた。まるで近くの自転車屋さんでママチャリを買って帰るような感覚。本町から西宮まで、ほんとなら45分くらいで行くはずだったけれど、道がよく分からないのと風がもの凄く強かったりで、1時間ほどかかってしまった。

トレックはもう通勤専用になっていて、楽しみでちょっと遠出してみるなんてこともなくなっていたのだけれど、新しいものを手に入れると、またそんな新鮮な気分もよみがえり、今日は天気もよかったので、午後から西宮の海岸沿いへふらりと出掛ける。西宮浜へ渡ってプントイタリアで雑貨を見たりして夙川まで行って引き返す。こんなに季節を感じながらゆっくりするのはどれくらいぶりだろう。

Tuesday, April 21, 2009

『中村のイヤギ』

日曜日。2年ほど前まで職場で介助の仕事をしていた男の子が原一男の指導のもとで作っていたドキュメンタリー作品ができあがって神戸で上映会をするとの知らせを、神戸映画資料館からのメールで知って午後から新長田まで行って見てきた。
その前に、新在家のトレックストア六甲へ寄ってまた自転車を少しチェックする。

彼は、張領太(チョン・ヨンテ)くん。韓国籍の在日の男の子だ。一緒に働いていた頃は日本名を名乗っていて、ぼくらはみんな名前を愛称みたいにして「ヨンテ」と呼んでいた。ぼくが彼と親しく話すようになったのは、ぼくが亡くなった祐樹の死の直前のことを介助者の人たちにインタビューしてビデオに撮っていたとき、その介助者の一人としてインタビューをお願いしたのがきっかけだった。その頃もう彼は、朝日カルチャーセンターの原一男の講座に通っていたし、この映画のために、伊丹の空港のすぐ横にある中村と呼ばれる韓国人が不法占拠してできた部落へ入ってカメラを回し始めていたと思う。

それから半年か一年くらいで、彼は隣の尼崎のやはり障害者に関わる仕事に移って、以来たまに思い出してどうしてるんだろうと思いながらも、なんとなく疎遠になってしまっていた。偶然この映画の上映を知って出掛け、数年ぶりの再会をする。

映画はよくできていたと思った。すでにこの中村地区の集団移転が決まった後、古い家屋を取り壊し、立ち退いて新しい市営住宅へ移るまでを描いている。同じ在日の彼がそこでとても受け入れられているのがよく分かり、それを彼が安心したように喜んでいるのもよく分かった。被写体との間にいい関係を築いていると思ったし、それがこの作品の成功の理由の一つでもあるだろうと思った。

上映の後、ほぼ内輪だけのような観客の中で感想を述べる会になった。ある作品を作るというのは、ほんとに怖いことで、褒められもするだろうけれど、意外なところから批判も受けもする。ヨンテも戦後60年の在日の苦しみが描けていないと批判されていた。しかもそれを言ったのは大学生の女の子だった。活動家とおぼしき人からは、これは闘争ではなくノスタルジーに過ぎないとか。こうしたマイノリティの問題に口をつっこむことっていうのは、こうしたどこから降ってくるとも分からない矢のような攻撃を一々相手にしなくてはならないんだと思うと、ほんとに消耗するだけで前に進まないんだろうな。

たしかに、これはヨンテがはじめてカメラを持って作った作品で、色んな面で未熟だろうし、批判される面もたくさんあるだろうけれど、なんというかヨンテという人のもつ独特の誠実さがあって、自分の感じたもの以上をあえて付け足したりしていないところがこの作品の美点なんだと思う。

こうしたものを見て、何か足りないなんて感じるのは、どういう感性だろう?ヨンテ自身が、みんながカメラを持って表現したらいいと言っていたのは、べつに誰かに向かって言ったのではないだろうけれど、ぼくはあえてそういう批判を向ける人に言ってみたい気分だ。何かが足りないと思うなら、それはあなたが作るべきだろう。ヨンテは無くなってしまう何かを残したいと思い、少なくともそうしたんだから。

タイトルの『中村のイヤギ』のイヤギとはハングルで「話し」という意味だそうだ。

Sunday, April 19, 2009

ガレアーノ

トリニダード・トバゴで開催されていた米州首脳会議で、ベネズエラのチャベス大統領がオバマに対して「あなたと友人になりたい」と言ったというニュースは昨夜のニュースで繰り返して流れていたけれど、同じニュースでチャベスがオバマに一冊の本をプレゼントしているシーンもあって、なんだろうって思ってたら、スペインのEl Paisに記事が載っていた。本はウルグアイの作家エドゥアルド・ガレアーノのもので、タイトルは"Las venas abiertas de América Latina"『収奪された大地 ラテンアメリカ五百年』という名で邦訳も出ている。
記事によれば、このニュースのおかげでアマゾンで60280位のランキングだったのが、いきなりベストテンに入っちゃったそうだ。

