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Sunday, February 7, 2010

シルビアさん


一昨日金曜日、コスタリカより美しい女性の来客があったので、もともと休みの日だったのだけれど事務所まで出かけていった。
シルビアさんはJICAのコスタリカ事務所で働いている現地職員で、ぼくたちが毎年受け入れている研修生たちを募集して、送り出すまでを担当している。障害当事者である研修生たちは、はじめて飛行機に乗ったり海外に出るのも初めての人も多かったりするのでパスポートのとり方から教えたりしていると言っていた。ぼくらが初めてシルビアさんに会ったのは、一昨年6月にその秋から始まる中米研修の下見のためにコスタリカを訪れたとき、初日の打ち合わせでだったが、ぼくらがおもに活動しているのは彼女のいる首都サンホセではなく地方の町でが多いので、それ以後は、そんなにしょっちゅう顔を合わせているわけじゃなく、セミナーがあったときに挨拶を交わしたりする程度だった。彼女がぼくらにとってとくに印象深いのは、コスタリカ人の現地職員であるのに、かなりちゃんとした日本語が話せるからだった。

それもそのはずで、彼女は9歳から15歳にまるまで、お父さんが大学に留学していたので家族で長崎に住んでいたことがあったからだそうで、今年30歳になる彼女は忘れていたらしいのだけれど、JICAで働き出したのを機にだんだん思い出してきたと言っていた。
その間、一家の中ではスペイン語は禁止だったらしく、コスタリカ人の両親と彼女と彼女の弟で日本語で会話している様子を想像すると、なんだかおかしくて笑えてきた。

シルビアさんは今週から始まる2週間の研修に参加するために来日したのだけれど、せっかくだからとその前に一週間前倒しで来ていくつか訪問したかったところを回っている。研修生を送り出す役目なのに、実際に研修所がどんなところか知らないので、それを知っておきたかったと東京と大阪の研修所を回り、そのついでにぼくらの事務所にも立ち寄ってくれた。「ここに来るのが夢だった」なんていう嬉しい言葉も言ってくれていた。午前中ときいていた訪問も、お昼ご飯を食べて、気がついたら午後3時を回っていて、ようやくかつてお世話になった人たちの待つ九州へ去っていった。今年の研修は夏になりそうで、3月か4月くらいにはテレビ回線を使った選考が始まるので、そのときまた顔を見ることができるだろう。

Monday, November 9, 2009

Costa Rica (2)

サンホセでの1日目は、こちらのリハビリ審議会での意見交換会。期せずして、ここの事務局長とまるで行政交渉のようになった。臆せず対等に話すのを見て、ウェンディ、アイーダらの成長が著しいのが一見してわかりちょっと感動ものだった。こうしたときこの仕事がやめられないと心の底から思う。
その後の三日間は、ここHotel Heradurradでの国際セミナー。初日の歓迎パーティでは昨年グァテマラに行って行ったセミナーに来てくれたチョー小さい女の人や、見学させてもらったリハビリ病院の院長先生に再会。こちらを覚えてくれていたのがとても嬉しかった。パナマ、ドミニカ共和国、ペルー、エルサルバドルから招かれてきた当事者たちはみんなとてもエネルギッシュで明るくいつも笑っていて、いつもはパーティといっても何を話していいのか分からなくて居心地の悪い思いもするのだけれど、この夜はほんとに楽しかった。
セミナーの初日は、畑くんの話、2日目の分科会では自立生活センターの介助派遣についてぼくと畑くんと松島くんで話した。金曜の最終日は朝から代表が全体会議で自立生活運動について話した。
自立生活運動に関しては、とてもみんな関心を持ってくれていると強く感じた。パナマから来た当事者もぜひパナマでも展開したいと言ってくれていた。閉会式がそれを象徴していて、専門家集団がCBRを発展させる目的でつづいてきたこのプロジェクトにもはや彼らの姿は後ろに隠れて、まるで当事者たちの決起集会のようになっていた。

昨日今日はここサンホセのホテルでゆっくりしている。明日からまた地方の町を回って来週またここへ戻ってくる予定。

Tuesday, November 3, 2009

Costa Rica (1)


オハンチャ、サンタクルースのセミナーを終えて、昨日首都サンホセに戻って来ました。
昨日は、移動だけだったのでやっとゆっくりできて、時差ぼけもほぼ解消した感じ。オハンチャは6月に研修に来たウェンディと介助者のカレンの故郷。少し南に車を走らせると海岸に出る暖かい町だ。人口は1万に満たない。
エアコンのない会場は暑く、声も通らないのでこちらの集中力はどんどん落ちて行く。なんとかこなして、ウェンディの家で一服。急な依頼で夜はカレンの高校でぼくと松島くんとが、介助者の仕事について話す。最高に疲れたけれど、同じくらいの達成感があった。
翌日は、近くのサンタクルースという町で、当事者だけのセミナー。バスでオハンチャから道すがら障害者の人たちを拾いながら行ってだんだん増えて賑やかになっていくのが楽しい。
ニコヤという町で一泊。夕食を食べて、夜遅くまでペレスセレドンから来てずっとぼくらと同行しているアイーダ、ジゼルと話す。けっこう深い活動の話になって時間を忘れるくらいだった。

