Monday, December 31, 2007

Zacatecas

昨日は半日、今日は、思わぬ休みで大掃除ができた。部屋をきれいにしてやまとの湯へ浸かりに行く。ららぽーとへ忘れていた買い物に行って、年越しの準備完了。世間では明日から正月と言うことなんだろうけれど、われわれはいつもどおり仕事。ぼくはどちらかというと年末家のことをやりたい性分だからそれができたら正月はどちらでもいい感じ。

で、いつものように旅行記のつづき。

サカテカスへは、今回を含め、3回行っている。最初は87年の秋。2回目は90年の終わり頃。そして今回。行く毎にまるで違う町へ訪れたようで、不思議な気分になった。最初のときはエル・パソのユースで知り合ったイギリス人、ジムという青年とだった。今回と同じようにエル・パソからバスに乗り朝早く着いた。ローカルバスに乗ってセントロへ向かうと、朝霧の中をコロニアル風の建物が石畳の道路から立ち上がって、信じられないくらいチャーミングに見えた。ぼくは当然気に入ったのだけれど、同行のジムは「こんなチープな町はいやだ」と言いだし、ぼくも初めてのメキシコで一人で旅行するには不安もあったので、しかたなくそのまま彼の言うとおり、メキシコシティ行きのバスに乗って、数時間の滞在でこの町を去った。
2回目は、大学時代の友人が、ぼくがメキシコシティの大学でスペイン語を学んでいるときに訪ねてきて、彼と一緒にロサンジェルスまでバスで行く途中に寄ったのだった。その時は偶然、ゼネストか何かそんなときに巡り合わせて、町は所々封鎖されているし、車も人もほとんど見かけなかった。町は誇りっぽく、廃墟のように見えた。
そして今回。メキシコ自体が以前より、景気もよくなっているのだろうけれど、活気があって人も多く。これまでで一番居心地がいいと思った。

やはり今回も、朝早く着いた。
バスの運転手が「サカテカス」というので、降りたのはいいのだけれど、どうも前に来たときとは雰囲気が違う。間違えた?と思うが、売店に置いてある新聞がサカテカスなんとかという名前だったので、気のせいかと思い直す。
外へ出て、ガイドブックでチェックしたホテルへ行こうと、客引きをしているタクシーの運転手に告げると
、それはサカテカスだよ、ものすごく遠いからバスに乗った方がいいと言う。「でも運転手はサカテカスって言ったよ?」というと、「たしかにサカテカス県ではあるけど..」だと。

そこらでぶらぶらしている若い衆が、チップ欲しさにローカルバスの乗り場に案内してくれた。
まだ夜は明けていない。バスに乗り込むと、大学生くらいの女の子たちがたくさん乗り込んできて、空いているぼくの横へも座った。いったい何時に起きたんだろう?きれいに化粧や身支度もしていて、窓もきっちり閉まらないぼろバスとのギャップが激しかった。

小一時間で、サカテカスのセントロに着いた。後で調べてみると、サカテカスにはセントロに近い新しいターミナルと、この郊外のターミナルと二つあるらしかった。荷物を担いで、さらに町の中心をめざす。時間は通勤時間になっていて、学校へ行く学生や、職場に向かう車で道はごった帰している。安い宿へ泊まるつもりだったが、まだ一晩バスに揺られて到着すると、弱気の虫が顔を出して、まぁいいかともう少しましなところを捜す。

メルカードに近い宿へチェックイン。カードが使える宿に泊まったのはメキシコではたぶん初めてだった。部屋は小ぎれいで、やはりここでよかったと思う。熱いシャワーを浴びようと思い蛇口をひねってしばらく待ってみるが、なかなか出ない。しかたなく生ぬるいお湯で、暗いバスの中でカバンの中が、こぼしたコーラでびちゃびちゃになっていたので、洗濯する。しばらく洗濯していても、いっこうにお湯が熱くなりそうもないので風呂は諦める。サカテカスはかなりの高度で、朝はもの凄く冷える。さすがに水を浴びる気にはならなかった。

諦めてテレビにスペイン語版のCNNを流したまま、毛布を重ねたベッドに潜り込んで、一眠りする。

Saturday, December 29, 2007

Viskningar och rop

先週から昨日まで、衛星放送のシネフィルイマジカで、この夏になくなったイングマル・ベルイマンの特集をやっていた。朝から夕方まで、3本くらいの映画を連続で毎日やるのだけれど、さすがに全部見ることは不可能で、昼に家に帰ったときに、1本か、1本半の作品を見るという生活をしばらく過ごした。
ベルイマンを知ったのは、小学校6年くらいの時、淀川さんがやっていたラジオ番組でだったと思う。中学になって親に隠れて映画を見に行くようになった頃、これくらいは見ておかなくてはならない、教養として見る映画監督のリストのひとりだった。当時はそれほど過去の映画をすぐに見れる環境ではなかったから、2本立てでどこかの映画館に廻ってきたときにはなるべく見るようにしていた。写真を載せた1973年の作品『叫びとささやき』は、そんな中の一本で、このあたりからベルイマン作品はリアルタイムで見るようになったのだと思う。『野いちご』とか『処女の泉』(淀川さんはいつもこれをお上品に[おとめ]と読ませていた)などはNHKの名画劇場で見たような記憶がある。なかなかその後、見なおすという機会もなく、今まで過ごしてきて、今回初めて見る作品とともに、あらためて見て色々感じることがあった。
ぼくがもともとそういう性向を持っていたのか、あるいはベルイマンの映画に影響を受けたのか、今となってはどちらがどうなのかよくわからなくなってしまったが、人間の生きる表面的なものだけではなく、その奥に隠れていることとか、それを動かしている原理を考えたり、突き詰めていくような傾向は、彼の映画やそれに登場する人物とよく似ていると思った。よく難解だと言われるベルイマンの映画を、昔はやはりそのとおりだと思って見たりもしていたのだけれど、今回はその流れや、登場人物が感じたり考えたりすることが本当によく理解できて、それに身を任せて見ることが気持ちいいくらいだった。
面白かったのは、一面北欧的な真面目すぎるような、登場人物たちの行動のきっかけが、思いの外生々しい嫉妬や、欲望だったりするのに気づいたことで、それはイタリアのネオリアリズムにあったような終戦直後の貧しさからくる苦しみや悩みではなく、ある程度満ち足りた人たちが感じる倦怠や空虚感といった現代のわれわれが感じるような悩みに近く、戦火を逃れた北欧だからできたのか、とくに50年代の作品は、当時の他の映画と比べてかなり先を行っていたのではないかと思う。
昨日は、起きて出掛ける支度をしながら、『ファニーとアレクサンドル』と『リハーサルの後で』を横目で見る。雨の中事務所の大掃除。介助の仕事で抜けて、作業所のお疲れさまパーティへ戻る。今年の初めにごちゃごちゃあった女の子としばらくぶりに顔を合わした。自分でも意外なくらいどきどきして動揺しているのに気づく。すでに済んでしまったと思った感情が甦ってきて苦しいくらい。こちらで会話しながら向こうの会話の輪でお喋りしている彼女のことが気になってしようななかった。こうした感情こそ、ベルイマンの映画に登場する人物が感じていたことだろうと、また映画のことを思い出し、感情の繋がりがまた繋がりを生む。

Saturday, December 22, 2007

SINO

サカテカスまでのバスの隣は、モレーノの大男だった。セラーヤに行くと言い、ぼくはサカテカスだと応えたが、交わした会話はほとんどそれくらいだった。なんとなく話しにくい空気があって、窓側の彼の向こうの風景を見るともなく見ていた。「メキシコに住むものは皆、ひと事に余計な口出しをしない術を身につけているようだった...」というバロウズの小説の一節をふと思い出した。
 乾いた草原にサボテンが点々として、奇妙な形の山の間をバスは走り抜けていく。することもないので、iPodを取り出して、出発直前にダウンロードして入れてきたカフェ・タクーバの新譜SINOを聴く。この旅の中で何回かトライしたけれど、微妙にちがうという感覚があってすぐにやめていた。カフェ・タクーバの前作はもう4〜5年前で、その間に90年代が頂点だったスペイン語ロックのブームも冷めてきていて、日本にいてカフェ・タクーバというバンドも少し遠い存在になりつつあった。国境を越えてどうだろう?少しは作用するだろうか?麻薬を試すように流してみた新作は、とても新鮮だった。
 カフェ・タクーバのメンバーとぼくとはほぼ同年代で、聴いて育った音楽のバックボーンも似ている。そして、ぼくとメキシコとの関わりはほとんどカフェ・タクーバの活動している時期と重なっている。だから今度のカフェ・タクーバのSINOというアルバムで、彼らが自分たち自身の活動や人生を振り返った曲をいくつも入れているのを、あらためてじっくり聴いていると、まるでぼくが自分の人生を振り返っているように歌詞が染み渡るように聞こえてきた。それはたぶん若いときには絶対恥ずかしくて書けなかったような直接的なもので、そうしたものを隠すことなく歌えることが人生と経験を重ねてきたことなんだろうと思った。それはこの旅でぼくが一貫して感じつづけた落ち着いた感情とどこか繋がっているように思った。
 深夜になって皆が眠って静かになっても運転手が流すメキシカン・バラードが鳴りつづけていた。一番前の席の女性が、おそらく音を落としてくれと言ったんだろうと思うが、運転手は「何だって?音を上げろって?」と言った。ほとんど嫌がらせに近い。
5時だか6時だか、まだ夜が明けない頃、バスはターミナルに到着して運転手は「サカテカス」と言った。

Saturday, December 15, 2007

Comicopera

iTunes music storeをうろうろしていると、ロバート・ワイアットが、新譜を出しているのを発見。前作Cuckoolandが、2003年のリリースだから、4年ぶりのアルバムということになる。そのままクリックしてダウンロードしたのは言うまでもない。
ブライアン・イーノ、ポール・ウェラー、フィル・マンザネラが参加し、ワイアットの自宅と、マンザネラのスタジオで録音されている。ワイアット自身はもうすっかりスタイルが完成されているアーティストだから、誰がゲストで参加しているといってそれがどうというわけではないだろうけれど、たしかに興味深いメンバーだと思う。タイトルのとおり、アルバムは3幕の劇仕立てになっていて、それぞれ"Lost In Noise""The Here and The Now""Away With The Fairies"とタイトルがついている。3幕目はイタリア語とスペイン語で歌われていて、最後の曲はキューバのソン。ゲバラに捧げる歌になっている。
しかし、これは恐ろしいアルバムだと思う。ワイアットだからいいとか悪いとか言うことなく聴くんだろうけれど、ほんとに心の底から感動した。音楽への信頼を取り戻せたことと、まだこうして感動できる自分に少しホッともした。
何トラック使ってるのか分からないくらい、様々な楽器がコラージュされて、かなり作り込んであるはずなのに、聴いた感じはどちらかというとアコースティックな自然な感じがするの不思議。
消費しちゃわないように、ゆっくり聴きたいね。
UKの主要なメディアからもレビューが出ている。"Independent""Gurdian""BBC"

Friday, December 14, 2007

Gustavo Dudamel

"Gustavo Dudamel"で検索してここに来てくれる人が増えてきたようなので、この間ラティーナに載っけた記事を全文アップしておきます。
11月にメキシコへ行ったとき、あと一週間くらいでドゥダメルとユース・オーケストラが、がBellas artesでコンサートをやるという新聞広告を発見し、ただでさえ幸福なメキシコ滞在がさらに帰国が惜しくなる思いになった。
ベネズエラの状況もその後変化があった。先日、国民投票があって、大統領の任期を撤廃するなどの提案が審査されたが、否決された。報道では、チャベス大統領の指導力が低下するのではと言われているが、ぼくは逆にベネズエラの民主主義の健全さがアピールできて、ベネズエラという国に対しての信頼度は増したのではないかと思う。