Saturday, April 18, 2009

『罪の天使たち』

若い友人の誕生パーティで、帰ったのは3時くらいになっていたけれど、せっかくの休日でもったいないので、朝から起きて九条まで映画を見に行く。阪神なんば線に
乗って初めて九条の駅に降りた。朝の下町の雰囲気が新鮮。乗り換えせずに到着できる気安さがいいね。

映画はブレッソンの『罪の天使たち』だ。先月シネフィル・イマジカで4本の作品が一度にやってたり、今は彼のメモを本にした『シネマトグラフ覚え書き』を読んでもいるのでちょうどいいタイイングだった。
ブレッソンは、映画を演劇からどれだけ遠く離れて持って行けるかを終生試みていた監督だったけれど、1943年のこの映画は、まだ戦前からのフランス映画のスタイルで撮っている。ただ、すべてが「善悪の彼岸」で起こっているような感覚を覚えさせる筋書きは、ここからすでに見ることができるだろう。

年末に事故って、ロードレーサーが廃車になったままで、そろそろ新しいのがほしくなってきたところ。近くにトレックのストアがあったので、ちょうどいいから九条から阿波座まで行き、ちらっと覗いてくる。

Wednesday, April 15, 2009

Desaparecidos (行方不明者たち)

ついでに訳してみた。ルベン・ブラデスの有名な曲。1984年リリースのBuscando America、アメリカを探してというアルバムに収録のDesapariciones行方不明。英語版のWikipediaによれば、今年はこのアルバムがリリースされて25周年ということで、バンドのSeis del solarとの活動を再開してツアーに出る予定だそうだ。



「どなたか私の主人をご存じじゃないででょうか?」
婦人は訊ねていた。
「名前はエルネストX、40歳です。自動車販売の店で
守衛をしていました。
黒っぽい色のシャツに、明るい色のパンツを履いていました。
一昨日の夜、出掛けたまま、戻って来なくなりました。
どうしちゃったんでしょう。
こんなことはこれまでなかったんです」。

「もう3日も姉を捜しているんです。
名前はアルタグラシア。祖母と同じです。
職場から学校へ出掛けました。
ジーンズに、白っぽいシャツを着ていました。
恋人じゃないんです。彼女は家にいるタイプでしたから。
PSNでも病院でも誰も知らないって言うんです」。

「誰かお願いですから、私の息子をご存じじゃないですか。
医科予備校の学生です。
名前はアグスティン。とってもいい子なんです。
何か言い張るときにはとても頑固ですけど。
どの軍隊かわからないのですが、息子を連れて行ってしまったんです。
白いパンツに、ストライプのシャツでした。一昨日のことです」。

「クラーラ・キニョネス、というのが私の母の名前です。
彼女は、本当に信心深い人で、誰とも揉め事を起こすようなことはなかったです。
証人として連れ去られたのです。
私にしか関係のない事件だったのに。
それで、今日の午後出頭したのですが、
誰も留置場から彼女がどこへ行ったのか知らないって言うのです」。

昨夜爆発音が何度も鳴るのを聞いた。
パトゥン、パタ、パトゥン、ペテ
散弾銃やリボルバーの音が。
車が急停車する音。
ブーツの音が通りに反響している。
扉をどんどん叩く音。怒鳴る声に。許しを請う声。皿が割れる。
テレビでドラマをやっていたから、
外で何が起こってるのか誰も見てなかった。

行方不明者たちはどこへいったのだろう?
池や藪の中まで探しているのに。
なぜ彼らがいなくなってしまっただろう?
他の人ではなく彼らが?

いつ彼らは戻って来るのだろう?
頭に浮かぶのはいつもそのこと。
行方不明者の名はなんて言うのですか?
感情が心を締めつける。



Que alguien me diga si han visto a mi esposo
Preguntaba la Doña
Se llama Ernesto X, tiene cuarenta años
Trabaja celador, en un negocio carros

Llevaba camisa oscura y pantalón claro
Salió anteaoche y no ha regresado
Y no sé ya qué pensar
Pues esto, antes no me había pasado, ooo

Llevo tres días buscando a mi hermana
Se llama Altagracia igual que la abuela
Salió del trabajo pa' la escuela
Tenia puestos unos jeans y una camisa clara
No ha sido el novio, el tipo está en su casa
No saben de ella en la PSN ni en el hospital, ooo

Que alguien me diga si han visto a mi hijo
Es estudiante de pre-medicina
Se llama Agustín y es un buen muchacho
A veces es terco cuando opina
Lo han detenido, no sé que fuerza
Pantalón blanco, camisa a rayas pasó anteayer

Clara, clara, clara quiñones se llama mi madre
Ella es, ella es un alma de Dios, no se mete con nadie
Y se la han llevado de testigo
Por un asunto que es nada más conmigo
Y fui a entregarme hoy por la tarde
Y ahora dicen que no saben quién se la llevó del cuartel

Anoche escuche varias explociones
Patún pata patún pete
Tiro de escopeta y de revolver
Carros acelerados freno gritos
Eco de botas en la calle
Toque de puertas por dioses platos rotos
Estaban dando la telenovela
Por eso nadie miró pa' fuera

A dónde van los desaparecidos
Busca en el agua y en los matorrales
Y por qué es que se desaparecen
Por qué no todos somos iguales

Y cuándo vuelve el desaparecido
Cada vez que lo trae el pensamiento
Cómo se llama el desaparecido
Con la emoción apretando por dentro

© RUBEN BLADES PROD. INC.

