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Wednesday, September 10, 2008

チャリで行こう!メキシコ

昨年、メキシコから帰ったときに書いて『Latina』に送ったボツ記事。なんかムカツクからパソコンの奥に放っておいたんですが、もったいないから載っけます。環境とかエコとか最近の話題も盛り込んだ面白い記事だったのになぁ。以下記事です。

 久しぶりにメキシコシティへ行ってきた。じつに14年ぶり。ちょうど前回帰国する頃通貨ペソがデノミする直前で、盛んにそのお知らせがされていたから、現在の紙幣や貨幣は私には初めてで、物を買う度にあらためてこれはいったいいくらなんだろう?と考え直さなければならない始末だった。セントロには、セブンイレブンスタバマクドが当たり前にできており、夜中や日曜日にはすべて店が閉まってしまったかつてとは隔世の感。こうした外資系のチェーン店の他にも、メキシコブランドのファミリーレストランも、通りに一つといった感じで増えていて、昔よく学校の帰りにお昼ご飯を食べたごくごく庶民的な定食屋も、小ぎれいなレストランに変わってしまっていて、少し寂しく思った。
 今回は、"死者の日"に合わせて行った。ちょうど日本のお盆にあたるようなこの日には、骸骨の人形やお菓子を飾って死者を弔う。ソカロには舞台が出てマリアッチの楽団の演奏し、何万という人の波が夜遅くまで押しかけていた。前月の末に見舞われた洪水の被害で、南部にあるタバスコ州にあるビジャエルモサでは、何十万という人々が避難しているというニュースが新聞やテレビで連日報道されているのが、同じ国のこととは思えないような光景だった。
 そうしたお祭りの日々が一段落した日曜日、本紙でもお馴染み、チャリ好きでも知られるメキシコシティ在住のライター長屋美保さんに誘われてサイクリングに行った。事前に長屋さんから話しを聞いていてはいたものの、メキシコシティと自転車というのが、あまり結びつかず、サイクリングというのにさらにピンと来ないまま、早朝の約束の時間にアラメダ公園へと向かった。だんだんと寒さを増していくメキシコシティの朝の空気はとてもきれいで、ベジャスアルテスや、周辺の建物もみな輝いて見える。しかし、空気がきれいなのは当然で、なんとメキシコシティを東西に走る大通りレフォルマが通行止めになって、自転車と、歩行者の専用道路になっている。すでに自転車に乗って気持ちよさそうにその道路を走る人たちがいる。アラメダ公園には、テントが一つ立てられていて、数人の人がそこらへんに座りながら、何を待つともなく、待っていた。「ここで自転車借りれるの?」と高校生くらいの女の子に訊くと、そうだというので、私たちも待つことにする。9時から、自転車が借りられることになっていて、私たちはそれよりずいぶん前から待っているのだけれど、その9時は当たり前のように過ぎ去っている。なんとなく待つ人が増えてきたなって思ったら、あっという間に列になったので、私たちも慌てて列に加わった。
 身分証明の代わりにパスポートを預けて借りた自転車は、マウンテンバイクもどきのメキシコ製自転車で、変速ギアは付いてはいるものの、かなり重いところで固まって動かない。ブレーキも甘いし、空気ももう少し入れたいところだけれど、まぁ仕方ないということで、出発。車の通行が規制されているのは、レフォルマだけではなく、大聖堂や大統領府が並ぶ、ソカロを中心とした歴史地区全体が歩行者と自転車に開放されており、私たちは普段車と人混みと格闘しながら歩いている道を、大統領府の裏側、メルセあたりまで行ってUターンする。アラメダ公園まで帰ってきて、今度はベジャスアルテスの裏手、北側のイダルゴを通ってレフォルマに入った。
 それからは、メキシコ一番の大通りを独り占めにしているような爽快な気分で、地下鉄クアウテモク駅あたりまで。折り返して再びアラメダ公園まで戻ってきた。約1時間半ほどの行程だったが、排気ガスが有名だったこの町が年月とともに変わりつつあることを実感し、これまでとは文字どおり、違った角度でメキシコシティを眺めた時間だった。
 後日、なにげに町をぶらついていると、ソカロの片隅に、「チャリで行こう」と書いたブースがあり、自転車のレンタルとプロモーションをしていたり、NHという高級ホテルの前には、私たちが借りたおんぼろな自転車ではなく、まだ真新しい自転車が並べられているのを見かけたりと、どうも町を挙げて、自転車を推奨する運動中であるらしいことがわかった。
 帰国後さらに調べてみると、この運動は、メキシコ市の環境局が中心に進めており、日曜日にレフォルマへの自動車進入を規制して歩行者天国にするのは、この一連のプログラムの主軸であるらしい。もともと、昨年12月に就任したマルセロ・エブラルド市長の前職で、現在のフェリペ・カルデロン大統領との大統領選に僅差で敗れ、現在でもその正統性をめぐってしばしば市民の抗議行動も見られるロペス・オブラドール氏が市長だった時代に立案された政策で、環境や資源、市民の健康など私たちが抱えているのと同じ問題を持つメキシコ市がその解決策として始めたことだ。前職と同じ左派のPRDに属するエブラルド市長になっても、この政策は継続され、今年3月にこの政策の継続とその目的を新に説明したプログラムを発表している。それにしたがって、メキシコ市は、自転車専用道路を整備し、自転車をレンタルしたり、メンテナンスや水分の補給を目的としたブースを設置しており、バスや地下鉄への持ち込みも実験中で、それらを乗り継いでの通勤も推奨されている。政府の関係者には毎月第1月曜日には自転車の通勤を義務づけて、市長自ら自転車通勤している。この4月から始まったこの規則のことを当時の新聞で調べていると、休暇で逃れようとした議員が後で叩かれたりしていて、最近はどこの国の議員も監視が厳しくたいへんだ。私が、たまたまホテルの前で見つけた自転車も、メキシコ市から市内のホテルに贈られた250台の自転車の何台だったようだ。ホテルには、自転車で市内を廻るスポットを載せたマップもあるようなので、観光で行く予定の方はぜひ試してみてみると興味深いと思う。




