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Friday, April 23, 2010

『ウルトライスモ』

『ウルトライスモーマドリードの前衛文学運動』という本を買った。先週大倉山にあるかかりつけの漢方の先生のところへ行った帰りだ。坂田幸子という慶応の教授が書いている。国書刊行会2010年2月19日発行。
現代スペイン詩の歴史には少なからずラテンアメリカ人が関与して、節目ふしめで大きな役割を演じているーというようなことが書いてある。
ルベン・ダリオ、ビセンテ・ウィドーブロ、それからわたしの大切なホルヘ・ルイス・ボルヘス。
ウィドーブロは、チリの大学の授業で読まされた。が、覚えているのはビオレタ・パラがどこかの歌で彼の名を口ずさんでいたことだけだ。
不眠で悩んだサンティアゴの小さな部屋を出て、毎朝階下の大通りから「Macul12」というバスをつかまえる。疲労を残したままの身体は寒く霧のかかった郊外の町へと運ばれていく。職場にボランティアに来た女子学生が偶然わたしと同じ学部に通っていたことを知る。「Macul12」という懐かしい符合。
バスが轟音をたてて変わった信号を走り抜けていく。わたしはまたきれいな女の人に見とれていて、車に轢かれそうになった。

昨夜のこと。わたしはTwitterでおどろくような告白を目にしていた。わたしがその人のことを知ったのは、先日のチリの地震のとき、緊急医療の支援で詳しいレポートを現地から送ってきてくれていたからだった。ドクターだ。彼には、一緒に暮らしている実の娘のほかに、息子が一人いるというのが、話の骨格なのだが、単純な浮気で出来た隠し子というのとは少し違う。「彼女」(と彼は記していたが)は、意志してシングルマザーになることを望んでいた。彼は、それを語る「彼女」に感銘して、「彼女」のシングルマザーになる希望の手助けをしたのだという。その結果出来たのが彼の息子なのだという。
彼に、「彼女」は彼が娘のことをTwitterでつぶやいているのを見たと言った。あなたは自分のことしか考えていない、息子がTwitterを見ることもあるのだ、そうしたら自分にはまだ会ったこともない姉妹がいることを知ってしまうこともあるのだと責められたという。
チリの地震。サンティアゴ。カルメンとのコーヒーを飲みながらの延々としたおしゃべり。思春期の子供にとって両親の離婚というのは、大地震にも匹敵する出来事なのです、という河合隼雄の言葉が、わたしの人生の折々に浮かんではまた沈潜していっている。
サンティアゴを去る日、行きつけの中華料理屋へ飯を食いに行き今夜遅くここを発つんだというと、骸骨のような顔をしたウェイトレスが、意味深げな笑いを立てながら、最後にここに来たのね、と言った。わたしは冗談でそれに応える気力も尽きているほど疲弊していたのだと思う。

Sunday, February 7, 2010

シルビアさん


一昨日金曜日、コスタリカより美しい女性の来客があったので、もともと休みの日だったのだけれど事務所まで出かけていった。
シルビアさんはJICAのコスタリカ事務所で働いている現地職員で、ぼくたちが毎年受け入れている研修生たちを募集して、送り出すまでを担当している。障害当事者である研修生たちは、はじめて飛行機に乗ったり海外に出るのも初めての人も多かったりするのでパスポートのとり方から教えたりしていると言っていた。ぼくらが初めてシルビアさんに会ったのは、一昨年6月にその秋から始まる中米研修の下見のためにコスタリカを訪れたとき、初日の打ち合わせでだったが、ぼくらがおもに活動しているのは彼女のいる首都サンホセではなく地方の町でが多いので、それ以後は、そんなにしょっちゅう顔を合わせているわけじゃなく、セミナーがあったときに挨拶を交わしたりする程度だった。彼女がぼくらにとってとくに印象深いのは、コスタリカ人の現地職員であるのに、かなりちゃんとした日本語が話せるからだった。

それもそのはずで、彼女は9歳から15歳にまるまで、お父さんが大学に留学していたので家族で長崎に住んでいたことがあったからだそうで、今年30歳になる彼女は忘れていたらしいのだけれど、JICAで働き出したのを機にだんだん思い出してきたと言っていた。
その間、一家の中ではスペイン語は禁止だったらしく、コスタリカ人の両親と彼女と彼女の弟で日本語で会話している様子を想像すると、なんだかおかしくて笑えてきた。

シルビアさんは今週から始まる2週間の研修に参加するために来日したのだけれど、せっかくだからとその前に一週間前倒しで来ていくつか訪問したかったところを回っている。研修生を送り出す役目なのに、実際に研修所がどんなところか知らないので、それを知っておきたかったと東京と大阪の研修所を回り、そのついでにぼくらの事務所にも立ち寄ってくれた。「ここに来るのが夢だった」なんていう嬉しい言葉も言ってくれていた。午前中ときいていた訪問も、お昼ご飯を食べて、気がついたら午後3時を回っていて、ようやくかつてお世話になった人たちの待つ九州へ去っていった。今年の研修は夏になりそうで、3月か4月くらいにはテレビ回線を使った選考が始まるので、そのときまた顔を見ることができるだろう。