Friday, April 10, 2009

独裁者

ちょっとしたシンクロニシティだ。アルゼンチンの行方不明者のことから、当然ルベン・ブラデスの有名な曲のことを連想して、Youtubeを検索したりして、そういえばLPしか持っていなかったからこの際ダウンロードしてしまおうと、iTunestoreへ出向いたり。なんども聴いた曲なのによく聞き取れないところがあるからチェックしていると、PSNという耳慣れない名詞にぶち当たって、なんだろう?とGoogleにかけてみる。100%たしかかは分からないかけれど、Policia Secreta de Panama(パナマ秘密警察)ではないかという示唆。ふーん、と思ってなにげに別ウィンドウのEl Paisを見ると、あれ?見覚えあるかぼちゃ顔。アメリカで拘束されているノリエガ元パナマ将軍が、フランスへ移送されるというニュースだった。(*

ノリエガは、1989年の米軍のパナマ侵攻時に、コロンビアからの麻薬をパナマを経由させてアメリカへ密輸しているという罪状で、拘束され有罪になった。記事に寄れば40年の禁固が、30年になり、品行がよかったので20年で昨年刑期を終えたところだった。そして、フランスとパナマがそれぞれ、マネーロンダリングと人権侵害の罪で、移送を求めていたところ、米最高裁判所はフランスへの移送を決定したという。ノリエガ側は、フランス行きを嫌がって、戦争捕虜の身であるからパナマへ移送させるべきと訴えたが認められなかった。

Thursday, April 9, 2009

『闘争のアサンブレア』

去年ここでも書いた(*)廣瀬純さんが、『闘争の最小回路』のついで書いた、ラテンアメリカの新しい政治・文化運動について書いた本の2冊目、続編というのとは少し違うか。むしろこの本のデータをもとに前著が書かれたという印象もある。今回はアルゼンチンの事情を、運動が起こった経緯を細かく現地の活動家へのインタビューしながら詳述している。おのずとペロンから軍事政権時代へと遡って解説せざるを得ないので、ちょっとしたアルゼンチン現代史のようにもなっています。大まかな紹介は今月のラティーナに書評を書いたので、そちらを見てほしいのですが、字数の関係で触れられなかったエスクラチェについて少し補足しておきます。

エスクラチェ(escrache)というのは辞書を引いても出てこない、アルゼンチンでの用法らしい。アルゼンチンは、1976年から先日亡くなったアルフォンシンが大統領になって民政に移管した1983年まで、軍事独裁政権時代がつづいてたのですが、その間、秘密警察に連れ去られて行方不明になった活動家や一般人が多数いました。民政移管以降裁判で訴えられて有罪になるのですが、その度に恩赦になったりで結局うやむやになるという繰り返し。エスクラチェというのは、そうして恩赦されて一般人として暮らしている犯人を、探しだし、何ヶ月も準備して付近の住民に罪を明かして、周知させていくという運動だそうです。

現在アルゼンチンでの人権活動の中心は、そのときアルゼンチンの首都の中心5月広場に集まって抗議活動を行った「5月広場の母たち」だそうで、ただ行方不明になった自分の息子・娘を捜すだけではなく、ジェノサイドというのは、資本制から生じたというその根っこから変えないといけないと主張して、ラディカルな人権活動をしています。(もともとの活動に限定すべきというグループと分裂してるらしい)。

「母たち」は、あらゆる類の妨害に抗して、ジェノサイドは、資本制を母体とするものであって、何らかの「悪い政府」がもたらした結果ではないと主張し続けてきました。「私たちは妥協しない」というスローガンは、虐殺者全員が逮捕されても平和はない、闘争は終わらないということを意味しているのです

エスクラチェの活動の中心となっているのは、逆にそのとき行方不明になった人たちの子供たち。団体の名称は、そのものスペイン語で「子供たち」をあらわす<H.I.J.O.S>。一見、ちょっと法を超えた民衆裁判のようで、ぼくらには怖いと思える部分もあるのだけれど、この本の他の部分に出てくる、失業者の運動や住民の集会などみな、経済や政治が破綻して、空白になったときに民衆が自分自身で作り上げた運動で、司法が機能しなくなっているとしたら、自分たちで機能させるしかない、という意志が、この運動には込められている。H.I.J.O.Sの活動の模様はYoububeで見ることができます。

