Monday, September 24, 2007

Joe Strummer

土曜日。松っちゃんとジョー・ストラマーの生涯を描いたドキュメンタリー『London Calling ライフ・オブ・ジョー・ストラマー(Joe Strummer: The Future Is Unwritten』を観に行く。8時半からのレイトショーなので、天満へ寄ってメキシコ料理のQue Ricoで、鳥を丸焼きしたものを、トルティージャ包んでビール片手に腹ごしらえ。久しぶりのメキシカン。天満のエスニック街の中にある屋台のような店で、軽く酔っぱらって至福な気分。
歩いて梅田まで戻り、テアトル梅田での上映。初日だったからか、驚いたことに指定席は売り切れ。立ち見での鑑賞だった。現か元だか分からないけれど、それなりの年齢の、革ジャンに身を包んだパンクスの姿がちらほら混じっている。
映画は、予想よりずっと面白かった。だいたいロックスターの生涯を描いた映画は、それほど興味を惹かないものだと思っていたが、首にしたりされたり、人間関係の愛憎が激しかったクラッシュというバンドができて、潰れていく様や、売れれば売れるほど、言っていることとやっていることの矛盾が激しくなって、最後のアメリカツアーでは、奇妙な虚無感が漂って、舞台にいるのは、脂肪のついたたんなる4人の中年男となっているのが、無惨だった。
すべてを失って、苦しい10年を乗り越えた後、ストラマーがメスカレロスを始めた頃の、人間として一回り大きくなった落ち着きと、静謐さに満ちた人生が感動的だ。彼の人生が、クラッシュで売れているときでさえ、闘いの連続で、自分でも何かが欠けているのだけれど、それが何だか分からないまま一生を過ごしてきて、やっとこれだったんだと分かったような瞬間だった。
ぼく自身、パンクの影響を受けて成長し、今ここにいる。ぼくが何を忘れてしまっているか。それを再確認し、背筋を正し直した、そんな夜だった。

Friday, September 21, 2007

Gustavo Dudamel

かなり久しぶりに紙媒体に記事を書いたです。こんな感じ。

 クラシックファンのあいだでは、すでにかなり話題になっているようだけれど、ラテンアメリカに関心ある方々にはどうなのだろう。グスタボ・ドゥダメル。1981年生まれ。弱冠26歳、ベネズエラ出身の指揮者だ。
 クラウディオ・アバド、サイモン・ラトル、あるいは、ダニエル・バレンボイムといった現代の巨匠たちに絶賛され、彼らの後見のもとにデビューしたドゥダメルの、まずこれまでの経歴をざっと見ておこう。生まれはバルキシメト。カラカスから西方280キロほど行った町だ。カラカスからマラカイボへ向かうハイウェイのちょうど中間あたりにある。父親がサルサのオーケストラでトロンボーンを吹いていたというのが、いかにもベネズエラらしい。すでに幼いときから和声や対位法を学び、10歳のときに初めてヴァイオリンを持って、同時に作曲の勉強も始めている。14歳の時に指揮の勉強を始め、18歳の時に、ホセ・アントニオ・アブレウにひきつづき指揮を学び、彼が創設したシモン・ボリバル・ユース・オーケストラの指揮者になっている。
 ドゥダメルが一気に世界的な名声を得たのは、2004年、南ドイツの名門、バンベルク交響楽団が主宰する第一回グスタフ・マーラー指揮者コンクールで優勝してからで、以後世界中のオーケストラから引っ張りだこの活躍。今シーズンは、ウィーン・フィルやベルリン・フィルでも指揮をする予定になっている。2009/10年シーズンからロサンジェルス・フィルハーモニーの音楽監督に就任することも決定した。