Friday, January 29, 2010

El Cantante


アメリカでの公開が2007年だから、もう3年前の映画。日本でJloはともかく、エクトル・ラボーって言っても誰も知らないから、一般の映画館ではなくアートシアターでの上映となる。
 時代の考証はよくできているし、ラボーに関して誰もがよく知ってる出来事が織り交ぜられて、それにマーク・アンソニーが歌うラボーの名曲が続々と流れて、ぼくはまぁふつうに楽しんで帰ったのだけれど、帰ってちょっと調べてみると、色々批判もありとくに身近にいた人たちの評判はあまりよくないようだ。
 その筆頭がウィリー・コロンのものでもともと彼のサイトに公開直後に載せられたもの(*1)が、様々に引用されて残っている。全文が載っているページを見つけられなかったのだけれど、引用は「映画の作者は、われわれのコミュニティを適切に扱っていない」と始まり、結局ラティーノ=ジャンキーと言ったに過ぎない。芸能界とドラッグとの結びつきはラティーノに限らずブリトニー・スピアーズなどなど多くの例があるのにと皮肉たっぷりで終わってる。ウィリーは、最近でもメディアに登場するラティーノのイメージが変わっていないことを批判する文章を発表したりしているので、ラボーの扱いについてはとくに彼の琴線に触れる部分だったのだとも思う。他にもラボーの父親役で出演したイスマエル・ミランダやチェオ・フェリシアーノ、ミュージカル『誰がラボーを殺したのか』でラボー役をやったドミンゴ・キニョネスの感想を載せた文章がネット上では流通しているようだ(*2)
 何を見たいかによってこの映画はまったく違ったものに見えるのだろうけれど、ラボーが「エル・カンタンテ」という曲そのものに、自らの虚像に苦しみながらも、どこか進んでそれを生きるところもあって、最終的にそれにのまれてしまったような人生を生きてしまったのなら、そんな虚像の部分は十分楽しめたのではないかと思う。
 ぼろぼろのブロンクスの風景と摩天楼がそびえ立つニューヨーク。そして自然豊かで人情がまだ残るプエルトリコ。まるでお伽話の中の決まった役割のようにそれぞれがちゃんとそんな風に表れてくれる。ジャンキーのラボーはぼくらの期待どおり病んで、破滅していく。ウィリーがどう思っても、イメージの方がときにはずっと強力であったりするのだ。

Monday, November 9, 2009

Costa Rica (2)

サンホセでの1日目は、こちらのリハビリ審議会での意見交換会。期せずして、ここの事務局長とまるで行政交渉のようになった。臆せず対等に話すのを見て、ウェンディ、アイーダらの成長が著しいのが一見してわかりちょっと感動ものだった。こうしたときこの仕事がやめられないと心の底から思う。
その後の三日間は、ここHotel Heradurradでの国際セミナー。初日の歓迎パーティでは昨年グァテマラに行って行ったセミナーに来てくれたチョー小さい女の人や、見学させてもらったリハビリ病院の院長先生に再会。こちらを覚えてくれていたのがとても嬉しかった。パナマ、ドミニカ共和国、ペルー、エルサルバドルから招かれてきた当事者たちはみんなとてもエネルギッシュで明るくいつも笑っていて、いつもはパーティといっても何を話していいのか分からなくて居心地の悪い思いもするのだけれど、この夜はほんとに楽しかった。
セミナーの初日は、畑くんの話、2日目の分科会では自立生活センターの介助派遣についてぼくと畑くんと松島くんで話した。金曜の最終日は朝から代表が全体会議で自立生活運動について話した。
自立生活運動に関しては、とてもみんな関心を持ってくれていると強く感じた。パナマから来た当事者もぜひパナマでも展開したいと言ってくれていた。閉会式がそれを象徴していて、専門家集団がCBRを発展させる目的でつづいてきたこのプロジェクトにもはや彼らの姿は後ろに隠れて、まるで当事者たちの決起集会のようになっていた。

昨日今日はここサンホセのホテルでゆっくりしている。明日からまた地方の町を回って来週またここへ戻ってくる予定。

Tuesday, November 3, 2009

Costa Rica (1)


オハンチャ、サンタクルースのセミナーを終えて、昨日首都サンホセに戻って来ました。
昨日は、移動だけだったのでやっとゆっくりできて、時差ぼけもほぼ解消した感じ。オハンチャは6月に研修に来たウェンディと介助者のカレンの故郷。少し南に車を走らせると海岸に出る暖かい町だ。人口は1万に満たない。
エアコンのない会場は暑く、声も通らないのでこちらの集中力はどんどん落ちて行く。なんとかこなして、ウェンディの家で一服。急な依頼で夜はカレンの高校でぼくと松島くんとが、介助者の仕事について話す。最高に疲れたけれど、同じくらいの達成感があった。
翌日は、近くのサンタクルースという町で、当事者だけのセミナー。バスでオハンチャから道すがら障害者の人たちを拾いながら行ってだんだん増えて賑やかになっていくのが楽しい。
ニコヤという町で一泊。夕食を食べて、夜遅くまでペレスセレドンから来てずっとぼくらと同行しているアイーダ、ジゼルと話す。けっこう深い活動の話になって時間を忘れるくらいだった。

