ぼくは、一応大学で哲学を専攻したんだけど、まぁ、読みたい本だけ読んで適当に論文書いて卒業しただけで、ちゃんと哲学史すら勉強してない。ぼくがつるんでたグループは哲学だけじゃなくて、音楽や映画やアート全般に興味があって、むしろ映画やライブに行くことの方が価値があることだって思ってた(あるいはそうした全部が哲学だというドゥルーズの考えに忠実だった)。それは今でもそう思ってるんだけど、それにしてもオーソドックスなお勉強をないがしろにし過ぎたって思いはずっとあって、なんとか死ぬまでにはちゃんとそんな諸々を帳尻あわせて死にたいななんて思う。
だから、本屋さんでこんな本が新しく並ぶとやっぱり手にしてしまうもので、最初は、哲学史のおさらいをさらっと読めるような感じで買っておいたんだけれど、でもこれはちょっとすごい本だと思う。
ギリシャからハイデガー・レヴィナスの現代哲学を、現代の問題に関連づけながら、シンプルに語って行く。そのシンプルさがちょっと尋常じゃなく、まるで親が子供に本を読んで聞かせるような調子で最後まで読めてしまう。たしかに現代というのは、とても複雑で、何をどこから解きほぐせばいいのかわからないくらい。でももともとは何だったのかって考えて、もう一度ちゃんと基本を押さえて生きていかなくちゃいけないなって思う。
しかし、この人生と同じで、まったくシンプルなだけではない。「他者という謎」という章では、著者のレヴィナスの読解を基にして、ちょっと現代流のコミュニケーションに慣れすぎたぼくたちには、理解を超えた他者論が展開している。「しかし、人はどうして苦しむ他者に惻隠の情を抱くのだろうか。どうして、苦しむ私は他者に助けを呼ぶのだろうか。おそらく、他者の苦しみに巻き込まれる私は、この偶然出会った他者の古い知り合いだったのだ。見知らぬ隣人への私の責任は、私の自由に先立って、記憶を絶した過去のうちにあったのだ。.......」etc..この章をその前の章の終わり、ハイデガーとヘルダーリンを論じて、この私という存在の深遠さを語った箇所から続けて読んでいくと、今日はとりあえずオリンピックを見てうち高じてはいるけれど、日々なにげに感じている不安というものにあらためて目を向けて、それをいとおしく感じたくもなる。そこでの文体はほとんど詩のようだ。
ポストモダンの哲学への批判から始まって、オーソドックスな哲学への回帰は、90年代から現れたと思うけれど、哲学の必要性は現代ではもっともっと高まっていると思う。
(ぼくが書きたかったことは村上陽一郎が毎日の書評でちゃんと書いてくれてるね)。
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