Saturday, March 31, 2007

Mexico City Blues


長屋さんが、今月初めからメキシコへ渡り、CEPEでスペイン語を勉強していて、ブログをつうじて懐かしい映像を送ってきたりするものだから、ここのところよくメキシコ時代のことを思い出す。CEPEとは、Centro de Enzeñanza para extranjerosの頭文字をとったもので、「外国人のための教育センター」という意味。メキシコ自治大学という大学の中にある。スペインのことはよく知らないけれど、外国人がスペイン語を学ぶのに、ラテンアメリカではおそらくもっとも充実した教育機関だと思う。スペイン語をまったく知らなくても、授業は初級からすべてスペイン語のみで行われる。いやがおうでも学ばざるを得ない雰囲気がある。ぼくのスペイン語の基礎はすべてここで勉強した。
学生時代から影響を受けたビートニックの作家がしていたように、将来のあてもなくセントロにあるホテルに長期滞在して、スペイン語を勉強していることだけが、唯一世間に対する言い訳のようだった。メキシコから南へ向かって旅をしようとしていた早稲田の学生が、ホテルの同じフロアに部屋を借り、しばらくしたらソナ・ロサにある別な語学学校に入学していた。ぼくが使っていた当時出たばかりの小学館のスペイン語辞典を羨ましがって、とうとう実家から送ってもらった。その彼も今は大学でスペイン語の先生をしていて、その辞書の改訂版を作るのに関わっている。人生って面白いと、こういう話しを聞くとほんとうに思う。
ぼくはといえば、憧れていたビートニックの作家の何人かのように破滅を目指していたように思う。抱えきれないことが多すぎて、数年後にはそれはおおよそ実現したのだろう。現在はある意味おまけの人生といってもいい。
写真は、1950年代にウィリアム・バロウズが住んでいたアパートだ。ここにジャック・ケルアックなんかが遊びに来て、ドラッグに浸って何日もいた場所でもある。ここの番地はOrizaba210といい、ケルアックはその番地をそのままタイトルにした数編の詩を残してもいる。この文章のタイトルにしたMexico City Bluesも同じシリーズの詩集の名である。思潮社から池澤夏樹の翻訳も出ている。たとえばこんなやつがある(ほんとうに久しぶりに手にした。やはり素晴らしいと思った)。

コーラス126

あなたの家が
火事です

と人に教えても
    結果は小川に棒に一本で
    せきとめるようなもの
老いて賢い父になる
 ブッダは
遁辞を用いて
 衆生を救う

「おちびさんたち
出てこないと火傷をするよ」
  荷車を
あげるから出ておいで
すてきな荷車が三台、山羊のと
鹿の荷車と
牛の荷車

荷車はオレンジや、花や、木や、天女で
きれいに飾ってあげるよ」
子供たちは家をとびだしてくる、救われる
  するとブッダは
  真っ白な牛の牽く
見たこともないような大きな荷車をやるのさ



(ぼくのTaipei Bluesはもちろんこのパクリ)。

Wednesday, March 28, 2007

Born Free


Las películas de mi vida"私の人生の映画"、『野生のエルザ』を見る場面つづき。
「両親は、前部座席にいてイギリス人のカップルがケニアに渡り、そこで二人きりで、何もわからないままライオンの子供をもらい受け、自由にして手放さなければならなくなるまで育てるというこの映画を観ていた。母はその66年には、24歳だったはずだ。父は26歳になろうとしている。四人が車に乗って、キスをする若者たちに囲まれていると考えるのは愉快だ。フロントガラスは、海からの塩っぽい露で曇っている。母はマヌエラに母乳をやり、父は眠っていた。私は後部座席で、目覚めて、このカップルが、完全には自分たちのものではないライオンの子供と遊ぶのを見ていた。」

先週借りてきていた『野生のエルザ』を時間ができたので見る。ぼくがいつかこの映画を見たことがあったかどうかは、覚えていない。この筆者とおなじように、ジョン・バリーの主題歌は有名だから知っている。
映像の力というのは、やはり強力だと思う。DVDをかけた途端、1966年。このドライブインでこの4人家族が『野生のエルザ』見ている光景がまざまざと思い浮かぶようだ。しかし、このライオンをもらい受けた女性は、わがままなヨーロッパ人をそのまま描いたような人物。