月刊ラティーナ10月号

 クラシックファンのあいだでは、すでにかなり話題になっているようだけれど、ラテンアメリカに関心ある方々にはどうなのだろう。グスタボ・ドゥダメル。1981年生まれ。弱冠26歳、ベネズエラ出身の指揮者だ。
 クラウディオ・アバド、サイモン・ラトル、あるいは、ダニエル・バレンボイムといった現代の巨匠たちに絶賛され、彼らの後見のもとにデビューしたドゥダメルの、まずこれまでの経歴をざっと見ておこう。生まれはバルキシメト。カラカスから西方280キロほど行った町だ。カラカスからマラカイボへ向かうハイウェイのちょうど中間あたりにある。父親がサルサのオーケストラでトロンボーンを吹いていたというのが、いかにもベネズエラらしい。すでに幼いときから和声や対位法を学び、10歳のときに初めてヴァイオリンを持って、同時に作曲の勉強も始めている。14歳の時に指揮の勉強を始め、18歳の時に、ホセ・アントニオ・アブレウにひきつづき指揮を学び、彼が創設したシモン・ボリバル・ユース・オーケストラの指揮者になっている。
 ドゥダメルが一気に世界的な名声を得たのは、2004年、南ドイツの名門、バンベルク交響楽団が主宰する第一回グスタフ・マーラー指揮者コンクールで優勝してからで、以後世界中のオーケストラから引っ張りだこの活躍。今シーズンは、ウィーン・フィルやベルリン・フィルでも指揮をする予定になっている。2009/10年シーズンからロサンジェルス・フィルハーモニーの音楽監督に就任することも決定した。
 そして昨年、ドイツ・グラモフォンからベートーヴェンの交響曲第5番と7番のカップリングで、レコーディング・デビューも果たしているのだが、この録音は、彼が現在音楽監督を務めているベネズエラ・シモン・ボリバル・ユース・オーケストラとのレコーディング。このオーケストラがまたドゥダメル自身と同じくらい興味深く話題にもなっている。
 ユース・オーケストラと言うくらいなのでもちろん、25歳くらいまでの若い演奏家たちによってこのオーケストラは構成されている。しかしこれはたんなる若ものたちのオーケストラというだけでなく、今年67歳になるホセ・アントニオ・アブレウが組織した、Sistema Nacional de las Orquestas Juveniles e Infantiles de Venezuela(ベネズエラの若ものたちと子供たちのオーケストラの国家システム)のトップオーケストラということである。スペイン語で短く、「システマ」と呼ばれているこの組織は、ベネズエラ全国に散らばった「核(nucleo)」と呼ばれる地域のオーケストラから優秀な才能を持った演奏家が集められ、学費や生活費の援助をもらって英才教育を受けることができる。幼いドゥダメルもここでコーラスを始めている。キューバの音楽やスポーツ選手の育成に似ていて、一見すると現在のチャベス大統領の社会主義的な政権で作られたものかと思われがちだけれど、創立は1975年と30年以上の歴史がある。州の補助を受けて運営され、政府とはずっと一定の距離を保っていたらしいが、チャベスの時代になって、うまく彼の進める「革命」とマッチし、今では国の潤沢な資金も得ている。集められた子供たちは、家庭に問題があったり、ドラッグに手を出していたりしている場合が多く、この「システマ」は、たんに音楽を教えるだけでなく、音楽を通じて、社会的な繋がりを回復することを目的としており、音楽教育そのものが生きていくための職業訓練になっている側面もある。ブラジル人にとってサッカーが占める役割をやっているという見方もされているようで、「核」と呼ばれる各地のオーケストラは200以上もあり、そこからどんどんキャリアアップしていく様は、まさにナショナル・チームへ至るブラジルのサッカーのようだ。多くはプロになったり、音楽教育の道へ進んだりするのだが、その中には、最年少でベルリン・フィルのコントラバス奏者に合格したエディクソン・ルイスなどもいる。
 さて、そのベネズエラの俊英たちの奏でるベートーヴェン。そして今年になって発売されたマーラーの交響曲5番だが、一見して若者らしいテンポと生きのいい演奏と言っていいだろう。ただそうやって気持ちよく高校野球でも見るような気分で聴いて終わりかと言うとそうではない。彼らの速度は最終楽章に近づくにつれ、どんどんスピードを速め、これ以上行くとカオスになってしまうというぎりぎりのところまで行く。それはほとんど心地よい音楽体験とは逆の、目眩と吐き気すらを起こさせるようなもので、それだけ彼らの抱えているエネルギーの内包量の高さを思わせているだろう。このエネルギーは、明らかに現在のベネズエラの「革命」の持っているものと共振している。しかし、このオーケストラが、フランス革命の影響を受けて南アメリカの解放者となったシモン・ボリバルの名を冠されていて、21世紀のボリバリアーナ革命真っ盛りのベネズエラで、そしてやはりかつて革命の中を生きたベートーヴェンの交響曲を演奏しているというのはどういうことだろう?この状況をどう理解したらいいのだろう?ここ何年もクラシックの世界は、古楽的なアプローチが主流で、オーケストラもどんどん規模が小さくなってきていた。ドゥダメルとシモン・ボリバル・ユースというのは、その中で久しぶりにオーケストラらしいオーケストラだと言え、だから、口の悪い人などは、行き詰まったクラシック界の新しいマーケティングの成果だと言ったりもするのだけれど、そういった人は、歴史の大きな流れの中、現在のベネズエラで何が起こっているかを、21世紀の革命の中で、誰と、どんなエネルギーが解放されているかをあまりよくわかっていないのだと思う。あるいは、たんにニュースを見聞きして知っていただけの私にしても、そのエネルギーの実体を、はじめて目の前にしたのだ。

Thursday, December 13, 2007

Borderland

チェックアウト。チェックインしたときの、このホテルの責任者らしい女性は、「ご利用いただきありがとうございました」のような意味のことを英語で言ったと思う。
歩いて、再びグレイハウンドのバスターミナルへ。ホテルのロビーから持って行ったエルパソ・タイムスをパラパラめくりながら、国境を越えるバスを待っていると、この地域のニュースの頁が出てきた。"Borderland"、なんという香しい響き。小一時間待ってバスに乗り込む。乗客はぼくの他数人しかいない。運転手は白人系で長身、マッカーサータイプのサングラスをしている。動き出すとすぐに音楽が鳴って、それはノルテーニョだった。すでにメキシコに入った安心感。昨日は手前までしか行かなかった橋を、バスに乗ったまま、向こうの方まで見わたす。
税関に着いて問題なく通過して、他の乗客がバスに戻るのにつられて再びバスに乗ると、バスは動き出す。ふと考えると入管を通ってなかった。他の乗客は皆メキシコ人だから、入管には用がなかっただけだった。
運転手に、「イミグレはもう過ぎたの?」と訊くと「そうだ」と答える。「ぼくは日本人だからイミグレ通らないとだめなんだよ」と言っても、さあねって顔。とうとうフアレスのバスターミナルまで行ってしまった。
しかたなく、再びタクシーで国境まで。ホルヘという運転手が案内して連れていってくれて、パスポートにスタンプを押してもらってツーリストカードをもらう。さらに再びバスターミナルへ戻ると、サカテカス行きのバスは10分後に出るという。とても暖かい日でTシャツになりたいくらい。またメキシコへ来たという感慨に浸る間もなくバスに乗り込んだ。

Monday, December 3, 2007

El Paso(2)

部屋へ入る。窓からは町の北側の郊外が見える。窓のすぐ下は幹線道路で、車が高速でとばしている。その道路を渡ったコインランドリーで洗濯をしたことがあるのをふと思い出す。シャワーを浴びて、ロビー横の食堂で簡単なバイキングの朝食。日曜の朝で、メキシコから来たと思われる家族連れがテーブルを囲みお喋りしながら朝飯を食べている。
部屋へ戻ってひと眠り。

昼過ぎに起き出し、町へ。日曜日ということもあって、鄙びた雰囲気。しかし、週が明けても同じようなものだというのは明日になればわかること。ぶらぶらとあちこち歩きながらそのまま国境まで。たくさんのメキシコ人が、買い物に来ている。ビデオを回していると、警備をしている係員が口笛で警告しながら近寄ってくる。女性の係員が「ここの建物を撮影するのは禁止されてるのよ」と言う。「建物は撮影してない」。撮ったところを見せる。「どうしてここを撮ってるの?」「Siempre la frontera me apasiona mucho...」。最初は消せと言っていたが、しばらくすると無言で行けと言う。

当てもなくぶらぶらしていると、やはりお腹がすく。夜まで待って少しましなものを食べようと思ったけれど、我慢ができずどこかへ入ることにする。が、休日でレストランはことごとく閉まっているので、しかたなくマクドへ。エル・パソの落ち着いた空気を味わいながら、ハンバーガーを頬張り、コーヒーを飲む。

暗くなり、まるで退社時間が来たように、メキシコ人たちが国境を越えて帰って行く。ぼくもスーパーで適当に夜に食べるものを買って、ホテルへ帰る。テレビをつけると、メジャーリーグのワールドシリーズ最終戦、コロラドと、ボストンの試合をやっている。あっけなくレッドソックスが勝って番組が終わった。時差ぼけのまま、夜行のバスに乗って、すっかりリズムがおかしくなっている。昼間たっぷり寝たのにまたすぐに眠たくなる。

Sunday, November 25, 2007

El Paso

エル・パソには早朝着いた。アメリカは移動していると、知らない間に時間帯が変わるし、サマータイムをやっている時期だったり、時計を持っていてもいったい今何時なんだか、いったい何時間バスに乗っていたのかも分からなくなってしまう。
エル・パソに着いたのは、とにかく朝の5時だったか6時だったかで、まだ夜が明けていなかった。フレッドは、「これからどこへ行くんだ?」とぼくに訊き、ぼくはホテルを探しに行く。それで明日メキシコへ降りるんだと応えると、彼は「Que bueno」と言って指を立てていた。
着いてすぐには、タクシーの客引きもいたが、どこへ泊まろうかと思案しているうちに、そうした彼らもどこかへ行ってしまって、バスターミナルの周りは、ひっそりとしてしまっていた。泊まろうと決めたホテルまでは歩いていけそうだけれど、ヤバクないだろうか?
しかし、今更タクシーを拾える時間帯でもなく、様子見がてら少し町の方へ歩き出した。
少し歩くだけで、心配する必要がないことが分かった。なんだこの安全な空気は?不思議なくらい落ちついた雰囲気が満ちていて、これがエル・パソの空気だったと思い出していた。ぼくが、かつてアメリカをバスで旅行していて、メキシコへ行こうと思ったのは、たまたまこの町へ来て、アメリカの他のどこの町にもない雰囲気が気に入り、それがかつてメキシコの領土だった町であることを知ったことからだった。
アメリカのどこの都市でも、日本と同じで、みんな信号が変わるのを待っていられないで、歩き出すのが普通だったのに、この町では違った。初老の紳士が二人、信号待ちでおしゃべりをしているのに夢中になって、信号が変わるのに気づかず、おしゃべりをつづけていた。それを見てぼくはメキシコへ行こうと思った。

ホテルは、安いところへとも考えたのだけれど、バスの長い移動で疲れていたのもあって、ホリデイインへ行った。レセプションの女性は金髪の白人。何語で話せばいいのか分からなかったので、とりあえず英語。色々やりとりを眺めていると、同僚とは英語やらスペイン語やらシチュエーションに応じて取り混ぜていることに気づく。手続きを済まして、最後に部屋の鍵のカードは、2枚いるかどうか訊かれて、一人で来ているのに、2枚もどうするのかよく分からなくなって、思わず「2枚ももらってどうするの?」ってスペイン語が口をついていた。Bienvenido a mundo hispano...。
明日は国境を越える。

Sunday, November 18, 2007

On the Road

先週宮脇書店をぶらついていたら、新しく河出書房新社から刊行が始まった、世界文学全集の第一回配本『オン・ザ・ロード』が並んでた。パラパラってめくっていくと、文章が生き生きしていてすぐに引き込まれた。青山南による新訳。もちろん買って帰った。
そもそも、20年前にぼくがアメリカを旅したいと思ったのは、当時『路上』というタイトルで同じく河出の文庫で出ていたこのケルアック小説や、同じビートニックの小説家たちに影響を受けていたからだった。ヒッチハイクやグレイハウンドでに大陸の移動、アルコールやドラッグ、あらゆる手段を使って「ハイ」になることを追求する方法、と破滅寸前の生き方etc..。デンバーは重要な登場人物ディーン・モリアーティの出身地で、ヒッチハイクをするシーンが何度も出てくるのだけれど、実際行くとそのときも目の前でヒッチハイクして見知らぬ人の車に乗っていく人が少なくないのに驚いたりした。メキシコシティも、重要な場所として登場し、ぼくもそれにならって国境を越えた。ぼくの人生は基本的に今でもこの「道」に沿って進んでいる。やはり当時読んだバロウズとギンズバーグの『麻薬書簡』も山形浩生の新訳で再版されていて、日本語が古くなるくらいの時間が経ってしまったのだと、また違った感慨も催してしまう。
さて、ダラスで一泊して一日美術館などで時間をつぶし、夕方グレイハウンドのバスターミナルからエル・パソへ向かった。前日の夜に念のためチケットを買いに行っておいたのだが、もうそこはほぼスペイン語で事が足りる世界で、すでにもういくらかはメキシコへ足を踏み入れているのだと思い嬉しくなった。そういえばグレイハウンドは、ラティーノたちへのサービスに重点をおくようにするといった意味のポスターが柱に貼ってあったりもしていた。
ロサンジェルス行きのバスは、一台では足りず、あと一台か二台増発していたと思う。列の前に並んでいたのは、黒人の若いお母さんで、サンディエゴへ行くと言ってた。ぼくに荷物を見ておいてほしいと頼み、小さい子供にあまり身体によくなさそうなフライドポテトを与えて食べさせていた。
エル・パソまで、12時間の行程で、隣に座っていたのはフレッドという名の白人の初老の男で、サンフランシスコのまだ北にあるバレホという町に行くという。ウェスト・バージニアから乗ってきたらしく、すでに72時間もバスに揺られているんだと言った。ギターを持っていて、グレイハウンドの職員がそれを粗末に扱うと言って怒っている。「ミュージシャンか?」と訊こうかと思ったけれど、妙に話が長くなっても面倒だなと思いやめた。彼は、夜遅くまで手元のライトを点けて数独にチャレンジして、時折ぼくに、このライトは迷惑じゃないかと言って訊いてくる。ぼくはその都度大丈夫だよと応える。

Saturday, November 10, 2007

De la luna llena hasta la luna nueva

昨夜帰ってきました。日本は何だか蒸し暑いです。どんどん熱帯化しているような気がします。
さて、旅の始まりと終わりはダラス。"De la luna llena hasta la luna nueva"。今回の旅は、満月から新月の間でした。出発の日が満月だと分かったとき、だったら終わりは新月にしようと思いました。たんにその方が、帰国して一日休んで仕事ってわけで都合がよかっただけですが....。

ダラスでは、ローレンスというホテルを予約して、帰りもそこに泊まって帰った。メキシコシティを昼過ぎに出て、到着しシャワーを浴びたりしていると、夕食は9時前になっていた。朝食と夕食をまったく違った環境で食べているのがとてもおかしな感じ。このFounders Grillというレストランはホテルに隣接していて、たんにどこかへ食べるところを探しに出かけるのが面倒だから手近なもので間に合わせただけのものだったのだけれど、ここがけっこうおいしかった。あまり期待していなかっただけになおさら。到着した日は分厚い豚肉をグリルで焼いたもの。帰りはオーナーがギリシア系らしく、鳥の焼いたものに、米の入ったソースをかけたもの。やはり肉の文化のところでは、おいしい肉にありつける。サラダもとても新鮮で、たっぷりそれを食べた後の肉とのコントラストがいい。最後の日は、デザートにチョコレートケーキまで頼んでしまった。これがまたおいしい。
窓から見えているのはリユニオンタワー。ビールを飲んでふぁとしながら、何とも言えない満足感に浸っている。
翌日は3時に起きて空港。ホテルに迎えに来たタクシーのドライバーは、黒人の大きな男だった。スタイリッシュなスーツを着て、帽子まで決まっていた。お喋りして空港まで行き、握手して別れる。チェックインカウンターは朝早過ぎてまだ開いていない。ラテン系の家族が大量の荷物を山積みにして開くのを待っている。またメキシコへ戻った気分。5人姉妹の娘さんが可愛らしかった。
アトランタ行きの飛行機に乗り込むと、隣はカナダ人の初老の夫婦。ぼくがパスポートを胸のパスポートケースにしまうと、旦那の方が、"You post your papers in your heart"と言って笑った。

Thursday, October 25, 2007

Vamonos!

