Thursday, August 30, 2007

アトレティコのリケルメ

開幕戦のマドリッド・ダービーが放映されなかったり、セビージャのプエルタが急死したり、何かと物々しい幕開けとなっているスペイン・リーグだけれど、今月末の夏のマーケットの終了期限を前にビッグな契約のニュース。
われらのリケルメさまが、前々から噂のあったアトレティコ・デ・マドリと2シーズンの契約で合意したとスペインのラジオ局Serが伝えたことによりスペイン国内のメディアが一斉に報じている。レクレアティーボからレンタルを終えて帰ってきたカソルラに、背番号をとられて、完全に干された状態で次の移籍先を待っていたリケルメ。直前のニュースではプレミアのトットナムと交渉中とされていたが、本人の希望どおりスペイン・リーグに残れて、放出するビジャレアルも含め、3者満足のいく移籍ではないかと思う。

Sunday, August 26, 2007

リーガ・エスパニョラの開幕

さて、いつものように夏の終わり。長い長いスペイン・サッカーのシーズンが開幕した。WOWOWで録画していたレアルアトレティコのマドリッド・ダービーを見ようと再生してみると、ボリュームをおとした画面でアナウンサーのお姉さんが頭を下げている。嫌な予感。「配信元の都合で放送できない」??

第1節「レアル・マドリード vs アトレティコ・マドリード」の放送について8月26日更新

8月25日(土)深夜2:55より生中継を予定しておりました、スペインサッカー リーガ・エスパニョーラ07-08シーズン 第1節「レアル・マドリード vs アトレティコ・マドリード」につきまして、スペイン現地権利元の都合により、急遽放送中止となりました。番組の放送を期待されていた皆様に深くお詫び申し上げます。

その他の放送予定カードを含め、今後の放送につきましては、情報が確定次第、WOWOW ONLINEにてご案内致します。視聴者の皆様には大変ご迷惑をおかけ致しますが、何卒ご了承のほど、よろしくお願い申し上げます。



うーん。去年も確か契約がうまく進まなくて最初の放映がうまくいかなかったと思う。今回はWOWOWとの契約ではなくて、海外への放映はすべてストップしているらしいかららしいが、どちらにしても開幕前に問題は解決してほしいもんだね。Cadena Globalによれば国内のネットどうしで揉めているからだという理由でそれ以上はわからなかったけれど。カードがよかっただけに、なんじゃそれ?って感じ。
試合は、アグエロが試合開始直後にゴールして先制。ラウルが同点にして、後半アヤックスから新加入のスナイデルが得点して逆転。レアルが勝った(ちなみにこのリンク先のビデオも国外では見ることができない)。

Saturday, August 25, 2007

cien niños esperando un tren

昨日、シルビオの記事を書いた後たまたま借りてきていたイグナシオ・アグェロのドキュメンタリー『100人の子供たちが列車を待っている』を見る。1988年のチリ映画で、ピノチェットの政権がほとんど終わりかけている頃に撮られている。サンティアゴ郊外の小さな村で、アリシアという女性が、教会で子供たちに映画を教える模様を追っている。子供たちはその地区に住む経済的に恵まれない家庭から教会に通い、学校もろくに行ってない。冒頭で映画を見たことがあるかと訊かれるのだけれど、ほとんどが劇場に行ったことすらない。わずかに答えていたのが「ロッキー」だったので、80年前後の話しだろうか。
教会の映画教室といっても、そこがふつうと違うところなのだけれど、子供が歓びそうな映画を選んで見せるだけでなく、写真からエジソンとリュミエールを経て、映画が誕生する様を当時の実際の映画と、穴あきカメラや、パラパラ漫画のような実験を作ってみたりしながら、再体験しながら学んでいくのだ。最後に子供たちは、政権に抗議する映画をみんなで作るのだけれど、そこでしっかり「表現する」とは何かを彼らは学び取っていた。映画もさることながら、こうした試みが当時のチリで行われていたことが凄いことだったと思う。たしかにピノチェットの時代も終わりにかかっていて、一時はよかった景気も傾いて、政権の求心力も衰えていた時期とは言えだ。ここにはいくつかの子供時代が重なっていると思う。映画の子供時代と、子供たち。だから子供たちは違和感なく、映画の創世を学んでいく。そしてアリシアが子供たちに託した新しいチリがそこまで来ている。
それにしても、チリは少し中心を外れると、ほんとにみんな貧しくボロボロだったことを映画を見てあらためて思い出した。それはこの映画の80年代だけでなく、2003年に行ったときも変わっていなかった。おそらく今もそれは変わっていないのだろうと思う。

