Showing posts with label vida. Show all posts
Showing posts with label vida. Show all posts

Friday, June 5, 2009

中米のともだち #3

2週目に入った今週、研修生たちは、午前と午後一日使って、日本語の勉強をしている。去年の研修生たちがあまりにも日本のことを知らないということが反省として残ったので、今年から加わったプログラムの一つだ。名前と出身を話す自己紹介や店に入って困らないように料理を覚えたりしている。もちろん、一週間でちゃんと話せるようになんかはならないので、どれだけ効果が期待できるかは分からないけれど、少しずつ片言のことでも毎日口にしているのが見ていて可愛らしい。
今は授業中だ。昼間の宿泊棟は誰もいなくて静か。昨日、カレンが甲状腺を腫らしていたので、同行して千里中央のクリニックまで行ってきて、さっきまたロレーナが熱があると言うと、発熱外来まで連れて行かれた。インフルエンザじゃないかと、ちょっとした騒ぎになって、部屋を変えたりしてばたばたしている。少し休息できるはずだった、今週の日中が何か慌ただしいまま週末になってしまった。

今日は授業が終わったら、キッチンルームを借りているので、みんなで国の料理を作ることになっている。ロレーナが来れなかったらちょっとかわいそうだけど。

Monday, May 25, 2009

レゲトン

明日からまた中米4カ国から障害当事者の研修生が来るので、ぼくはほぼ一月付きっきりになる。ラティーノだから、やはり音楽が好きで、ちょっとしたパーティにiPodを持参しておくとほんとに便利で、適当にそのへんのテレビとかに繋ぐと即席のDJが出来る。
レゲトンは無敵で、まるで魔法のようにすぐに盛り上がる。ということで、今日の午後はCDからいっぱいiPodにレゲトンを追加しておいた。また楽しみだね。
それで、ジャケ写をつけたりするのにネットで色々探してるとこんなオールドスクールなレゲトンの動画を見つけて、しばし見入っていた。レゲトン創世記の熱気にやられて、久しぶりにレゲトンブログも更新しちゃった。
<BloggerReggaeton>

Thursday, May 21, 2009

葬儀

一昨日、ある葬儀のために枚方へ行ってきた。亡くなったのは友人の父君で、葬儀に出席するかどうかは微妙な関係かと思う。友人とは1982年大学入学以来のつきあいだから、なんともう25年を超えた。友人は大学卒業して新聞社に入社して、その後いくつかの出版社を渡った後、今は誰でも一度は手にしたことのある情報誌の編集に携わっている。福岡や名古屋、東京を転々として昨年春16年ぶりに大阪に帰ってきた。転勤先を訪ねたこともあったけれど、近年はぼく自身も時間が取れなくて、何年も無沙汰をしていた。

昨年の春に転勤の知らせをもらって、これでまたちょくちょく会えるかなって思っていると、父君が癌を患って、予後があまりよくないようで、友人は仕事以外は病院へ通う日々でなかなか会えず、このゴールデンウィークも会えたらいいねって言っていたものの結局そのままになって、明けたらすぐに訃報が届いた。後になってたいへんな時期だったんだなって気づく。

父君とは、友人の家へ遊びに行くと外出から帰ってきた折りに挨拶を交わす程度だったけれど、ぼくにとって友人の父親まで知っているのは珍しいケースで、たしか最後にお会いしたのは、ちかと一緒に6年ほど前の正月に実家へお邪魔したときで、ぼくが買って行った手みやげを、友人が「お父さんこれもらったよ」と言ったときに、何か一言かけたか眼をやっただけだったかしたと思う。もの凄く寒い正月で、震えながら帰ってきたのを覚えている。

葬儀は今のパッケージになったもので、それ自体はとくにどうこう言うものではないけれど、最後に喪主の友人が挨拶をしているのを聞いて、話がとても上手で、ここ数年ずっと編集長をやってる彼のぼくがあまり見たことのない部分を知ったような気になった。自分は不肖の息子で、何年も親元を離れていたと話したとき、彼にも父君に対しての様々な思いがあったんだなと今更ながらに了解した次第だった。

そうした1時間を、やはり昨年癌を切った自分の父親のことや、2年前に胃癌を切ったと、ごくごく最近知った恩師の夫人のこと、昔遊びに行ったときのこと、色々あったけど今やはりぼくはこうしてここにいることなど思って過ごした。辛いこともあるけれど、人生のこうした実感のある手触りは、しかし愛すべきものだ。

Tuesday, May 19, 2009

Friday, April 24, 2009

ブランニュー

昨年末、よりによってクリスマスイブの日に、交差点を通過しているところ車に引っかけられて、3年間乗ってたトレックのロードレーサーが廃車になってしまった。つぶれたからまたすぐ買えるような値段のものじゃないし、そのうち考えようと思いつつ4ヶ月。暖かくなってそろそろ欲しいなぁ〜って思い始めると、止まらないんですよね、自転車って。

身近で、最近フレームから組んで完成させた人がいて、そういう手もあるのかななんて調べてみると、結局けっこうな額になっちゃいそうなので、やはり完成車を探す。昔から憧れで前はちょっと手が出なかったクラインの自転車をこの際なので選ぶことにした。

先週の金曜に寄ってみた本町のトレックストア大阪へまた行って、まぁもう決めてしたし、フィッティングしてもらって、そのまま乗って帰ってきた。まるで近くの自転車屋さんでママチャリを買って帰るような感覚。本町から西宮まで、ほんとなら45分くらいで行くはずだったけれど、道がよく分からないのと風がもの凄く強かったりで、1時間ほどかかってしまった。