Tuesday, March 27, 2007

Y字路


横尾忠則の3月13日の日記。

3月13日
「東京人」で東京23区のY字路を写真で撮る連載を開始することになって、昨日は港区を5時間歩き廻った。これというY字路の傑作には遭遇しなかったが、どこもビル化してしまって情緒あるY字路は、どんどん絶滅していく傾向にあるようだった。


横尾忠則が「Y字路」シリーズを描いていると知ったのはこの番組を見てからだった。先日この日記を読んで、福祉センターの前を通っていると、こんなY字路があるのに気がつく。このY字路はなかなか情緒がある方なんではないかと思う。

Sunday, March 25, 2007

仕事


昨日。あいにくの雨。神戸大学病院内の会館で行われた筋ジストロフィーの患者の会の集まりに、利用者、スタッフ、介助者とともに行ってきた。100名ほどの人が集まっていた。
内容は、筋ジストロフィーが進行してきた場合の概説と注意点。近年の研究の進展具合の報告。リハビリの重要性についての講演など。神戸大学で臨床に携わる4氏によって話しがあった。その後交流会。主催者はもっと小規模の集まりを予想していたらしく、お茶を飲んでのざっくばらんな話しにするつもりだったようだったが、急遽シンポジウムのような形で、前に教授たちが並び、患者の会の人たちが質問をするスタイルになった。
患者の会の人たちの多くは、家族、まだ子供が小さいお父さんお母さん方で、興味の中心は治療の進み具合とそれを知るための方法についてにあった。子供さんが成人近くなってき、まるで明日にも自分の子供が死んでしまうのではないかと心配してせっぱ詰まったお母さんもおられて、こうした精神状態とは少し違った生活を選んだ人たちとともに生活しているぼくらとはかなり意識とか関心の違いがあった。
なんとなく発言しにくいなぁと思っていたら、若いスタッフの男の子が、筋ジストロフィーであっても明日死ぬわけではないし、そのひとそれぞれの生活があってそれは、楽しいものでもある。そうした人が地域で暮らすためには、どうしても医療と連携を取らないとやっていけないが、それについてのアドバイスを求める質問をしてくれて、あえてそれに対する発言はなかったが、場の雰囲気は好意的でこうした若い親御さんたちともぼくらは繋がっていけるのではないかと思わせた。
呼吸器をつけた利用者が二人行っており、それだけで、呼吸器をつけてここまで生きて充分生活できること身を持ってを示せたと思う。
自立生活センターらしい仕事の一日だっただろう。ぼくらのやっていることが、彼らにとって幾ばくかの希望のようなものであれば、こんなすばらしい仕事はないだろう。

Friday, March 23, 2007

web 2.0な生活?