イグナシオ・アグエロの最近の映画がここからまるまる見ることができるようだ。
"La mama de mi abuela se lo conto a mi abuela"video→
"Aqui se construye"video→

Friday, August 24, 2007

聖シルビオ

最近のヘビーローテーションは、ポンセーニャの92年のアルバム"Guerreando"。ここに入ってるシルビオ・ロドリゲスのCausas y Azaresが好きで時々繰り返して聴きたくなる。はじめて聴いたのがこのポンセーニャ・バージョンで、ぼくにとってこの曲はポンセーニャのものとして覚えられている。後になってシルビオがやったオリジナルも聴いたけれど、中途半端なサルサであまりいいとは思えなかった。ぼくにとってのシルビオはやはりここに貼り付けたビデオのようなアーティストだ。しかしながら、youtubeには、驚くほどのシルビオの映像がアップロードされている。著作権のようなややこしいことを言わず、シルビオは「民衆のもの」であると本人も考えているからだろうか。ここで見ることのできるチリでのライブでやったCausas y Azaresは1990年のもの。この観衆の異常な盛りあがりは、シルビオのライブを見れると言うことが、チリ国民にとって何よりもピノチェト時代の終わり=冷戦の終わりを意味したからだっただろう。とても美しい光景だと思う。

Cuando Pedro salio a su ventana
no sabia, mi amor, no sabia
que la luz de esa clara manana
era luz de su ultimo dia.
Y las causas lo fueron cercando
cotidianas, invisibles.
Y el azar se le iba enredando
poderoso, invencible.

Cuando Juan regresaba a su lecho
no sabia, oh alma querida
que en la noche lluviosa y sin techo
lo esperaba el amor de su vida.
Y las causas lo fueron cercando
cotidianas, invisibles.
Y el azar se le iba enredando
poderoso, invencible.

Cuando acabe este verso que canto
yo no se, yo no se, madre mia
si me espera la paz o el espanto;
si el ahora o si el todavia.
Pues las causas me andan cercando
cotidianas, invisibles.
Y el azar se me viene enredando
poderoso, invencible.

Thursday, August 23, 2007

temblar(9) a border

秋に短い旅をしようと、久しぶりに「Mexico & central america handbook」を取り寄せた。この本はもともとイギリスのRand McNallyから出版されていた「South American Handbook」から、16年前にメキシコと中米の部分が分かれてできたもので、当時の'Handbook'という呼称も今は取れている。ぼくが初めてこの分離前のハンドブックを手にしたのは1988年だった。メキシコ・シティで買った。ジョン・ブルックスという人が編集していて、翌年彼が急死して、編集方針が変わったらしく、メキシコと中米、カリブが独立して、どんどん冊数が増えていった。かつては、聖書のように分厚いと云われていても、それ一冊でラテンアメリカ全部をカヴァーしていて便利だった。紙も薄く作ってあったので、マリファナを巻いて吸うなんていう使い方もあった。ラテンアメリカを長期に旅をするのに、そんなに何冊ももって歩くなんていうのはありえなくて、そういった長期にわたる旅のスタイルも終わったのか、時代は90年代に入っており、だんだんせちがらくなって行っているような気分にさせられた。サウスアメリカのハンドブックは、ベン・ボックスという人に引き継がれ、今ももちろん健在。なんと84版になる。
さて、このハンドブックのシリーズ、出版社も変わっているようで、Footprintという会社。以前は堅い表紙の本だったが、それもペーパーバックになっている。見やすいが旅行に持って行くとすぐにボロボロになるんだろうな。そのメキシコ版、めくってすぐ見える内表紙が上の写真。"A border is always a temptation"というラリー・マクマートリーの言葉がぐっとそそる。
そもそも、今回の旅は、ちょうど20年前の今頃の季節に初めて旅に出て、アメリカ〜メキシコのボーダーを越えたことを思いだし、ふともう一度あのエル・パソ〜フアレスの国境を越えてみようかと考えたのがきっかけだったから、この一節にはグイッと心臓を捕まれるような気分だ。
なぜ人は旅に出るのか?なぜぼくは旅に出るのか?
すべてが終わってしまって、もう旅に出ることしかなくなってしまったような気持ちになったからじゃないだろうか?旅にはとってもいい風が吹いていると思う。