トレックはもう通勤専用になっていて、楽しみでちょっと遠出してみるなんてこともなくなっていたのだけれど、新しいものを手に入れると、またそんな新鮮な気分もよみがえり、今日は天気もよかったので、午後から西宮の海岸沿いへふらりと出掛ける。西宮浜へ渡ってプントイタリアで雑貨を見たりして夙川まで行って引き返す。こんなに季節を感じながらゆっくりするのはどれくらいぶりだろう。

Tuesday, April 21, 2009

『中村のイヤギ』

日曜日。2年ほど前まで職場で介助の仕事をしていた男の子が原一男の指導のもとで作っていたドキュメンタリー作品ができあがって神戸で上映会をするとの知らせを、神戸映画資料館からのメールで知って午後から新長田まで行って見てきた。
その前に、新在家のトレックストア六甲へ寄ってまた自転車を少しチェックする。

彼は、張領太(チョン・ヨンテ)くん。韓国籍の在日の男の子だ。一緒に働いていた頃は日本名を名乗っていて、ぼくらはみんな名前を愛称みたいにして「ヨンテ」と呼んでいた。ぼくが彼と親しく話すようになったのは、ぼくが亡くなった祐樹の死の直前のことを介助者の人たちにインタビューしてビデオに撮っていたとき、その介助者の一人としてインタビューをお願いしたのがきっかけだった。その頃もう彼は、朝日カルチャーセンターの原一男の講座に通っていたし、この映画のために、伊丹の空港のすぐ横にある中村と呼ばれる韓国人が不法占拠してできた部落へ入ってカメラを回し始めていたと思う。

それから半年か一年くらいで、彼は隣の尼崎のやはり障害者に関わる仕事に移って、以来たまに思い出してどうしてるんだろうと思いながらも、なんとなく疎遠になってしまっていた。偶然この映画の上映を知って出掛け、数年ぶりの再会をする。

映画はよくできていたと思った。すでにこの中村地区の集団移転が決まった後、古い家屋を取り壊し、立ち退いて新しい市営住宅へ移るまでを描いている。同じ在日の彼がそこでとても受け入れられているのがよく分かり、それを彼が安心したように喜んでいるのもよく分かった。被写体との間にいい関係を築いていると思ったし、それがこの作品の成功の理由の一つでもあるだろうと思った。

上映の後、ほぼ内輪だけのような観客の中で感想を述べる会になった。ある作品を作るというのは、ほんとに怖いことで、褒められもするだろうけれど、意外なところから批判も受けもする。ヨンテも戦後60年の在日の苦しみが描けていないと批判されていた。しかもそれを言ったのは大学生の女の子だった。活動家とおぼしき人からは、これは闘争ではなくノスタルジーに過ぎないとか。こうしたマイノリティの問題に口をつっこむことっていうのは、こうしたどこから降ってくるとも分からない矢のような攻撃を一々相手にしなくてはならないんだと思うと、ほんとに消耗するだけで前に進まないんだろうな。

たしかに、これはヨンテがはじめてカメラを持って作った作品で、色んな面で未熟だろうし、批判される面もたくさんあるだろうけれど、なんというかヨンテという人のもつ独特の誠実さがあって、自分の感じたもの以上をあえて付け足したりしていないところがこの作品の美点なんだと思う。

こうしたものを見て、何か足りないなんて感じるのは、どういう感性だろう?ヨンテ自身が、みんながカメラを持って表現したらいいと言っていたのは、べつに誰かに向かって言ったのではないだろうけれど、ぼくはあえてそういう批判を向ける人に言ってみたい気分だ。何かが足りないと思うなら、それはあなたが作るべきだろう。ヨンテは無くなってしまう何かを残したいと思い、少なくともそうしたんだから。

タイトルの『中村のイヤギ』のイヤギとはハングルで「話し」という意味だそうだ。

Saturday, April 18, 2009

『罪の天使たち』

若い友人の誕生パーティで、帰ったのは3時くらいになっていたけれど、せっかくの休日でもったいないので、朝から起きて九条まで映画を見に行く。阪神なんば線に
乗って初めて九条の駅に降りた。朝の下町の雰囲気が新鮮。乗り換えせずに到着できる気安さがいいね。

映画はブレッソンの『罪の天使たち』だ。先月シネフィル・イマジカで4本の作品が一度にやってたり、今は彼のメモを本にした『シネマトグラフ覚え書き』を読んでもいるのでちょうどいいタイイングだった。
ブレッソンは、映画を演劇からどれだけ遠く離れて持って行けるかを終生試みていた監督だったけれど、1943年のこの映画は、まだ戦前からのフランス映画のスタイルで撮っている。ただ、すべてが「善悪の彼岸」で起こっているような感覚を覚えさせる筋書きは、ここからすでに見ることができるだろう。

年末に事故って、ロードレーサーが廃車になったままで、そろそろ新しいのがほしくなってきたところ。近くにトレックのストアがあったので、ちょうどいいから九条から阿波座まで行き、ちらっと覗いてくる。

Friday, March 27, 2009

再会

もともとは、今あちこちで話題の、Pokenを注文したところから始まる。Pokenというのは、キーホルダーに付けるようなマスコットで、マスコット同士の手と手とを合わせると、お互いのEmailアドレスや、ブログのURLなんかが、交換できるようになっている。「電子名刺」みたいな感じで売り出されている。もともとスイスの会社が発売したらしく、ヨーロッパではもうすでにかなり広まっているようで、ようやく日本でも発売になった。プロモーションもかねて、あちこちでPokenオフ会や、パーティなんかも開かれている。