さて、パッキングも済んだ。明日の早朝からちょっと旅に出ます。2週間あまりの短いものですが、久しぶりの一人旅です。
伊丹大阪空港~成田~アトランタ~ダラスと気が遠くなるような移動。ダラスからはグレイハンドに乗ってエルパソまで。エルパソでアメリカ=メキシコの国境を越えます。月末にはメキシコシティに着きますが、それまでどのルートで行くかは未定。なんとなくの風向きとか気分で決めたいと思ってます。
メキシコはなんと14年ぶりです。自分にまだ新たな次元が残っているか。刷新できる自分があるのか。どうなるか分からないけれど、とにかく出発。Vamos!!

Thinkpad R31

旅に出る直前にこんなにバタバタする予想ではなかったのだけれど、iPodのトラブルに加えて、先週深夜のチャット中に、もう6〜7年くらい使っているThinkpadが、突然異音を発しだして、作動不可能になった件もあった。昨年の夏頃から時々、へんな音がしていて、ちょうど映像の編集を始めたこともあって、インテルになって初めてのiMacを買って、一応バックアップ態勢は作ってあった。以来、かなりハードディスクが暑くなった今年の夏も乗り切って、ちょっと油断していたこの頃だったのだけれど、やはりもう限界が来たようだった。一度強制終了させて再起動してみると、OSを読み込めないとの、文字表示。やばいなぁ。バックアップがまだな書類とかもあったのに。もう一度チャレンジするとなんとか立ち上がったので、慌てて書類だけMacへコピーし、これ以上おかしなことにならないように、終了させた。

翌朝さっそく、以前メモリーを購入したことのある中部ノートセンターというIBMとThikpadを専門に扱っている会社に電話。ハードディスクを交換し、中身をまるまるコピーするサービスを依頼する。「来週旅行に出て、しばらく家を空けるので、一週間くらいで仕上げるか、帰ってくるまで預かってほしいんですけど?」というと、明日中に送ってもらえれば出来ますよとの快諾。実際は、木曜に送り、日曜日の昼には却って来た。きれいに掃除もしてくれて、ハードディスクはとても静かになった。動作も軽快になっている。なんだか新品に戻ったようで嬉しくなった。まだまだ使えそうだ。

ここは、中小の企業で対象を限定したサービスをしているから、もちろん客との距離がとても近いことがあるのだろうけれど、アップルの巨大な迷路のような通路を前も後ろも分からず歩き回らせられるような対応と比べると、なんと心地いいんだろうと思った。もし誰かが検索してこのブログを読んでくれたなら、お勧めしますぜひ利用し見てください。

Monday, October 22, 2007

そして、iPodの顛末....

ふぅ。2代目のiPodです。今月の6日にこのブログに初めてiPodを持った感想を書いたのですが、まさにその直後、iPodのソフトウェアのアップデートがあって、それを実行してから同期をすると、Coverflowの並びがおかしい。2枚組の一枚は、ぜんぜん違うところに飛んでるし、アーティストのアルファベット順に並ぶはずが、一巡した後にまたアトランダムに数枚のアルバムが並び出す。リセットや、リカバリーなど、不具合が出たときにするとされる対処法をいくつか試しているうちに、ハードディスクがおかしな音を立て、リンゴのマークがついたり消えたりして、USBで繋いでもウンともスンとも言わなくなってしまった。

翌朝早速、アップルのサポートセンターに電話を入れ、修理を依頼した。このあたりまではふつう。通常の修理の時にたどる過程とさして変わりはない。だんだんとおかしなことになっていったのはこの後から。

だいたい必要な日数とされていた一週間が経ってiPodは戻ってきた。開封してみると「検査した結果異常が見あたらなかったので、そのまま返却します」とのこと。??。あんなにおかしな音がしていたのに異常がない?
まぁとりあえず、コンピュータと接続して同期させてみる。なーんとなくいやな予感。
案の定、Coverflowのへんな並び方は直っていない。当然だろ。修理してないんだから(笑)。

再び、サポートセンターへ電話。受付をしたお姉さんでは埒があかないので、もっと詳しいお姉さんが登場。お姉さんの指示のもと、iTunesのライブラリを一度破棄して作り直す作業を試してみる。
結果は同じ。しかもおかしな並びは並びでもまったくアトランダムに並ぶのではなく、ちゃんとそれなりの論理に従って並んでいるようで、どんな作業を試しても、おなじような並びになる。

再び修理。今度は交換してもらうことになった。だんだん日にちだけが経って、まさかとは思ったけれど念のために、旅行に行く日までに届くかどうかを確認すると、「遅くとも月曜までには届きます」との返答だった。
お姉さんはベテラン風だったし、対応もしっかりしていたので、すっかり信用して待っていたが、待てど暮らせど届く気配はない。オンラインのステータスを調べてみても、発送が保留のまま何日も止まったまま。さすがに心配になってきて、週末に再再度サポートセンターに電話。

対応に出た男性は、今は状況が分からないので分かり次第電話しますとのこと。進展がなくても途中経過をお知らせしますと言ったまま、結局その日は連絡なし。まぁもともと、アップルは自分らに分からなかったり、都合の悪いことは平気で逃げる人たちが多いから、100%信頼してたわけじゃないけれど、連絡しますと言っておいて、知らんぷりというのはあまりにもひどいんじゃないか。

で、泊まりあけの今朝、再々再度サポートセンターに電話。週末とは別の男性が対応。落ち着いて話そうとしたけれど、時間もなくなってきてるしあまりにひどいことが多いので、つい恨みがましいことも口に出てしまう。
さすがに、そういういきさつだったので、今日の男性は状況を調べて折り返し電話をくれた、しかし旅行に出るまでには届きそうもないので、返金しますとのこと。

で、手続きは別の部署になるのでと、また電話が繋がるまで待たされる。
さんざん待たされたあげくでたカスタマーサービスの女性は「返金はできないので、現物を心斎橋のアップルストアに取りに行ってほしい」とのこと。取りに行くってオレが?なんでオレがわざわざ?

でも、女性はこの方法しかないと言うばかしなので、しかたなしに在庫を確認してもらう。
それを待っていると、もう夕方じゃないか。つーか取りに行くって、間に合うのか?
コールセンターに電話してもなしのつぶて。一か八か直接アップルストアに行ってみるか?なんて考え出した頃にやっとカスタマーサービスから返答があった。在庫が確保できたので、送ることもできますが?とのことだったが、勢いで取りに行っちゃった。ふぅ。

というわけで、やっと手に戻ったぼくのiPodです(笑
同期してやっとCoverflowもまともになった。さらに今まで、低音が割れていた曲もiPodはそういうこともあるそうなので、そんなもんなのかなって思ってたら、ちゃんと鳴ってるじゃないか!
アップルの人たちは、待たしたりすることには謝ったりはしてくれたけれど、商品が不良品だとはぜったい認めなかった。今回の交換も、修理の部品がないからという名目。決して不良品だから交換するじゃないんだなこれが。

しかし、対応する人たちすべてが、自分の権限でやれることがほんの少ししか持ってなくて、だから自分のやれることが終わったらハイ終わり。考えられる限りの無責任さで対応してくれた。これも一種のアメリカ流なんだろうか?色んな人にどんどん担当が変わって、それぞれが適当なことを言って、たくさん人と話したから少しは状況が進展したかと思ったら、まったく進んでないって気がついたら、まるで自分がカフカの小説の中にいるかのような目眩を感じたね。

まぁ、ちゃんとした新しいのが戻ってきたからいいけど。こんな役所のような仕事しててアップルって大丈夫かな?逆に心配しちゃうね。アップルはオルタナティブだと思ってたけど、ホントかな?すでにそうじゃないのかも知れない。ぼくらはもっと他のオルタナティブをすでに求めてるんだよ。たぶん。

Sunday, October 21, 2007

ウィングスタジアムへ

昨日は午後から、神戸のウィングスタジアムへ、ヴィッセルと横浜FCの試合を観に。現在メインストリーム協会が中心にやっている「西宮の介助制度をよくする会」では、バリアフリーなどの‘まちづくり’に取り組んでいて、阪神や阪急の事務所や営業所に出かけていって、駅の改善やノンステップバスの導入を要望したりしている。今甲子園球場は大幅なリニューアルの最中で、よくする会も、車いす席の数を増やすことなどを提言するつもりで、今回の観戦はそのために、「よくできた」スタジアムを見学しておこうという趣旨のためのものだった。
このスタジアムは、障害者を毎試合何人か無料で招待していたりして、案内をボランティアのおじさんたちが熱心にやっている。ぼくらも昨年は何回か足を運んだ。

夕方近くから気温がだんだん下がってきて、このスタジアムはもともとどこかから風がやってくるので、寒さに輪をかけていた、今年は暑かったのでなかなか夏の気分が抜けないのだけれど、さすがにもう冬の支度をしないといけないなと感じるような気候だった。試合は、3−0でヴィッセルの快勝だった。ここのところ調子のいい大久保は無得点だったが、彼がうまくディフェンダーを引きつけていたこともあって、ミッドフィルダーとディフェンダーの選手が点を上げていた。

帰りは地下鉄を元町で降りて、いつものように、丸玉食堂でビールを飲みながら夕食。いよいよ出発の日が近いことをぼんやり思いながら、忘れている買い物のことを考える。今回の旅は、人生の流れを少しばかし変えたかったからだったけれど、いつ人は旅に出るのか?と考えてみると、それは旅に出ると決めたときだろうと思った。実際ぼくの人生も少しニュアンスを変えつつある。

以前グァテマラのプエルトバリオスという港町で、一人中華料理屋でチャーハンか何かを食べていたことを思い出した。突然停電になり、そのへんのテーブルで食事をしていたグァテマラ人たちは、闇に紛れてどんどん店から逃げようとする。店の娘さんは、なにか分からない言葉で怒鳴り声を上げてシャッターを下ろし、客が店から出られないようにして抵抗している。
どこか丸玉の娘さんがそのときの女の子にそっくりだと思いながら、チャーハンを食べた。

Thursday, October 11, 2007

オペラが来る

兵庫県立芸術文化センターができて以来、そう数は多くないけれど、折に触れてクラシックのコンサートへ行く。クイケンとラ・プティット・バンドや昨年末のアーノンクールが率いるウィーン・フィルハーモニー。初めて生のウィーン・フィルの音を聴いたとき、ぼくはあんまりワインのことは分からないけれど、古いいいワインを飲んだときこんな満足感があるのだろうかと思った。曲目はブルックナーの5番だった。まさか西宮でウィーン・フィルを聴くとは思わなかった。
佐渡裕が音楽監督をしていて、彼はオペラも積極的に取り入れ、自分で企画した『魔笛』もたしかこの夏やっていたはずだ。そして、気が早いと言えば早いのだが、来年夏、いよいよパリの国立オペラが来る。今月にはもう、電話予約が始まって、2005年パリでやったときにチケットの争奪戦となったらしいワーグナー『トリスタンとイゾルデ』が、バルトークとヤナーチェクの日、ポール・デュカスの日とともにプログラムに載っている。全部観たいところだけれど、もちろん予算が許さないとすれば、やはりワーグナーをとなるのは仕方がないだろう。
パリでの上演の話題となったのは、舞台に全編ビル・ヴィオラのヴィデオを配置して、まるで上演ではなく上映のようにしてしまったピーター・セラーズの演出。上の写真がそう。今年の春、ちょうどこれも兵庫県の近代美術館でやっていたビル・ヴィオラの回顧展で色々見ることができたばかりで、中にはオペラの演出らしくないという意見もあるようだが、彼の映像というより演劇的な映像作りがどう絡むのか、パリでのこんなレビューを読んでしまうと、期待はどんどんと膨らんできりがない。当時のニューヨークタイムスにもこんな記事が載った。
うまくチケットをゲットできればいいのだけれど。

Saturday, October 6, 2007

遅ればせながらの....