昨日の日曜日、日中の移動でコスタリカの豊かな自然を堪能しながらサンホセまで。もうすっかり忘れていたような生命力のようなものが自分のなかで呼び覚まされていくのを感じる。

Sunday, October 25, 2009

介助者たちは、(2)

前トピックでお知らせしたかりん燈イベント昨夜無事終了しました。50人くらいの来場。身内の人が介助者・友人含めて10人近く来てくれていて、とても面白かったと言ってくれたのが何より嬉しかった。
東京の第1回イベントは150人くらい集まったというから、それに比べると少ない気はするけれど、お互いの顔が見えるくらいのちょうどいい規模じゃなかったんじゃないかと思う。前半の山下さんのグループ・ゴリラの話には、生き残り?である障大連細井さんのフォローが入って、話に立体感が出てさらに膨らんでよかった。今の介助者という横の繋がりだけじゃなくて、こうした縦の繋がりっていうのも面白いなぁって思う。

自分の持ち時間は15分、時間はあっという間に過ぎるので慌てて、いつものことだけれど、言おうとしていたことをいくつか言い忘れてた。ここでちょっと補足しておこうと思う。ぼくは、介助者の話となると、仕事がきついとか給料が安いとか悲惨な話になることが多いのであえて逆の話をしようと思った。

話と言っても、自分の介助者としての略歴を話しただけ。介助者になったきっかけ、TRYのイベントに参加して少し自立生活センターというものに少し近づいたこと。それから支援費制度導入にあたって政治の季節がやってきて、障害者運動自体の面白さに目覚めていったこと。さらに職員となって働き出して海外支援に関わりだして、より仕事をするモチベーションが保てるようになっていったこと。ざっとこうしたことを通して、自分の「介助者としてのアイデンティティ」が、登録介助者が抱える不安定さや不安感からだんだん安定していったことを話そうと思っていたのだけど、肝心なところが抜けちゃったような気がする。

繰り返して強調しておきたいのは、「〜のため」という動機では、この仕事だけじゃなく、多くの仕事っていうのはつづかないんじゃないかと思う。とくにこの分野は「恵まれない障害者の人のため」という風な動機で始まりそうなことが多いだろうから、その重点をなんとか自分の中に捉え直していった方がいいんじゃないかということ。ぼくはたぶん幸運なんだと思うけれど、大学時代からずっと読んでいる、ドゥルーズやフーコーの思想や、それ以降のラテンアメリカでの経験がすべて、今の仕事に重ね合わせることができている。こんなことは幸運すぎる例だと思うけれど、運動に介助で関わる人たちがそれぞれ自分のバックボーンを持って、それを運動に反映できればこの運動自体ももっともっと「イケている」ものになるんじゃないかな。(「立岩さんは障害者運動、とりわけ自立生活運動を「社会科学をする人間として、この四十年間の日本社会でいちばんイケてる運動だと思う」と言いきった」こちゅかる子氏Mixi日記より)。

ただ、参加してくれた人たちの多くの意見には、やはり依然としてずっと続いている介助者の経済的な問題や健康のことなどほぼまったく解決できないまま置き去りになっていることが分かった。こうしたことも昔はもっとシンパシーを持って聞けたのに、自分はこうした介助者からかなり遠くに来ちゃってるなぁとも感じた。どうしたらいいんだろう?すぐにはうまく考えられない。もっと実態を知らないと。個人的には、これを介助者の横断的な問題と捉えなくても、それぞれの自立生活センターだったり事業所だったりで解消できるレベルのこともあるんじゃないかと思った。うまく運営できていない事業所をできているところがサポートするだけで、そこに属する介助者の生活は多少ましになるんじゃないかな?って。

ひとまずニーズはあることはわかったので、こうした集まりはまたやった方がいい。今度はもっと介助者のひとたちが直接話をできるような機会を。そこでうまくやれている事業所の話を聞けばそれを自分のところに持って帰ることもあるだろうし。


それでは、そろそろ荷物纏めてコスタリカへ行ってきます。
コスタリカからはTwitterで中継します。
http://twitter.com/tksh21

Wednesday, October 14, 2009

介助者たちは、

今月24日に、以下のような企画で少し話すことになりました。いくつかのポイントで話せることがあると思うのですが、さてどこポイントで話そうかな?って感じです。企画の前半でお話しされる山下さんの『健常であることを見つめる』は、青い芝時代に存在した介助者の会、グループ・ゴリラについて実際にゴリラに所属していた人たちにインタビューした力作です。一読して、障害者と介助者には、なんというか愛憎のドラマツルギーみたいなものがあって、お互い離れては生きていけないはずなのに、まるで夫婦が行うようなトラブルを繰り返しながら歴史を作ってきた。この時代に起こった問題は、ほぼそのまま現在にまでも持ち越されてるんじゃないんだろうか?と思ったのがまずの感想。