昨日の日曜日、日中の移動でコスタリカの豊かな自然を堪能しながらサンホセまで。もうすっかり忘れていたような生命力のようなものが自分のなかで呼び覚まされていくのを感じる。

Thursday, August 20, 2009

Twitter x Willie Colón


ここのところつづけて、新しいテクノロジー、とりわけiPhoneがこれまでの世界に与えている変化をかいつまんで、書いている。インターネットが開いた変化の波にはいくつかあったと思うけれど、今はその何回目かの大波が来ているのだと感じる。

ちょうど10年ちょっと前くらいだろうか、Webを巡回して情報を集めることを、コンピュータに詳しい人だけじゃなく一般の人がふつうにやり始めた頃、ウィリー・コローンが自分のホームページをファンとのインターフェースにして、まるでその後は、ニューヨークという土地の呪縛から解き放たれたかのように、メキシコのクラブを中心に拠点を移してしまったことを思い出している。もちろんニューヨークでサルサを聞く人はどんどん減っていて、メキシコを拠点にせざるを得なかったのは、多分に営業的な判断があったのだろうけれど、音楽的なキャリアを見渡してみても、この人には、「新しいこと」への独特の嗅覚があって、すぐに飛びついて、自分のものにしてしまう。

こんなことを思い出していたのは、話題のTwitterを、もちろんウィリーも始めていて(Willie Colón)、ここ数日まるで憑かれたように「つぶやいて」いる様を刻々とチェックしていると、おそらく彼が、この新しいメディアを、音楽関係者がよくやるお知らせや、宣伝的な使い方ではなく、自分の何かを「表現できる」と考えてそれを使っているとすぐに分かってきたからだ。

彼の「つぶやき」は、ときに英語ときにスペイン語、あるいはそれらが混じり合ったもの、多くは誰かか、あるいは自分で考えた警句が、間髪入れずつづいていく。それを見ながら、まるでアーティストが紙にあれやこれやと書き殴っている草稿が、目の前で書かれているような気がしてくる。
考えてみると、限られた字数で、考えやイメージを纏めるのはまさに作詞の作業と同じ、彼にはお手のものだろう。さらに、Twitterというものが、何らかの完成へ向かっているのではなく、(まるで人生のように)流れゆくプロセスそのものが刻々と移ろっていく様を表している、ということを再確認させてくれる。

Sunday, August 16, 2009

iPhone x Nicaragua

今回のニカラグア行きは、ぼく個人にとってはもちろん、発売日に手に入れたiPhone3GSを持ってはじめて日本の外に出るということだったのだけれど、事前に想定していたような使い方はほぼ思っていたとおりにできたんじゃないかと思う。
以下備忘録的に。海外での使用例として共有できたらいいと思う。

1)伊丹〜成田
成田では有料のWifiが複数飛んでいたけれど、国内なので3G回線で。搭乗と同時に機内モードにする。ここをはじめいろんなサイトが指摘しているとおり、海外での使用はパケット料金の割引が適応されないため、知らずに使って法外な請求が来るのを避けるため。以後帰るまでほぼ機内モードのままだった。

2)ヒューストン
到着したら、機内モードを解除。ATTの3G回線に接続されソフトバンクから海外での使用の注意書きが送られてきた。

アメリカではどこでも無料のwifiが飛んでるのかと思ってたけど、そういうわけでもなく空港ではboingoのサービスが使えた。実際には行きと帰りの数時間しか使わないのだけれど、一ヶ月$7.95のサービスに加入してみる。オンラインで決済したらすぐに繋がった。さっそくTwitterfon proで、Twitterに到着の写真をアップしてみる。

ハドソン川に不時着した飛行機のニュースを最初に報道したのはTwitterを使っていた乗客だったというのももう伝説になってるけれど、今回一番やりたかったのが、Twitterで、むこうの活動を画像・映像つきで伝えるということで、何とかすんなりとできそうな感じ。

3)ニカラグア
ニカラグアでの3G回線は、Claroという会社がキャリア。確認してすぐにまた機内モードに戻した。

ニカラグア滞在中は、ずっと首都マナグアのIntercontinentalというとってもいいホテルに泊まった。ぼくらは海外で仕事に行くときは、たいていとてもいいホテルに泊まるのだけれど、ぼくらが行くのは途上国が多く、そこで車いすに対応してくれるホテルとなるとだいたいこんなクラスになってしまうのだ。
ここでのインターネットは有料。同室の同僚と一週間$40をわけわけした。名前と部屋番号を入力すればパスワードが発行される。チェックアウトのときに料金と一緒に請求される。有線もあるし、無線がホテル全体どこでも飛んでいたので、まさにiPhone向きのホテルだった。

ホテルの前にモールがあったのだけれど、そこでは部分的に無料のWifiがキャッチできた。そういえば、打ち合わせに行ったJICAニカラグア事務所内も無線LANになっていたっけ。

Twitterは、なにか起こったらその場で送れるのがいいのだけれど、ホテル内での出来事はほぼそのとおりにできた。外に出ての活動は写真を撮っておいて、後でホテルに帰ってからアップする、ふつうにブログを書くような感覚でやった。