旅支度のひとつとして、遅ればせながらiPodを購入。最近でたClassicの80GBだ。すでに時代はタッチパネル方式のiPod Touchに移りつつあって、今頃mp3プレーヤーデビューというのも、あまりにも遅いと自分でも思い、今更とも思うのだけれど、さすがに半月ほど家を離れるので、その間手元に音楽がないというのもちょっと無理というわけで、先週の東京行きを契機に購入と相成った。
だいたい、電車での通勤もないし、先日みたいに長く家を空けることも少なく、家にいるときは大抵音楽を流しているので、出先や外でわざわざ音楽を聴くということもなく、ヘッドフォンで音楽を聴くという習慣も遠い昔のことになってしまっていた。じつのところ、かつてはどこでもヘッドフォンをして閉鎖的な心理状態でどこでも行っていたので、おそらくいつだったか、意識して外の騒音とか、逆に風の静かな音を聞きたいと思い出した時期があったのだったと思う。
でもまぁ、買ってしまうと、目新しく、音楽自体が嫌いな訳じゃないし、外に出るときはどこへでも持って行ってしまっている。一週間ほど使って、iPodは、たんなる携帯型の音楽プレーヤーではなく、いくつかこれまでのウォークマンなどとは決定的に違うところがあると思った。すでにアメリカの音楽市場はiPod以前と以後とは激変してしまっているので、今更改めて指摘することじゃないけれど、iPodがあれば簡単にネットを通じて音楽を買うという習慣に移行してしまう。先日から気になっていたジョニ・ミッチェルの新譜を、買おうと思ってせっかくだからiTune Storeを使うか、それともやはりジャケットがあった方がいいかな、などと考えながら近くのHMVでCDをチェックしていると2400円。ITSでは、1500円。この価格差は大きく、これに慣れると、もうジャケットがあろうとなかろうと、わざわざCDショップへ行って音盤を購入するなどとは思わなくなるんじゃないだろうか。少なくともぼくは、よほど特別なおまけがついてたりしないかぎり、ちょっともうこの値段には戻れそうもない。それに、Cover flowという技術で、手のひらの中で、ジャケットをくるくると回して探すことができるので、どこにいてもまるで、自分の部屋にいるよう。ジャケットがないという欠如感をまったくといっていいほど感じなくて済んでいる。
で、色々、ストア内をうろうろしていると、こんなものやこんなものなど、昔何回も繰り返して聴いていて懐かしいものが見つかって、思わずクリックしてしまっていてちょっとやばい。
それと、mDAのブログをみたり、色々教えてもらったりしてると、音楽がもはや、留まることのないくらい、ネットを通じて流通していってるのを知り、そろそろぼくもiPodを手に入れて、こっちの世界もチェックしないとやばいかなぁって思い始めていたのも、購入の動機のひとつだった。CDを買ってという音楽の流通形態では、もはや新しいことや意外性のあることは起きなくなっていたけれど、ネット上では、どこで何が起こっているか、起こるかが予測がつかない。少なくとも、期待するだけのわくわく感を現在は保っていてくれていると思う。

Wednesday, October 3, 2007

障害者運動の新しい波

半年ぶりの東京。呼吸器くんが、ピアカウンセリングの講座を受けに行くのに同行して、もう一人最近入ったFTMの介助者とともに、4日間国立の多摩障害者スポーツセンターの宿泊棟に、まるで缶詰にされたかのように籠もっていた。実際この施設には、門限があって夜9時から朝の8時までは出入りできない。夜も早すぎるし、朝もお腹が減ってコンビニにパンでも買いに行こうと思っても、そこに見えているのに出られない歯がゆさ。まるで幽閉されているようだった。
呼吸器くんが講座を受けている間、新しく買ったipodで音楽を聴きながら、誰もいないプールの水がゆらゆらとする様を、懐かしいような気分で眺めている。交代してぶらりと国立の駅前まで散歩して、雨に降られて慌てて帰ってきたり、部屋では、無理矢理冗談を作り出してはケラケラ笑って過ごしたり、睡眠不足で疲れてしまって、なんとなく黙りこくったりして3泊の予定は終わった。
講座が昼までで終了した昨日、呼吸器くんと一緒に埼玉の与野まで、自立生活センターくれぱすを訪ねた。このセンターの代表と事務局長は、二人とも女性で、埼玉の国立の療養所を出て自立生活を始めている。両人ともなんとも言えない素敵な笑顔ができる人たちで、呼吸器くんが自分の病院での辛い経験を話す間の、人を包み込むような微笑みが忘れられない。
呼吸器くんが、自分の所属するセンターは脳性麻痺の人が中心で、筋ジスはあまりいないから、と言うと「でも、最近筋ジスも増えてますよね」と、彼女たちのどちらかが返したとき、ふとぼくがここのとろずっと考えている「障害者運動の新しい波」というフレーズを思い出した。脳性麻痺の団体だった青い芝から始まって、日本の自立生活センターは、脊頸椎損傷の人たちが主となって牽引されて来たと思う。そしておそらく今は第3の波とも言える、さらに重度の障害を持った人たち、筋ジストロフィーやALSなど筋疾患の人たちが自立へと向かう動きが始まりだしている。
ぼくが、こうした動きが面白いと思うのは、これまで比較的閉鎖的なコミュニティー内で活動してきた障害者運動も、さらに重度になった人たちに重心が移ると、地域でのもっともっと多くのリソースと関わって行かざるを得ない、介助者はもちろん、これまで敬遠されていた医師や看護師ともそうだろうし、あらゆるところで良好なコミュニケーションとネットワークを築かなくては生きていけない、そういう意味で、地域で生きるということが、もっと本当の意味での地域で生きるという意味を持つようになるだろうし、本当の意味でノーマルな生活が始めるだろうと思うから。
彼女たちは昨日まで、神戸でまた他の団体の人たちとピアカウンセリングのサポート講座をやっていたらしく、昨日また新しく出来た、ネットワークの繋ぎ目とともに、こうしてどんどん繋がって行って結び目が増えていくことこそが、ぼくの予感を実証してくれていると思うのだけれど。こうした動きは、これまでの個人のリーダーシップに任せた力による運動ではなく、静かに静かに進んで、気がつけばそこら中に柔らかい網が張り巡らされている。運動はこうしてイメージで実現するのではないか。

Monday, September 24, 2007

Joe Strummer

土曜日。松っちゃんとジョー・ストラマーの生涯を描いたドキュメンタリー『London Calling ライフ・オブ・ジョー・ストラマー(Joe Strummer: The Future Is Unwritten』を観に行く。8時半からのレイトショーなので、天満へ寄ってメキシコ料理のQue Ricoで、鳥を丸焼きしたものを、トルティージャ包んでビール片手に腹ごしらえ。久しぶりのメキシカン。天満のエスニック街の中にある屋台のような店で、軽く酔っぱらって至福な気分。
歩いて梅田まで戻り、テアトル梅田での上映。初日だったからか、驚いたことに指定席は売り切れ。立ち見での鑑賞だった。現か元だか分からないけれど、それなりの年齢の、革ジャンに身を包んだパンクスの姿がちらほら混じっている。
映画は、予想よりずっと面白かった。だいたいロックスターの生涯を描いた映画は、それほど興味を惹かないものだと思っていたが、首にしたりされたり、人間関係の愛憎が激しかったクラッシュというバンドができて、潰れていく様や、売れれば売れるほど、言っていることとやっていることの矛盾が激しくなって、最後のアメリカツアーでは、奇妙な虚無感が漂って、舞台にいるのは、脂肪のついたたんなる4人の中年男となっているのが、無惨だった。
すべてを失って、苦しい10年を乗り越えた後、ストラマーがメスカレロスを始めた頃の、人間として一回り大きくなった落ち着きと、静謐さに満ちた人生が感動的だ。彼の人生が、クラッシュで売れているときでさえ、闘いの連続で、自分でも何かが欠けているのだけれど、それが何だか分からないまま一生を過ごしてきて、やっとこれだったんだと分かったような瞬間だった。
ぼく自身、パンクの影響を受けて成長し、今ここにいる。ぼくが何を忘れてしまっているか。それを再確認し、背筋を正し直した、そんな夜だった。

Friday, September 21, 2007

Gustavo Dudamel

かなり久しぶりに紙媒体に記事を書いたです。こんな感じ。

 クラシックファンのあいだでは、すでにかなり話題になっているようだけれど、ラテンアメリカに関心ある方々にはどうなのだろう。グスタボ・ドゥダメル。1981年生まれ。弱冠26歳、ベネズエラ出身の指揮者だ。
 クラウディオ・アバド、サイモン・ラトル、あるいは、ダニエル・バレンボイムといった現代の巨匠たちに絶賛され、彼らの後見のもとにデビューしたドゥダメルの、まずこれまでの経歴をざっと見ておこう。生まれはバルキシメト。カラカスから西方280キロほど行った町だ。カラカスからマラカイボへ向かうハイウェイのちょうど中間あたりにある。父親がサルサのオーケストラでトロンボーンを吹いていたというのが、いかにもベネズエラらしい。すでに幼いときから和声や対位法を学び、10歳のときに初めてヴァイオリンを持って、同時に作曲の勉強も始めている。14歳の時に指揮の勉強を始め、18歳の時に、ホセ・アントニオ・アブレウにひきつづき指揮を学び、彼が創設したシモン・ボリバル・ユース・オーケストラの指揮者になっている。
 ドゥダメルが一気に世界的な名声を得たのは、2004年、南ドイツの名門、バンベルク交響楽団が主宰する第一回グスタフ・マーラー指揮者コンクールで優勝してからで、以後世界中のオーケストラから引っ張りだこの活躍。今シーズンは、ウィーン・フィルやベルリン・フィルでも指揮をする予定になっている。2009/10年シーズンからロサンジェルス・フィルハーモニーの音楽監督に就任することも決定した。

つづきはこちらでチェックしてみてください。よろしくね。

Tuesday, September 18, 2007

中村かれん

昨日、一昨日と京都の立命館大学で行われた障害学会へ行ってきた。
呼吸器くんが、千葉大学の大学院生の研究発表に共同発表者として名を連ねたため、介助者として一緒に行ってきた。呼吸器くんのいるロビーのポスター発表のところにずっといたので個々の研究者の発表は、ちゃんと聞けなかったのだけれど、両日ともシンポジウムはゆっくり座って、議論を追うことができた。一日目は、社会保障のひとつの方法として少しずつ、名前も浸透してきているベーシックインカムについて。二日目はろう者学と障害学の対話の可能性のようなテーマ。
シンポジストのひとりとして、数年前、うちの事務所に研究に来ていた中村かれんさんが来ていて、一日目のプログラムが終わった後の交流会で話しかけると、ぼくのことはすっかり忘れられてた(笑)。で、改めて自己紹介してしばらくお喋りした。
かれんさんは、エール大学の準教授。文化人類学者。生粋の日本人なんだけれど、両親の暮らすインドネシアやオーストラリアで幼少期を暮らすうちに、英語が第一言語で、日本語は後天的に学んだという経歴を持つ。日本人なんだけれど、ちょっとへんで、誰にでもすぐに話しかけるけれど、すぐに忘れてしまう。独特の軽やかさとユーモアを持ってる彼女のことがぼくはとても好き。
シンポジウムも彼女の話が圧倒的に面白かった。ろう者学に障害学は必要か?彼女はNoだと言っていた。彼女がやったアメリカと日本のろう文化の違いを比較した研究を駆け足で紹介した後、そうではなく障害学にはデフ・カルチャーというしっかりしたバックボーンを持つろう者学が必要だと締めくくった。それは、簡単に言うと、障害学にはもっともっと当事者の視点が必要だということだった。
彼女は今、北海道の浦河にある、精神障害者の支援で有名なべてるの家で研究をつづけているのだけれど、当事者が主体になっていると言われるべてるの家でも、まだ支援者の方が強いと言い、べてるから支援者を取っ払ったのがぼくが勤めているメインストリーム協会だと言ってくれたのが、かなり誇らしかった。かれんさんは、ポーカーや競馬をメインストリーム協会で学び、それをアメリカの学会で発表したと、いたずらな笑いをしていた。
今回改めて、かれんさんのことを検索しているとこんなサイトも作っていることが分かった。そう言えば統合問題で何度も厚生労働省前でデモしたとき、カメラを持って抗議する人を撮っていた彼女を思い出した。

Sunday, September 9, 2007

temblar(10) una ciudad destruida

一昨日、久しぶりに神戸まで、チャリで出掛けた。いまだに30℃を超える気温で、どれだけ出るんだというくらい汗がでる。神戸はメリケンパークまで。今少しずつ準備している"temblar"というタイトルのビデオのためにいくつか撮影をする。"temblar"は、今翻訳しているアルベルト・フゲーの小説『Las películas de mi vida 』に、ぼく自身の人生を重ね合わせて見ようという試み。以前に触れたこともあると思うけれど、フゲーとぼくはほぼ同世代。『Las películas de mi vida 』は、彼がかつて見てきた映画を振り返りながら自分自身の人生を振り返るというもので、当然ぼく自身も成長の過程で見てきたものも多いし、見てないにしても、だいだいどんなものかは知っている。
フゲーは、10歳くらいまでカリフォルニアで育ち、その後軍事政権下のチリへ戻った。その後、アメリカの大学へ留学して、作家となる修行をした。英語とスペイン語の二重生活が彼の作品を規定している。ぼくは、大学を出た後、南米を旅し、サンティアゴでしばらく勉強していたこともある。日本語とスペイン語の二重生活はぼく自身の人生を規定している。育った場所も文化もまったく違うが、重なる部分もある。
しかし、フゲーというまだ翻訳も出ておらず、まったくというほどここでは知られていない作家と自分の人生を重ねてみるということが可能になったのは、明らかにグローバリゼーションという今の時代が背景にある。あっちとこっちではなく、映画というグローバルな文化に支えられた、一つのぼくらの世界がある。そんなこととかも描ければいいのだけれど。