今年の<自転車天国>のスケジュールはここに載ってます。去年記事を書くときに見つけた素敵なブログ、"Ciudad en Bicicleta"は、世界中での町で自転車がどう受け入れられつつあるかの情報をスペイン語で提供してくれています。著者はメキシコのグァダラハラの人なので、やはりメキシコの情報が詳しいです。

Saturday, July 19, 2008

蒔かれた種

コスタリカで最後にやったセミナーの様子が、むこうの一流紙に取り上げられて、帰る前の日に手にすることができたので、みんなちょっとした達成感を味合うことが出来た。やってる最中は夢中であまり気がつかなかったけれど、かなりハードなスケジュールだったので、こうして形に残ると単純に嬉しい。写真はインタビューの様子。
サンホセのセミナーで、おそらく今度研修で日本に来る女の子が、「今日本から来て蒔かれた種を、私たちで育てていきたい」と締めくくっていたのが思い出される。ほんとうにそうなればいいと思うし、彼女はもうすでに行動をこしてもいるので、おそらくそうなるだろう。

以下訳文です。原文はこちら


        日本人が、障害者の自立を勧める

私たち障害者は、無益であったり、用をなさない存在ではない。かわいそうに思われたり、すべてなんでもしてもらわないといけないこともない。今やこうした考えは変える時だ。私たちも人間であり、自立してある権利がある。こうしたことを広く知ってもらう必要がある。

こうして、昨日、日本の大阪にある自立生活センター代表廉田俊二氏は、エレディアにあるリハビリ審議会で数十人のコスタリカ人障害者を鼓舞した。53歳の俊二氏は、生まれ故郷で屋根から落ちて以来、39年間車椅子で生活しており、現在は日本で、身体的精神的な障害があっても、家を出て、一人で生活し、危険や不安があっても、自分自身で判断しながら生きることを主張しながら運動を率いている。

こうした中には、重度の精神的な問題があったり、脊椎が損傷した人も含まれる。

「それが本当に生きることです。多少危険があっても、その危険や自分に責任のあることを人任せにしない」。こう語り、こうした運動は日本では30年前から始まっていると言う。

俊二氏は、(*)障害者を雇用しない企業からの罰金からなる補助金で運営される、自立生活センターが各地にできることを勧め、そこでは、障害者の手足となる人たちがいて、障害者は自分の取りたいもの触れたいもの、どこへ行きたいかなどの考えを実現することができる。

「こうした人たちは、手助けをするだけで、彼ら自身が決定をすることはありません」と語った。

「目差していることは、障害があろうとなかろうと、それぞれの人が、その人の人生の主人公になるということで、障害が、その人がよく生きたり、充足して生きたりするのの妨げになったりしたらいけないということです」。こう語る俊二氏は、日本国際協力機構(JICA)の招きで、今回コスタリカを訪れている。

「もしある人が、手がなく生まれてきても、それはその人がどんな靴下を選んだらいいかといった能力や権利がないことにはならないし、裸足でいたいのに何でも適当に履かされるのを我慢しなければならないということでもありません」、こうつけ加えた。

「家族が、障害を持ったメンバーを、実際はそうではなくても見捨てたようになるのが嫌なのはよく分かります。しかしそれは、彼らが家を出て、その人に相応しい生活をして幸せそうにするのを見ることでもあるのです」と語った。