空港にも一部無料のWifiが飛んでいるのに帰り間際に気づいた。上の写真は出国を待っている時間にTwitterにあげたもの。

3)ふたたびヒューストン
帰りは便の関係で一泊しなくてはならず、去年泊まったEcono Lodgeというモーテルに一泊。ここのWifiは無料。ここの電話番号をパスワード代わりに入力したらすぐに使えた。この気楽さがアメリカっぽくてよかった。


一週間の滞在で、メールをチェックして返信し、いくつかのSNSを回ったり、ブログを読んだり、iPhoneがあれば日本での習慣がほぼ途切れることなく継続していた。本格的にテキストを入力したり、大きい画像を扱ったりしない以外は不自由に感じることはまったくない。iDiskやDropboxがあれば自分のパソコンを持ち歩いているのと一緒だし、むこうで知り合った人に、写真を見せて色々説明することもできる。もうちょっと便利すぎて、iPhone前の生活には戻れないよね。

Friday, August 14, 2009

中米のともだち #7


前の記事に書いたとおりニカラグアに行ってきました。

 JICA大阪が企画、うちの事務所が実施して去年からやっている、中米のコスタリカ、ホンジュラス、グァテマラ、ホンジュラス4カ国の障害当事者を日本に招いて、ゆくゆくは障害者自身が運営して自立支援や介助サービスを提供する自立生活センターを各国で作ってもらおうという研修コースのフォローのためだ。

 コスタリカ、グァテマラは去年すでに事前調査に行っているので、残りのニカラグアとホンジュラスも調査しようというのが、もともとの計画だったのだけれど、未だに解決しないホンジュラス国内の混乱のため、訪問をニカラグアだけにして、そのかわり去年と今年の研修生を全員ニカラグアに招待しようということになった。ニカラグアの去年の研修生サンドラがすでに、ニカラグア最初の自立生活センターを立ち上げたので、そこへ皆を招いて、お祝いして、さらに刺激を受けてもらおうという意図もあっただろう。

ぼくたち日本からのメンバーの一週間の滞在の真ん中3日間が、自立生活センター立ち上げに合わせてのセミナーになっており、研修生たちもそれに合わせて招かれていた。事前にグァテマラの今年の研修生の1人が仕事のため欠席であることが知らされており、直前去年の研修生の1人がお母さんの病気のため急遽来られなくなった。2人の欠席のため研修生12名+介助者2名、来られなくなったグァテマラのホセマリアの介助をする予定だった18歳の青年もやってきていたので、合計15名の大所帯だった。ぼくは、今年の研修生と別れて間もないので、どこかこのグループの一員であるような気がまだしているのが自分でおかしかった。今年のグループはたいへんだったけれど、それだけ関わりも深かったんだと思った。なるたけ色んな人と話をしたかったのだけれど、誰かと話していると誰かと話せないわけで、楽しい再会もかなりフラストレーションが溜まるものになってしまった。

研修の3日間は、自立生活運動についてと、実際の交渉のやり方。3日目は介助者についてで、演習はぼくが担当してやった。夜は夜で、研修生たちが作業が今どれくらいまで進んでいるかをインタビューして、研修生たちからの相談にものったりで毎夜遅くまで話し込んでいたので、なかなかハードなスケジュールだったと思う。

セミナーの他には、去年と今年の研修生が所属する団体の事務所を訪ねたり、障害者の家庭や施設の訪問。最終日には地方の町に行って障害者の雇用に熱心な日本とメキシコの合弁会社の工場を訪ねたり、サンドラの団体の地方支部を訪問したりした。マナグアはどこが中心か分からない、お世辞にも美しいとは言えない町だったけれど、一歩マナグアをでるとニカラグアは美しい。ゆっくり旅するときっと虜になる素敵な国だと思った。

自立生活センター立ち上げという「名目」で一連の行事は行われているのだけれど、じつはこの自立生活センターには、ちょっとなんちゃってなところがあって、サンドラの団体自身が、女性障害者の団体として始まっていることやポリオや片足切断など比較的軽度な障害者の団体であることで、どこまでぼくらが求める重度障害者のニーズやサポートが考えられているのだろうか、ぼくら自身やや疑問に思っている部分もある。開所式に行って事務所がスロープになっていなかったのが何より印象が悪かった。

しかしながら、実際に介助派遣用に、イギリスのNGOと政府から予算を取っていて、制度とはなっていないから、期間限定で介助派遣も行われることになる。こうしたことを僅か半年でやってしまったサンドラのエネルギーと政治力も侮れなく、最後空港でまた涙を見せている彼女と別れるとき、結局彼女が誰よりも情に篤いのだとも感じて帰った。

3日目のセミナーが終わって、最後に研修生全員と集まっているとき、iPhoneを持ち歩いていつでもメールチェックできるぼくのところにグァテマラのJICAの担当者からメールが来て、病気だったホセマリアのお母さんが亡くなったと知らされた。みんなが集まっているこんな時にタイミングがよすぎるなぁと思いつつ、彼と仲のいいホンジュラスの研修生に知らせた。この集まりが終わる頃には、みんなで彼を励ます言葉を書いて寸志を贈ることに纏まっていた。それまでぜんぜん見ず知らずだった人たちが、こうして集まって、もうみんな家族のようになっているから、その家族に不幸があってももうそれを自分の家族に起こったことのように感じている。そうした当たり前のことを感じた。