神戸まで行ったのは、フゲーの小説のこんな一節を読んだからだ。

『ブリット』は、父と母と観た。スティーブ・マックイーンの出ている他のすべての映画と同じように、また車とスピードに関連した他の映画と同じようにだ。『ブリット』は、すぐさま父を思い起こさせる。ほとんど反射的にだ。そのとき、私たちが一緒に観たときのことは曖昧にしか覚えていないのだが。
 数年前に日本で、もっと正確に言えば神戸で、95年の地震の後で、緊急で現場での会合が催された。地表での長い一日を終えて、私の崩れたホテルの微細な部屋へ帰った。テレビをつけ、『ブリット』のスティーブ・マックイーンを見た。マックイーンがパジャマを着ているのが注意を惹いた。そんなことは思いもしなかったのだ。そして何か日本語で言ったが、当然分からなかった。しかし見つづけた。そして、マックイーンが私の父と同じように、彼の家族とほとんど話しをしないのに気づいた。『ブリット』の筋を追うのは、とても容易かった。天才であったり、国連の同時通訳であったりする必要はなかった。起こることは、ごく単純だった:一人の刑事が、護らなければならなかった証人を殺され、自分で制裁を加えることにする。テレビを消さず、つけっぱなしにして、唯一覚えているシーンを待った:サンフランシスコの通りでの激しい追跡劇で、ラロ・シフリンの音楽がバックで鳴り響いている。マックイーンは緑のマスタング390GTに乗って丘を飛んでいる。
 普段は父のことは思い出したくないし、スピードの出る車やきっちり止まらない車のことを考えるのも嫌なのだが、『ブリット』は、私たちに絆のようなものあったわずかな数年間を思い出させる。実際に、私たちが繋がっていたことがあるかどうかもわからないのだけれどだ。おそらく私にとって大きな過ちは、チリに生まれ、コンセプションで数ヶ月を過ごしたこと、そしてソレールよりニーマイヤーであったこと、牛乳屋やパン屋の道に進まず、地震学者になってしまったことだった。あの夜、アクセルを踏んだとき、『ブリット』と『栄光のル・マン』のこと、スティーブ・マックイーンとポール・ニューマンのこと、黒いポルシェと黄色いBMWのことを思ったのを覚えている。

震災の前後、ぼくの人生はかなりめちゃくちゃだった。チリから帰って、精神のバランスを崩して元町にあるクリニックに通って定期的に精神分析を受けていた。箱庭療法なんかもやっていてぼくが使うアイテムといえば、いつでもマリアさまの像と花と、ギターだけだった。毎回毎回そんな日がつづいたとき、ぼくは初めて車を使ったらしく、その後カウンセラーの女性は、それは「父親」を象徴していると説明した。それが妥当なのかどうかわからないけれど、自分の中に父性のようなものが欠けているのはよくわかっていたから、すんなり納得はしていた。フゲーがやはり、車と父親を、結びつけているのは偶然なのかどうなのか。これも世代的な括りで理解した方がいいのか。しかし、ぼくの父親は、たしかに車に情熱を持っていた。当時大阪で2台しかないというポルシェに乗っていたし、外国語の車の雑誌やレースを実況したレコードやミニカーが部屋を一杯にしていた。ぼくこそ、車と父親とを関連づけるのに相応しいとは思う。

このころ、それまで即かず離れずでいた大学時代の同級生との関係がどんどん深くなっていた。彼女には夫も子供もいたけれど、寂しすぎて傲慢になっていたぼくらには、そんなことはどうでもよくなっていた。会うときはよく神戸に来てお互い不安なままよく海を見ていた。だんだんそんな関係に無理に来ていた頃、震災が起こった。薬を取りに行くためクリニックへ行かなくてはならなかった。電車が全てストップしていたので、そのとき唯一の交通手段で、今津から船でメリケン波止場へ着いた。船の上から神戸の方を眺めると、よく晴れた天気で、静かな光景が遠くにひろがっていて、ほんとうに地震が起こったのか?と思うくらいだった。メリケン波止場のぼくらがよく座っていた辺りは、ぼろぼろに崩壊していて、まるでぼくらの関係を象徴しているみたいだった。

色んなことを思い出しながら、撮影を終え、帰りに六甲道に寄り、山手幹線沿いの四川で昼食。香辛料のよく利いた麻婆豆腐がおいしい。そのまま山手幹線を東へ走らせて帰る。工事がつづいているがだいぶ芦屋に近いところまで完成していて、まだそんなに交通量も多くないので、道路を独占して気分もよい。

Friday, September 7, 2007

The Virgin Suicides

夕方テレビでこんなニュースが流れているのを聞いていると、昨日借りてきた見たソフィア・コッポラの『ヴァージン・スーサイズ』の一シーンを思い出し、奇妙な符号に変な感じになった。
ソフィア・コッポラは、東京が舞台になった『ロスト・イン・トランスレーション』を見て以来お気に入りの監督の一人で、今年の『マリー・アントワネット』もキッチュな感覚と、ぼくらの世代にとっては懐かしいニューウェーブのロックが全編流れて、こちらも大好きな一本になった。
昨日見た『ヴァージン・スーサイズ』は、1999年の処女作で、見るまでは習作的な映画なんだろうと勝手に思ってたのだけれど、これは、少女から大人になる頃の女の子の、その頃の女の子を経験しないとわからないような、微妙で繊細な感受性を描いた、一連のソフィアの映画のエキスがそのまま凝縮されているような、習作なんてとんでもない、混じりけのないソフィア・コッポラが堪能できる映画だと思った。映像に映ったこと=現実、ではなく、漫画的な書き込みを映像に施して、全体を批評的な枠組みに入れてしまう彼女の手法もすでにあらわれている。
原作はアメリカの作家、ジェフリー・ユージェニデスが1996年に発表した「ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹」。アメリカの中産階級を絵に描いたような一家で、母親の厳しすぎる育て方がだんだん、娘たちには抑圧でしかなくなり、最後には5人いた娘はすべて自殺してしまう。

Wednesday, September 5, 2007

Thursday, August 30, 2007

アトレティコのリケルメ

開幕戦のマドリッド・ダービーが放映されなかったり、セビージャのプエルタが急死したり、何かと物々しい幕開けとなっているスペイン・リーグだけれど、今月末の夏のマーケットの終了期限を前にビッグな契約のニュース。
われらのリケルメさまが、前々から噂のあったアトレティコ・デ・マドリと2シーズンの契約で合意したとスペインのラジオ局Serが伝えたことによりスペイン国内のメディアが一斉に報じている。レクレアティーボからレンタルを終えて帰ってきたカソルラに、背番号をとられて、完全に干された状態で次の移籍先を待っていたリケルメ。直前のニュースではプレミアのトットナムと交渉中とされていたが、本人の希望どおりスペイン・リーグに残れて、放出するビジャレアルも含め、3者満足のいく移籍ではないかと思う。

Sunday, August 26, 2007

リーガ・エスパニョラの開幕

さて、いつものように夏の終わり。長い長いスペイン・サッカーのシーズンが開幕した。WOWOWで録画していたレアルアトレティコのマドリッド・ダービーを見ようと再生してみると、ボリュームをおとした画面でアナウンサーのお姉さんが頭を下げている。嫌な予感。「配信元の都合で放送できない」??

第1節「レアル・マドリード vs アトレティコ・マドリード」の放送について8月26日更新

8月25日(土)深夜2:55より生中継を予定しておりました、スペインサッカー リーガ・エスパニョーラ07-08シーズン 第1節「レアル・マドリード vs アトレティコ・マドリード」につきまして、スペイン現地権利元の都合により、急遽放送中止となりました。番組の放送を期待されていた皆様に深くお詫び申し上げます。

その他の放送予定カードを含め、今後の放送につきましては、情報が確定次第、WOWOW ONLINEにてご案内致します。視聴者の皆様には大変ご迷惑をおかけ致しますが、何卒ご了承のほど、よろしくお願い申し上げます。



うーん。去年も確か契約がうまく進まなくて最初の放映がうまくいかなかったと思う。今回はWOWOWとの契約ではなくて、海外への放映はすべてストップしているらしいかららしいが、どちらにしても開幕前に問題は解決してほしいもんだね。Cadena Globalによれば国内のネットどうしで揉めているからだという理由でそれ以上はわからなかったけれど。カードがよかっただけに、なんじゃそれ?って感じ。
試合は、アグエロが試合開始直後にゴールして先制。ラウルが同点にして、後半アヤックスから新加入のスナイデルが得点して逆転。レアルが勝った(ちなみにこのリンク先のビデオも国外では見ることができない)。

Saturday, August 25, 2007

cien niños esperando un tren

昨日、シルビオの記事を書いた後たまたま借りてきていたイグナシオ・アグェロのドキュメンタリー『100人の子供たちが列車を待っている』を見る。1988年のチリ映画で、ピノチェットの政権がほとんど終わりかけている頃に撮られている。サンティアゴ郊外の小さな村で、アリシアという女性が、教会で子供たちに映画を教える模様を追っている。子供たちはその地区に住む経済的に恵まれない家庭から教会に通い、学校もろくに行ってない。冒頭で映画を見たことがあるかと訊かれるのだけれど、ほとんどが劇場に行ったことすらない。わずかに答えていたのが「ロッキー」だったので、80年前後の話しだろうか。
教会の映画教室といっても、そこがふつうと違うところなのだけれど、子供が歓びそうな映画を選んで見せるだけでなく、写真からエジソンとリュミエールを経て、映画が誕生する様を当時の実際の映画と、穴あきカメラや、パラパラ漫画のような実験を作ってみたりしながら、再体験しながら学んでいくのだ。最後に子供たちは、政権に抗議する映画をみんなで作るのだけれど、そこでしっかり「表現する」とは何かを彼らは学び取っていた。映画もさることながら、こうした試みが当時のチリで行われていたことが凄いことだったと思う。たしかにピノチェットの時代も終わりにかかっていて、一時はよかった景気も傾いて、政権の求心力も衰えていた時期とは言えだ。ここにはいくつかの子供時代が重なっていると思う。映画の子供時代と、子供たち。だから子供たちは違和感なく、映画の創世を学んでいく。そしてアリシアが子供たちに託した新しいチリがそこまで来ている。
それにしても、チリは少し中心を外れると、ほんとにみんな貧しくボロボロだったことを映画を見てあらためて思い出した。それはこの映画の80年代だけでなく、2003年に行ったときも変わっていなかった。おそらく今もそれは変わっていないのだろうと思う。

イグナシオ・アグエロの最近の映画がここからまるまる見ることができるようだ。
"La mama de mi abuela se lo conto a mi abuela"video→
"Aqui se construye"video→

Friday, August 24, 2007

聖シルビオ

最近のヘビーローテーションは、ポンセーニャの92年のアルバム"Guerreando"。ここに入ってるシルビオ・ロドリゲスのCausas y Azaresが好きで時々繰り返して聴きたくなる。はじめて聴いたのがこのポンセーニャ・バージョンで、ぼくにとってこの曲はポンセーニャのものとして覚えられている。後になってシルビオがやったオリジナルも聴いたけれど、中途半端なサルサであまりいいとは思えなかった。ぼくにとってのシルビオはやはりここに貼り付けたビデオのようなアーティストだ。しかしながら、youtubeには、驚くほどのシルビオの映像がアップロードされている。著作権のようなややこしいことを言わず、シルビオは「民衆のもの」であると本人も考えているからだろうか。ここで見ることのできるチリでのライブでやったCausas y Azaresは1990年のもの。この観衆の異常な盛りあがりは、シルビオのライブを見れると言うことが、チリ国民にとって何よりもピノチェト時代の終わり=冷戦の終わりを意味したからだっただろう。とても美しい光景だと思う。

Cuando Pedro salio a su ventana
no sabia, mi amor, no sabia
que la luz de esa clara manana
era luz de su ultimo dia.
Y las causas lo fueron cercando
cotidianas, invisibles.
Y el azar se le iba enredando
poderoso, invencible.

Cuando Juan regresaba a su lecho
no sabia, oh alma querida
que en la noche lluviosa y sin techo
lo esperaba el amor de su vida.
Y las causas lo fueron cercando
cotidianas, invisibles.
Y el azar se le iba enredando
poderoso, invencible.

Cuando acabe este verso que canto
yo no se, yo no se, madre mia
si me espera la paz o el espanto;
si el ahora o si el todavia.
Pues las causas me andan cercando
cotidianas, invisibles.
Y el azar se me viene enredando
poderoso, invencible.

Thursday, August 23, 2007

temblar(9) a border

秋に短い旅をしようと、久しぶりに「Mexico & central america handbook」を取り寄せた。この本はもともとイギリスのRand McNallyから出版されていた「South American Handbook」から、16年前にメキシコと中米の部分が分かれてできたもので、当時の'Handbook'という呼称も今は取れている。ぼくが初めてこの分離前のハンドブックを手にしたのは1988年だった。メキシコ・シティで買った。ジョン・ブルックスという人が編集していて、翌年彼が急死して、編集方針が変わったらしく、メキシコと中米、カリブが独立して、どんどん冊数が増えていった。かつては、聖書のように分厚いと云われていても、それ一冊でラテンアメリカ全部をカヴァーしていて便利だった。紙も薄く作ってあったので、マリファナを巻いて吸うなんていう使い方もあった。ラテンアメリカを長期に旅をするのに、そんなに何冊ももって歩くなんていうのはありえなくて、そういった長期にわたる旅のスタイルも終わったのか、時代は90年代に入っており、だんだんせちがらくなって行っているような気分にさせられた。サウスアメリカのハンドブックは、ベン・ボックスという人に引き継がれ、今ももちろん健在。なんと84版になる。
さて、このハンドブックのシリーズ、出版社も変わっているようで、Footprintという会社。以前は堅い表紙の本だったが、それもペーパーバックになっている。見やすいが旅行に持って行くとすぐにボロボロになるんだろうな。そのメキシコ版、めくってすぐ見える内表紙が上の写真。"A border is always a temptation"というラリー・マクマートリーの言葉がぐっとそそる。
そもそも、今回の旅は、ちょうど20年前の今頃の季節に初めて旅に出て、アメリカ〜メキシコのボーダーを越えたことを思いだし、ふともう一度あのエル・パソ〜フアレスの国境を越えてみようかと考えたのがきっかけだったから、この一節にはグイッと心臓を捕まれるような気分だ。
なぜ人は旅に出るのか?なぜぼくは旅に出るのか?
すべてが終わってしまって、もう旅に出ることしかなくなってしまったような気持ちになったからじゃないだろうか?旅にはとってもいい風が吹いていると思う。

welcome to my home


拡大地図を表示
今日のニュースから。Google Mapに新しい機能が付いて、ちょうどYoutubeの動画をコピペしてブログに貼り付けるように、任意の場所の地図を貼り付けることができるようになったらしい。早速試してみたが、どうだろう?ちゃんと表示したかな?
ぼくの家はここです。どうぞ遊びに来てください。