この本を読んだ後には、おそらくぼくらを包んでいる様々な制度とか規制とかは、ほんとはほとんどフィクションなんじゃないかと思えてくる。だだ、この国は、それがぎっしり包み込まれすぎて分からなくなっているだけでね。

Tuesday, April 7, 2009

Beirut


Watch the full concert at baeblemusic.com

最近お気に入りのBeirutです。
2月4日イースト・ハーレムのウィリアムスバーグ・ミュージックホールでのライブ。30分以上あります。ラストはアーケード・ファイアーもやってるブラジル。

Saturday, April 4, 2009

Tommy Olivencia Orq

Facebookにリノ・イグレシアスが載っけたものの再掲。シモン・ペレスが歌うトミー・オリベンシアです。
これを含めた、先週日曜に行われた今年のプエルトリコ・サルサの日の映像がいくつかYoutubeにアップされてます。

Friday, April 3, 2009

Café Tacvba 20 años

メキシコのロックバンド、カフェ・タクーバが結成20周年を迎える今年、それにあわせ20のアメリカ大陸と、ヨーロッパの都市を回ってツアーを行うというnotimexの記事をメキシコの様々な新聞が配信している。<La Jornada>

ツアーは、来月21日エルサルバドールの首都サンサルバドールから始まり、アメリカ大陸を南下、メキシコ国内を回った後、合衆国、最後はヨーロッパで終わる予定。記者会見はEl hijo del cuervo で行われた。

Friday, March 27, 2009

また一人

ここ数年のサルサというのは、一枚一枚葉が落ちていく樹のように見えるけれど、また一人。
コンフント・リブレのマニー・オケンド亡くなった。()一報はエンデル・ドゥェニョがFacebookに載せたメッセージだった。新聞で確認すると、心臓病の治療で入院していたニューヨークの病院でだそうだ。
写真は、左からチャーリー・パルミエリ、オケンド、モンゴ・サンタマリーア、ビセンティコ・バルデス、50年代のサンフランシスコでのもの。これで写真に写っている4人はすべて亡くなったことになる。

再会

もともとは、今あちこちで話題の、Pokenを注文したところから始まる。Pokenというのは、キーホルダーに付けるようなマスコットで、マスコット同士の手と手とを合わせると、お互いのEmailアドレスや、ブログのURLなんかが、交換できるようになっている。「電子名刺」みたいな感じで売り出されている。もともとスイスの会社が発売したらしく、ヨーロッパではもうすでにかなり広まっているようで、ようやく日本でも発売になった。プロモーションもかねて、あちこちでPokenオフ会や、パーティなんかも開かれている。

で、TwitterやFacebookのIDもそこに登録できるので、すでに登録しているTwitterに、せっかくだからFacebookもやっておこうと思った。今はぼくはもうほとんど書くことはなくなっちゃったけれど、90年代半ばから、2001年くらいまでは、ずっとプエルトリコのサルサをフォローしていて、ずいぶん雑誌に記事も書いた。
最初に、記事にしたクト・ソトというプロデューサーが、彼の知ってるミュージシャンを紹介してくれて、スタジオ・ミュージシャンにはかなりの知り合いが増えた。ぼくが記事を書き始めた頃というのは、ちょうど、Windows95が出た頃で、本格的に世の中がインターネットというものを使い出したときだった。
クトは、昔気質のミュージシャンで、そうしたツールとは無縁で、現在でもそうだけれど、「ぼくのコンピュータで調べる」なんて言いながら、電話の向こうで手帳を広げて、ぼくがコンタクトを取りたい音楽家の連絡先を教えてくれていた。

そうした中に、すぐにコンピュータを、連絡を取るためや、もちろん作曲やアレンジにも使い出したのが、ヒルベルト・サンタ・ロサやビクトル・マヌエルのプロデューサーをしている、ラモン・サンチェスやホセ・ルーゴという、当時はまだクトのもとでアレンジを頼まれていた人たちがいた。90年代のサルサはほぼ、この人たちが作っていたというくらいの活躍だった。

彼らは色んな話をしてくれたし、ぼくはそれで色んな記事を書いた。
が、サルサからレゲトンへという流行の移り変わりは、顕著だったし、ぼくの関心も自然にそちらの方へ行って、本業の方で手一杯になってだんだん、雑誌に記事を書くこともやめてしまった。