で、TwitterやFacebookのIDもそこに登録できるので、すでに登録しているTwitterに、せっかくだからFacebookもやっておこうと思った。今はぼくはもうほとんど書くことはなくなっちゃったけれど、90年代半ばから、2001年くらいまでは、ずっとプエルトリコのサルサをフォローしていて、ずいぶん雑誌に記事も書いた。
最初に、記事にしたクト・ソトというプロデューサーが、彼の知ってるミュージシャンを紹介してくれて、スタジオ・ミュージシャンにはかなりの知り合いが増えた。ぼくが記事を書き始めた頃というのは、ちょうど、Windows95が出た頃で、本格的に世の中がインターネットというものを使い出したときだった。
クトは、昔気質のミュージシャンで、そうしたツールとは無縁で、現在でもそうだけれど、「ぼくのコンピュータで調べる」なんて言いながら、電話の向こうで手帳を広げて、ぼくがコンタクトを取りたい音楽家の連絡先を教えてくれていた。

そうした中に、すぐにコンピュータを、連絡を取るためや、もちろん作曲やアレンジにも使い出したのが、ヒルベルト・サンタ・ロサやビクトル・マヌエルのプロデューサーをしている、ラモン・サンチェスやホセ・ルーゴという、当時はまだクトのもとでアレンジを頼まれていた人たちがいた。90年代のサルサはほぼ、この人たちが作っていたというくらいの活躍だった。

彼らは色んな話をしてくれたし、ぼくはそれで色んな記事を書いた。
が、サルサからレゲトンへという流行の移り変わりは、顕著だったし、ぼくの関心も自然にそちらの方へ行って、本業の方で手一杯になってだんだん、雑誌に記事を書くこともやめてしまった。

Facebookに登録する途中で、コンピュータの中にあるメールアドレスをFacebookが勝手に調べたら、プエルトリコのミュージシャンたちがみんなFacebookに入っていて、そこで繋がって色々、情報交換や仕事を見つけたりしているのがわかった。ホセ・ルーゴ、ラモン・サンチェス、ドミンゴ・キニョネス、ロニー・トーレスなんて言う人たちと再会して、ホセ・ルーゴが送ってくれたメッセージに添付してあったのが、このビデオだ。ぼくは彼が初めて自分名義で出したアルバムを記事にしたことがあったが、今度はもっと本格的。ボビー・バレンティンへのオマージュのこの曲の冒頭で、並ぶ2人の真剣な眼差しがかっこいいね。プエルトリコのミュージシャンには与太公みたいなのが多いけれど、ラモン・サンチェスとホセ・ルーゴは、音楽への興味、様々な分野への情報網の張り方、などなど別格に他の人とは違う。こうして生き残っているのは当然なんだろうと思う。

Pokenから思わぬ展開で、かつての人脈が復活したのだけれど、肝心のPokenは、人気沸騰でまだ届いてない。

Friday, March 20, 2009

阪神なんば線


昨日の春分の日、WBCの日韓戦を見終えて、天気もよくなっていたのでふらっと開通した阪神なんば線に乗ってみた。この開通は、よく行く九条にあるシネ・ヌーヴォに行くのにとても便利になるので、最近うきうきするニュースの一つだった。
大学の卒業式が多いのか、駅には晴れ着のお嬢さんがちらほら。いい天気だけれど風は冷たく、甲子園駅から見える六甲山がすっきり見える。
17時12分の快速急行は、さすがに初日で休日とあって満員。
窓際に立って、外の風景を確認しながら難波まで行った。尼崎で停車すると、向こう側のレーンに近鉄の列車がすれ違って、微妙な違和感。尼崎で列車を連結するらしく、少し手間取っている様子。かなりお客さんも多く予想より時間もかかっているんだろうと思う。尼崎からは昔からある西大阪線、といっても長くこの沿線に住んでいるけれどこの路線を使うのは初めて。むしろ自転車のツーリングで走ったことのある風景としてなじみの地域だ。
西九条を過ぎて、延長した路線に入ると、すぐに地下に潜ってしまうのでどんなところを走っているのかわからないのがちょっと残念。地下になると新しくできた駅をいくつか通ってすぐに難波に着いてしまった。ほんの少しの距離が何年も放っておかれたんだなって思う。難波では、ふつうに近鉄のホームに停車したのがへんな感じだ。

Wednesday, February 25, 2009

監禁


西宮ガーデンズができて、仕事帰りにふらっと映画を見に行くという新しい習慣ができた。昨夜はイーストウッドの『チェンジリング』。アンジェリーナ・ジョリーがアカデミーの主演女優賞を逃したやつだ。映画は老いてますます盛ん、イーストウッドの安定した仕上がり。今朝のスペインの新聞には来月もう新作が上映されるとアナウンスされていた。

映画の中で、汚職にまみれた警察が、しつこく抗議を繰り返す面倒な市民を精神病院に送り込むシーンがあって、ちょうど一月前くらいにBSで『カッコーの巣の上で』を見たこともあって、「新しい精神医学」が出てくる前の精神病院の非人間的な患者への扱いをあらためて考えたりしていた。

どちらの映画にも、無理やり投薬したり、電気ショックを与えたり、ロボトミーの手術を施したりといったシーンが出てきて、精神病院に対するイメージにはこの頃の病院に対するイメージがいまだに影響を与えているだろうし、監禁拘束は現在でもまだある。けれど果たして、映画に登場するこうしたイメージは映画的な演出ではないのか?という疑念も出てこない訳ではない。

たまたまそんなとき、中井久夫先生の最新刊『日時計の影』を読んで、そこで彼は、現代米国看護学の創設者の女性の伝記を紹介していて、かなりの分量を引用しているのだけれど、その描写は中井先生自身をも驚かせている。そのまた一部を引用してみます。