Tuesday, August 21, 2007

Inland Empire

昨夜。シネカノン神戸のレイトショーでデイヴィッド・リンチの『インランド・エンパイア』。
平日の夜でもあるし、客は5人ほどしかいなかった。いわゆる大作でも、歴史を描いた史劇でもないのに3時間もある。しかしそれがまったく退屈することもなく、終わりのない音楽を聴くような気持ちで酔ったように観ていた。宣伝のコピーである「3時間の陶酔」がぴったりだと思った。
リンチの映画を劇場で観るのは何年ぶりだろう。ひょっとして『ローラ・パーマー..』以来かも知れない。数日前に『ストレート・ストーリー』をビデオを借りて観て、そういえば今新しいのをやっているはずだと思い出して観に行った。これは、傑作であったり映画史に残ったりするような作品じゃないのかも知れないけれど、ただとても好きな映画だとは言える。発売予定のDVDには、編集でカットされた部分が大量につけられるという話し。この作品は、初めてデジタルヴィデオのカメラで撮っていて、撮るのは簡単だし、安いのでどんどん撮ったのをカットするのは忍びなかったのだろうと思う。カメラはソニーのDSR-PD150。すでに生産は中止されてPD-170に引き継がれている。実物は見たことがないけれど、知り合いでドキュメンタリーを撮っている男の子が持っているやつと同じだ。手持ちができるハンディなタイプで、映画でも、監督自身が持ったふらふらした映像が活躍している。
ちなみに、ウサギの役はナオミ・ワッツがやってるらしいけど、これじゃどれだかわかんないね。(^_^;

Saturday, August 18, 2007

temblar(8) sismo, perú

新潟で地震が起こり、ペルーでもまた起こった。揺れに感化されるかのように市場も揺さぶられ株が暴落している。まるで世界中が揺れているよう。このシリーズで何度も触れたように、ぼくらはひっくるめて「地球」なんだから、おそらくこれらはみんな同じ出来事の、様々に見える局面に過ぎないのだろう。
しかし、ペルーの地震は、時間が経つにつれ被害がどんどん拡がっていく。500人以上の人が死んでいる。記録に残る大地震の規模になってしまった。今朝のニュースでは、分配品を奪い合ったり略奪が起こったりと、二次的な被害が問題となりつつあるようだ。被害のニュースをテレビでみていると、「Las películas de mí vida」のこんな箇所を思い出した。
チリの首都サンティアゴ北部にある、コキンボ近郊の村プニタキで起きた地震の調査で研究所を代表して現地に赴いた主人公は、この活躍をきっかけに出世の道を歩む。サンティアゴとプニタキの関係と、今回の首都リマとピスコとの関係がどこか同じように見える。どちらも太平洋岸に近い乾燥した地域にある。自ずと住居は泥を重ねた簡便なものになりやすいのだろう。

--------------------------Las películas de mí vida----------------------------
 1997年10月14日午後10時3分、時報を知らせたちょうどその後、私はセニョーラ・メルセデスの店でこしらえたソーセージとライスを食べながら研究所にいて、地震計の針が振り切れたのを見た。すぐに、これは私にとって試金石になると思った。研究所の職員として初めての地震だった。
 この地震は、第4行政区に被害を与えた。震源地は、イジャペルの南西23キロだった。コキンボとラ・セレーナ、コンバルバラ、オバージェ、ラ・チンバ、パイウアーノ、そして小さなプニタキの町で強い揺れを感じ、プエブロ・ヌエボの農家で、岩が屋根を直撃し、一家がまるごと瞬時にして命を奪われた。
 電話が鳴った。ラジオ・コーオペラティーバからだった。また鳴り、それはラス・ウルティマス・ノティシアス紙からだった。電話は鳴りつづけた。私が上司に電話を入れると、彼は、
 「スポークスマンをやってくれ。君は若く、真面目そうに見える。しっかり貢献してくれるだろう。パリで博士号を取ったって言うのを忘れるなよ」と言った。
 取材陣を研究所に呼んだ。彼らが到着すると、まったくたくさん来たのだが、こう発表した。
 「地震の規模はマグニチュード6.8でした。被害にあった人の数はまだわかっていません。しかしおそらく犠牲者はいるだろうと思います。国家安全局と第4行政区庁からまもなく発表されるでしょう。しかし、これは断言できますが、地震計が指した値と同じだけの被害はあるでしょう。このあたりは貧しい地域です。住居はアドベで出来ています。こういった場合、メルカリ震度を用いた方が体感を計るのには適切で、現在までの情報を鑑みると、震度9のプニタキは、皆さん、もう跡形もありません。いまだに揺れつづけている地面の上に倒れているのでしょう」。
 朝になって、私が読んだ新聞は全紙、プニタキの町は全滅していると書いた。私の不幸な発表以来、プニタキは大災害ということになったが、バルディビアよりも被害が軽いのは明らかだった。大地に亀裂が入ったわけでもなく、津波が来たわけでもない、記録的な何かがあったわけでもなかった。その崩壊した町では、8人の死者が出たが、その場所の住宅の半数以上が倒壊したと考えられるにしては、考えられない数字だった。
 プニタキとその周辺には5日間滞在した。私は自分を俳優のように感じた。何年もの下積みの後、とうとう本物の舞台の上に立ち、入場料を払った観客がそこにいるのだ。人々は私に寝床と食事を提供した。皆が私のことを信頼していた。新聞は一面に私を載せ、国中のいくつものラジオで何時間も話した。
 意図したわけではないが、あるいはおそらく、ずっと前からそうしようはしていたのだろうが、私はその町、その地域についての権威になっていた。自分が有用な人間であると感じたり、敬意を持たれたり、何某かの者として扱われるのは心地よかった。
 「また起こるだろうか?」、エドゥアルド・フレイ大統領が、プエブロ・ヌエボで私に尋ねた。
 すぐに答えずに、しばらく考え、砂漠とアンデス裾野の強烈な太陽の日差しを受けた彼の顔を見た。その瞬間私はこの国の運命の支配者だった。
 「その質問は、大統領、起こるかどうかではなく、いつ起こるか、です。この国では誰もその質問をしないし、したくないのです。チリでは、すべて皆死んでしまうのです。たしかにそれはすべての人間の運命かも知れませんが、私たちにはさらにもう一つ掛けられる十字架があるのです。すべて私たちは、おそらく私たちを全滅させてしまう、私たちが勝ちとってきたものすべてを破壊してしまう地震に見舞われるのです」。
 朝になるまでに私は、プニタキの最も権威ある機関の重要人物になっていた。大きな余震が起こった後、人々は自主的に様々なことを私に告白し始めた:「父親から盗みをはたらきました」、「娘を犯しました」、「女装するのが趣味なんです」、「弟の息子は私の子供なんです」。
 サンティアゴに戻ると当時の研究所の所長は、私を停職させると脅した。スポークスマンをすることを禁じ、起きたことは忘れろと言った。
 「これは科学なんだ。見せ物じゃないんだ」、こう真面目な顔をして言った。
 「仰るとおりです。もちろん見せ物じゃなんかじゃありません。スポークスマンをやりたいわけじゃないんです。ただ、もう少し多く知ることができたらいいと思ってるだけです。次の学期は授業を受け持ったらと思ってるんです。現場に行って調査がしたいんです」。
 これは5年前のことだった。そして今は私が研究所の所長だ。

Monday, August 13, 2007

Sirocco

昼下がりの道を自宅まで歩いていると、風がまるでドライヤーの口から吹いてくるような熱さで顔にあたり、これはまるでシロッコのようだと、体験もしたこともない風の名前がふと口について出た。
今日は、ほんとうなら泊まり明けの月曜なのだけれど、日曜夜のいつもの泊まりが休みとなっているので、お盆休みらしい休みとなって嬉しい。朝から、姪っ子を連れて、父方の墓参り。霊園横の服部緑地で姪っ子を遊ばせて、帰りに伊丹の空港でお昼。飛行機が飛び立つのを眺めながらアイスを食べて帰ってきた。帰りの道路に標示される温度計はずっと35℃。エアコンをがんがん利かせても、室温はあまり下がらなかった。
そうして、実家から歩いて帰っていると、まるでシロッコ。甲子園球場の声援が、どこか次元の違う場所から来るように聞こえる。
おそらく、ぼくがシロッコという言葉を覚えたのは、ヴィスコンティの『ベニスに死す』を観てからなんじゃないかと思う。地中海から吹くシロッコにのって疫病が蔓延しているベネチアで、少年に恋するエッシェンバッハは構わず避難もせず滞在をつづける。流れるマーラーの5番の4楽章。そういえばマーラーを知ったのもヴィスコンティ経由だった。ヴィスコンティは映画を通じて色んなことを教えてくれた。アブノーマルな性愛とか、一見貞淑な女性の恐ろしさとか。

最近手にしたゲオルグ・ショルティの最後の録音であるマーラーの5番はとても素晴らしいと思った。長く在籍したシカゴのオーケストラを退任し、スイスのトーンハレ管弦楽団とやっている。初録音もこの楽団だったらしい。この曲は、誰がやっても曲の持つヒステリックさのようなものに翻弄される部分が出てくるのだけれど、この録音は全編まったく落ちついている。曲の細部をまるで自分の庭を歩くように周遊する。この交響曲はマーラーのキャリアの真ん中くらいに位置しているのだけれど、すべてのキャリアを終えて、最後からまたこの曲を眺め直しているようだと言ったらいいだろうか。まるで昨日生まれた曲のように演奏したドゥダメルの演奏を最近聞いたばかしだったので、この二つのコントラストがまた興味深かった。

Friday, August 3, 2007

Gustavo Dudamel, revolución

久しぶりに、雑誌用に記事を書いていて、これはそのメモ的なリンク集。記事はベネズエラの26歳の指揮者。グスタボ・ドゥダメルのもの。ドゥダメルは、ベネズエラのバルキシメトに生まれて子供の頃から音楽教育を受け、14歳の時から指揮の勉強を始めている。2004年に、バンベルクで行われたグスタボ・マーラー指揮者コンクールで優勝したときから一気に注目を集めることとなった。
スペイン語のプロフィール
英語のプロフィール
日本語のプロフィール
Wikipedia
Gustavo Dudamel
最近のガーディアンにあったドゥダメルについての記事。
Orchestral manoeuvres

彼が音楽監督をしているベネズエラ・シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ。
Sinfónica de la Juventud Venezolana Simón Bolívar
このオーケストラの育成システムを取材したガーディアンの記事
Land of hope and glory

BBCの記事→Más allá de los acordes
BBCの→ビデオニュース

高松宮殿下記念世界文化賞
若手芸術家奨励制度

Tuesday, July 31, 2007

そして、アントニオーニも

昨日ベルイマンが亡くなって、スペインのエル・パイースを開いたら、なんだまだそのまま記事が載ってると思ってよく見ると、今度はアントニオーニだった。中学生になった頃どんどん映画に興味を持つようになって、こうした巨匠たちが世界中にはいることも知った。古い映画をやる映画館に、ときに学校をさぼって観に行った。「神の死」とか戦後の現代化していく社会のぎりぎりの孤独とかを描いた作品をわけもわからず観ていた。しかしそんなものは、悩むこともなく当たり前の社会になったか?20世紀が過去になっていくような感覚。一つの時代の終焉、というには皆桁外れに長寿であった。そういえば、先日新藤兼人が90歳を越してまだ映画を撮っているという番組もやっていたね。

Monday, July 30, 2007

『こんなとき私はどうしてきたか』

敬愛する精神科医中井久夫先生の新刊。大学を退官して後、西宮と宝塚の境にある有馬病院で医師や看護師を相手に、これまで経験してきた精神科医としての体験を講義したものを纏めてある。中井久夫のエッセイは、ほとんど読んでいるけれど、この新刊もそれほど専門的ではなく、ごくごく一般的な本として読める。内容はすでに、これまで出されているエッセイの中にも散見されることも多いけれど、治療者を前にしてそれが一つの纏まりなあるものとして読むことができる。統合失調症の専門家として語ったものなので、ほとんどがその患者に関するものだけれど、人生で困難に出会ったときの処方箋として、そのまま使えそうな気もする。回復とは、山の頂上を目指すことではなく、いかに転がり落ちないかに注意しながら、麓を目指すことである、なんていう至言が、あちこちに散らばっている。
すでに70歳を越え、大病もした後なので、あとどれだけ彼の文章を読むことができるかと考えると、1行1行が、貴重なものに思える。こんな老人になりたいと思える人物の一人であり、彼が阪神間の文化について書いた文章を読んで、ここで暮らしていることに誇りと満足感を覚える。ぼくが、詩を読むことを目指して、スペイン語を勉強してきたのは、仕事の傍ら、ギリシアの詩人の翻訳を出してしまう中井久夫の姿に憧れてだろうと思う。斎藤環が、中井久夫の本の中に自分の本の引用があったのを発見して、狂喜したと書いてあったのをみてその気持ちがとてもよくわかった。自分の未熟さが恥ずかしいかぎりだけれど、少しずつでも近づきたいものだね。

Monday, July 23, 2007

蕎麦と焼酎とラボー

仕事終わりのホッとしたひととき、さっと湯がいた蕎麦に、パリッと焼いた海苔。それと焼酎とラボー。こんな夜もある。いただきます。
GRDigitalが、故障で修理中なので、久しぶりにT1で。
Entre el bien y el mal seguirá el amor...
(善と悪の間で愛はつづいていくものなんだよ)...