ボリンケンさんが危惧しているように、たしかに最近のグーグルには、ちょっとやりすぎだろというところも見える。しかし、ボリンケンさんのおともだちと同じように、ぼくも今どんどんとグーグル依存度を高めているところ。ぼくも、MacのドメインをGmailに転送して、こちらがメインのメーラーになりつつある。GmailからMacのドメインを使って送信できるようになってるから、おのずとそうなってしまう。Gmailの他にぼくは、Google Docsで、書きかけの文章を開けて作業をしたり、Google Notebookでチェックしておいたサイトを使って、自分のブログの更新をしたりする。右端はカレンダー。予定をチェックし、その下のマヤのカレンダーを眺めてみたり、隠れているけれど、その下には月齢が出ているので、天体の大きな動きも見ておけるというわけだ。
極めつけは、最近アップされたテーマ。ブログみたいに季節毎に変えたり、今はクラシックも含めて7種類のテーマがあって、みんなとてもかわいい。ただこれは英語版のみのサービスで日本のグーグルにアクセスするとふつうのクラシックに戻ってしまう。(今気づいたのだけれど、ぼくが今使っている「バス停」というテーマは、アメリカ国内の郵便番号が登録することができて、ぼくは適当に、ニュージャージーのを登録したんだけど、どうもその場所に従って天気が変わるようだ。雨が降り出した!)
ぼくがグーグルを使い始めたのは、たぶん10年なるかどうかくらいと思うけれど、翻訳の仕事を探そうと思ってエージェントのトライアルをいくつも受けていた時期があって、ネットで色々調べていると、翻訳に携わっている人たちはみんなグーグルを使っていたところからだった。たしかに、自分で使い始めて見ると、検索力は他のサービスが問題にならないくらいだった。外国語を調べていると辞書に載っていない単語、語彙、使い方なんていうのはざらにあって、ネットがない時代はネイティブに訊ねないとお手上げなものだったのだけれど、ネットが使えるようになると、状況は一変してしまった。外国語の新聞はタダで読み放題だし、何しろクリックしたらそこは外国にいるのと一緒なんだから。グーグルが翻訳で使えると思ったのは、辞書を使って調べるという感覚ではなく、ネットじたいが現代の、生きた、巨大な辞書なんだと気づいた時だった。お上品な言葉から、2ちゃんねる風の言葉使いまで、ありとあらゆる言葉の使い方がある。たとえば、意味のよくわからない言葉に出くわすと、とりあえずそれで検索をかけてみる。すると、今のスペイン語で、この言葉がどんなときに、どんな使い方をされているのかが、ざっと出てくる。それをひとつひとつ、証左していくと、辞書に出てくるように意味は教えてくれないけれど、言葉が持っているイメージみたいなものが現れて、あとはそれを日本語に置き換えてやればいいだけ。
たしかに、過去何年にもわたってぼくが何を検索したかをすでに、グーグルは知っているわけで、それを悪意を持って使われれば恐ろしいことではある。しかしこの便利さをどうやって諦められるのかというジレンマ。20世紀は、理想に向かって進んでいったことが、最悪の結果に終わった世紀だった。21世紀。それは繰り返されるのだろうか。

Wednesday, March 21, 2007

「ビル・ヴィオラ はつゆめ」


兵庫県立美術館に、「ビル・ヴィオラ はつゆめ」展を見に行ってきた。ビル・ヴィオラは、1951年ニューヨーク生まれのヴィデオアーティスト。ナム・ジュン・パイクなどからヴィデオを学んだらしい。これまであまり知らない作家だったので、どんなものかほとんどイメージがないまま行った。1時間ほど上映時間がある「はつゆめ」の最終が、4時半だったのでその前に行ったのだが、すでに満席になっていた。今日は最終日だったので、もう1回上映が追加され、何とか1時間後に見ることができた。何を期待していたか、自分でよくわからないのだけれど、期待以上のものを見たという感想を持って帰った。はじめて見るようなものばかりなので、感想自体をどう書いたらいいのかもよくわからない。どの作品も異常ににモーションを落とした速度で、上映され、日常では気づかされないような人間の行動とか心理とかが、浮き彫りになっている、とでもとりあえずは書いておけばいいのだろうけれど、でも、感動している点は、どこかそういった言葉では表せないものだと思う。映像に連動して、いままで感じたことのないような感情が、自分の中に表れて、どんどん興奮していくのが自分で分かる、といった感じだろうか。
「はつゆめ」は、1981年、ヴィオラが1年日本に住んで、ソニーの協力を得てつくったものだ。今回のはデジタル・リマスター版ということ。1981年の日本は、まるでぼくが初めて韓国へ行ったときに感じたような印象だ。ほとんどこの国とは思えないくらい違和感がある。日本ではないどこかのアジアの国。手法は同じ、映像はどんどん速度を落とし、ほとんど気持ちいいくらいにそれを感じてくる。ぶれて使い物にならないような映像も挟み込まれて、結局映像の質なんてものは二次的なものなんだと思う。それをどう使うかという問題。

予定より遅くなって、おなかがすいたので、元町まで出て、「丸玉食堂」で焼きビーフンとハムとビールで夕食。なんとなくひとりで手持ちぶさたなときとか、落ち込んでるときはここへ行ってしまう。台湾人の一家で経営されているこの店の人たちはひたすら、料理をつくったり店を切り盛りしているので、余計なおしゃべりをする必要もない。ぼくはたいてい、親父さんが中華鍋を、小刻みにリズムを取りながら動かしているコンロの前に座り、親父さんがつくったまだ熱々のやつをそのまま、直接もらって食べ、何というかつくった料理の熱を身体の中に伝えるような感覚で満足感を得る。ホッとしてなんだか救われたような気分でビールを一本。今日もまたなんとか凌いだかな。