Friday, July 31, 2009

中米のともだち #6

研修生たちが帰って、考えるとまだひと月もたってないのに、彼らがいるときと今の日常とがあまりに差違がありすぎるので、なんだかずっと昔の話か、あるいはもともとなかったことのようにすら思えたりする。

彼らが帰る間際、6月の28日にホンジュラスでクーデターがあり、研修できていたメンバーのうち2人の女の子がホンジュラスから来ていることもあり、夜ネットで知った事態を朝事務所で伝えると、そのひとりのお父さんが警察で働いていることもあってずいぶんと心配していた。ちょうど彼女らが帰国するとき、クーデターで隣国コスタリカに追い出された前大統領セラヤが、飛行機で強行帰国しようとしたところ、クーデター派が軍隊を使って閉鎖。彼女らは一晩マイアミで足止めを食らう羽目になった。

以来、コスタリカのアリアス大統領が仲介して、話し合いで決着を付けようとしてはいるのだが、なかなか両者が譲り合うことなく現在まで膠着状態がつづいている。今日入ったニュースでは前大統領支持派と軍隊が衝突して、けが人と逮捕者が出ている。

そういうわけで、本当だったらすでに今頃はホンジュラスとニカラグアへ調査へ行っていたはずだったのだけれど、こちらの予定も変わり、一週間遅れで明日からニカラグアだけの調査とセミナーに行ってくる。そのかわりじゃないけれど、去年と、先日お別れしたばかりの今年の研修生たちが、マナグアに集合することになった。ホンジュラスで待っていた研修生たちには可愛そうだけれど、またみんなと会えるのが嬉しい。

今回は、iPhone持参で行くので、Twitterをチェックしてもらえれば、Wifiを拾えるところで、むこうの様子も伝えられると思う。Twitterfonでは、ビデオもアップできるようになったしね。
http://twitter.com/tksh21

Tuesday, July 7, 2009

中米のともだち #5

5月の25日から始まった、中米の障害当事者を集めて自立生活運動を教える2年目の研修も、先日日曜、ひとりだけ残っていたグァテマラの女の子を見送ってやっと終わった。
土曜日の見送りの日には5時に起きなくてはならないのに、最後の夜ということもあって朝の4時までみんなで飲んでいた。最後にはみやげ用にトランクに収まっていた日本酒まで登場して、起きるとふらふらしていたけれど、6時に宿舎出発に遅れるわけには行かず、同室のグスタボの介助をしながら大急ぎで支度をする。2年目でそれなりにやることは分かっているはずだったけれど、やはりそのときになると色々不測の事態も起きる。

なんとか空港には間に合い、最後の別れとなった。今年はメンバー間で、いくつか揉め事もあって、それでかなりエネルギーを割かれた。直前に喧嘩していた女の子2人が、涙を流しながら仲直りしていたのを見て、ほんとに今年のグループは中学か高校生みたいだったなと思った。

今年は、介助者を連れて来た障害者が2人いて、それはどんな重度な障害者でも介助を使えば誰でもどこでも生活できるという自立生活運動のもっとも根本の考え方に近い研修になったと思う。その2人のコスタリカから来た男の子と女の子が誰よりもたくさん涙を流していたのが面白かった。

おそらく、障害当事者は、自分で書類を送り、それにパスして来日という、ある程度自分の予想した範囲で物事が起こったのだろうけれど、介助で来た2人は、その当事者に付き添うという、ある意味受け身な立場で来たので、起こった物事がすべて自分のことのようで自分のことじゃない、介助者独特の感覚で過ごしていたのではないかと思う。

多くの人が自分の人生を変えたと言っていたけれど、それがいっときの感情ではなく、引き続いて持ち続け、ほんとに人生を変えるような体験にしてもらったら嬉しいのだけれど。

Wednesday, June 17, 2009

中米のともだち #4

先週の月曜から一週間、東京での研修を終えて、今週からやっと西宮へ帰っての本番。今年は西宮に帰ってくるまで3週間もあって、ここまでに結構疲弊した。体調を崩す人が多かったり、メンバー間のコミュニケーションがうまくいかないのでその仲介をしたりで、予想外の労力がかかった。たいへんだけど、それだけ「関わっている感」も高く、やりがいも感じている。
西宮に帰ると、こちらのスタッフががっつり関わってくれるので、やっとホッとして一休み。
写真は1986年設立、日本で初めての自立生活センターヒューマンケア協会での中西正司さんの講義。グァテマラから来たロレーナの食いつきぶりが見ていて面白かった。

Friday, June 5, 2009

中米のともだち #3

2週目に入った今週、研修生たちは、午前と午後一日使って、日本語の勉強をしている。去年の研修生たちがあまりにも日本のことを知らないということが反省として残ったので、今年から加わったプログラムの一つだ。名前と出身を話す自己紹介や店に入って困らないように料理を覚えたりしている。もちろん、一週間でちゃんと話せるようになんかはならないので、どれだけ効果が期待できるかは分からないけれど、少しずつ片言のことでも毎日口にしているのが見ていて可愛らしい。
今は授業中だ。昼間の宿泊棟は誰もいなくて静か。昨日、カレンが甲状腺を腫らしていたので、同行して千里中央のクリニックまで行ってきて、さっきまたロレーナが熱があると言うと、発熱外来まで連れて行かれた。インフルエンザじゃないかと、ちょっとした騒ぎになって、部屋を変えたりしてばたばたしている。少し休息できるはずだった、今週の日中が何か慌ただしいまま週末になってしまった。