たとえば、ゴリラが青い芝本体によって潰された原因となったのは、施設から出てきたばかしの障害者たちが、なかなかすぐには、シャバの速度について行けず、社会性が身につかないままなのを健常者がカバーしているうちに、実権を健常者が持ってしまったことに対して、障害者側の怒りを買ったためと指摘されているが、自立生活センターが、とくに支援費以降事業所としての性格を強くしたのと同時に、事務を任される健常者に乗っ取られてしまったなどというのは、噂ではよく聞くし、実際JILなんかでも問題になっている。もっと身近に介助現場でも、介助のペースを介助者が決めてしまうなんてことは、目の前で起こってることでもある。

こういうことを介助者のぼくが言うと、障害者の人たちには、利用者の人にもっと能力を高めて欲しいっと言ってるようにすぐ取られてしまうのだけれど、そうじゃなくてたぶんそのときにぼくが言いたいのは、自立生活センター自身が自己決定という看板の下で、どこか能力主義的なところがあって、内部にも差別構造がある。介助者は、むしろその構造を内在化しているだけかも?って考えることもできる。青芝の時代にはそういうのってなかったのかな?って遡って見直してみることもいいかもしれない。原因はともかく、自立障害者の背後に自立できない膨大な数の障害者がいるのは事実だし、何となくそういうことに疚しさを感じながら、日々の活動をしていたりする。何か別な道、そういう構造を無効にしたり、障害者・健常者という区別自体を無効にしたりしてしまう方法とか、を夢想しながら。




以下企画のお知らせです。

介助者の生き方・働き方を考える集い in 大阪

「介助者たちは、どう生きていくのか?」パート2  

これから、介助者・介護者の生き方、働き方が問われてきます。これまで、地域で自立生活を送る障害者の介助の多くは無償でした。無償の中でも介護に入り続けてきた健常者はいました。その人たちはどのような思い、気持ちで障害者の介助に入り続けたのでしょうか?
2000年代に入り、介助が明確に仕事として位置づけられるようになりました。そして、障害者の地域生活が進展すると同時に介助者の数も増加しました。ボランティア感覚の人もいます。次の仕事が見つかるまでの腰掛け気分の人もいます。障害者の地域生活を支えることにやりがいを感じている人もいます。また、見えないところでしんどい思いをかかえている人もいます。介助・介護が仕事化していく中で、私たちにとっての課題は何でしょうか? 私たちには何か置き忘れたものはないでしょうか? 私たちが仕事を続けて行く上で必要なものは何でしょうか? そして、私たちは、どのような思いや気持ちでこの仕事を続けていくのでしょうか?
 今回の企画では、介助者・介護者のこれまで、今、これからについて、介助者・介護者として生き、働く人たちの声を聞きながら、いろいろな意見交換をしていきたいと考えています。



前半 
 トーク 「介助者・介護者たちはどう生きてきたか?」

山下 幸子
(障害学、介助者  著書に『「健常」であることを見つめる 1970年代障害当事者運動/健全者運動から』)


後半
 トークセッション 「介助者たちは、今どう生きているか? そして…」

〈出演予定〉
井上武史 (メインストリーム協会)
佐々木彩 (画家、介助者、陽のあたる毛の会)
廣川淳平 (JCILコーディネーター)
渡邉 琢 (かりん燈)
他ご来場の参加者のみなさん

日時:2009年10月24日(土) 18:30〜21:30(18:00開場)

場所:ドーンセンター (5階特別会議室)
(地図 http://www.dawncenter.or.jp/shisetsu/map.html)
・京阪「天満橋」駅下車。 東口方面の改札から地下通路を通って1番出口より東へ約350m。
・地下鉄谷町線「天満橋」駅下車。 1番出口より東へ約350m。

参加費:500円

お問い合わせ:かりん燈 mail:karintoukaijo(a)yahoo.co.jp (←(a)を@に変換してください。いたずらメール対策です)

協力:コマイナーズ

Sunday, September 27, 2009

『介助現場の社会学』

長くうちの自立生活センターで、介助の仕事をしていて、この春から神戸学院大学で教鞭をとっている前田くんが本を出しました。『介助現場の社会学』というタイトルから想像できるように、前田くんが実際に介助の仕事から得た様々な体験がもとになっています。昨年出版された山下幸子さんが、青い芝の時代の介助者グループ「ゴリラ」について書いた『健常であることを見つめる』もそうだけれど、立岩さんが95年に書いた『生の技法』に影響を受けた研究者たちの研究の成果が、そろそろ形になり始めたのかなとも思う。
アマゾンにはまだあがってませんが、10月発売とあります。ぼくはこの週末の障害学学会で一足先に手に入れてきました。とりいそぎお知らせと宣伝。ゆっくり読んでまた感想など。BK1はこちら

Friday, August 14, 2009

中米のともだち #7


前の記事に書いたとおりニカラグアに行ってきました。

 JICA大阪が企画、うちの事務所が実施して去年からやっている、中米のコスタリカ、ホンジュラス、グァテマラ、ホンジュラス4カ国の障害当事者を日本に招いて、ゆくゆくは障害者自身が運営して自立支援や介助サービスを提供する自立生活センターを各国で作ってもらおうという研修コースのフォローのためだ。