つづきはこちらでチェックしてみてください。よろしくね。

Tuesday, September 18, 2007

中村かれん

昨日、一昨日と京都の立命館大学で行われた障害学会へ行ってきた。
呼吸器くんが、千葉大学の大学院生の研究発表に共同発表者として名を連ねたため、介助者として一緒に行ってきた。呼吸器くんのいるロビーのポスター発表のところにずっといたので個々の研究者の発表は、ちゃんと聞けなかったのだけれど、両日ともシンポジウムはゆっくり座って、議論を追うことができた。一日目は、社会保障のひとつの方法として少しずつ、名前も浸透してきているベーシックインカムについて。二日目はろう者学と障害学の対話の可能性のようなテーマ。
シンポジストのひとりとして、数年前、うちの事務所に研究に来ていた中村かれんさんが来ていて、一日目のプログラムが終わった後の交流会で話しかけると、ぼくのことはすっかり忘れられてた(笑)。で、改めて自己紹介してしばらくお喋りした。
かれんさんは、エール大学の準教授。文化人類学者。生粋の日本人なんだけれど、両親の暮らすインドネシアやオーストラリアで幼少期を暮らすうちに、英語が第一言語で、日本語は後天的に学んだという経歴を持つ。日本人なんだけれど、ちょっとへんで、誰にでもすぐに話しかけるけれど、すぐに忘れてしまう。独特の軽やかさとユーモアを持ってる彼女のことがぼくはとても好き。
シンポジウムも彼女の話が圧倒的に面白かった。ろう者学に障害学は必要か?彼女はNoだと言っていた。彼女がやったアメリカと日本のろう文化の違いを比較した研究を駆け足で紹介した後、そうではなく障害学にはデフ・カルチャーというしっかりしたバックボーンを持つろう者学が必要だと締めくくった。それは、簡単に言うと、障害学にはもっともっと当事者の視点が必要だということだった。
彼女は今、北海道の浦河にある、精神障害者の支援で有名なべてるの家で研究をつづけているのだけれど、当事者が主体になっていると言われるべてるの家でも、まだ支援者の方が強いと言い、べてるから支援者を取っ払ったのがぼくが勤めているメインストリーム協会だと言ってくれたのが、かなり誇らしかった。かれんさんは、ポーカーや競馬をメインストリーム協会で学び、それをアメリカの学会で発表したと、いたずらな笑いをしていた。
今回改めて、かれんさんのことを検索しているとこんなサイトも作っていることが分かった。そう言えば統合問題で何度も厚生労働省前でデモしたとき、カメラを持って抗議する人を撮っていた彼女を思い出した。

Sunday, September 9, 2007

temblar(10) una ciudad destruida

一昨日、久しぶりに神戸まで、チャリで出掛けた。いまだに30℃を超える気温で、どれだけ出るんだというくらい汗がでる。神戸はメリケンパークまで。今少しずつ準備している"temblar"というタイトルのビデオのためにいくつか撮影をする。"temblar"は、今翻訳しているアルベルト・フゲーの小説『Las películas de mi vida 』に、ぼく自身の人生を重ね合わせて見ようという試み。以前に触れたこともあると思うけれど、フゲーとぼくはほぼ同世代。『Las películas de mi vida 』は、彼がかつて見てきた映画を振り返りながら自分自身の人生を振り返るというもので、当然ぼく自身も成長の過程で見てきたものも多いし、見てないにしても、だいだいどんなものかは知っている。
フゲーは、10歳くらいまでカリフォルニアで育ち、その後軍事政権下のチリへ戻った。その後、アメリカの大学へ留学して、作家となる修行をした。英語とスペイン語の二重生活が彼の作品を規定している。ぼくは、大学を出た後、南米を旅し、サンティアゴでしばらく勉強していたこともある。日本語とスペイン語の二重生活はぼく自身の人生を規定している。育った場所も文化もまったく違うが、重なる部分もある。
しかし、フゲーというまだ翻訳も出ておらず、まったくというほどここでは知られていない作家と自分の人生を重ねてみるということが可能になったのは、明らかにグローバリゼーションという今の時代が背景にある。あっちとこっちではなく、映画というグローバルな文化に支えられた、一つのぼくらの世界がある。そんなこととかも描ければいいのだけれど。

神戸まで行ったのは、フゲーの小説のこんな一節を読んだからだ。

『ブリット』は、父と母と観た。スティーブ・マックイーンの出ている他のすべての映画と同じように、また車とスピードに関連した他の映画と同じようにだ。『ブリット』は、すぐさま父を思い起こさせる。ほとんど反射的にだ。そのとき、私たちが一緒に観たときのことは曖昧にしか覚えていないのだが。
 数年前に日本で、もっと正確に言えば神戸で、95年の地震の後で、緊急で現場での会合が催された。地表での長い一日を終えて、私の崩れたホテルの微細な部屋へ帰った。テレビをつけ、『ブリット』のスティーブ・マックイーンを見た。マックイーンがパジャマを着ているのが注意を惹いた。そんなことは思いもしなかったのだ。そして何か日本語で言ったが、当然分からなかった。しかし見つづけた。そして、マックイーンが私の父と同じように、彼の家族とほとんど話しをしないのに気づいた。『ブリット』の筋を追うのは、とても容易かった。天才であったり、国連の同時通訳であったりする必要はなかった。起こることは、ごく単純だった:一人の刑事が、護らなければならなかった証人を殺され、自分で制裁を加えることにする。テレビを消さず、つけっぱなしにして、唯一覚えているシーンを待った:サンフランシスコの通りでの激しい追跡劇で、ラロ・シフリンの音楽がバックで鳴り響いている。マックイーンは緑のマスタング390GTに乗って丘を飛んでいる。
 普段は父のことは思い出したくないし、スピードの出る車やきっちり止まらない車のことを考えるのも嫌なのだが、『ブリット』は、私たちに絆のようなものあったわずかな数年間を思い出させる。実際に、私たちが繋がっていたことがあるかどうかもわからないのだけれどだ。おそらく私にとって大きな過ちは、チリに生まれ、コンセプションで数ヶ月を過ごしたこと、そしてソレールよりニーマイヤーであったこと、牛乳屋やパン屋の道に進まず、地震学者になってしまったことだった。あの夜、アクセルを踏んだとき、『ブリット』と『栄光のル・マン』のこと、スティーブ・マックイーンとポール・ニューマンのこと、黒いポルシェと黄色いBMWのことを思ったのを覚えている。