Facebookに登録する途中で、コンピュータの中にあるメールアドレスをFacebookが勝手に調べたら、プエルトリコのミュージシャンたちがみんなFacebookに入っていて、そこで繋がって色々、情報交換や仕事を見つけたりしているのがわかった。ホセ・ルーゴ、ラモン・サンチェス、ドミンゴ・キニョネス、ロニー・トーレスなんて言う人たちと再会して、ホセ・ルーゴが送ってくれたメッセージに添付してあったのが、このビデオだ。ぼくは彼が初めて自分名義で出したアルバムを記事にしたことがあったが、今度はもっと本格的。ボビー・バレンティンへのオマージュのこの曲の冒頭で、並ぶ2人の真剣な眼差しがかっこいいね。プエルトリコのミュージシャンには与太公みたいなのが多いけれど、ラモン・サンチェスとホセ・ルーゴは、音楽への興味、様々な分野への情報網の張り方、などなど別格に他の人とは違う。こうして生き残っているのは当然なんだろうと思う。

Pokenから思わぬ展開で、かつての人脈が復活したのだけれど、肝心のPokenは、人気沸騰でまだ届いてない。

Monday, March 23, 2009

フラハティ

忘れないための覚え書き。


そうです、生きていくってことは、動き続けるということなのです。このことがどんなに深い真実であるかといことを、一本の素晴らしい映画がはっきり見せてくれます。顕微鏡によって捉えられた、原形質の中で繰り広げられる、律動感にあふれた生命の流れと正確に測られた動き、私たち生命体の原素材というべきものが、そこにはあります。この動きがふと途絶えたとしても、それを測るものさしまでも壊すことは出来ませんし、動きが再び始まって、ほら、まるで音楽のように、美しいメロディを作り出し、ビートを刻みます。この映画が美しいのは、この律動感あふれる神秘の世界に、素直に奥深く入り込もうとしているからなのです。それは一方で、私たちを物理や化学の世界へ誘い、他方で、哲学や宗教や詩への領域へと連れて行ってくれます。レオナルド・ダ・ヴィンチは言っています、「暖かさのあるところに生命は宿り、生命のあるところには愛の運動があるものだ」。愛の動き、生命の神秘的な律動—これこそ、映画にいのちを吹き込むものです。例えば、陶工が粘土から見事な形を作るのを、映像にして心に思い描いてみましょう。映画のカメラは、この動きの流れと密接で親密な関係を結んで映像を織り上げ、私たちの視界に引き込みます。見ているうちに、私たちは陶工の手の動きを自分のもののように感じ始めるのです、まさしく陶工が心と技を込めて粘土に触っていくように。その瞬間、私たちは陶工の魂に触れ、そのまま溶け込んでしまいます—その想いを共有し、まるで生命を分け合ったかのように一体化していくのです。ここにいたって私たちは、『モアナ』の世界を満たしていた、あの微細なこころの動きを通り抜け、『ナヌーク』で見出した、あの「神秘的な参入」の世界に再び足を踏み入れるのです。これこそカメラという機械(マシーン)に導かれて、私たちがたどる「道」なのです—それは、私たちの見ている世界に全く新しい次元を切り拓きます。生き生きと脈打つ生命という神秘のリズムに揺れ、愛の力に引かれながら、私たちは魂のさらに奥深くへ、魂の合一へと運ばれていくのです。

フランシス・H・フラハティ『ある映画作家の旅』ロバート・フラハティ物語(小川伸介訳)

Friday, March 20, 2009

阪神なんば線


昨日の春分の日、WBCの日韓戦を見終えて、天気もよくなっていたのでふらっと開通した阪神なんば線に乗ってみた。この開通は、よく行く九条にあるシネ・ヌーヴォに行くのにとても便利になるので、最近うきうきするニュースの一つだった。
大学の卒業式が多いのか、駅には晴れ着のお嬢さんがちらほら。いい天気だけれど風は冷たく、甲子園駅から見える六甲山がすっきり見える。
17時12分の快速急行は、さすがに初日で休日とあって満員。
窓際に立って、外の風景を確認しながら難波まで行った。尼崎で停車すると、向こう側のレーンに近鉄の列車がすれ違って、微妙な違和感。尼崎で列車を連結するらしく、少し手間取っている様子。かなりお客さんも多く予想より時間もかかっているんだろうと思う。尼崎からは昔からある西大阪線、といっても長くこの沿線に住んでいるけれどこの路線を使うのは初めて。むしろ自転車のツーリングで走ったことのある風景としてなじみの地域だ。
西九条を過ぎて、延長した路線に入ると、すぐに地下に潜ってしまうのでどんなところを走っているのかわからないのがちょっと残念。地下になると新しくできた駅をいくつか通ってすぐに難波に着いてしまった。ほんの少しの距離が何年も放っておかれたんだなって思う。難波では、ふつうに近鉄のホームに停車したのがへんな感じだ。