 コスタリカ、グァテマラは去年すでに事前調査に行っているので、残りのニカラグアとホンジュラスも調査しようというのが、もともとの計画だったのだけれど、未だに解決しないホンジュラス国内の混乱のため、訪問をニカラグアだけにして、そのかわり去年と今年の研修生を全員ニカラグアに招待しようということになった。ニカラグアの去年の研修生サンドラがすでに、ニカラグア最初の自立生活センターを立ち上げたので、そこへ皆を招いて、お祝いして、さらに刺激を受けてもらおうという意図もあっただろう。

ぼくたち日本からのメンバーの一週間の滞在の真ん中3日間が、自立生活センター立ち上げに合わせてのセミナーになっており、研修生たちもそれに合わせて招かれていた。事前にグァテマラの今年の研修生の1人が仕事のため欠席であることが知らされており、直前去年の研修生の1人がお母さんの病気のため急遽来られなくなった。2人の欠席のため研修生12名+介助者2名、来られなくなったグァテマラのホセマリアの介助をする予定だった18歳の青年もやってきていたので、合計15名の大所帯だった。ぼくは、今年の研修生と別れて間もないので、どこかこのグループの一員であるような気がまだしているのが自分でおかしかった。今年のグループはたいへんだったけれど、それだけ関わりも深かったんだと思った。なるたけ色んな人と話をしたかったのだけれど、誰かと話していると誰かと話せないわけで、楽しい再会もかなりフラストレーションが溜まるものになってしまった。

研修の3日間は、自立生活運動についてと、実際の交渉のやり方。3日目は介助者についてで、演習はぼくが担当してやった。夜は夜で、研修生たちが作業が今どれくらいまで進んでいるかをインタビューして、研修生たちからの相談にものったりで毎夜遅くまで話し込んでいたので、なかなかハードなスケジュールだったと思う。

セミナーの他には、去年と今年の研修生が所属する団体の事務所を訪ねたり、障害者の家庭や施設の訪問。最終日には地方の町に行って障害者の雇用に熱心な日本とメキシコの合弁会社の工場を訪ねたり、サンドラの団体の地方支部を訪問したりした。マナグアはどこが中心か分からない、お世辞にも美しいとは言えない町だったけれど、一歩マナグアをでるとニカラグアは美しい。ゆっくり旅するときっと虜になる素敵な国だと思った。

自立生活センター立ち上げという「名目」で一連の行事は行われているのだけれど、じつはこの自立生活センターには、ちょっとなんちゃってなところがあって、サンドラの団体自身が、女性障害者の団体として始まっていることやポリオや片足切断など比較的軽度な障害者の団体であることで、どこまでぼくらが求める重度障害者のニーズやサポートが考えられているのだろうか、ぼくら自身やや疑問に思っている部分もある。開所式に行って事務所がスロープになっていなかったのが何より印象が悪かった。

しかしながら、実際に介助派遣用に、イギリスのNGOと政府から予算を取っていて、制度とはなっていないから、期間限定で介助派遣も行われることになる。こうしたことを僅か半年でやってしまったサンドラのエネルギーと政治力も侮れなく、最後空港でまた涙を見せている彼女と別れるとき、結局彼女が誰よりも情に篤いのだとも感じて帰った。

3日目のセミナーが終わって、最後に研修生全員と集まっているとき、iPhoneを持ち歩いていつでもメールチェックできるぼくのところにグァテマラのJICAの担当者からメールが来て、病気だったホセマリアのお母さんが亡くなったと知らされた。みんなが集まっているこんな時にタイミングがよすぎるなぁと思いつつ、彼と仲のいいホンジュラスの研修生に知らせた。この集まりが終わる頃には、みんなで彼を励ます言葉を書いて寸志を贈ることに纏まっていた。それまでぜんぜん見ず知らずだった人たちが、こうして集まって、もうみんな家族のようになっているから、その家族に不幸があってももうそれを自分の家族に起こったことのように感じている。そうした当たり前のことを感じた。

Friday, July 31, 2009

中米のともだち #6

研修生たちが帰って、考えるとまだひと月もたってないのに、彼らがいるときと今の日常とがあまりに差違がありすぎるので、なんだかずっと昔の話か、あるいはもともとなかったことのようにすら思えたりする。

彼らが帰る間際、6月の28日にホンジュラスでクーデターがあり、研修できていたメンバーのうち2人の女の子がホンジュラスから来ていることもあり、夜ネットで知った事態を朝事務所で伝えると、そのひとりのお父さんが警察で働いていることもあってずいぶんと心配していた。ちょうど彼女らが帰国するとき、クーデターで隣国コスタリカに追い出された前大統領セラヤが、飛行機で強行帰国しようとしたところ、クーデター派が軍隊を使って閉鎖。彼女らは一晩マイアミで足止めを食らう羽目になった。

以来、コスタリカのアリアス大統領が仲介して、話し合いで決着を付けようとしてはいるのだが、なかなか両者が譲り合うことなく現在まで膠着状態がつづいている。今日入ったニュースでは前大統領支持派と軍隊が衝突して、けが人と逮捕者が出ている。