翌週、その医師(フリーマン博士)は、自分の「ロボトモービル」-ロボトミーの器具を搭載した小型トラック-を運転してやってきた。彼は病棟を巡回すると「そいつ、それから、あいつ」と無作為に患者を選んだ。患者一号が彼の前に押し出された。彼はその女性のこめかみに電極を当てると気絶するまでショックを与え、それから彼女の左まぶたをあげて、アイスピックに似た器具を彼女の眼の中に突き刺した。それを引き抜くと、血のついたアイスピックをアルコールの入った嘔吐盆に浸し、それから次の患者に移った。(中略)次から次へと管理された無関心な暴力の流れ作業を無慈悲に進めていき、その後には血だらけで盲目になた四〇〜五〇人の患者が残された。
(『バーバラ・J・キャラウェイ『ペプロウの生涯・ひとりの女性として、精神科ナースとして』星野敦子訳、医学書院)

この箇所を読むと、映画に出てくることなどまだ可愛らしいのではないかとすら思えてくる。
これは1958年の出来事なのだけれど、この頃アメリカでは、ロボトミーの実験手術のために国から資金が出ていたらしい。検索してみたら日本でも1975年まで行われていたという。ちなみに、『カッコーの巣の上で』は1976年の映画だから、かなり生々しい現実を描いた映画だったということだ。

ぼくらは、障害者の自立生活センターというところで働いていて、そこでの最も重要な仕事は、施設に収容されている障害者を地域に返すというものなのだけれど、もちろんそれは重要なことなのだけれど、かつて障害者の施設でも、女性の子宮を取ってしまったり、他にも正常に戻すという名目で様々な外科手術が行われていて、こうした映画をみたり文章を読んだりして、あらためてこうした現実を改めるための運動だったのだということを、確認しておいてもいい。

今読んでいるのは、ハイデガーの『ツォリコーン・ゼミナール』という本で、これはハイデガーが『存在と時間』で追求したテーマを、医師など哲学を専門としない人に向けて講義した記録を纏めてある。目の前の当たり前の光景のやや斜め後ろに隠れている現実との微妙な差異をひとつひとつあげていく。なかなかこんな濃厚な読書体験はできないだろう。
その哲学が生まれる背景として、20世紀がテクノロジーというものにいかに支配されていたかということを気づかされた。科学という名でどれだけの残虐さが許されてきたか。20世紀の残虐さというのは、ナチスドイツだけに押しやられて、他は免罪されているかのような印象を受けるかも知れないけれど、世界中がそんな残虐さに満たされていたというのが真実。ハイデガーがそれから「人間らしさ」というものを守るために、まるでたったひとりで闘っているようなイメージが浮かんでくる。ぼくたちはもうすっぽりそんな中にいて生まれてきたからわからないだろうけれど、色々と考え直すことは大切だと思う。

Sunday, January 18, 2009

最後の朝

病室はとても暑くて、Tシャツ一枚になりたくなるくらいだったけれど、朝方僅かに仮眠をとって起きるとさすがに身体は冷えていた。眠るどころか、吸引や体位を変えたりつぎつぎと言われるので、休む暇のないくらいだと、そう聞いてきたので、覚悟していたのだけれど、彼は12時を過ぎるとすぐに呼吸する音が大きくなって眠ってしまったようだった。それから、1時間ごとに吸引したり身体やマスクを少し動かしたりしただけで、朝方になるとそれもなくなり完全に深い睡眠に入っていた。それは、体調を崩す前の彼の懐かしい眠りのパターンだと思った。
夜が明け、おかゆと刻み食の朝食を済ませると、看護師が点滴を取り替えに来たり、医師がエコーを取りに来たりと慌ただしくなり、9時半頃お母さんも見える。そのどのタイミングだったか、食事の後くらいか、ふと時間が空いた瞬間に、カメラを取り出して、病室の窓から建物の中側に当たる方向を何枚か撮ってみる。「見せてぇ、ぼくどうなってるのかわからへんねん」。たしかそう言ったと思う。そしてこれではなく、もっと風景がはっきりと写ったものを見せたと思う。これは曇って見えるけれど、今日はとてもいい天気なんだ、そう心の中では言ったのだけれど、なぜか口には出さなかった。そしておそらくこれは彼が最後に見る外の風景だ。お母さんが眠れたか?と尋ねて、あんまりって答えていたので、「爆睡しているのに何言ってんねん」とつっこんだ。そして甘えてるんじゃない?って茶化した。それからしばらく彼の様子について話してお母さんに挨拶して帰った。これが最後の朝だった。

Wednesday, January 7, 2009

クリスマスカード


今年も、チリからクリスマスカードが届いた。チリで部屋を貸してくれていたカルメンから。年を聞いたことがないから、彼女がいま正確に何歳なのかは知らない。が、もう十分おばあさんといっていい歳。15年前にあのサンティアゴのアパートにいたころはおばさんと呼んでいたのだけれど、ぼくも彼女も年を取ったわけだ。
最後にあったのがもう6年前。それから何回か電話で声を聞いたこともあったけれど、だいたいクリスマスカードと誕生日にカードを送るくらい。だから、もしカードが届かなかったりしたら、何かあったんじゃないかと心配にもなる。

それで、今年も無事にそれを受け取ることができてホッとする。カードには、まずぼくが夏に彼女の誕生日に送ったカードとプレゼントのお礼を書けなくてもうしわけなかったと書いてあった。去年は、風邪をひいて7月8月は調子が悪かったと。(そうだ向こうは冬だった)。