The Killing of a Chinese Bookie

WOWOWのカサベテスの特集で、見残していた最後の一本。『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』。今回の一連の作品では、一番気に入ったかも知れない。もともと、135分の作品が108分にカットされて公開されていたらしい。今回は135分のオリジナル版。
しかし、そもそも人生とは2時間と15分くらいに感じられるもんなんじゃないか?
そんな冗長な、何でもないことやくだらない細かい事柄が積みかさなったものが人生なんじゃないか?今回の特集の彼の2時間を超える作品を見て、いかにぼくらは切り刻まれて、適当なストーリーに仕立て上がられたものばかしいつも見せられているんだろうと思った。
生の人生そのもの。
1976年。ファニアとパンクが交差した年。
血を流しながら、自分のナイトクラブの前に立ちつくすギャザラが、
ふと、サントス・コロンのイメージと重なる。
しかし、それらが共通の価値観のもとにあったのは、間違いがない。

Monday, July 16, 2007

それで結局....

それで結局、頂点に立ったのは、ブラジルだった。今日はちょっと見れなかったのだけれど。しかも録画も忘れたのでどんな試合だったかもニュースを読む程度でしか知りようもないのだけれど、スコアが3-0?なんでこんな一方的になるのだろう?ワールドカップのとき、ノリノリで予選を突破したのはいいけど、後一つ勝っただけでそれ以上行けなかった、あの結果からあまり学んでいないような気もする。
[Goles:1-0 (min 4, Julio Baptista) 2-0 (min 40, Roberto Ayala en propia puerta), 3-0 (min 69, Dani Alves)]
ブエノスアイレスの新聞は、選手の敗戦の弁を伝えている。<Clarín>リケルメのこの深刻な表情。「こんな風であってはいけなかった。しかし結果は見てのとおりだ。サッカーというのはこういった風に気まぐれなんだよ」。オウンゴールを献上してしまった、DFロベルト・アジャラ。

しかし、ドゥンガのこのコメントも泣かせる。「我々はブラジルサポーターのプライドを保つべくここに来たんだ。(ブラジルの)労働者は朝早く家を出て、夜遅くに帰ってくる。そんな彼らが満足を得られるのは、ブラジルが勝ったときだけなんだよ」

Sunday, July 15, 2007

タパチュラ

台風一過で、晴れ間が出ているので、自転車ででかけられるのが嬉しい。外へ出ると強烈な湿気。台風が運んできたどこか南の島の空気のよう。記憶が自然と検索して、過去のデータと一致させる。そうこれはどこか国境あたりの町に行ったときの感じと一緒だ。Tapachula,la ciudad frontera..タパチュラ。国境の町。むせ返るような湿気が、身体にべっとりまとわりついている。

Thursday, July 12, 2007

そして、アルゼンチン

そして、今朝は準決勝ののこりもう1試合。メキシコとアルゼンチン。前回のワールドカップからとても完成度の高いチームを作り上げてきたメキシコは、超英雄ウーゴ・サンチェスが代表監督になってさらに完成度が高まっている。(ぼくはちょうど彼が、レアル・マドリーで活躍している頃、メキシコでスペイン語を勉強していて、人気者で色んなコマーシャルに出ていたが、そのなかでも、歯磨き粉かなんかの宣伝で、にっこり白い歯を見せて笑っている姿が忘れられない)。
アルゼンチンも相変わらずのスター揃いで、なかでもビジャレアルからボカへ帰ったリケルメが、ワールドカップやチャンピオンズリーグで敗れて、周りから色々言われたり、さらに脅しを受けたりしたのにうんざりしていたのが、かつての姿を甦らせたような活躍で、チームも予選からここまで無敗できている。
おのずと、ガチンコの1点を争うゲームが予想されたのだけれど、リケルメのフリーキックからエインセが跳び蹴りで決めた1点目、後半に入ってのメッシの人を食ったようなループシュート。そのひとつひとつが、何か格が違うんだよって言っているようで、試合自体は悪くなかったのに、メキシコはどんどん元気がなくなっていった。リケルメはその後だめ押しのペナルティも決めて、この頑張り様は、やはりまたヨーロッパでやりたいっていうアピールだなって思ってみていると、marcaにレアル・マドリーがセスクを取り損ねたらリケルメを狙ってるなんていう記事が早速載っていた。
今回あらためて、南米選手権を見てると、このカップは今一番面白い試合をやるんじゃないかと思った。
ひとつは、やはり兄弟同士の争いなので、あいつには負けられないというプライドが懸かっている。そして、南米風の技を見せるサッカーを全体的に楽しむ雰囲気があって、姑息にそれをせこい手を使って潰しに行ったり、がちがちに守ってつまらない試合をしないようみんなが意思を統一しているような見える。
チャベスのもとで国が団結し始めているベネズエラ。いい仕事ができたんじゃないかと思う。
そうそう、ハーフタイムでサルサが流れてお姉さんが腰をくねらせていたのが映って、やっぱりこれじゃなくちゃなって思ったね。

Wednesday, July 11, 2007

ウルグアイ

これも恩寵と言うべきだろう。療養中のおかげで、サッカー南米選手権の盛りあがりをスカパー!にチャンネルに入ってるG+でじっくり観戦。今朝は準決勝の1試合目、ブラジルとウルグアイ。通算の対戦成績は互角らしいが、近年はほとんどブラジルが勝っている。
ぼくももちろんブラジルのサッカーは大好きだけれど、もともと強すぎるチームとか競技者にはあまり興味を惹かれない性分で、おのずとウルグアイを応援している。ウルグアイは、去年のワールドカップまでフォサッティという人が監督で、そりの合わない選手が多く、フォルランなんかも、奴が監督のかぎり代表には入らないと喧嘩してしまった。今年になってタバレスが復帰して、ほぼベスト・メンバーが組めるようになっている。
とくに、ビジャレアルからアトレティコ・マドリーに移籍が決まったフォルランは、今大会好調で、今朝の試合でも同点のゴールを決めた。(Goles: 0-1, m.13: Maicon. 1-1, m.45+4: Diego Forlán. 1-2, m.45+8: Julio Baptista. 2-2, m.70: Sebastián Abreu)
試合は、2対2となって、PK。胃の痛くなるようなPKで、ほとんど手のひらに入っていた勝利が、パブロ・ガルシア、ルガーノがはずしてスルッと逃げてしまった
それでも、ウルグアイは、ほとんど代名詞のようになっていた汚いプレーもないし、繋がりがあるとても素敵なチームに仕上がっていた。これからが楽しみ。

ウルグアイ、ウルグアイと呟いていると、そういえばボルヘスにウルグアイを詠った詩があったと検索してみると、すぐに見つかった。やっぱり最近はすごく便利になったね。Montevideo Jorge Luis Borges

Tuesday, July 10, 2007

雪のブエノスアイレス

南半球にあるアルゼンチンは週末から寒波に見舞われているそうで、今日ブエノスアイレスでは雪が降ったらしい。なんと89年ぶりということ。これも世界のあちこちで言われている異常気象の一つなんだろうけれど、新聞の論調はざっと見たところ、そんなに悲観的なものはなく。雪がめずらしくみんな通りに出てお祭り気分になっている、なんていうのが多い。(写真はその89年前のブエノスアイレス。1918年7月22日)。
今はもう抜けてしまった利用者の人が、オハイオの大学へ留学していたことがあって、そのときのクラスメートのペルー人の人へメールを打つように頼まれたことがあった。抜けた今でもたまにメールをやり取りしているのだけれど、リマに住む彼女は、いつでも気候がおかしくなっていると、詳しい天気のことなどを書き送ってくれる。ニュースだけではなく、そうした、人が直接感じた感想を聞くと、世界の様相はまた少しちがったものになる。

Saturday, July 7, 2007

ハグの効用

昨夜の『探偵ナイトスクープ』は、「“ナイトスクープアカデミー大賞”今夜発表!」という企画で、この1年インパクトのあった放送から、様々な賞を与えるといったものだった。「主演男優賞」に選ばれたのが若い男の子で、大阪の町中で、プラカード持って、道行く人に「ハグしませんか?」と声を掛けていき、緊張していた町の雰囲気が、ハグの波が拡がっていく毎にだんだんほぐれて、ピースフルなものに変わっていくような番組になっていた。なかなか感動的で、日本の若者なかなかやるなとか、自分がこれまで「ハグ」した感覚などを思い出したりした。

それで、何とはなしにGoogleで「ハグ」と入れて検索していると、アルファ・ブロガーで有名な極東ブログの記事が引っかかった。記事は、オーストラリアから始まったFree hugsという運動?を取りあげていて、そこで紹介されてるYoutubeの映像を見ると、昨夜の番組でやっていることとほとんど同じだったので、いくぶん興ざめして、なぁ~んだ、といった感じ。




それは、さておいて、ぼくが最後にハグをしたのはいったいいつだったかと思い出していると2年前のちょうど今頃の季節、クトが京都に来て、プエルトリカン・パワーとSony Musicの内輪向けのライブをした翌朝お別れしたときだった気づく。日本にいて、日本人とハグすることは、まぁまずないだろう。クトとは電話の連絡はかなり前からあったのだが、会うのは初めてだった。しかし想像していたのとまったく同じ厚い胸板で、その抱擁感もまったく想像していたとおりだった。縁がある人との縁の必然性のようなものを感じた瞬間だった。ぼくがラテンアメリカにはまった理由のひとつは、おそらく「ハグ」の魅力だったのではないだろうかと思う。スペイン語では"abrazo"という(abrazame...)。人と人との感情を合わせる自然さがあっちにはあって、あそこで自分は生きていた感じがしていたのだとあらためて思う。それを忘れてどれくらい経つ?
疲労してしまうのも無理もないだろう。

Friday, July 6, 2007

Faces

肉離れは、なかなか遅々として、すんなりとは治ってくれないが、少しは人間らしいスムーズな動きも少しずつできるようになってきて、もうしばらくといったところか。しかしこの怪我はある意味恩寵でもあり、経年の疲労というか身体の芯に溜まった疲れを解消してくれる、いい休暇を与えてもくれている。ちょっとした人生のリセットといったところか。
録りためていたカサベテスの『フェイシズ』。1968年のアメリカ映画。今回WOWOWで特集するまで、カサベテスの作品は『グロリア』しか見たことがなくて、『グロリア』はもちろん気に入っていたのだけれど、今回の特集にはちょっと驚いている。時代が、オルタナティブなものや実験的なものを許容していたり求めていたりもしていたとはいえ、ここまで「自分」の映画を撮ることができていたというのは、ちょっとびっくり。ロッセリーニの『イタリア旅行』を思い出させるのだけれど、だとすると、ヌーベルバーグの他にもう一人の子供がアメリカに生まれていたということか。

Thursday, June 28, 2007

temblar(7)game over

また怪我。昨日仕事を終えて、立ち上がって帰ろうとすると、左のふくらはぎがピリッとする。こむらがえりのような感覚がどんどんひどくなって歩くのも困難に。自転車はなんとかこげるので、なんとか家に帰ってコーディネーターに連絡して代わりを捜してもらう。一晩たっても痛みは変わらず。むしろひどくなっているようなくらい。整骨院に通うこと自体がかなり困難なほど。今年はほんとにあちこちよく痛める。なんとかだましだまし堪えてやってきたけれど、なんか限界。ゲーム・オーバーな感じ。ずっと抱えてきた孤独感がほとんど病的なくらいに高まってくる。
録ったままおいておいたカサベテスの『オープニング・ナイト』見る。ジーナ・ローランドの主演。人気女優が、年を取っていくことへの不安と混乱。


ぼく自身の中で起こったことを(思い出して、思い出して、思い出して)、きみに語りながら、たくさん書いてしまいましたが(休むことなくこの古いPower Bookのキーボードを叩くことしかしなかった)、でもきみには、この”私の人生の映画”のことを考えるのを止められなかった(そしてまた、ぼくの人生でこんなに書いたのは初めてだった)とだけ言えばじゅうぶんのような気がします。きみが悪いんですよ。反射的に、ぼくは記憶の中でぼくの映画をふたたび見始めていました。ただそれだけにでも、きみに感謝します。きみに借りができました。
 ここに、映画の一部があります。これで、ぼくの幼少期の前半です。ぼくのスペイン語の下には、おそらくたくさんの英語があるでしょう;成人のぼくの下にも、おもらくたくさんの子供がいるのだと思います。
 別メールで添付して、残りを送ります。
 では。
 Best and thanks.
―ベルトラン S.


アルベルト・フゲーは『私の人生の映画』で、自分の幼年時代と和解するのだけれど、ぼくはどうだろう?

Tuesday, June 26, 2007

隠れ家

昨日。泊まり明けで帰宅して、風呂に入ってご飯を食べ、昼寝して仮眠。手許に読むとも読まないともなく置いてあったマルクス・アウレリウスの『自省録』をふと取って、ぱらぱらとめくって、目についたところを読んでみる。神谷美恵子さんの訳。

 人は田舎や海岸や山にひきこもる場所を求める。君もまたそうした所に熱烈にあこがれる習慣がある。しかしこれはみなきわめて凡俗な考え方だ。というのは、君はいつでも好きなときに自分自身の内にひきこもることが出来るのである。実際いかなる所といえども、自分自身の魂の中にまさる平和な閑寂な隠家を見出すことはできないであろう。この場合、それをじいっとながめているとたちまち心が完全に安らかになってくるようなものを自分の内に持って居ればなおさらのことである。そして私のいうこの安らかさとはよき秩序にほかならない。であるから絶えずこの隠家を自分に備えてやり、元気を回復せよ。そして(そこには)簡潔であって本質的である信条を用意しておくがよい。そういう信条ならば、これに面と向うや否やただちにあらゆる苦しみを消し去り、君が今まで接していたことにたいして何の不服もいだかずにこれにもどって行けるようにしえ返してくれるだけの力は充分持っているであろう。
 ところでいったい何にたいして君は不満をいだいているのか....