Monday, March 19, 2007

temblar(4)


「揺れる」シリーズつづき。写真は1990年、たぶん8月くらいのグァテマラ、アンティグアの町の風景。アンティグアはグァテマラのかつての首都だった町だったが、1773年の地震で崩壊。今でも写真のように崩れたままの教会が町のあちらこちらに放置してある。
 Las películas de mi vidaでは、地震学者だった主人公の祖父はグァテマラの隣国エル・サルバドールの地震の調査中被害にあって亡くなる。Las películas de mi vida、『わたしの人生の映画』という意味だが、前回書いたように、幼少期をロサンジェルスで暮らした主人公のチリ人地震学者が、東京への出張旅行中、トランジットのロサンジェルスでDVDを借りてかつて見た映画を見ながら過去を振り返るという内容。
たとえば、一番最初の『野生のエルザ』はこういう風に紹介される。
「『野生のエルザ』は、四人で観た。聞いた話しによれば、車に乗って、滝のある墓地の麓にあるカーバー・シティにほど近いdrive-inだった。drive-inには、若者たちがセックスをしに行ったり、ベビーシッターを雇えない、まだ子供の小さなカップルがよく行っていた。覚えているのは、ただライオンたちがサバンナを駆けまわっていたことだけだ。おそらくそれすら忘れているだろう。有名な主題歌はよく知っている。たぶん歌詞も覚えている。なぜ父と母がライオンたちの映画を観に行ったのかはわからない。おそらく、誰も英語がよく分からなかったからだと思う。定かではないが。その頃は母、木製のパネルのついた古いポンティアックのバンを持っていた。50年代の遺物で、祖父が送った金で買ったものだった。後部にベッドと毛布が備えてあったのを覚えている」。

さて、ぼくの「揺れ」は止まったのだろうか?今日は新月。すべてが新月から新月のあいだに起こったような気分。お世話になった人にはお礼とお別れを言って、起こったことはもう置いていこう。何かが終わって何かが始まる。これは終わりの終わり。おそらく3年弱ほどのサイクルが閉じたのだろうと思う。明日からはすべてが新しくなる。

Sunday, March 18, 2007

新しい仲間

木曜日。芦屋の利用者のお宅を出たあと、打出のアイロニーへ寄って、新しい仲間を購入。貝母というユリ科の花で、原産は中国。学名はFritillaria verticillataという。前回活けた3種類の花のうち、まだパフィオペディラムとコリゼマが、なんとかもってくれているので、あっというまに凋んだ水仙の代わりになにか明るい色の花を添えようと思った。残念ながら、仕入れと仕入れの間の日だったらしくあまりたくさんの種類は置いてなかった。そんななかから、派手さはないけれど、静かに物思いに耽っているような貝母を一輪もらって帰る。
こんなことを始めたので、最近は気にしてあちこちの花屋、フラワーショップを店先からのぞいてみたりするのだけれど、なんと世の中にはトンでも花屋が多いかと思う。レストランへ行って、とりあえずお腹がふくれたらいいだろうというものを出されたときの気分に近いか、とりあえず花の形をして色がついてたら花のつもりになっているようなものが多すぎる。
アイロニーは、そういうわけで、ネット調べて行ってみた。阪神打出からまっすぐ2号線の方角へ歩いて左手にある。隣はケーキ屋さん。その先にはフレンチのレストランがあるような地区だ。ここに置いてある花はみんな美しい。はぁーとため息が出るようなものばかり。貝母は、一輪350円ほど。びっくりするような値のするものもあるのだけれど、一輪買って車の助手席へのせ、家へ帰ってすぐに水をかえた花器に飾ってみるときの、独特のこころの高まりは物の値段に還元されようもない何とも言えない感覚である。