そういうわけで、本当だったらすでに今頃はホンジュラスとニカラグアへ調査へ行っていたはずだったのだけれど、こちらの予定も変わり、一週間遅れで明日からニカラグアだけの調査とセミナーに行ってくる。そのかわりじゃないけれど、去年と、先日お別れしたばかりの今年の研修生たちが、マナグアに集合することになった。ホンジュラスで待っていた研修生たちには可愛そうだけれど、またみんなと会えるのが嬉しい。

今回は、iPhone持参で行くので、Twitterをチェックしてもらえれば、Wifiを拾えるところで、むこうの様子も伝えられると思う。Twitterfonでは、ビデオもアップできるようになったしね。
http://twitter.com/tksh21

Tuesday, July 7, 2009

中米のともだち #5

5月の25日から始まった、中米の障害当事者を集めて自立生活運動を教える2年目の研修も、先日日曜、ひとりだけ残っていたグァテマラの女の子を見送ってやっと終わった。
土曜日の見送りの日には5時に起きなくてはならないのに、最後の夜ということもあって朝の4時までみんなで飲んでいた。最後にはみやげ用にトランクに収まっていた日本酒まで登場して、起きるとふらふらしていたけれど、6時に宿舎出発に遅れるわけには行かず、同室のグスタボの介助をしながら大急ぎで支度をする。2年目でそれなりにやることは分かっているはずだったけれど、やはりそのときになると色々不測の事態も起きる。

なんとか空港には間に合い、最後の別れとなった。今年はメンバー間で、いくつか揉め事もあって、それでかなりエネルギーを割かれた。直前に喧嘩していた女の子2人が、涙を流しながら仲直りしていたのを見て、ほんとに今年のグループは中学か高校生みたいだったなと思った。

今年は、介助者を連れて来た障害者が2人いて、それはどんな重度な障害者でも介助を使えば誰でもどこでも生活できるという自立生活運動のもっとも根本の考え方に近い研修になったと思う。その2人のコスタリカから来た男の子と女の子が誰よりもたくさん涙を流していたのが面白かった。

おそらく、障害当事者は、自分で書類を送り、それにパスして来日という、ある程度自分の予想した範囲で物事が起こったのだろうけれど、介助で来た2人は、その当事者に付き添うという、ある意味受け身な立場で来たので、起こった物事がすべて自分のことのようで自分のことじゃない、介助者独特の感覚で過ごしていたのではないかと思う。

多くの人が自分の人生を変えたと言っていたけれど、それがいっときの感情ではなく、引き続いて持ち続け、ほんとに人生を変えるような体験にしてもらったら嬉しいのだけれど。

Wednesday, June 17, 2009

中米のともだち #4

先週の月曜から一週間、東京での研修を終えて、今週からやっと西宮へ帰っての本番。今年は西宮に帰ってくるまで3週間もあって、ここまでに結構疲弊した。体調を崩す人が多かったり、メンバー間のコミュニケーションがうまくいかないのでその仲介をしたりで、予想外の労力がかかった。たいへんだけど、それだけ「関わっている感」も高く、やりがいも感じている。
西宮に帰ると、こちらのスタッフががっつり関わってくれるので、やっとホッとして一休み。
写真は1986年設立、日本で初めての自立生活センターヒューマンケア協会での中西正司さんの講義。グァテマラから来たロレーナの食いつきぶりが見ていて面白かった。

Friday, June 5, 2009

中米のともだち #3

2週目に入った今週、研修生たちは、午前と午後一日使って、日本語の勉強をしている。去年の研修生たちがあまりにも日本のことを知らないということが反省として残ったので、今年から加わったプログラムの一つだ。名前と出身を話す自己紹介や店に入って困らないように料理を覚えたりしている。もちろん、一週間でちゃんと話せるようになんかはならないので、どれだけ効果が期待できるかは分からないけれど、少しずつ片言のことでも毎日口にしているのが見ていて可愛らしい。
今は授業中だ。昼間の宿泊棟は誰もいなくて静か。昨日、カレンが甲状腺を腫らしていたので、同行して千里中央のクリニックまで行ってきて、さっきまたロレーナが熱があると言うと、発熱外来まで連れて行かれた。インフルエンザじゃないかと、ちょっとした騒ぎになって、部屋を変えたりしてばたばたしている。少し休息できるはずだった、今週の日中が何か慌ただしいまま週末になってしまった。

今日は授業が終わったら、キッチンルームを借りているので、みんなで国の料理を作ることになっている。ロレーナが来れなかったらちょっとかわいそうだけど。

Thursday, June 4, 2009

中米のともだち #2

JICA大阪宿泊10日目。毎日があっという間に過ぎていくので、数えて10日も経っているのでびっくりする。昨日は、同僚と交代で日中少し西宮に帰って気分転換。帰りにデパ地下で、葛まんじゅうを買って帰って、研修生たちと一緒に食べる。なんとなく「帰ってきた」という感覚でいる自分に気づいておかしい。

今年のグループは去年のグループほど纏まりがない。けれど、それはでもいいこと何じゃないかって思っている。何かを作っているというプロセスが、毎日目の前で繰り広げられていて、これはどこかのリアリティーショーじゃないのかと錯覚するほどだ。今日は先ほどまで、この建物にいかにバリアーが多いかを、所長に訴えに行く相談をみんなでしていた。話は脱線して、様々な方面へ流れていくのだけれど、それのひとつひとつがお互いを知る手がかりになっているのだろうと思う。