Saturday, June 23, 2007

temblar(6) Zodiac

アルベルト・フゲーが、彼の映画用のブログで、「けっして、フィンチャーのゾディアックを見に行くのを心から、お薦めするわけではない。彼は、私のお気に入りの映画作家ではないが、しかし今や、おそらく私の新しい良き友人だろう」。そう書きだして、今年の一番の映画だと記していたので、三宮へ出掛けて、公開2週目に入った『ゾディアック』を見てきた。フゲーは、『セブン』が気に入っておらず、この映画でフィンチャーは、それを取り返すことができたようなことを書いているが、ぼくにしては、同じように思えた。どちらもそれほど好きでも嫌いでもない。フィンチャーはよく作家性のつよい映画監督と言われるが、果たしてどこまでそうなのかと思う。むしろ作家風と言った方がいいのではないか。たしかに凝った絵作りはするし、それはとてもいいとおもうけれど、彼はあくまでもハリウッドの中で、その流儀を使ってやっている。むしろそれが上手なくらいですらある。それは、アメリカ映画の中で比べると、たとえば今週WOWOWで特集をやっていたジョン・カサベテスのはずれ方と比較してみるとよく分かるだろう。誰を作家と呼べばいいかは明らかだ。
ゾディアックは60年代後半から、70年代中頃までのカリフォルニアが舞台で、じつに当時の空気が映像になっていると思う。そして、ふと考えると、アルベルト・フゲーが、カリフォルニアで幼少期を過ごしていたのはちょうどこの頃であることに気づく。

「60年代の初めには、ソレールの人間はカリフォルニアに一人もいなかった。しかし、63年から64年頃には、すでに彼らでいっぱいになりはじめていた。66年、二人の叔父が、父とともに私を56年型の巨大な白いプリマスのコンパーチブルに乗せて、あるドライブインに『グランプリ』を見に連れていってくれたとき、町はソレール作戦のベースキャンプになりつつあった。もうすぐ祖父母が到着する頃で、その一年前には、息子たちを送り込んでいた。その従兄弟であり、親戚であるサネッティ家が波になってやって来るのはもうじきだった。」

フゲーは、ブログではそんなことには一言も触れていないが、郷愁かどうかは分からないけれど、なんらかの感情を持って、この映画を見ていたはずである。「良き友人」という表現はだからできるんじゃないか。

Friday, June 22, 2007

聖マルティン

例の件以来、今年は何だか自分の存在の底が抜けてしまったように感じることが多い。だからではないのだけれど、日常が止まることなくつづいて、疲弊して、自分自身が薄っぺらでどうしようもなく思うとき、ふと休んで、深い森の中へ逃げ込むようにして、そこの新鮮で神聖な空気を身体に深呼吸して取り込むようにしてハイデガーを読みたい欲求に駆られることがある。「崇高なるこの高みの高さは、したがって、それ自体、同時に深さでもあることになる」。たとえばこうした一節に触れると、深く肯いて、そう、こうした文がぼくをハイデガーを読むことに誘っていたのだと思う。何事をも明らかにして、表にしてしまって、フラット化していく世界に疲れて、どこかに隠れて、密かに存在しているものを求めている。
もちろん、この『貧しさ』という本は、ハイデガーの同名の未出版のテキストに、そのもととなったヘルダーリンの「精神のコミュニズム」というテキストに、ハイデガーのテキストを批判的に読んだフィリップ・ラクー・ラバルトのテキストを合わせたものだから、ラクー・ラバルトの趣旨とはまったくの反対の読み方だけれど、まぁいいじゃないか。
深さとフラットという対比を思い浮かべていると、このハイデガーのテキストとはまったく反対の世界が、東浩紀が読み解こうとするアニメや最近のオタクのアートなんだろうと思った。しかし最近の『ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 』では、じつはそうしたフラットな枠組みに、深淵とも呼べる亀裂が入っているのではないか、と主張してもいるので、これがとても刺激的な本になっている。最近の本では必読だと思う。東浩紀はデリダについての本でデビューしたのだけれど、デリダがハイデガーを継いで自分の思想を作ったのはよく知られている。ある意味、西洋のテクノロジーが究極の形で具現したのが秋葉原的なものだとすれば、今考えなくてはならないのは、ハイデガー→東浩紀まで至るプロセスなんじゃないかと思った。<東浩紀がハイデガーについて書いたエッセー>

Monday, June 18, 2007

呼吸器で繋がる

昨夜。呼吸器くんの家で小宴。名目は、先日の呼吸器のシンポジウムを受けて、これから西宮でもどうやって呼吸器ユーザーに対する理解を広めたり、身近な介助者に技術的なことを伝えていくかを話し合うことだった。事務所のもうひとりの呼吸器ユーザーと仲間が集まって、飲んだり食べたりした。近くの八剣伝からテイクアウトして夜半までなかなか盛りあがった。肝心な話しはあんまり煮詰まらなかったけれど、まぁ楽しかったからオーケーか。
それにしても、呼吸器くんが三田の療養所から出てきてまだわずか半年あまり。その間に自立生活を安定させ、少しずつ行動範囲を広げていって、先月は札幌のベンチレーター使用者ネットワークへ研修に行ってきた。そして先日のシンポジウムを経て、出てきて最初に言っていた西宮で呼吸器のネットワークを作りたいという希望を、もうすぐそこにまで実現可能にしてしまっている。あったことだけをあげていくと、それはとても目まぐるしいことだったように思うのだけれど、ぼくは介助者として横でそれを見ていると、それがまったく、あたふたした様子でもなく、じつに淡々とひとつひとつができあがって行っているという印象で危ういところがまったくない。いつも思うけれど、彼のいいところは何かをやりたいと言ったときには、もう同時にどうやってやったらいいかを考えているところで、だからこっちは、「いいんじゃない」と軽く肯くだけで、後はそれができていくのを見ているだけ。じつに楽ちんで楽しい。
写真は、先日のシンポジウムが終わった後の交流会。『もっこす元気な愛』のプロデューサー神吉良輔氏のインタビューを受ける呼吸器くん。
(シンポジウムで話しをしてくれたカナダの呼吸器コーディネーター、アイリーン・ハンセンさんの講演の原稿。ぼくが翻訳したものをここに置いておきます。興味のある方はどうぞ。原文はこっちです。

Thursday, June 7, 2007

Mi Swing es Tropical

日差しもつよくなって、なんとなくトロピカルな音楽もぴったりなこの頃の天気に合わせるかのようなipodのコマーシャル。クラブ系の音楽にサブロッソなボーカルがのっかって、"rico"とか"borinquen"なんていうフレーズが飛び込んでくる。画面では、ipodを聞きながらくねくねとサルサを踊る男女のシルエット。「あれ?」「誰?」かっこいいじゃない!早速アップルのサイトへ行って調べてみると、タイトルは、"Mi Swing es Tropical"。アーティストは、"Nickodemus, and Quantic featuring Tempo"。コラボしてる2人は、やはりクラブ系のDJらしいが、Tempo?あのレゲトンのTempo?んー。レゲトンはあり得るけど声がぜんぜん違うじゃん。レゲトン系の掲示板を覗きに行ってみると、こっちでも話題になっていて、「はぁ?あのテンポ?あのギャングスタの?務所に行った?」なんていうのもあった。どうも違うのでさらに調べてみると、Quanticのサイトにレコーディングのニュースがあった。テンポ・アロマール。サブロッソなサルサの超大御所だった。納得。日本語で読める情報はmofongoさんブログが詳しい。そう言えば、テンポ・アロマールは、テゴ・カルデロンがやった"Plante bandela"でもフィーチャーされてたんだった。

Tuesday, May 22, 2007

「きみを見つめていたい」

何年ぶりだろう?こんなものを取り出して聞いていると、やはり胸がキュンとなって、繰り返して聞いてしまう。たぶん、学生時代の友人たちと、新潟へ旅行に行った車の中に持って行って聞いていたので、そしてその車の中ではアメリカでやっていたワールドカップでの、ベベットのシュートの話しをしていたから、このアルバムは、1994年のリリースだったと思う。ぼくは気に入ってみんなに聞かせたかったのだったけれど、反応がいまひとつだったのが、悲しかったのも覚えている。楽しいはずの旅行だったのだけれど、ぼくは当時飼いはじめたばかしの幼い犬が、原因が不明の肝炎で入院していたのが気になって、あまり、馴染めずに帰ってきた。
翌年、震災があり、それに伴うごたごたとともにぼくの人生も、壊れはじめるのだけれど、この頃は、南米から帰ったばかしの勢いで、なんでもまだノリで乗り切ることもできていたと思う。
ダビッド・セデーニョは、扇町にあるラテンアメリカ音楽ショップ「スイート・ココ」の親爺が、前から気に入っていて、行くと無理やり買わされたりしていたのだけれど、前作まではヒット曲を英語のサルサに変えて演奏するコピーバンドって呼ばれても仕方がないところもあった。この一枚はしかし、根性を入れて、ここで決めるって感じで作った力作、会心作だった。1曲目の「プエルトリカンからコロンビアの友人へ」は、当時盛りあがっていたコロンビアのサルサへの露骨な歩み寄りなんだけれど、たんなるパーティーソングにせずに、マイナー調の、ちょっと別れの悲しさを思わせる曲に仕上げてあるのがさすがだなぁって思った。いい曲が他にもたくさん入っているのだけれど、もう一曲あげると8曲目の「きみを見つめていたい」だろうか。自分で作曲して自分でアレンジしていて、曲も冴えているし、アレンジも鬼気迫っていて、今聞いてもゾクゾクするのは当時と変わらない。アレンジは他に、ペリーコにラモン・サンチェス、マリオ・オルティスにホセ・フェブレスと超豪華な人たちを揃えているけれど、ぼくはセデーニョが自分がやったものが優れていると思う。ちなみに、1曲目の「プエルトリカンからコロンビアの友人へ」は例によって今はYouTubeでも見ることができる。セデーニョはたしか、デラルースの菅野さんがプロデュースした、サルサクラブに半年くらい出ていたと思うけれど、ぼくは結局一度も足を運ぶことはなかった。サルサは音楽ではなく、ダンスのことを指すようになってきたのもこの頃から。ぼくは、あれはラテンとは関係なくむしろ、クリントン政権の金融バブルが生んだ、アメリカ文化の輸入だと一貫して批判的だった。興味は次第にレゲトンなんかの新しいラテン音楽に変わっていった。
サルサは、これから世紀末にかけて、「終わり」に向かって一歩づつ歩みを進めていくのだけれど、これはその歩みの中でのきらきら光る宝石のような一枚。レコード会社ではなく、個人が作りたいもの作った希有な一枚でもあった。思い返すと、何となく自分の人生とシンクロしていたような気もするし、何かが破れて、自分のやりたいことはとにかくできるような社会へぼくらは移行したような気もする。

Saturday, May 19, 2007

英語で書くフゲー

先日の、アルベルト・フゲーが、ワシントンポストに書いた記事について、いくつかブログで反応があった。そのうちのひとが、「Fuguet en inglés(英語で書くフゲー)」。筆者のジャン・フランソワ・フォーゲルはフランス人のジャーナリスト。リベラシオンなどに記事を書いているらしい。
もともとは、英語のネイティブだったフゲーが、その後チリに帰って、苦労して「チリ人になった」。自分はスペイン語で書くチリ人の作家である、と書いたフゲーに対して、冒頭でまず「チリでは、フゲーは北米の作家という風にみられている」と嫌みを一つかましている。ぼくには、こうした見方がなかったので、フォーゲルが何を言わんとしているかが、最初よく分からなかったのだけれど、どうやら彼はフゲーが、自分はバイリンガルの作家であるといったり、英語~スペイン語の二重性を生きていると白状したりせずに、スペイン語で書く、チリ人作家であると言っているのが気にくわないらしい。
いわゆる、チカーノの作家のように、二つの言語の間でアイデンティティを分裂させて、その混乱した生き方を見せて欲しいかのようなのだ。しかし、Las peliculas de mi vidaは、まさにフゲーがいかに自分の中の英語を抑圧してきたかを告白した小説だし、それがまるで、地震で生じた亀裂からあふれ出てくるように自分の人生そのものを語ったもののはずなのだけれど、フォーゲルにはそれでは不十分だったのだろうか。一度抑圧したものを、再び取り出してそれをまた自分のものとして受け取り直す、この作業は人間の成熟の過程そのもののようにぼくには思えるのだけれど。

最近読んだ、『抵抗の場へ』は、戦後すぐ大学を出てアメリカへ渡り、アメリカで初めての日本人の英文学の教授になったマサオ・ミヨシのインタビュー。サイードの古い友人でもあった。ここには、日本人であることをやめて、アメリカ人になった人がいる。彼は自身の経験から、「日本」や「日本人」という括りで考えるのはやめて、地球や惑星のことを考えるよう勧めている。

Tuesday, May 15, 2007

más allá de la corriente


夕方、週末危篤になった利用者の方のお見舞い。
想像していたより、穏やかな顔をしていたので、なんとなくほっとした気持ちになる。偶然一緒になったまだ若い介助者は、それでもやはりショックだったらしい。ああいう風に何本もの管に人が繋がれているのを見るのも初めてだそうだから無理もない。ぼくは、こうした仕事で色んな人の死にも立ち会うようになって、なんとなくこうしたシチュエーションにも慣れてきつつある、のがいいのだろうか悪いのだろうかと考えてみる。
病院は、西宮から武庫川を越えて尼崎に入ってすぐのところにある。病院の方へ左折して、大通りではなく地元の人が通る、それと平行した路地へ入ってみると、そこはもう何か外国へ行ったような気分。風景がすべて初めて行く町で見るようなものに見える。最近仕事が詰まっていて余裕がないのと、イベントの準備で時間が取られたりもしているので、休みの日も家にいたりして、あまり変化のない生活になってしまっているので、こんなちょっとのことでものすごく解放された気分になれる。旅に出るとは、脳を作っているソフトウェアを、一時書き換えてみることなんだと思う。何も、外国へ行ったりすることだけでは、もちろん、ない。
más allá de la corriente、流れの向こう側にあるものを、もう一度捜してみる。