Wednesday, March 18, 2009

黄昏

もう先週のことだけれど、ニューヨークのサルサ・プロモーターでRMMレーベルの経営者だったラルフ・メルカードが亡くなった(*)。この2年ほど脳腫瘍のため闘病中であったということで、亡くなったのはマンハッタンの病院でだった。娘さんら家族に看取られての死であったということだ。上の写真はGoogleで検索していて出てきたもの。エクトル・ラボーの『Recordando a Felipe pirela』が出た時だから1979年か。いちばん左に映るメルカードは、67歳だったということなので、まだ30代だった。ジェリー・マスッチもいて皆の混じりっけのない笑顔がなんとも幸せそうに見える。改めて彼のバイオグラフィー(*)を読んでみると、ヴィレッジ・バンガードやチーターでのライブなどの仕掛け人として本当に天才的なプロモーターだったんだなと思う。RMMというレーベルで世界中にサルサを持って行ったのは、グローバリズムと足並みを揃えていて、それは90年代にアメリカの株が上昇していくのにもテンポを揃えているようにも見え、ぼくはRMMというサルサの帝国が支配する中で、そうでないサルサを探すというのがぼくがやることだと思ってやっていた。
ファニアがアフリカやアジアに出掛けていったのもメルカードのアイデアだったらしく、ファニアのまるで革命の輸出に見える拡大主義も、RMMの帝国主義的な覇権主義もじつは、メルカードという人物で結びついてたんだと今頃になって知る。RMMというレーベルでサルサは広く知られたのと同時に本当に無味乾燥な音楽にもなってしまった。そのことを批判的に書こうと思ったらいくらでも書けるし、ほんとはそんなことをいっぱい書こうと思ったのだけれど、ラルフ・メルカードがいなかったらおそらくサルサという音楽は、また別なポジションにあったんだなと思うとなんだかそんか気持ちは失せてきた。

Wednesday, February 25, 2009

監禁


西宮ガーデンズができて、仕事帰りにふらっと映画を見に行くという新しい習慣ができた。昨夜はイーストウッドの『チェンジリング』。アンジェリーナ・ジョリーがアカデミーの主演女優賞を逃したやつだ。映画は老いてますます盛ん、イーストウッドの安定した仕上がり。今朝のスペインの新聞には来月もう新作が上映されるとアナウンスされていた。

映画の中で、汚職にまみれた警察が、しつこく抗議を繰り返す面倒な市民を精神病院に送り込むシーンがあって、ちょうど一月前くらいにBSで『カッコーの巣の上で』を見たこともあって、「新しい精神医学」が出てくる前の精神病院の非人間的な患者への扱いをあらためて考えたりしていた。

どちらの映画にも、無理やり投薬したり、電気ショックを与えたり、ロボトミーの手術を施したりといったシーンが出てきて、精神病院に対するイメージにはこの頃の病院に対するイメージがいまだに影響を与えているだろうし、監禁拘束は現在でもまだある。けれど果たして、映画に登場するこうしたイメージは映画的な演出ではないのか?という疑念も出てこない訳ではない。

たまたまそんなとき、中井久夫先生の最新刊『日時計の影』を読んで、そこで彼は、現代米国看護学の創設者の女性の伝記を紹介していて、かなりの分量を引用しているのだけれど、その描写は中井先生自身をも驚かせている。そのまた一部を引用してみます。



翌週、その医師(フリーマン博士)は、自分の「ロボトモービル」-ロボトミーの器具を搭載した小型トラック-を運転してやってきた。彼は病棟を巡回すると「そいつ、それから、あいつ」と無作為に患者を選んだ。患者一号が彼の前に押し出された。彼はその女性のこめかみに電極を当てると気絶するまでショックを与え、それから彼女の左まぶたをあげて、アイスピックに似た器具を彼女の眼の中に突き刺した。それを引き抜くと、血のついたアイスピックをアルコールの入った嘔吐盆に浸し、それから次の患者に移った。(中略)次から次へと管理された無関心な暴力の流れ作業を無慈悲に進めていき、その後には血だらけで盲目になた四〇〜五〇人の患者が残された。
(『バーバラ・J・キャラウェイ『ペプロウの生涯・ひとりの女性として、精神科ナースとして』星野敦子訳、医学書院)

この箇所を読むと、映画に出てくることなどまだ可愛らしいのではないかとすら思えてくる。
これは1958年の出来事なのだけれど、この頃アメリカでは、ロボトミーの実験手術のために国から資金が出ていたらしい。検索してみたら日本でも1975年まで行われていたという。ちなみに、『カッコーの巣の上で』は1976年の映画だから、かなり生々しい現実を描いた映画だったということだ。

ぼくらは、障害者の自立生活センターというところで働いていて、そこでの最も重要な仕事は、施設に収容されている障害者を地域に返すというものなのだけれど、もちろんそれは重要なことなのだけれど、かつて障害者の施設でも、女性の子宮を取ってしまったり、他にも正常に戻すという名目で様々な外科手術が行われていて、こうした映画をみたり文章を読んだりして、あらためてこうした現実を改めるための運動だったのだということを、確認しておいてもいい。