Saturday, March 17, 2007

自由になるには闘わなきゃだめなのよ。


Para ser livre tienes que luchar「自由になるためには、闘わなきゃだめなのよ」。こう言って呼吸器の接続をはずし死を選んだスペイン、アンダルシアの筋ジス女性インマクラーダ・エチェバリーアさんが、一昨日51歳で亡くなった。スペインでは、これをきっかけに論争が起こっている。彼女の死を扱ったグーグルニュースのリンクの数の多さでも分かるだろう。医師に倫理的な問題がなかったかという意見とともに、これでスペインでも尊厳死を認める道に一歩踏み出したと肯定的に捕らえる意見も多い。ヨーロッパだけではなく、おそらく全世界的に患者の自由を尊重する、尊厳死というのは、説得力があり、『海を飛ぶ夢』や『ミリオンダラー・ベイビー』など、すぐに浮かぶ最近の映画でも、こうした傾向を追認しているといえるだろう。
彼女は、自分が死んだら、自らのことを「戦士」だったと思い出してほしいという言葉を残して亡くなった。彼女は、11歳の時、筋ジストロフィーということが判明。17歳で父親を亡くし、その8年後母親を亡くしている。25歳の時子供を身ごもったが、父親はその後すぐ交通事故で死亡している。進行が進んでこの10年間は呼吸器をつけて生活をしていた。安楽死を担当したのはその間入院していた病院の医師だったが、その病院は、カトリックの教会が管轄する病院だったため、安楽死に反対するバチカンの許可が得られず、この処置のため病院を変わらなければならなかったという経過もあったようだ。
ぼくたちのように、身近に呼吸器をつけた人があたりまえにいる状況で生きていると、にわかに信じがたい話題であるし、呼吸器を拒む理由は、本人の自由意志と言うより、周囲の意志を患者がくみ取ってというところが大きいと主張した立岩真也のいくつかの著作を読んだりもしているのでなおさらだ。彼女の歩んできた人生を考えると、呼吸器で生活していなくても彼女は自殺を選んだのではないかとも考える。

彼女が死ぬ一週間前に受けたインタビュー
-10年も呼吸器をつけて生活をしたいたのなら、もう機械と友だちと言ってもいいんじゃないですか?

-いいえ。

-機械とはうまく行っていなかったのですか?

-これに人が慣れるなんてことはないんですよ。

今のぼくには、受けいれがたい言葉であるけれど、これもまたひとつの当事者の言葉なんだろうとは思う。

Friday, March 16, 2007

みんなでいっしょにごはんをたべる。


一昨日、定例の利用者宅食事会。みんなで数えていたらこの晩で9回目になっていた。昨年7月から毎月一回欠かさずだからたしかにそうだ。誰か利用者の人の家へ行き、その利用者と一緒につぎの利用者の家へ行って、みんなでいっしょにごはんを食べて、お酒を飲むという単純といえば、単純な企画。けれども、それまで誰も思いつかなかった。
 「地域で暮らす」というのは、老人、障害者問わず、現代の福祉のキーワードとなっている。が、現実は、地域で暮らしはしても、他との係わりを失って、孤立することも多い。とくに、ぼくらが働いてる、自立生活センターの理念は、個人による自己決定が基本なので、利用者は、まず「個」に還元されてしまう。ぼくらがやろうとしているのは、その点と点をあらためて繋いでみようという試みだ。ウェブ状に人と人が繋がっていくのをイメージすると考えやすいと思う。
昨年7月いちばん最初の食事会が終わって外へ出た。日づけはもう変わっていた。介助にかかわる職員であるぼくたちは、何か得体の知れない高揚感で興奮していた。何か新しいことを始めた。みんながずっとこんなことがやりたいと思っていたのに、なかなか実現できなかったことがやっと叶った感じ。ぼくは、こんな身近にバリアがあったんだとあらためて思った。そしてそれを突破した。ベルリンの壁が崩れたようなものだ。あるいは、わだかまりがあった友人との仲がうち解けて、溶解したような感覚か。参加者のひとりひとりが、どんなことを思っているかはわからないけれど、ぼく自身は、ぼく自身がいちばん救われていると思う。時間が経つ毎にそんな印象は深まっている。
こうした動機が、引きつづいているので、今も飽きずにやれているのだろう。今回はネパールからの研修生も参加してくれた。来月はもうすぐ部屋を借りて、一人暮らしを始める女性のお宅で、引越祝いを兼ねてやる予定。