震災の前後、ぼくの人生はかなりめちゃくちゃだった。チリから帰って、精神のバランスを崩して元町にあるクリニックに通って定期的に精神分析を受けていた。箱庭療法なんかもやっていてぼくが使うアイテムといえば、いつでもマリアさまの像と花と、ギターだけだった。毎回毎回そんな日がつづいたとき、ぼくは初めて車を使ったらしく、その後カウンセラーの女性は、それは「父親」を象徴していると説明した。それが妥当なのかどうかわからないけれど、自分の中に父性のようなものが欠けているのはよくわかっていたから、すんなり納得はしていた。フゲーがやはり、車と父親を、結びつけているのは偶然なのかどうなのか。これも世代的な括りで理解した方がいいのか。しかし、ぼくの父親は、たしかに車に情熱を持っていた。当時大阪で2台しかないというポルシェに乗っていたし、外国語の車の雑誌やレースを実況したレコードやミニカーが部屋を一杯にしていた。ぼくこそ、車と父親とを関連づけるのに相応しいとは思う。

このころ、それまで即かず離れずでいた大学時代の同級生との関係がどんどん深くなっていた。彼女には夫も子供もいたけれど、寂しすぎて傲慢になっていたぼくらには、そんなことはどうでもよくなっていた。会うときはよく神戸に来てお互い不安なままよく海を見ていた。だんだんそんな関係に無理に来ていた頃、震災が起こった。薬を取りに行くためクリニックへ行かなくてはならなかった。電車が全てストップしていたので、そのとき唯一の交通手段で、今津から船でメリケン波止場へ着いた。船の上から神戸の方を眺めると、よく晴れた天気で、静かな光景が遠くにひろがっていて、ほんとうに地震が起こったのか?と思うくらいだった。メリケン波止場のぼくらがよく座っていた辺りは、ぼろぼろに崩壊していて、まるでぼくらの関係を象徴しているみたいだった。

色んなことを思い出しながら、撮影を終え、帰りに六甲道に寄り、山手幹線沿いの四川で昼食。香辛料のよく利いた麻婆豆腐がおいしい。そのまま山手幹線を東へ走らせて帰る。工事がつづいているがだいぶ芦屋に近いところまで完成していて、まだそんなに交通量も多くないので、道路を独占して気分もよい。

Friday, September 7, 2007

The Virgin Suicides

夕方テレビでこんなニュースが流れているのを聞いていると、昨日借りてきた見たソフィア・コッポラの『ヴァージン・スーサイズ』の一シーンを思い出し、奇妙な符号に変な感じになった。
ソフィア・コッポラは、東京が舞台になった『ロスト・イン・トランスレーション』を見て以来お気に入りの監督の一人で、今年の『マリー・アントワネット』もキッチュな感覚と、ぼくらの世代にとっては懐かしいニューウェーブのロックが全編流れて、こちらも大好きな一本になった。
昨日見た『ヴァージン・スーサイズ』は、1999年の処女作で、見るまでは習作的な映画なんだろうと勝手に思ってたのだけれど、これは、少女から大人になる頃の女の子の、その頃の女の子を経験しないとわからないような、微妙で繊細な感受性を描いた、一連のソフィアの映画のエキスがそのまま凝縮されているような、習作なんてとんでもない、混じりけのないソフィア・コッポラが堪能できる映画だと思った。映像に映ったこと=現実、ではなく、漫画的な書き込みを映像に施して、全体を批評的な枠組みに入れてしまう彼女の手法もすでにあらわれている。
原作はアメリカの作家、ジェフリー・ユージェニデスが1996年に発表した「ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹」。アメリカの中産階級を絵に描いたような一家で、母親の厳しすぎる育て方がだんだん、娘たちには抑圧でしかなくなり、最後には5人いた娘はすべて自殺してしまう。

Wednesday, September 5, 2007