忘れないための覚え書き。
そうです、生きていくってことは、動き続けるということなのです。このことがどんなに深い真実であるかといことを、一本の素晴らしい映画がはっきり見せてくれます。顕微鏡によって捉えられた、原形質の中で繰り広げられる、律動感にあふれた生命の流れと正確に測られた動き、私たち生命体の原素材というべきものが、そこにはあります。この動きがふと途絶えたとしても、それを測るものさしまでも壊すことは出来ませんし、動きが再び始まって、ほら、まるで音楽のように、美しいメロディを作り出し、ビートを刻みます。この映画が美しいのは、この律動感あふれる神秘の世界に、素直に奥深く入り込もうとしているからなのです。それは一方で、私たちを物理や化学の世界へ誘い、他方で、哲学や宗教や詩への領域へと連れて行ってくれます。レオナルド・ダ・ヴィンチは言っています、「暖かさのあるところに生命は宿り、生命のあるところには愛の運動があるものだ」。愛の動き、生命の神秘的な律動—これこそ、映画にいのちを吹き込むものです。例えば、陶工が粘土から見事な形を作るのを、映像にして心に思い描いてみましょう。映画のカメラは、この動きの流れと密接で親密な関係を結んで映像を織り上げ、私たちの視界に引き込みます。見ているうちに、私たちは陶工の手の動きを自分のもののように感じ始めるのです、まさしく陶工が心と技を込めて粘土に触っていくように。その瞬間、私たちは陶工の魂に触れ、そのまま溶け込んでしまいます—その想いを共有し、まるで生命を分け合ったかのように一体化していくのです。ここにいたって私たちは、『モアナ』の世界を満たしていた、あの微細なこころの動きを通り抜け、『ナヌーク』で見出した、あの「神秘的な参入」の世界に再び足を踏み入れるのです。これこそカメラという機械(マシーン)に導かれて、私たちがたどる「道」なのです—それは、私たちの見ている世界に全く新しい次元を切り拓きます。生き生きと脈打つ生命という神秘のリズムに揺れ、愛の力に引かれながら、私たちは魂のさらに奥深くへ、魂の合一へと運ばれていくのです。
フランシス・H・フラハティ『ある映画作家の旅』ロバート・フラハティ物語(小川伸介訳)
1 comment:
とても文学的な言葉ですねー。
たくさん文章を読んでいるつもりでも、そのほとんどに情報としての機能しか期待していないので、このような文章に出会うと、言葉って文学的な表現もできるんだったよなって、改めて気付かされます。
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