ぼくはグスタボ・ドゥダメルの記事を書いたときに資料に使った、彼がローマ法王の誕生日のために演奏したドボルザークのDVDを送ったのだった。記事は書いてしまったので、ぼくのところにあるより熱心なクリスチャンであるカルメンのにあげるのがちょうどいいだろうと思った。カルメンは、たしかビデオすら持っていなかったし、6年前に行ったときにも、ぼくが使っているベッドのシーツを以前のように浴槽で手洗いしていたくらいだったから、DVDなんてものを新しく買わないことも分かっていたけれど、今どき知り合いの誰かは持っているだろうと思った。カルメンはそれを友だちのうちで一緒に観たといい、とてもよかったと書いていた。

そして、ぼくが今ラテンアメリカの障害者と関わって仕事をしているのを喜んでくれていた。自分の家にぼくを迎えて、それがぼくの仕事や人生に役に立ったことを神様に感謝していると。
カルメンとはほんとにたくさん話した。朝学校に行く前に一緒に食べたサンドイッチや、スキムミルク入りのコーヒーの味や懐かしい匂い。年を取るとなんでも治るのが遅くなる。そうも書いてあった。もう一度行って会っておきたい。霧とスモッグの混じった冷たい朝の空気。サンティアゴ。何かが終わって始まった場所。何かが始まって終わった場所。

Thursday, November 13, 2008

aguas calientes dorados(金の湯)

夕方から、久しぶりに有馬の金の湯へ。おそらく昨年の6月以来。今日はあのときのように疲弊しきってはいない。ほんの骨休め。
車を駐車場へ停め、ドアを開けて外へ出たら、裏の山の空気がふっと流れてきて、とても心地よい。観光客が上がったり降りたりする坂を金の湯へ。
ゆっくり浸かっていようと思ったら、あいにく韓国人の団体客と同じタイミングになって、別にいやではないのだけれど、大声の外国語が側で鳴りつづけているとあまり落ち着けないので、彼らが出て行くまで、身体を洗ったりしながらしばらくやり過ごした。有馬は最近とくに新しい店も増え、彼らのようなアジアからの客もずいぶんと多くなっていると聞く。それ自体はけっこうなこと。
静かになった温泉でじっくり汗をかいて、そしてあがった。

帰りはもう暗くなっていて、帰りの坂を車で上っていると、満月の月が正面の木の陰から覗いている。真っ暗な道路がヘッドライトが照らし、これも最近またよく聞いているマデラ・フィーナアルバムの音量を上げて響かせた。ぼくはなろうと思えばいつでもラティーノになれる。

Monday, September 8, 2008

悪魔たち

泊まり明け。何度となく起こされヘビーな夜だった。お昼ご飯を食べて、横になって起きたらもう夕方だった。なんとなくそこにあったからという理由で、ほんとうに久しぶりにバジェナートをかけながら、週末ばたばたしていてたまっていた洗濯物を洗って干す。Los Diablitos、悪魔たち。夕焼けに、流れてくる風がとても心地よく、バジェナートがぴったり合う。ひょっとして今初めてバジェナートのことを理解したのではないか?などと思う。
晩ご飯は龍園。日が落ちても心地よい風はつづき、ビールをやりながら幸せ感に浸っている。客はぼくだけ。親父さんと息子さんの会話を横目に聞きながら、一日親子で過ごすというのはどんな気分なんだろう?などと想像している。あるいは職人さんの人生であるとか。ずっと鳴りつづけているAMラジオで話している女性が、かつみ・さゆりのさゆりであると、かなりしてから気がついた。和田アキ子や、キャンディーズの古い曲が流れている。ここはいったいどこなんだろう?酔ってふんわりした頭で考える。台湾を感じるとは、台湾へ行くことではなく、その「台湾料理・龍園」と書かれたのれんの向こうを想像することなんだろう、そう思ったら、自転車が一台通り過ぎて行った。
ビールを2本と、手羽の唐揚げ、茄子と豚肉の炒め物、焼きめしが本日のメニュー。甘いものがほしくなって、帰りにビバでアイスクリームを買った。レジの女の子がおつりを渡そうとして、その手がとっても大きい。こんな大きな手をした女の子に出会ったことがあると思い出してみる。ほんとはすぐにわかってはいるんだけれど。

Wednesday, August 27, 2008

日記

ちょうど4年前の今日から、日記を書きつづけている。といっても、このブログのことではなくて、モレスキンのノートを使った完璧に昔ながらのアナログなものだ。
昔旅行ばかししていたころは記録はつけていたので、その流れで帰国してしばらく日記のようなものを書いた時期はあったが、今回のように継続して何年も書きつづけるのは初めて。日記を書こうかなって思ったきっかけは、ちょうどその頃、ふっと去年の今頃って何してたっけ?って考えてみたのが最初だった。そうしたらまったく思い出せなくて、こんな風に人生が過ぎ去っていくのはあんまりなんじゃないかと思った。そんなときに、本屋をぶらついているとたまたま、昔予備校で英語を習っていた表先生が、日記の効用についての本を出しているのを発見して、立ち読みしているうちに、これは日記をつけるしかないなって思えてきた。
表さんは、ぼくが人生の中で影響を受けた人物の一人で、予備校では英語の授業はほとんどされずに、ほとんどマルクスとかフッサールとかの話ばかし聞いていた。大学で哲学をやったのもその延長線にもちろんあるし、言葉の背景にあるものが理解できずに言語を理解することは不可能だという教えは、今もスペイン語や他の言葉をやるときに、ぼく自身が実感していることでもある。
それでも、おかげで大学に合格して、予備校を卒業して別の文化圏に入ってしまい。彼の名前を口にしたり、聞いたりすることもなくなってしまった。20年以上経って、ふと手にした本はなんとなくビジネスマン向けのハウツーもののようで、その外見にちょっとがっかりもしながら読んでみると、また昔のようにちゃんと影響下にいる自分がおかしかった。