今読んでいるのは、ハイデガーの『ツォリコーン・ゼミナール』という本で、これはハイデガーが『存在と時間』で追求したテーマを、医師など哲学を専門としない人に向けて講義した記録を纏めてある。目の前の当たり前の光景のやや斜め後ろに隠れている現実との微妙な差異をひとつひとつあげていく。なかなかこんな濃厚な読書体験はできないだろう。
その哲学が生まれる背景として、20世紀がテクノロジーというものにいかに支配されていたかということを気づかされた。科学という名でどれだけの残虐さが許されてきたか。20世紀の残虐さというのは、ナチスドイツだけに押しやられて、他は免罪されているかのような印象を受けるかも知れないけれど、世界中がそんな残虐さに満たされていたというのが真実。ハイデガーがそれから「人間らしさ」というものを守るために、まるでたったひとりで闘っているようなイメージが浮かんでくる。ぼくたちはもうすっぽりそんな中にいて生まれてきたからわからないだろうけれど、色々と考え直すことは大切だと思う。

Sunday, January 18, 2009

最後の朝

病室はとても暑くて、Tシャツ一枚になりたくなるくらいだったけれど、朝方僅かに仮眠をとって起きるとさすがに身体は冷えていた。眠るどころか、吸引や体位を変えたりつぎつぎと言われるので、休む暇のないくらいだと、そう聞いてきたので、覚悟していたのだけれど、彼は12時を過ぎるとすぐに呼吸する音が大きくなって眠ってしまったようだった。それから、1時間ごとに吸引したり身体やマスクを少し動かしたりしただけで、朝方になるとそれもなくなり完全に深い睡眠に入っていた。それは、体調を崩す前の彼の懐かしい眠りのパターンだと思った。
夜が明け、おかゆと刻み食の朝食を済ませると、看護師が点滴を取り替えに来たり、医師がエコーを取りに来たりと慌ただしくなり、9時半頃お母さんも見える。そのどのタイミングだったか、食事の後くらいか、ふと時間が空いた瞬間に、カメラを取り出して、病室の窓から建物の中側に当たる方向を何枚か撮ってみる。「見せてぇ、ぼくどうなってるのかわからへんねん」。たしかそう言ったと思う。そしてこれではなく、もっと風景がはっきりと写ったものを見せたと思う。これは曇って見えるけれど、今日はとてもいい天気なんだ、そう心の中では言ったのだけれど、なぜか口には出さなかった。そしておそらくこれは彼が最後に見る外の風景だ。お母さんが眠れたか?と尋ねて、あんまりって答えていたので、「爆睡しているのに何言ってんねん」とつっこんだ。そして甘えてるんじゃない?って茶化した。それからしばらく彼の様子について話してお母さんに挨拶して帰った。これが最後の朝だった。

Thursday, January 15, 2009

オリバー・ストーン X クリスティーナ・フェルナンデス

先日の記事で紹介したオリバー・ストーンの南アメリカ行脚。今日はアルゼンチンで大統領のクリスティーナ・フェルナンデスを取材している。この記事によれば、昨日水曜はボリビアのモラレス大統領とも会っているようだ。

Friday, January 9, 2009

オリバー・ストーン X ウーゴ・チャベス

2003年にキューバのカストロ議長を追っかけたドキュメンタリー<コマンダンテ>を作ったオリバー・ストーン監督が、今度はベネズエラのチャベス大統領の映画を作るらしい。ストーンがベネズエラに来てチャベスと地方を回っていると今日のベネズエラの新聞、universalが伝えている。<universal>
この記事によれば、この映画の発表は最初ハリウッドのバラエティ紙<variety>で、そこで、ストーン監督は一昨年の12月にベネズエラに行ったが、ちょうどFARCの人質が解放される時期と重なってしまったため、撮影に入れなかったということだ。

Wednesday, January 7, 2009

クリスマスカード


今年も、チリからクリスマスカードが届いた。チリで部屋を貸してくれていたカルメンから。年を聞いたことがないから、彼女がいま正確に何歳なのかは知らない。が、もう十分おばあさんといっていい歳。15年前にあのサンティアゴのアパートにいたころはおばさんと呼んでいたのだけれど、ぼくも彼女も年を取ったわけだ。
最後にあったのがもう6年前。それから何回か電話で声を聞いたこともあったけれど、だいたいクリスマスカードと誕生日にカードを送るくらい。だから、もしカードが届かなかったりしたら、何かあったんじゃないかと心配にもなる。

それで、今年も無事にそれを受け取ることができてホッとする。カードには、まずぼくが夏に彼女の誕生日に送ったカードとプレゼントのお礼を書けなくてもうしわけなかったと書いてあった。去年は、風邪をひいて7月8月は調子が悪かったと。(そうだ向こうは冬だった)。