welcome to my home


拡大地図を表示
今日のニュースから。Google Mapに新しい機能が付いて、ちょうどYoutubeの動画をコピペしてブログに貼り付けるように、任意の場所の地図を貼り付けることができるようになったらしい。早速試してみたが、どうだろう?ちゃんと表示したかな?
ぼくの家はここです。どうぞ遊びに来てください。

Tuesday, August 21, 2007

Inland Empire

昨夜。シネカノン神戸のレイトショーでデイヴィッド・リンチの『インランド・エンパイア』。
平日の夜でもあるし、客は5人ほどしかいなかった。いわゆる大作でも、歴史を描いた史劇でもないのに3時間もある。しかしそれがまったく退屈することもなく、終わりのない音楽を聴くような気持ちで酔ったように観ていた。宣伝のコピーである「3時間の陶酔」がぴったりだと思った。
リンチの映画を劇場で観るのは何年ぶりだろう。ひょっとして『ローラ・パーマー..』以来かも知れない。数日前に『ストレート・ストーリー』をビデオを借りて観て、そういえば今新しいのをやっているはずだと思い出して観に行った。これは、傑作であったり映画史に残ったりするような作品じゃないのかも知れないけれど、ただとても好きな映画だとは言える。発売予定のDVDには、編集でカットされた部分が大量につけられるという話し。この作品は、初めてデジタルヴィデオのカメラで撮っていて、撮るのは簡単だし、安いのでどんどん撮ったのをカットするのは忍びなかったのだろうと思う。カメラはソニーのDSR-PD150。すでに生産は中止されてPD-170に引き継がれている。実物は見たことがないけれど、知り合いでドキュメンタリーを撮っている男の子が持っているやつと同じだ。手持ちができるハンディなタイプで、映画でも、監督自身が持ったふらふらした映像が活躍している。
ちなみに、ウサギの役はナオミ・ワッツがやってるらしいけど、これじゃどれだかわかんないね。(^_^;

Saturday, August 18, 2007

temblar(8) sismo, perú

新潟で地震が起こり、ペルーでもまた起こった。揺れに感化されるかのように市場も揺さぶられ株が暴落している。まるで世界中が揺れているよう。このシリーズで何度も触れたように、ぼくらはひっくるめて「地球」なんだから、おそらくこれらはみんな同じ出来事の、様々に見える局面に過ぎないのだろう。
しかし、ペルーの地震は、時間が経つにつれ被害がどんどん拡がっていく。500人以上の人が死んでいる。記録に残る大地震の規模になってしまった。今朝のニュースでは、分配品を奪い合ったり略奪が起こったりと、二次的な被害が問題となりつつあるようだ。被害のニュースをテレビでみていると、「Las películas de mí vida」のこんな箇所を思い出した。
チリの首都サンティアゴ北部にある、コキンボ近郊の村プニタキで起きた地震の調査で研究所を代表して現地に赴いた主人公は、この活躍をきっかけに出世の道を歩む。サンティアゴとプニタキの関係と、今回の首都リマとピスコとの関係がどこか同じように見える。どちらも太平洋岸に近い乾燥した地域にある。自ずと住居は泥を重ねた簡便なものになりやすいのだろう。