今回日記をつけるのに、はっきり決まりを作ったわけではないけれど、できるだけ余計なことは書かないでおこうと思った。自分の考えとか、何々についての考えとかはできるだけ書かない。時間が経ってその日がどんな日だったかを思い出せるように最低限のことだけ書いていく。朝何時に起きて、何を食べ、どこへ行って何をした。夕食は何を食べ、何時に就寝したか。天気も毎日は書いていない。記憶に残るくらい寒い日とか暑い日に記すくらい。

読み返すと、毎日はおそろしく淡々と過ぎて行っている。日記をつけ始めた1年後には、頭を坊主にしていてそのときはそのときでテンションも上がったのだろうが、数年前の頃のこととして振り返ると、その淡々とした日常に飲み込まれるように収まっている。最近はばたばたしていて、2〜3日分を纏めて書くこともあって、1日分はもっと簡潔になっている。だいたい筆が乗って文字の量が多い時期は、なんとなく調子がよく、逆は体調が悪かったりしている。法則がないようで、じつはちゃんとバイオリズムにそって進んでたりしている。ブログにその日あったことを書いた日は、ほんとに淡泊。

Monday, July 21, 2008

オペラ

ふぅ。何てことだろう?人生にまだこんな楽しみを享受する糊代があったなんて。そこそこ年齢を重ねてきて、まぁこんなもんかなって感じてしまう物事も多くなってしまったけれど、まだ鳥肌が立って、涙がこぼれそうになるようなものがあった。

昨夜は、兵庫芸術センターで、約1年前からチケットを確保していたパリ国立オペラ公演。出し物はビル・ビオラの映像が付いたワーグナー『トリスタンとイゾルデ』。
午後3時に始まった公演は、2回休憩を挟んで、終わったのが8時過ぎと長丁場だったけれど、長いとはまったく感じなかった。繊細な演奏と美しい歌がつづくのは、瞬間瞬間が快楽で、最後のイゾルデの独唱が終わろうとしたときには、永遠にこの時間がつづいたらいいのにと思った。思春期になって、色んな大人の映画を夢中になって見始めた頃のどきどきした感覚が急に甦ってきて、自分の中にまだこんな部分があったんだと驚いたり、ホッとしたりしたような気分になったりしている。
終演しても拍手は鳴りやまなかった。それはほんとうに素晴らしいものを体験した後の拍手で、幕が再び開いて、独唱者たちと楽団員と客席が一体となった感覚になったとき、オペラの凄さとは、舞台のそちらでやられていることで終わるのではなく、そちらとこちらとをごちゃ混ぜにした人生そのものを感じさせるところなんだと思った。だから客席から送られる拍手は、舞台で熱演した人たちに拍手を送っているのと同時に、辛いことも楽しいこともありながらも、何とかここまで生きてきた自分自身に対する労いでもあるんだとふと感じた。

満足感の支配する雑踏を駅の方角へ向かいながら、オペラに狂う人がいるのもよくわかると思い。南米の山を越えてオペラハウスを作ろうとした男の映画があったのを思い出す。その監督ロッシーニのオペラの演出をして舞台で拍手を浴びているNHKの番組があったことなどもあわせて思い出した。

Saturday, July 19, 2008

蒔かれた種

コスタリカで最後にやったセミナーの様子が、むこうの一流紙に取り上げられて、帰る前の日に手にすることができたので、みんなちょっとした達成感を味合うことが出来た。やってる最中は夢中であまり気がつかなかったけれど、かなりハードなスケジュールだったので、こうして形に残ると単純に嬉しい。写真はインタビューの様子。
サンホセのセミナーで、おそらく今度研修で日本に来る女の子が、「今日本から来て蒔かれた種を、私たちで育てていきたい」と締めくくっていたのが思い出される。ほんとうにそうなればいいと思うし、彼女はもうすでに行動をこしてもいるので、おそらくそうなるだろう。

以下訳文です。原文はこちら


        日本人が、障害者の自立を勧める

私たち障害者は、無益であったり、用をなさない存在ではない。かわいそうに思われたり、すべてなんでもしてもらわないといけないこともない。今やこうした考えは変える時だ。私たちも人間であり、自立してある権利がある。こうしたことを広く知ってもらう必要がある。

こうして、昨日、日本の大阪にある自立生活センター代表廉田俊二氏は、エレディアにあるリハビリ審議会で数十人のコスタリカ人障害者を鼓舞した。53歳の俊二氏は、生まれ故郷で屋根から落ちて以来、39年間車椅子で生活しており、現在は日本で、身体的精神的な障害があっても、家を出て、一人で生活し、危険や不安があっても、自分自身で判断しながら生きることを主張しながら運動を率いている。

こうした中には、重度の精神的な問題があったり、脊椎が損傷した人も含まれる。

「それが本当に生きることです。多少危険があっても、その危険や自分に責任のあることを人任せにしない」。こう語り、こうした運動は日本では30年前から始まっていると言う。

俊二氏は、(*)障害者を雇用しない企業からの罰金からなる補助金で運営される、自立生活センターが各地にできることを勧め、そこでは、障害者の手足となる人たちがいて、障害者は自分の取りたいもの触れたいもの、どこへ行きたいかなどの考えを実現することができる。

「こうした人たちは、手助けをするだけで、彼ら自身が決定をすることはありません」と語った。

「目差していることは、障害があろうとなかろうと、それぞれの人が、その人の人生の主人公になるということで、障害が、その人がよく生きたり、充足して生きたりするのの妨げになったりしたらいけないということです」。こう語る俊二氏は、日本国際協力機構(JICA)の招きで、今回コスタリカを訪れている。

「もしある人が、手がなく生まれてきても、それはその人がどんな靴下を選んだらいいかといった能力や権利がないことにはならないし、裸足でいたいのに何でも適当に履かされるのを我慢しなければならないということでもありません」、こうつけ加えた。