写真は、先週土曜日海遊館へみんなで出掛けたところ。どこを歩いていても、カルガモの親子みたいに見える。

Friday, May 29, 2009

中米のともだち #1

たぶん自宅以外の出先かブログを書くという初めての経験だと思う。
中米4カ国からの障害当事者を研修生として迎えて、中米での自立生活運動の促進をすすめるJICAのプログラムで、今週の月曜日から大阪吹田の万博公園の近くにある大阪国際交流センターに宿泊中。
今年は3年の予定の2年目。昨年と同じように、コスタリカ・グァテマラ・ホンジュラス・ニカラグアの4カ国から7人の研修生が来ている。研修生と同じ部屋で寝起きを共にして、ここと東京と西宮での研修でのサポートをする生活が約一月つづく。なかなかヘビーだけれど、とてつもない喜びも感じることも出来る希有な仕事だ。まだ5日目が終わったところだけれど、もうすでにかなりの喜びを感じながら毎日暮らしている。

写真は昨日、雨にもかかわらず梅田まで出掛けた様子。ほぼ全員電車は初めての図。

Monday, May 25, 2009

レゲトン

明日からまた中米4カ国から障害当事者の研修生が来るので、ぼくはほぼ一月付きっきりになる。ラティーノだから、やはり音楽が好きで、ちょっとしたパーティにiPodを持参しておくとほんとに便利で、適当にそのへんのテレビとかに繋ぐと即席のDJが出来る。
レゲトンは無敵で、まるで魔法のようにすぐに盛り上がる。ということで、今日の午後はCDからいっぱいiPodにレゲトンを追加しておいた。また楽しみだね。
それで、ジャケ写をつけたりするのにネットで色々探してるとこんなオールドスクールなレゲトンの動画を見つけて、しばし見入っていた。レゲトン創世記の熱気にやられて、久しぶりにレゲトンブログも更新しちゃった。
<BloggerReggaeton>

Sunday, January 18, 2009

最後の朝

病室はとても暑くて、Tシャツ一枚になりたくなるくらいだったけれど、朝方僅かに仮眠をとって起きるとさすがに身体は冷えていた。眠るどころか、吸引や体位を変えたりつぎつぎと言われるので、休む暇のないくらいだと、そう聞いてきたので、覚悟していたのだけれど、彼は12時を過ぎるとすぐに呼吸する音が大きくなって眠ってしまったようだった。それから、1時間ごとに吸引したり身体やマスクを少し動かしたりしただけで、朝方になるとそれもなくなり完全に深い睡眠に入っていた。それは、体調を崩す前の彼の懐かしい眠りのパターンだと思った。
夜が明け、おかゆと刻み食の朝食を済ませると、看護師が点滴を取り替えに来たり、医師がエコーを取りに来たりと慌ただしくなり、9時半頃お母さんも見える。そのどのタイミングだったか、食事の後くらいか、ふと時間が空いた瞬間に、カメラを取り出して、病室の窓から建物の中側に当たる方向を何枚か撮ってみる。「見せてぇ、ぼくどうなってるのかわからへんねん」。たしかそう言ったと思う。そしてこれではなく、もっと風景がはっきりと写ったものを見せたと思う。これは曇って見えるけれど、今日はとてもいい天気なんだ、そう心の中では言ったのだけれど、なぜか口には出さなかった。そしておそらくこれは彼が最後に見る外の風景だ。お母さんが眠れたか?と尋ねて、あんまりって答えていたので、「爆睡しているのに何言ってんねん」とつっこんだ。そして甘えてるんじゃない?って茶化した。それからしばらく彼の様子について話してお母さんに挨拶して帰った。これが最後の朝だった。

Friday, December 19, 2008

祭りのあと


はぁ。中米からの研修生たちが帰国して2日。やっぱり疲れてずっと寝てた。今朝は朝から有馬の金の湯に浸かりに行って、整体の先生のところへ身体のメンテ。午後余裕があったら映画でも行こうと思ってたけれど、お昼ご飯を食べたら夕方まで寝てた。起きたら一瞬ここはどこでいつなのかわからないほどだった。

11月の26日に彼らが到着してから、ぼくはずっと一緒に行動をともにしていて、彼らがJICAの宿泊施設に泊まるときは一緒に泊まり込むし、西宮に来てからは夕方から深夜か明け方か、ホームステイ先で彼らが眠りにつくまで通訳としてついている。朝はまたすぐ起きて、一人の研修生の介助のためにまた出かけるという生活。午後の空いた時間を家のことをしたり、足りない睡眠時間を補ったりして使っていた。研修生たちも、勉強だけをするつもりできていたので、まさか毎夜2時3時まで話し込むと思っていなかったから、かなり疲れていた様子だったけれど、ぼく自身も最後までよく持ったと思う。