Tuesday, March 13, 2007

人工呼吸器と共に地域で生きる


呼吸器くんに、「上には上がいる」と言わしめた今井隆裕さんのホームページ。31年間病院にいての地域での自立。あまり知られていないが、あたりまえのことをあたりまえにすれば、あたりまえにここで暮らせるという事実がここにもひとつ。岐阜県というのがまたすごい。

Monday, March 12, 2007

temblar(3)


「私の母、アンヘリカ・ニーマイヤーは、私たちがイングルウッドに住んでいたこの頃けっしてよい状態とは言えなかった。おそらく、だから私を幼稚園へやらなかったのだ。ほかに誰もおらず、ひとりになりたくなかったのだ。イングルウッドで、ひとりでいることは容易いことではない。母はすぐにそれに気がついた。 カリフォルニアに着いたばかしの62年、母は英語が話せず、友達もおらず金もなく、勉強をつづけることもできなかった。母は、チリで勉強を始めていた。コンセプション大学工学部の学部長だった私の祖父のように、地震学者になろうと思ったためで、同じ大学で勉強していた。しかし、ファン・ソレール、私の父は、国から出たり入ったりし、町から出たり入ったりし、母の人生から入ったり出たりしており、母の計画を変えてしまった。」
泊まり介助中、横で呼吸器くんが、ブログを書いているあいだ、訳していたLas películas de mi vidaの一節。Las películas de mi vidaは、アルベルト・フゲーの半自伝小説。地震学者である主人公が筑波大学へ出張を命じられた途中、トランジットしたロサンジェルスで、DVDを借りまくって、幼い頃見た映画で自分の人生を振り返るというのが、大まかなストーリー。引用にあるとおり、ロサンジェルスは主人公、そしてフゲー自身も幼少期を過ごした町でもある。フゲーはアメリカに住んでスペイン語で書く作家のアンソロジーを作ったこともある。この部分だけでは分からないけれど、この小説を読んでいると物語にひきこまれるというよりも、押さえた口調で、たんたんと語っていく、その語り口、文体に興奮する。

もちろん呼吸器くんは、「これからブログをつけます」などといちいち言ったりしないので、ときおり帰ってブログをチェックしていると、ちょうどなんだか横で静かだった時間帯にブログを書いていたことが分かり、なんだあのときこれを書いてたんだと思うことがある。

Friday, March 9, 2007

FIRSTCUT IS THE DEEPEST


あるときは大学教師、またあるときは障害者の介助者、またまたあるときは、DJ。そしてけっしてその正体なんかはないポストモダンなライフスタイルは、なんとなくぼくと似てなくもない↑?さて私は誰でしょうだね(笑)。
FIRSTCUT IS THE DEEPEST

Thursday, March 8, 2007

temblar(2)


temblarは、スペイン語で「揺れる」という意味。地震で揺れるなどというときに使う。あっという間に第一線からいなくなってしまった河合隼雄が、90年代、不況になってみんな疲れてしまったときに、よく対談などに引っ張り出されて言っていた。「子供にとって両親の離婚などはまるで大地震が来たようなものなのです」。じっさいの地震と、人生を揺らすものとしての地震のメタファー。まるで違うようで、じつは大きく絡まっている。じっさいに地震が来たときは、多くの壊れた家族は修復しようとした。ぼくが今翻訳している(そしてじっさいは、祐樹の死以来ぴったりと作業は止まってしまっているのだけれど)チリの作家Alberto FuguetLas peliculas de mi vidaもまさしく、地震とそれに揺さぶられる人生を描いた作品だ(彼がぼくと同じBloggerのブログを使っているのは偶然。べつに真似をしたわけではない)。チリは南半球で、ちょうど日本のような地点に位置している。地震も多い。クライストの『チリの地震』というそのままの短編もある。
これということがあったようななかったような。でもまるで地震の後のようにぼくの人生も揺れつづけている。怪我で身体が痛いけれど、それはいったい何のダメージだったのだろう?何かを錯覚したようにまるで分からなくなってしまった、と言えば、今日語ろうとしたことが伝わるだろうか。
先週、怪我が少しでも早く治るようにと、有馬の温泉に浸かりに行った。写真はそのときのもの。色んな人と、色んなときに行った。そんなときのことを思い出しながら夜道を山を越えて車を走らせていた。朱く金属が混じった湯にじっと浸かっていた。