--------------------------Las películas de mí vida----------------------------
 1997年10月14日午後10時3分、時報を知らせたちょうどその後、私はセニョーラ・メルセデスの店でこしらえたソーセージとライスを食べながら研究所にいて、地震計の針が振り切れたのを見た。すぐに、これは私にとって試金石になると思った。研究所の職員として初めての地震だった。
 この地震は、第4行政区に被害を与えた。震源地は、イジャペルの南西23キロだった。コキンボとラ・セレーナ、コンバルバラ、オバージェ、ラ・チンバ、パイウアーノ、そして小さなプニタキの町で強い揺れを感じ、プエブロ・ヌエボの農家で、岩が屋根を直撃し、一家がまるごと瞬時にして命を奪われた。
 電話が鳴った。ラジオ・コーオペラティーバからだった。また鳴り、それはラス・ウルティマス・ノティシアス紙からだった。電話は鳴りつづけた。私が上司に電話を入れると、彼は、
 「スポークスマンをやってくれ。君は若く、真面目そうに見える。しっかり貢献してくれるだろう。パリで博士号を取ったって言うのを忘れるなよ」と言った。
 取材陣を研究所に呼んだ。彼らが到着すると、まったくたくさん来たのだが、こう発表した。
 「地震の規模はマグニチュード6.8でした。被害にあった人の数はまだわかっていません。しかしおそらく犠牲者はいるだろうと思います。国家安全局と第4行政区庁からまもなく発表されるでしょう。しかし、これは断言できますが、地震計が指した値と同じだけの被害はあるでしょう。このあたりは貧しい地域です。住居はアドベで出来ています。こういった場合、メルカリ震度を用いた方が体感を計るのには適切で、現在までの情報を鑑みると、震度9のプニタキは、皆さん、もう跡形もありません。いまだに揺れつづけている地面の上に倒れているのでしょう」。
 朝になって、私が読んだ新聞は全紙、プニタキの町は全滅していると書いた。私の不幸な発表以来、プニタキは大災害ということになったが、バルディビアよりも被害が軽いのは明らかだった。大地に亀裂が入ったわけでもなく、津波が来たわけでもない、記録的な何かがあったわけでもなかった。その崩壊した町では、8人の死者が出たが、その場所の住宅の半数以上が倒壊したと考えられるにしては、考えられない数字だった。
 プニタキとその周辺には5日間滞在した。私は自分を俳優のように感じた。何年もの下積みの後、とうとう本物の舞台の上に立ち、入場料を払った観客がそこにいるのだ。人々は私に寝床と食事を提供した。皆が私のことを信頼していた。新聞は一面に私を載せ、国中のいくつものラジオで何時間も話した。
 意図したわけではないが、あるいはおそらく、ずっと前からそうしようはしていたのだろうが、私はその町、その地域についての権威になっていた。自分が有用な人間であると感じたり、敬意を持たれたり、何某かの者として扱われるのは心地よかった。
 「また起こるだろうか?」、エドゥアルド・フレイ大統領が、プエブロ・ヌエボで私に尋ねた。
 すぐに答えずに、しばらく考え、砂漠とアンデス裾野の強烈な太陽の日差しを受けた彼の顔を見た。その瞬間私はこの国の運命の支配者だった。
 「その質問は、大統領、起こるかどうかではなく、いつ起こるか、です。この国では誰もその質問をしないし、したくないのです。チリでは、すべて皆死んでしまうのです。たしかにそれはすべての人間の運命かも知れませんが、私たちにはさらにもう一つ掛けられる十字架があるのです。すべて私たちは、おそらく私たちを全滅させてしまう、私たちが勝ちとってきたものすべてを破壊してしまう地震に見舞われるのです」。
 朝になるまでに私は、プニタキの最も権威ある機関の重要人物になっていた。大きな余震が起こった後、人々は自主的に様々なことを私に告白し始めた:「父親から盗みをはたらきました」、「娘を犯しました」、「女装するのが趣味なんです」、「弟の息子は私の子供なんです」。
 サンティアゴに戻ると当時の研究所の所長は、私を停職させると脅した。スポークスマンをすることを禁じ、起きたことは忘れろと言った。
 「これは科学なんだ。見せ物じゃないんだ」、こう真面目な顔をして言った。
 「仰るとおりです。もちろん見せ物じゃなんかじゃありません。スポークスマンをやりたいわけじゃないんです。ただ、もう少し多く知ることができたらいいと思ってるだけです。次の学期は授業を受け持ったらと思ってるんです。現場に行って調査がしたいんです」。
 これは5年前のことだった。そして今は私が研究所の所長だ。