今日は授業が終わったら、キッチンルームを借りているので、みんなで国の料理を作ることになっている。ロレーナが来れなかったらちょっとかわいそうだけど。

Thursday, June 4, 2009

中米のともだち #2

JICA大阪宿泊10日目。毎日があっという間に過ぎていくので、数えて10日も経っているのでびっくりする。昨日は、同僚と交代で日中少し西宮に帰って気分転換。帰りにデパ地下で、葛まんじゅうを買って帰って、研修生たちと一緒に食べる。なんとなく「帰ってきた」という感覚でいる自分に気づいておかしい。

今年のグループは去年のグループほど纏まりがない。けれど、それはでもいいこと何じゃないかって思っている。何かを作っているというプロセスが、毎日目の前で繰り広げられていて、これはどこかのリアリティーショーじゃないのかと錯覚するほどだ。今日は先ほどまで、この建物にいかにバリアーが多いかを、所長に訴えに行く相談をみんなでしていた。話は脱線して、様々な方面へ流れていくのだけれど、それのひとつひとつがお互いを知る手がかりになっているのだろうと思う。

写真は、先週土曜日海遊館へみんなで出掛けたところ。どこを歩いていても、カルガモの親子みたいに見える。

Friday, May 29, 2009

中米のともだち #1

たぶん自宅以外の出先かブログを書くという初めての経験だと思う。
中米4カ国からの障害当事者を研修生として迎えて、中米での自立生活運動の促進をすすめるJICAのプログラムで、今週の月曜日から大阪吹田の万博公園の近くにある大阪国際交流センターに宿泊中。
今年は3年の予定の2年目。昨年と同じように、コスタリカ・グァテマラ・ホンジュラス・ニカラグアの4カ国から7人の研修生が来ている。研修生と同じ部屋で寝起きを共にして、ここと東京と西宮での研修でのサポートをする生活が約一月つづく。なかなかヘビーだけれど、とてつもない喜びも感じることも出来る希有な仕事だ。まだ5日目が終わったところだけれど、もうすでにかなりの喜びを感じながら毎日暮らしている。

写真は昨日、雨にもかかわらず梅田まで出掛けた様子。ほぼ全員電車は初めての図。

Saturday, May 9, 2009

Devorame Otra Vez


Lalo Rodríguez Ven devorame otra vez 美しすぎる、この美学。
(コロにはオスバルド・ロマンが入ってる)


HE LLENADO TU TIEMPO VACIO DE AVENTURAS MAS
Y MI MENTE HA PARIDO NOSTALGIAS POR NO VERTE YA
Y HACIENDO EL AMOR TE HE NOMBRADO SIN QUERERLO YO
PORQUE EN TODAS BUSCO EL SALVAJE DE TU SEXO AMOR

HASTA EN SUEÑOS HE CREIDO TENERTE DEVORANDOME
Y HE MOJANDO MIS SABANAS BLANCAS RECORDANDOTE
Y EN MI CAMA NADIE ES COMO TU
NO HE PODIDO ENCONTRAR LA MUJER
QUE DIBUJE MI CUERPO EN CADA RINCON
SIN QUE SOBRE UN PEDAZO DE PIEL AY VEN

DEVORAME OTRA VEZ, VEN DEVORAME OTRA VEZ
VEN CASTIGAME CON TUS DESEOS MAS
QUE MI AMOR LO GUARDE PARA TI
AY VEN DEVORAME OTRA VEZ, VEN DEVORAME OTRA VEZ
QUE LA BOCA ME SABE A TU CUERPO
DESESPERAN MIS GANAS POR TI

HASTA EN SUEÑOS HE CREIDO TENERTE DEVORANDOME
Y HE VUELTO A MOJAR MI CAMA Y DESEANDOTE
Y EN MI CAMA NADIE ES COMO TU
NO HE PODIDO ENCONTRAR LA MUJER
QUE DIBUJE MI CUERPO EN CADA RINCON
SIN QUE SOBRE UN PEDAZO DE PIEL AY VEN

DEVORAME OTRA VEZ, VEN DEVORAME OTRA VEZ
VEN CASTIGAME CON TUS DESEOS MAS
QUE MI AMOR LO GUARDE PARA TI
AY VEN DEVORAME OTRA VEZ, VEN DEVORAME OTRA VEZ
QUE LA BOCA ME SABE A TU CUERPO
DESESPERAN MIS GANAS POR TI


きみのちょっとした時間を、アバンチュールで埋めてやっただけなんだ
もうきみに会えないと、ぼくの心はノスタルジーでいっぱいだよ
愛を交わしていると、知らずにきみの名を呼んでいる、
どんな女にも、きみのセックスのワイルドさを求めてるんだ

きみがぼくを貪っているのを夢にさえ見てしまうよ
きみのことを思い出して枕もぬれる


もう一度ぼくを貪って、来て、もう一度ぼくを貪って、
きみが欲しくて、また枕がぬれた
ぼくのベッドで、もうきみみたいに
肌の隅々までぼくのからだを描き尽くす
ような女はいない だから来て、