Monday, March 5, 2007

Letters from Iwo jima


泊まり明けは雨。予想どおりでそのまま歩いて阪神の駅まで戻る。春の温かい雨。きれいだ。駅に着くとなんだか映画でも見たい気分になってきて、家とは反対方向神戸方面へ向かう特急に乗った。
国際会館の松竹。最上階の庭園にも雨がどんどん降っている。
映画は『硫黄島からの手紙』。これはもの凄い映画だと思う。昨今の国威高揚映画をつくっている人たちは「恥ずかしい」という言葉を知るべきだろう。この映画に比べれば、今まで作られたすべての戦争映画は、たとえ反戦映画だと呼ばれているものでも、それは、戦争の「ために」作られたのだと思えてしまうくらいだ。この映画は、戦争に抗い、あのおちゃらけた『ラスト・サムライ』を作ってしまったハリウッドに抗い、そうしたものすべてを産み出している現代のアメリカに抗っている。ほんとうにヒロイックな演出も全くなく、ごろごろと無意味に人が死んでいくシーンがつづいてつづいていく様は、これが新たなリアリズムであり、アメリカはすでに戦後を生きはじめているのだと教えてくれる。
さて、ぼくらはどうするんだろう?冒頭の慰霊碑の題字を書いた人の孫が今の日本の首相なのだが。

Friday, March 2, 2007

記憶、匂い、春の、

朝、かかりつけの整体の先生のところへ行くと、筋肉の張りがふつうじゃないので、歩くなどしてもっと自分でほぐす工夫をしてみたらいい、と言われたので、散歩がてら昼すぎから神戸へでかけ、呼吸器くんのお見舞い、といっても呼吸器を替えるだけでべつに病気でもないのだから、お見舞いというのもおかしいのだけれど、ちょっと顔を見にでかけた。呼吸器の変更は、問題なくいっているようで元気そうに過ごしていた。途中心電図など取りに来たが、小一時間ほどおしゃべりして、レントゲンのおおげさな機械が運び込まれたのをきっかけに、おいとまして帰った。
大倉山から、湊川神社の横の道を降り、元町の商店街を抜けて三宮まで歩いた。
来るときは、それほど暖かくもなかったけれど、帰りは少しもやるくらいの春めいた空気。どこかを旅していたときに似た匂いがふっと流れてきて、こんな感覚はいつまでもつづくのだろうかと思う。
商店街に、船員服の専門店があるのを見つけ、あらためてここが港町であったことを思い出している。西元町に近い側の寂れようは、いつまでたってもかわらず、寂れたチリの港町のことを懲りずにまた思い出していた。

Thursday, March 1, 2007

昨日あたりから、町のどこかで、鶯が鳴いているのを耳にするようになった。
けがをして、思わぬかたちで降ってきたバケーションのおかげで、朝、整体に通うときとか、夕方ビバへ買い物に行くときとかに、街路樹の中とか、民家の庭木とかから、一声鳴いて、そちらへ注意を向けると、姿を隠すようにしんとなって、あちらの電線の方へ飛んでいってしまうのを目撃することができる。まだ身体のあちこちが痛むので、楽しいという感じではないのだけれど、束の間時間がゆったりとかわるのを感じる。
スペイン語で「鶯」は何というのだろう?
調べてみると、"ruiseñor"、"fimomela"などという例が載っているが、"ruiseñor"はナイチンゲール。ふつう「夜鳴き鳥」などと訳されて、「鶯」とは少し違うだろうと思う。日本特有のものでうまく訳語がないのかも知れない。"fimomela"はもともとギリシア神話に出てくる女性名のようだ。Orquesta Mulenzeに"No hay manera filomena"という曲があったのを思い出す。人名の由来を調べたこのオランダのページによれば、語源は同じである。