「家族が、障害を持ったメンバーを、実際はそうではなくても見捨てたようになるのが嫌なのはよく分かります。しかしそれは、彼らが家を出て、その人に相応しい生活をして幸せそうにするのを見ることでもあるのです」と語った。

「わかりやすい言い方をすればですね。私は自立して生きています。もしここに障害をなくす薬があったとしても、私は飲まないでしょう。私は幸せですし、私のしていることや、現在あるものを楽しんでいるからです」、こう主張した。

その日本人は、自立について語ることは、生き残ることについて語ることであり、尊厳を持って生きることでもあると強調した。「変化は障害者自身が起こさなければなりません。何かよくなるかもと待っていても何も変わりません。今すぐ行動を起こさなくてはいけないし、それを障害者自身がやらなければならないのです」。

1986年俊二は、大阪~東京間の600キロの道程を、車椅子で旅しながら、駅が彼らにとってより使いやすいものになるよう訴えて歩いた。

注記)(*)「障害者を雇用しない企業からの罰金からなる補助金で運営される、自立生活センター」この部分は、コスタリカの新聞記者の勘違い。事実ではありません。ちなみに、廉田俊二氏は現在47歳。年齢も間違ってますね。

Friday, July 18, 2008

中国式ルーレット

シネ・ヌーヴォでやってるファスビンダー特集の最後の日。先週観た1本に、今日は2本、一週間毎日4本づつ上映していたが、結局3本しか観なかった。
今日は『シナのルーレット』と『哀れなボルヴィザー』。ともに1976年の作品。先週観た『少しの愛だけでも』もそうだけれど、どれもまったく救いがない。どこか生き方に不完全さを抱えた登場人物たちは、それを埋めようとじたばたはしてみるのだけれど、どちらかというと、その不全さは大きくなるばかりで埋まることはない。救いのないまま映画は終わり、残されたぼくたちが救われることももちろんない。が、それが人生だろうし、少し譲歩してみても、それも人生なんだろうと思う。
それは、もちろんファスビンダー自身が抱えていたものでもあっただろうし、ぼくが彼に惹かれるところでもある。
『シナのルーレット』を学生時代に観て、毎週のように入り浸っていたフランス語の先生のところで皆で酒を飲みながら、この映画に出てくる「シナのルーレット」の遊びをやったことを思い出す。それを発案したぼくは、おそらくこの映画の、足の不自由な娘だったのだと、今あらためて思う。他人と自分のどうしようもない悪意を直視すること。ゴダールのどこかの本に、「ファスビンダーのやり方は、オレたちはみんな最低なんだ。まずそこから話しを始めようじゃないか、というものです」と書いてあって、その箇所がぼくはとても気に入っていたことを思い出した。この言葉を、今再び、思い起こしておいてもいいだろう。

今日の昼は、母親の誕生日で、一緒に食事に行く。芦屋の三佳で鰻丼を。年月は経ち、色んなことを忘れ、様々な変化もあるということだ。

Friday, June 6, 2008

液晶絵画

昨日たっぷり降ったので、今日は朝からいい天気。
午前中、自転車のお掃除をしていると、ちょうど注文していたタイヤが届いたので、そのまま流れでタイヤを填める。新しいタイヤと金属部分の油汚れもすっかりとれて気持ちいい。

昨日、利用者の人について枚方の病院まで行った帰りに、京阪の駅で「液晶絵画」という展覧会の掲示を見つけ、面白そうなので、夕方から中之島にある国際美術館まで行ってくる。阪神福島から歩いてすぐ。液晶の画面をキャンバスに見立てた作品の展示。ブライアン・イーノやビル・ヴィオラといった欧米の大御所に混じって、中国の若い作家、ヤン・フードンチウ・アンションといったアーティストの作品が面白い。なんとなく聞いていたけど、中国は、アートも元気だ。中国大陸は表現の宝庫で、まだまだ行き詰まることがないと思った。

雑誌で見たタベルナ・エスキーナというスペインバーが近くだったので、帰りに行ってみる。接客のいちいちがなんとなく気に入らない。タパス2、3品食べてそうそう引き上げる。

もう少し何か食べようかななどと思いつつ、ふらふら梅田まで歩いた。途中、人通りも少なくなり寂れた感じが。昨年行ったダラスの街で、以前は人も歩いていなかった地域が再開発で小洒落たレストランなどが出来ていたのを思い出した。誰かが考え、誰かが投資して、タダみたいな土地の値段が上がって誰かが儲けている。ここも同じなんだなって考えているとじきにJRの駅に着いた。

Wednesday, May 28, 2008

『レモン』・闘争の最小回路

せっかくなので、かつてラティーナに書いた『レモン』の紹介文を再掲します。たかとりコミュニティセンターへこのビデオ作品の上映会を見に行ったのは、2003年の、たしか少しひんやりし始めた頃だったと思う。ぼくのこの年の春に今の職場の職員になり、それ以降もそれまで書いていた雑誌へ気になった音楽や本や映画のレビューを投稿したりするのをつづけていた。そうするうちに、日常障害者の人たちを過ごす時間がどんどんリアリティを高めて行って、文章を書く方がなんていうか、電気製品の使い心地を試して書いているのとあまり変わらないような気がして、空虚であまり身が入らなくもなった。なんか解離した感覚をもっとぴったりさせたいと思っていたときに出会ったのが、この上映会で、書くこととここで生きていることがうまく重なってくれ、それまでのフラストレーションも解消した。
でも結局、関心の比重は日々関わっている障害者運動の方へシフトして行ったし、この上映会で、ぼく自身がビデオに関心を持ったり、障害者運動とビデオを結びつけるような方へ行ったりしたので、記事はあまり書かなくなった。久しぶりにこの『レモン』のことを考えていると、これも闘争の最小回路のいい見本だと思う。日本に暮らす民族的なマイノリティの女の子が、周囲の支援を得て、ビデオと編集ソフトというごくごくささやかな武器を手にしただけで、これだでの表現ができるというのは、ぼくらすべてにとって希望になると思う。

