
翌年、震災があり、それに伴うごたごたとともにぼくの人生も、壊れはじめるのだけれど、この頃は、南米から帰ったばかしの勢いで、なんでもまだノリで乗り切ることもできていたと思う。
ダビッド・セデーニョは、扇町にあるラテンアメリカ音楽ショップ「スイート・ココ」の親爺が、前から気に入っていて、行くと無理やり買わされたりしていたのだけれど、前作まではヒット曲を英語のサルサに変えて演奏するコピーバンドって呼ばれても仕方がないところもあった。この一枚はしかし、根性を入れて、ここで決めるって感じで作った力作、会心作だった。1曲目の「プエルトリカンからコロンビアの友人へ」は、当時盛りあがっていたコロンビアのサルサへの露骨な歩み寄りなんだけれど、たんなるパーティーソングにせずに、マイナー調の、ちょっと別れの悲しさを思わせる曲に仕上げてあるのがさすがだなぁって思った。いい曲が他にもたくさん入っているのだけれど、もう一曲あげると8曲目の「きみを見つめていたい」だろうか。自分で作曲して自分でアレンジしていて、曲も冴えているし、アレンジも鬼気迫っていて、今聞いてもゾクゾクするのは当時と変わらない。アレンジは他に、ペリーコにラモン・サンチェス、マリオ・オルティスにホセ・フェブレスと超豪華な人たちを揃えているけれど、ぼくはセデーニョが自分がやったものが優れていると思う。ちなみに、1曲目の「プエルトリカンからコロンビアの友人へ」は例によって今はYouTubeでも見ることができる。セデーニョはたしか、デラルースの菅野さんがプロデュースした、サルサクラブに半年くらい出ていたと思うけれど、ぼくは結局一度も足を運ぶことはなかった。サルサは音楽ではなく、ダンスのことを指すようになってきたのもこの頃から。ぼくは、あれはラテンとは関係なくむしろ、クリントン政権の金融バブルが生んだ、アメリカ文化の輸入だと一貫して批判的だった。興味は次第にレゲトンなんかの新しいラテン音楽に変わっていった。
サルサは、これから世紀末にかけて、「終わり」に向かって一歩づつ歩みを進めていくのだけれど、これはその歩みの中でのきらきら光る宝石のような一枚。レコード会社ではなく、個人が作りたいもの作った希有な一枚でもあった。思い返すと、何となく自分の人生とシンクロしていたような気もするし、何かが破れて、自分のやりたいことはとにかくできるような社会へぼくらは移行したような気もする。