もう一度ぼくを貪って、来て、もう一度ぼくを貪って、
来て、もう一度きみの欲望でぼくを罰してほしい
ぼくの愛はきみに取ってあるんだから
もう一度ぼくを貪って、来て、もう一度ぼくを貪って、
ぼくの唇はまだきみの味がしているよ
きみのためにぼくの欲望はまったく萎んでしまってる

Sunday, April 19, 2009

ガレアーノ

トリニダード・トバゴで開催されていた米州首脳会議で、ベネズエラのチャベス大統領がオバマに対して「あなたと友人になりたい」と言ったというニュースは昨夜のニュースで繰り返して流れていたけれど、同じニュースでチャベスがオバマに一冊の本をプレゼントしているシーンもあって、なんだろうって思ってたら、スペインのEl Paisに記事が載っていた。本はウルグアイの作家エドゥアルド・ガレアーノのもので、タイトルは"Las venas abiertas de América Latina"『収奪された大地 ラテンアメリカ五百年』という名で邦訳も出ている。
記事によれば、このニュースのおかげでアマゾンで60280位のランキングだったのが、いきなりベストテンに入っちゃったそうだ。

Wednesday, April 15, 2009

Desaparecidos (行方不明者たち)

ついでに訳してみた。ルベン・ブラデスの有名な曲。1984年リリースのBuscando America、アメリカを探してというアルバムに収録のDesapariciones行方不明。英語版のWikipediaによれば、今年はこのアルバムがリリースされて25周年ということで、バンドのSeis del solarとの活動を再開してツアーに出る予定だそうだ。



「どなたか私の主人をご存じじゃないででょうか?」
婦人は訊ねていた。
「名前はエルネストX、40歳です。自動車販売の店で
守衛をしていました。
黒っぽい色のシャツに、明るい色のパンツを履いていました。
一昨日の夜、出掛けたまま、戻って来なくなりました。
どうしちゃったんでしょう。
こんなことはこれまでなかったんです」。

「もう3日も姉を捜しているんです。
名前はアルタグラシア。祖母と同じです。
職場から学校へ出掛けました。
ジーンズに、白っぽいシャツを着ていました。
恋人じゃないんです。彼女は家にいるタイプでしたから。
PSNでも病院でも誰も知らないって言うんです」。

「誰かお願いですから、私の息子をご存じじゃないですか。
医科予備校の学生です。
名前はアグスティン。とってもいい子なんです。
何か言い張るときにはとても頑固ですけど。
どの軍隊かわからないのですが、息子を連れて行ってしまったんです。
白いパンツに、ストライプのシャツでした。一昨日のことです」。

「クラーラ・キニョネス、というのが私の母の名前です。
彼女は、本当に信心深い人で、誰とも揉め事を起こすようなことはなかったです。
証人として連れ去られたのです。
私にしか関係のない事件だったのに。
それで、今日の午後出頭したのですが、
誰も留置場から彼女がどこへ行ったのか知らないって言うのです」。

昨夜爆発音が何度も鳴るのを聞いた。
パトゥン、パタ、パトゥン、ペテ
散弾銃やリボルバーの音が。
車が急停車する音。
ブーツの音が通りに反響している。
扉をどんどん叩く音。怒鳴る声に。許しを請う声。皿が割れる。
テレビでドラマをやっていたから、
外で何が起こってるのか誰も見てなかった。

行方不明者たちはどこへいったのだろう?
池や藪の中まで探しているのに。
なぜ彼らがいなくなってしまっただろう?
他の人ではなく彼らが?

いつ彼らは戻って来るのだろう?
頭に浮かぶのはいつもそのこと。
行方不明者の名はなんて言うのですか?
感情が心を締めつける。



Que alguien me diga si han visto a mi esposo
Preguntaba la Doña
Se llama Ernesto X, tiene cuarenta años
Trabaja celador, en un negocio carros

Llevaba camisa oscura y pantalón claro
Salió anteaoche y no ha regresado
Y no sé ya qué pensar
Pues esto, antes no me había pasado, ooo

Llevo tres días buscando a mi hermana
Se llama Altagracia igual que la abuela
Salió del trabajo pa' la escuela
Tenia puestos unos jeans y una camisa clara
No ha sido el novio, el tipo está en su casa
No saben de ella en la PSN ni en el hospital, ooo

Que alguien me diga si han visto a mi hijo
Es estudiante de pre-medicina
Se llama Agustín y es un buen muchacho
A veces es terco cuando opina
Lo han detenido, no sé que fuerza
Pantalón blanco, camisa a rayas pasó anteayer

Clara, clara, clara quiñones se llama mi madre
Ella es, ella es un alma de Dios, no se mete con nadie
Y se la han llevado de testigo
Por un asunto que es nada más conmigo
Y fui a entregarme hoy por la tarde
Y ahora dicen que no saben quién se la llevó del cuartel

Anoche escuche varias explociones
Patún pata patún pete
Tiro de escopeta y de revolver
Carros acelerados freno gritos
Eco de botas en la calle
Toque de puertas por dioses platos rotos
Estaban dando la telenovela
Por eso nadie miró pa' fuera

A dónde van los desaparecidos
Busca en el agua y en los matorrales
Y por qué es que se desaparecen
Por qué no todos somos iguales

Y cuándo vuelve el desaparecido
Cada vez que lo trae el pensamiento
Cómo se llama el desaparecido
Con la emoción apretando por dentro

© RUBEN BLADES PROD. INC.