●●●

 松原ルマちゃんの作品上映会を観に行って来た。松原ルマちゃんって誰だ?という人には、ひとまず「未来の映像作家だよ」って答えておけば、あながち間違いでもないと思う。 
場所は神戸市長田区にある鷹取教会敷地内のペーパードーム。震災直後に建てられた「紙の教会」だ。このあたりは、神戸の地震でも最も被害の大きかったところ。鷹取教会も司祭館を残して火災にあって焼け落ちてしまった。ペーパードームは、廃墟から立ち上がった希望の象徴でもあった。松原ルマちゃんは地元の中学の3年生で、2ヶ月の時に日本に渡ってきた日系ブラジル人の三世である。今回の上映会では、2002年彼女が中学一年生の時につくった『かべのひみつ』、翌年の『FESTA JUNINA 23rd June』、そして今回できたばかりの『レモン』が上映された。これらの作品は、鷹取教会を拠点に活動するNPOたかとりコミュニティセンターが、ブラジル、ペルー、ベトナム、韓国など様々な文化背景を持った子供たちの自己表現をサポートする"Re:C"というプログラムの中から出来てきたものだ。 
 "Re:C"というネーミングには、「録画」を意味する[recording]や、~に関しての[re]と[child/comunication/community]の組み合わせ、「子供たちからの手紙」を意味するE-mail返信の[Re:]、などの思いが込められている。活動は、子供たちによる映像制作、作品づくりをサポートするスタッフの勉強会、社会への発信となる作品上映の3点を中心に2002年から始まっている。 
 松原ルマちゃんが、最初に手掛けた『かべのひみつ』は、震災時鷹取教会の外壁や周辺の壁に描かれた壁画の謎について、関係者や近隣の住民にインタビューしていくもの。次作『FESTA JUNINA 23rd June』では、毎年6月に行われる関西ブラジル人コミュニティのお祭りをリポートしている。処女作ではともだちたちと一緒に作っていたのが、ここでは自分一人で企画からつくっている。そして『レモン』。この間のプロセスはそのまま彼女の成長のプロセスにも重なるのだろうが、じっくりと技術を学び、地力をつけ、考え方を深め、そして一気に飛翔するような感覚がある。『レモン』は、思春期に入りかけた彼女のじつに瑞々しい内省の記録であり、ニューヨークやロサンジェルスにおけるラティーノの文化活動を見つづけてきたわたしたちが、ついにはそれがこの国でも生まれつつあることを確認した瞬間でもあった。
 「レモン」は、松原ルマちゃん自身を表現している。ブラジルに生まれながらも、わずか2ヶ月で日本に渡り、姿形も黄色人種の日本人そっくり、搾ってみても中身もレモン。私はこれからどうなるのか?誰もが不安に駆られそうになる年頃に、さらに国籍の不安定さが加わる。どこか不安定なカメラワーク。「編集するのが楽しい」と語る彼女によって、短くカットされた「世界」と「彼女自身」。
 松原ルマちゃんは、3人姉妹の末っ子で、上のふたりがブラジル人、あるいは「外国人」として自分を定義づけつつあるのに比べ、彼女はポルトガル語も十分に話せず、家族の中でも浮いたように感じ孤独感を抱えている。次女のユミちゃんが02年につくった『日系ブラジル人の私を生きる』では、ニューカマーである自分自身が、この社会で生きる困難さをはっきり意識しながらも、それを乗り越えて生きようという意志が告げられている。年代が上がるにつれもっとはっきりとブラジル人として自分を考える長女のユカちゃんとの距離はもっと感じられるだろう。
 「私は誰なんだろう?」こうした問いは、家族にそして自分自身に何度も繰り返されるが、にわかに答えが出るわけでもない。ラストシーンで、須磨の海にプカプカと浮かぶレモンを慈しむような彼女自身のナレーションが救いでもあり、何かしっかりした未来を感じさせもしていた。
 上映会の後、参加者によって作品の感想を述べあう時間が持たれた。関係者やメディアや教育の研究者の発言の後、お父さんのネルソンさんが自身の体験を話された。自分はブラジル生まれの2世で、名前もブラジル人の名前がついているのに、ブラジルでは「日本人」としか呼ばれなかったときもあり、苛められたりもした。今度日本に働きに来たときには逆に、外国人としてしか扱われない。こう話したとき、ルマちゃんは咽せるように泣きだしていた。家族の中で何かが伝わって共有された瞬間であり、見ているわたしももらい泣きしそうになってしまった。そして、この家族、そしてコミュニティの持つ途方もない豊かさを実感した瞬間でもあった。その後ネルソンさんが、国籍なんかどちらでもいいじゃないか、みんな同じ人間なんだから、と話したとき、「人権」という本来抽象的な概念がこうしてはじめて実体を持って生きていくのだと認識した。 子供たちが制作した作品のはホームページでもみることができ(http://www.tcc117.org/tdc/kids/rec/)、またビデオも発売されている。わたしが、他にとくに興味深かったのは白川エリアネちゃんがつくった『2002年 海』。夏の海水浴の思い出をブラジルのポップスとともに編集しただけのものなのに、なぜだが涙がぼろぼろ出てきてしまう。これがサウダージという感情なんだろうか。

*)Re:Cの活動については、たかとりコミュニティセンターの活動報告を参照しました。