「わかりやすい言い方をすればですね。私は自立して生きています。もしここに障害をなくす薬があったとしても、私は飲まないでしょう。私は幸せですし、私のしていることや、現在あるものを楽しんでいるからです」、こう主張した。

その日本人は、自立について語ることは、生き残ることについて語ることであり、尊厳を持って生きることでもあると強調した。「変化は障害者自身が起こさなければなりません。何かよくなるかもと待っていても何も変わりません。今すぐ行動を起こさなくてはいけないし、それを障害者自身がやらなければならないのです」。

1986年俊二は、大阪~東京間の600キロの道程を、車椅子で旅しながら、駅が彼らにとってより使いやすいものになるよう訴えて歩いた。

注記)(*)「障害者を雇用しない企業からの罰金からなる補助金で運営される、自立生活センター」この部分は、コスタリカの新聞記者の勘違い。事実ではありません。ちなみに、廉田俊二氏は現在47歳。年齢も間違ってますね。

Thursday, July 3, 2008

イングリッド・ベタンクールの解放

パンナムハイウェイを、パナマの方に向けて南下して行くと、山がちの風景が、徐々に平原に変わってきて植物の葉っぱも広いものになっていく。
もうそこは、中米ではなく南米なんだという感覚が肌で感じられるようになる。運転手のラリーは、パナマはコロンビアから独立したから、中米には入らないと言っている。中米+パナマと言うんだと。
たしかにもうそこにはコロンビアがあるという匂いがしている。

今朝はびっくりするニュースが入ってきた。6年間もコロンビアのゲリラFARCに幽閉されていた、元大統領候補イングリッド・ベタンクールが解放された。コロンビア軍が展開して解放にこぎ着けたようで、ウリベ大統領にしてはしてやったりだろう。この件に関しては、ずっとベネズエラのチャベス大統領と主導権争いがつづいていたから、チャベスにとっては大きな失点となった。メキシコのウニベルサルがこの観点で論じている。

Tuesday, June 17, 2008

A Costa Rica

では、ちょこっとコスタリカ&グァテマラへ行ってきます。コスタリカでは、ほとんどパナマ国境の町まで行く。まるで、どさ回りの一行みたいだ。

今読んでるガヤトリ・スピヴァクの『スピヴァク みずからを語る』から。

....でも私が見つけた対処の仕方は、これはけっして、みなには勧めません、コスモポリタンになるのではなく、多くの家を見つけるというものです。ある場所に入って、その場所に属するようになるわけです。ばかげた話があるんです。私は外国で道を聞かれるんです。ちょうど着いたばかりで、言語もわからないし、サリーを着ているのに。なぜでしょうか。私のなにかが、そこに住んでいるのを示すに違いありません。

Friday, June 6, 2008

『移動の技法』#13

ひとつの映像。窓際に佇むひとりの若い男。灰色のウールが弱い光に浮かんで背景に溶け込んでいる。そう、夜は明けたのだ。人々と車はふたたび動き出したのだ。(馴染みの両替屋が遠くに小さく見えている)。そして友はやはり来なかったのだ。そして彼はひとりでサンティアゴに帰るのだ。彼はなぜバッグを持って扉を開けて出ていかないのだろう。(ひとつの映像....)。あるいは、その木の椅子に腰かけないのだろう。それともベッドにうつぶせになってそれを愛撫しないのだろうか。(ひとつの....)姿勢。垂直の、。視線。なにも映さない、。可能なことは背後にあって彼には見えず、薄いガラス板の冷たさだけが現実を表現している。投影されたその映像。いちまいのガラス板。それが真空の空に変様するとき。部屋。ひとつの、。

Monday, May 26, 2008

流行歌

この記事を書いてから、ほんとに何年かぶりにアナ・ガブリエルのCDを出してきて、懐かしく聞いてみたり、Youtubeでライブを見たりしてると、たぶん彼女の一番有名な曲で、1989年のヒット曲"Quién como tú"で歌われているシチュエーションが昔から今ひとつよく理解できていなかったことを思い出し、週末ぐらいから再チャレンジしてみた。わたしと彼と彼女が出てくるのだけれど、彼だったはずの所が、彼だか彼女がよく分からなくなって頭が混乱する。
誤解の始まりは、女性が「あなた」と呼びかけているのは、別れた彼のことだとばかし思っていたのだけけれど、よくよく考えると、どうもそうではなく彼を奪った恋敵のことだったんだ、と長年の疑問が氷解した。だから、訳詞はこんな感じになります。



彼の枕の香水の匂いを、あんたはよく知ってるわね、
真っ白いシーツの湿り気も、
あんたは運がいいわ、彼を自分のものにできるんだから、
蜜の味がする彼の唇を感じてね、

あんたが、彼に愛の言葉を語るの見て、時間は止まってくれない、
私は外にいて、待つ人もいない、

あんたみたいな!毎日、毎日彼といる、
あんたみたいな!彼はあんたの腕の中で眠っている、
あんたみたいな!