Friday, April 10, 2009

独裁者

ちょっとしたシンクロニシティだ。アルゼンチンの行方不明者のことから、当然ルベン・ブラデスの有名な曲のことを連想して、Youtubeを検索したりして、そういえばLPしか持っていなかったからこの際ダウンロードしてしまおうと、iTunestoreへ出向いたり。なんども聴いた曲なのによく聞き取れないところがあるからチェックしていると、PSNという耳慣れない名詞にぶち当たって、なんだろう?とGoogleにかけてみる。100%たしかかは分からないかけれど、Policia Secreta de Panama(パナマ秘密警察)ではないかという示唆。ふーん、と思ってなにげに別ウィンドウのEl Paisを見ると、あれ?見覚えあるかぼちゃ顔。アメリカで拘束されているノリエガ元パナマ将軍が、フランスへ移送されるというニュースだった。(*

ノリエガは、1989年の米軍のパナマ侵攻時に、コロンビアからの麻薬をパナマを経由させてアメリカへ密輸しているという罪状で、拘束され有罪になった。記事に寄れば40年の禁固が、30年になり、品行がよかったので20年で昨年刑期を終えたところだった。そして、フランスとパナマがそれぞれ、マネーロンダリングと人権侵害の罪で、移送を求めていたところ、米最高裁判所はフランスへの移送を決定したという。ノリエガ側は、フランス行きを嫌がって、戦争捕虜の身であるからパナマへ移送させるべきと訴えたが認められなかった。

Thursday, April 9, 2009

『闘争のアサンブレア』

去年ここでも書いた(*)廣瀬純さんが、『闘争の最小回路』のついで書いた、ラテンアメリカの新しい政治・文化運動について書いた本の2冊目、続編というのとは少し違うか。むしろこの本のデータをもとに前著が書かれたという印象もある。今回はアルゼンチンの事情を、運動が起こった経緯を細かく現地の活動家へのインタビューしながら詳述している。おのずとペロンから軍事政権時代へと遡って解説せざるを得ないので、ちょっとしたアルゼンチン現代史のようにもなっています。大まかな紹介は今月のラティーナに書評を書いたので、そちらを見てほしいのですが、字数の関係で触れられなかったエスクラチェについて少し補足しておきます。

エスクラチェ(escrache)というのは辞書を引いても出てこない、アルゼンチンでの用法らしい。アルゼンチンは、1976年から先日亡くなったアルフォンシンが大統領になって民政に移管した1983年まで、軍事独裁政権時代がつづいてたのですが、その間、秘密警察に連れ去られて行方不明になった活動家や一般人が多数いました。民政移管以降裁判で訴えられて有罪になるのですが、その度に恩赦になったりで結局うやむやになるという繰り返し。エスクラチェというのは、そうして恩赦されて一般人として暮らしている犯人を、探しだし、何ヶ月も準備して付近の住民に罪を明かして、周知させていくという運動だそうです。

現在アルゼンチンでの人権活動の中心は、そのときアルゼンチンの首都の中心5月広場に集まって抗議活動を行った「5月広場の母たち」だそうで、ただ行方不明になった自分の息子・娘を捜すだけではなく、ジェノサイドというのは、資本制から生じたというその根っこから変えないといけないと主張して、ラディカルな人権活動をしています。(もともとの活動に限定すべきというグループと分裂してるらしい)。

「母たち」は、あらゆる類の妨害に抗して、ジェノサイドは、資本制を母体とするものであって、何らかの「悪い政府」がもたらした結果ではないと主張し続けてきました。「私たちは妥協しない」というスローガンは、虐殺者全員が逮捕されても平和はない、闘争は終わらないということを意味しているのです

エスクラチェの活動の中心となっているのは、逆にそのとき行方不明になった人たちの子供たち。団体の名称は、そのものスペイン語で「子供たち」をあらわす<H.I.J.O.S>。一見、ちょっと法を超えた民衆裁判のようで、ぼくらには怖いと思える部分もあるのだけれど、この本の他の部分に出てくる、失業者の運動や住民の集会などみな、経済や政治が破綻して、空白になったときに民衆が自分自身で作り上げた運動で、司法が機能しなくなっているとしたら、自分たちで機能させるしかない、という意志が、この運動には込められている。H.I.J.O.Sの活動の模様はYoububeで見ることができます。

この本を読んだ後には、おそらくぼくらを包んでいる様々な制度とか規制とかは、ほんとはほとんどフィクションなんじゃないかと思えてくる。だだ、この国は、それがぎっしり包み込まれすぎて分からなくなっているだけでね。

Saturday, April 4, 2009

Tommy Olivencia Orq

Facebookにリノ・イグレシアスが載っけたものの再掲。シモン・ペレスが歌うトミー・オリベンシアです。
これを含めた、先週日曜に行われた今年のプエルトリコ・サルサの日の映像がいくつかYoutubeにアップされてます。