Monday, August 13, 2007

Sirocco

昼下がりの道を自宅まで歩いていると、風がまるでドライヤーの口から吹いてくるような熱さで顔にあたり、これはまるでシロッコのようだと、体験もしたこともない風の名前がふと口について出た。
今日は、ほんとうなら泊まり明けの月曜なのだけれど、日曜夜のいつもの泊まりが休みとなっているので、お盆休みらしい休みとなって嬉しい。朝から、姪っ子を連れて、父方の墓参り。霊園横の服部緑地で姪っ子を遊ばせて、帰りに伊丹の空港でお昼。飛行機が飛び立つのを眺めながらアイスを食べて帰ってきた。帰りの道路に標示される温度計はずっと35℃。エアコンをがんがん利かせても、室温はあまり下がらなかった。
そうして、実家から歩いて帰っていると、まるでシロッコ。甲子園球場の声援が、どこか次元の違う場所から来るように聞こえる。
おそらく、ぼくがシロッコという言葉を覚えたのは、ヴィスコンティの『ベニスに死す』を観てからなんじゃないかと思う。地中海から吹くシロッコにのって疫病が蔓延しているベネチアで、少年に恋するエッシェンバッハは構わず避難もせず滞在をつづける。流れるマーラーの5番の4楽章。そういえばマーラーを知ったのもヴィスコンティ経由だった。ヴィスコンティは映画を通じて色んなことを教えてくれた。アブノーマルな性愛とか、一見貞淑な女性の恐ろしさとか。

最近手にしたゲオルグ・ショルティの最後の録音であるマーラーの5番はとても素晴らしいと思った。長く在籍したシカゴのオーケストラを退任し、スイスのトーンハレ管弦楽団とやっている。初録音もこの楽団だったらしい。この曲は、誰がやっても曲の持つヒステリックさのようなものに翻弄される部分が出てくるのだけれど、この録音は全編まったく落ちついている。曲の細部をまるで自分の庭を歩くように周遊する。この交響曲はマーラーのキャリアの真ん中くらいに位置しているのだけれど、すべてのキャリアを終えて、最後からまたこの曲を眺め直しているようだと言ったらいいだろうか。まるで昨日生まれた曲のように演奏したドゥダメルの演奏を最近聞いたばかしだったので、この二つのコントラストがまた興味深かった。

Friday, August 3, 2007

Gustavo Dudamel, revolución

久しぶりに、雑誌用に記事を書いていて、これはそのメモ的なリンク集。記事はベネズエラの26歳の指揮者。グスタボ・ドゥダメルのもの。ドゥダメルは、ベネズエラのバルキシメトに生まれて子供の頃から音楽教育を受け、14歳の時から指揮の勉強を始めている。2004年に、バンベルクで行われたグスタボ・マーラー指揮者コンクールで優勝したときから一気に注目を集めることとなった。
スペイン語のプロフィール
英語のプロフィール
日本語のプロフィール
Wikipedia
Gustavo Dudamel
最近のガーディアンにあったドゥダメルについての記事。
Orchestral manoeuvres

彼が音楽監督をしているベネズエラ・シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ。
Sinfónica de la Juventud Venezolana Simón Bolívar
このオーケストラの育成システムを取材したガーディアンの記事
Land of hope and glory

BBCの記事→Más allá de los acordes
BBCの→ビデオニュース

高松宮殿下記念世界文化賞
若手芸術家奨励制度