期間中よく、「楽しそうですね」って言われたので、半分冗談で「人生でいちばん楽しいかもね」って答えていたけれど、残りの半分はほんとうにそう思っていたと思う。何でなんだろう?
おそらくたぶん、ひとつはぼくはラテンアメリカの人との方が、感情の疎通がうまくいくんだろうと思う。ちょっとしたことで手をつないでみたり、肩を組んで歩いてみたり、何気ない瞬間に目があってお互い微笑んでみたり。はじめて日本を出て、北米から南米にかけて旅行して、あのとき感じて救われたと感じた感覚を、おそらく今回も感じていただろうと思う。

日本人は抑圧されている。そうだろう。たぶん。写真は先日の日曜日、最後の休日でメンバーの何人かは海遊館へ向かう。9時の集合だったが、時計はすでに10時になりつつあるのがおわかりかと思う。悠々と2階のILルームから登場のサンドラ嬢from Nicaragua。ぼくたちも最後この中南米時間に慣れつつあったかも知れない。彼らは勉強に来たが、ぼくたちの何かも確実に変わった。
それが交流とか交換とかいうものだろう。

Saturday, July 19, 2008

蒔かれた種

コスタリカで最後にやったセミナーの様子が、むこうの一流紙に取り上げられて、帰る前の日に手にすることができたので、みんなちょっとした達成感を味合うことが出来た。やってる最中は夢中であまり気がつかなかったけれど、かなりハードなスケジュールだったので、こうして形に残ると単純に嬉しい。写真はインタビューの様子。
サンホセのセミナーで、おそらく今度研修で日本に来る女の子が、「今日本から来て蒔かれた種を、私たちで育てていきたい」と締めくくっていたのが思い出される。ほんとうにそうなればいいと思うし、彼女はもうすでに行動をこしてもいるので、おそらくそうなるだろう。

以下訳文です。原文はこちら


        日本人が、障害者の自立を勧める

私たち障害者は、無益であったり、用をなさない存在ではない。かわいそうに思われたり、すべてなんでもしてもらわないといけないこともない。今やこうした考えは変える時だ。私たちも人間であり、自立してある権利がある。こうしたことを広く知ってもらう必要がある。

こうして、昨日、日本の大阪にある自立生活センター代表廉田俊二氏は、エレディアにあるリハビリ審議会で数十人のコスタリカ人障害者を鼓舞した。53歳の俊二氏は、生まれ故郷で屋根から落ちて以来、39年間車椅子で生活しており、現在は日本で、身体的精神的な障害があっても、家を出て、一人で生活し、危険や不安があっても、自分自身で判断しながら生きることを主張しながら運動を率いている。

こうした中には、重度の精神的な問題があったり、脊椎が損傷した人も含まれる。

「それが本当に生きることです。多少危険があっても、その危険や自分に責任のあることを人任せにしない」。こう語り、こうした運動は日本では30年前から始まっていると言う。

俊二氏は、(*)障害者を雇用しない企業からの罰金からなる補助金で運営される、自立生活センターが各地にできることを勧め、そこでは、障害者の手足となる人たちがいて、障害者は自分の取りたいもの触れたいもの、どこへ行きたいかなどの考えを実現することができる。

「こうした人たちは、手助けをするだけで、彼ら自身が決定をすることはありません」と語った。

「目差していることは、障害があろうとなかろうと、それぞれの人が、その人の人生の主人公になるということで、障害が、その人がよく生きたり、充足して生きたりするのの妨げになったりしたらいけないということです」。こう語る俊二氏は、日本国際協力機構(JICA)の招きで、今回コスタリカを訪れている。

「もしある人が、手がなく生まれてきても、それはその人がどんな靴下を選んだらいいかといった能力や権利がないことにはならないし、裸足でいたいのに何でも適当に履かされるのを我慢しなければならないということでもありません」、こうつけ加えた。

「家族が、障害を持ったメンバーを、実際はそうではなくても見捨てたようになるのが嫌なのはよく分かります。しかしそれは、彼らが家を出て、その人に相応しい生活をして幸せそうにするのを見ることでもあるのです」と語った。

「わかりやすい言い方をすればですね。私は自立して生きています。もしここに障害をなくす薬があったとしても、私は飲まないでしょう。私は幸せですし、私のしていることや、現在あるものを楽しんでいるからです」、こう主張した。

その日本人は、自立について語ることは、生き残ることについて語ることであり、尊厳を持って生きることでもあると強調した。「変化は障害者自身が起こさなければなりません。何かよくなるかもと待っていても何も変わりません。今すぐ行動を起こさなくてはいけないし、それを障害者自身がやらなければならないのです」。

1986年俊二は、大阪~東京間の600キロの道程を、車椅子で旅しながら、駅が彼らにとってより使いやすいものになるよう訴えて歩いた。

注記)(*)「障害者を雇用しない企業からの罰金からなる補助金で運営される、自立生活センター」この部分は、コスタリカの新聞記者の勘違い。事実ではありません。ちなみに、廉田俊二氏は現在47歳。年齢も間違ってますね。

Thursday, May 29, 2008

ランジェ公爵夫人

今日は、職場の障害当事者スタッフが、シンガポール航空に搭乗拒否されたことに対して起こしていた裁判の控訴審判決の日。午後から大阪高裁に集まって判決を聞く。結果は棄却されたが、原告が搭乗拒否される理由はないとつけ加えられており、実質勝訴と同じ。みんなまあまあ満足な感じで散会した。