ぼくはグスタボ・ドゥダメルの記事を書いたときに資料に使った、彼がローマ法王の誕生日のために演奏したドボルザークのDVDを送ったのだった。記事は書いてしまったので、ぼくのところにあるより熱心なクリスチャンであるカルメンのにあげるのがちょうどいいだろうと思った。カルメンは、たしかビデオすら持っていなかったし、6年前に行ったときにも、ぼくが使っているベッドのシーツを以前のように浴槽で手洗いしていたくらいだったから、DVDなんてものを新しく買わないことも分かっていたけれど、今どき知り合いの誰かは持っているだろうと思った。カルメンはそれを友だちのうちで一緒に観たといい、とてもよかったと書いていた。

そして、ぼくが今ラテンアメリカの障害者と関わって仕事をしているのを喜んでくれていた。自分の家にぼくを迎えて、それがぼくの仕事や人生に役に立ったことを神様に感謝していると。
カルメンとはほんとにたくさん話した。朝学校に行く前に一緒に食べたサンドイッチや、スキムミルク入りのコーヒーの味や懐かしい匂い。年を取るとなんでも治るのが遅くなる。そうも書いてあった。もう一度行って会っておきたい。霧とスモッグの混じった冷たい朝の空気。サンティアゴ。何かが終わって始まった場所。何かが始まって終わった場所。

Friday, January 2, 2009

APUNTES AUTISTAS

小説家で、最近はどちらかというと映画の仕事に熱中しているように見えるアルベルト・フゲーは、それぞれの分野でBloggerのブログを使い分けて自分の関心事や、映画の進行状況を発信してきていたのだけれど、2009年になったのをきっかけに、そのブログを一つにまとめたサイトをオープンしました。
APUNTES AUTISTAS<自閉症者のメモ>
リニューアルが楽しみであると同時に長く愛読してきたブログが閉じられる微かな寂しさ。

Thursday, January 1, 2009

『歌の祭り』

あけましておめでとうございます。大掃除をしてて見つけた文章。3年ほど前にラティーナに書いたものです。ル・クレジオはノーベル賞をもらっちゃいましたね。スカパー!で久しぶりにキューブリックのシャイニングをみてます。こわいね。



 たくさんある中のたとえばこんな一節。「メキシコは都市化とテクノロジーのきわめて深刻な場所、"災害地域"ですらある場所だ。しかしその文化がうけついできたものによって、そこはまた別の道をしめす場所、自覚の場所でもある」(p.173)。ヌーヴォー・ロマンの作家というキャリアの後、その人生のほとんどをメキシコおよび、ラテンアメリカの先住民の理解に費やしてきたこの著名な作家の近著が美しく、そして同時に何とも言えぬ勇気を与えてくれるのは、それが徹底して未来へ向けて書かれているからだ。
 本書は、ル・クレジオ自身がフランス語へ翻訳した、スペイン人が到達する近代以前のメキシコの姿を伝えた『ミチョアカン報告』など先住民時代の古文書をあらためて紹介しながら、今私たちが住んでいるこの世界とは違った、自然や神々との関係の在り方、人間どうしのつながり方を探っている。文明以前の「自然」への回帰という主題は、ルソー流のロマンティシズムとも結びつきながら、ル・クレジオ自身がパナマの先住民と暮らしていた70年代までのカウンターカルチャーにも見られるものだが、本書が興味深いのはそれが、過去への回帰ではなく、回帰のベクトルがまっすぐ未来へと延びて、しかも現在のエコロジーとも違和感なく接続されているところだ。私たちは、オルタナティブな世界を求めていたずらに先へ先へと進んできたけれども、そもそも求める場所がまったく見当違いだったのではないかと思わせる。「古きアメリカの先住民たちの真実は、秘教的な秘密でもなければ、謎でもない。これらの書物はわれわれのために書かれたものでもあるのだ。すなわち証言として。今日、それを読むことを学ぼう」(p.31)。
 本書を読んでいるとき、たまたまカフェ・タクーバの最近リリースした2組のライブ盤が届き、「カフェ・タクーバ、22世紀への旅」といったことを考えていた。メキシコの民族音楽から現代音楽、マンチェスター風のベースラインを強調したロックまで。様々な方面からの影響は、まさしくメキシコを征服してきた様々な民族の足跡でもあるのだろうけれど、何かそうした虐げられたものの屈折はいささかもなく、自由に"あるもの"利用して、それをまっすぐと未来へと延ばしていく感覚は、希望を感じさせ、ル・クレジオのこの本の何よりもの裏づけでもあるだろうと思う。「メキシコは、世界の使用法における知恵と節度という長所をもち、そこに今日の若者たちはモデルを見いだそうと望んでいる」(p.173)。アメリカの次の時代の価値観を考えるには打ってつけの本だと思う。