夜の仕事まで時間があるので、シネ・ヌーヴォまで行って、79歳になるジャック・リヴェットがバルザックの小説を映画化した『ランジェ公爵夫人』を見る。19世紀パリの社交界を舞台にした恋愛映画。恋愛と言っても、ひたすら微妙なやりとりと駆け引きが繰り返されるだけ。即興の演出で知られるリヴェットは今回、かなりきっちりしたプランを立てて、そのとおりに演出したらしいけど、一見した感じはいつものリヴェットの感じから遠く離れたような気はしない。テロップが間にはさまってつづいていく語り口もいつものリヴェットと同じだった。映画が自動的に語られるのではなく、明らかに語っている何かがあるという感覚。でもそれは監督かというとそうでもない。

(あらすじ)パリの華やかな舞踏会でランジェ公爵夫人は、モンリヴォー将軍と出会う。公爵夫人に激しい恋心を抱くモンリヴォー。公爵夫人は思わせぶりな振舞いで彼を翻弄し続ける。追い詰められたモンリヴォーは、たしなみや信仰を理由に拒絶する公爵夫人を、誘拐するという手段に打って出る。それを機に恋に目覚めた公爵夫人。彼女はモンリヴォーに熱烈な手紙を送りはじめるが、彼は徹底的に無視する。拒絶されたと思いこんだ公爵夫人は、失意のうちに世俗社会から離れてゆく・・・。

Saturday, May 24, 2008

住田雅清インタビュー

かりん燈のブログに『おそいひと』の主演住田さんのインタビューのリンクが張ってあったのを見つけたので、こっちからも行けるようにしておきます。<住田雅清インタビュー>

ちょっと逸れるけど、この映画にも出てくる福永さんが、障害者運動の礎になった人たちを訪ね歩いて、インタビューして作品に纏めた『こんちくしょう』っていう映画が去年上映されて見に行ったんだけど、最後のクレジットを見て監督している村上桂太郎さんってどっかで聞いたことがある名前?ってよく考えたら、ぼくこの方から手紙を頂いたことがあったのでした。

というのは、鷹取で外国人の子供を支援している、たかとりコミュニティセンターという団体があって、そこで松原ルマちゃんというブラジル3世の女の子がビデオを作って上映会をするという集まりがあったので行ったんですが、その『レモン』という作品があんまり素晴らしかったので、ラティーナに送って記事にしたら、後日そのセクションの責任者である村上さんから丁寧なお手紙を頂いた次第。記事を書いても書きっぱなしがほとんどであんまり反応があることはないので、ぼくもとても嬉しくて今でもそれを手帳に入れて持ち歩いているほど。
でもみんなけっこう狭いところで仕事してんだなって思った。

Monday, May 12, 2008

ラテンアメリカの自立生活運動

コスタリカでは、通訳もしなくてはならなくて、日常的なものはまぁ問題ないにしても、専門的な用語は少し仕込んでおいた方がいいので、ネットで色々調べていると、ちょうど自立生活運動の歴史を書いたPDFファイルが見つかったので、ダウンロードして読み始めている。[PDF]
自立生活運動の哲学から、歴史、そして各国の歴史、これからの未来と課題などが書かれていて、本一冊がファイルになっているので、300Pにもなる。ひとまず、ラテンアメリカの自立生活運動のところから読み始めたら、日本の歩みとも重なるところもあってなかなか興味深い(同じ文章の英語版がここにあった)。

ラテンアメリカの自立生活運動はブラジルから始まっているようで、実際スペイン語で自立生活センターを意味する、Centro de Vida Independienteを検索すると、そのほとんどがブラジルのものであることが多い。自立生活運動の考え方が80年代に広まったのは、日本と同じで国連の障害者年がきっかけになっているのも同じ。88年の8月にアメリカの障害者運動のリーダーとの接触があり、その12月には、リオデジャネイロに初めての自立生活センターができている。[Centro de Vida Independiente Rio de Janeiro]2003年時点で、ブラジル国内では20の自立生活センターがあり、1999年には、日本のJILにあたる、CVI Brasilができている。西宮の友好都市であるロンドリーナ市にもセンターがあるようだ。2001年には、メキシコでラテンアメリカの自立生活センターのネットワークができており、19の国が参加している。

国連の障害者年があって、アメリカの自立生活運動の指導者との出会いがありというのは、日本とまったく同じ。代表が障害者自身でなければならないとか、組織の決定の過半数は障害者でなくてはならないなど自立生活センターを規定する諸々の項目もそのまま敷衍している。まだそこまで読んでいないが、ブラジルやラテンアメリカ、第3世界特有の問題もあるようだ。というか、今やブラジル・ベネズエラなどは資源大国で、アルゼンチンは食糧資源の宝庫。第3世界という用語ももはや死語ですね。昔読んだセリーヌの小説で、第一次世界大戦前のヨーロッパで、南米からの移民が大威張りで歩いているといったシーンがあったのを思い出した。日々きな臭い匂いがしてきて怖いね。