あんたみたいな!毎夜、毎夜、彼の帰りを待っている、
あんたみたいな!優しく彼の熱を冷ましている、
あんたみたいな!

狂ったような夜を、あんたは味わっているのね、
彼の腕の中では時間を忘れてしまう、知ってるわよ、

あんたが、彼に愛の言葉を語るの見て、時間は止まってくれない、
私は外にいて、待つ人もいない、

あんたみたいな!毎日、毎日彼といる、
あんたみたいな!彼はあんたの腕の中で眠っている、
あんたみたいな!

あんたみたいな!毎夜、毎夜、彼の帰りを待っている、
あんたみたいな!優しく彼の熱を冷ましている、
あんたみたいな!


色々調べているうちに、この曲を作ったきっかけを語る彼女のインタビューを発見。

AG: "Quién como tú"を書いたときは、最悪だったの。人生で最も好きだった人が、他の人と結婚しちゃった。わたしは、結婚しないでって頼んだのだけど。だからこの曲はそのライバルに対して書いたの。

--いくつだった?

AG: 28くらいだったかしら....そのあとその人が戻ってきたとき、"Es demasiado tarde"を書いた("Es demasiado tarde"は「遅すぎるわよ」)。

90年の暮れだったか、メキシコシティからバスで北上して、やっとロサンジェルスに着いた。ダウンタウンのメキシコ人街のディスクショップで、「アナ・ガブリエルの新しいのある?」って聞いたときに店のセニョーラが教えてくれたのがこの曲"Es demasiado tarde"だった。彼女が初めて出したランチェーラの曲だったんじゃなかったかと思う。

Friday, May 23, 2008

『移動の技法』#12

宿は深夜になっても交通の音でわたしのよこたわっているベッドにもその振動が伝わってくるほどであった。わたしはどこにいるのだろう。わたしの宿だ。朝寝をするために8時にやってくる朝食を夜番の親爺に断って来たところだ。何十年も使われているようにみえる木の椅子が木目の床に置かれている。(スナップ)。わたしはどこにいるのだろう。わたしの宿だ。それをたしかめよう。冷たくなった窓硝子に頬を寄せてみよう。息でそれを曇らせてみよう。(そのなかをヘッドライトが流れてゆく)。友は来ないだろう。(裏切ったのはどちらだ?)ラジオからは流行歌。繰り返し繰り返す「(裏切りの主題)」。(恋にはつねに勝者と敗者がいる....)。運動と静止。いかにして「移動の技法」はそこなわれるのか。ホテル・ビクトリア1992年7月5日。

Wednesday, May 21, 2008

『移動の技法』#11

そうして陽もおちる。わたしはマリサにいとまを告げて彼女の家を後にしふたたびバスを捕まえ宿へと戻るのだった。(おそらくそれを《ただしく》示さねばなるまい!)。それは《いちまい》のガラス板であるが、それには、“Valparaiso”と行先が告げてあり、基本的にモノトーンの光と闇、揺れ、そして記憶で構成されている。記憶とは楽譜のようなもの。失われもすれば、ひょんなところからあらわれ、様々な仕方で演奏されるための。ビーニャ・デル・マルをこえてそのバスは光の岩礁となったその街へと突入する。速度が光の記憶と擦れる音がしている。「バルパライソは昼間は汚いけれど夜はとってもきれい」。若い女が耳もとで囁く。その寂しげな声にたまらずわたしはバスを飛び降りた。人気のない広場。船のない港。男たちがいない港。女たちがいない港。モートン・フェルドマンの乾いたエロティシズム。いかにして「移動の技法」はそこなわれるか。卵(*)。壊れた、。


(*)ドゥルーズ『シネマ2時間イメージ』にこんな一節があった。
.....われわれは身体を信じなくてはならないが、生の胚芽を信じるように、聖骸布やミイラの包帯の中に保存され、死滅せずに、舗石を突き破って出てくる種子を信じるように、それを信じなくてはならない。それはあるがままのこの世界において、生を証言するのである。われわれは一つの倫理あるいは信仰を必要とする。こんなことをいえば、馬鹿者たちは笑いだすだろう。それは他の何かではなく、この世界そのものを信じる必要であって、馬鹿者たちもやはりその世界の一部をなしているのだ。

『移動の技法』は、何か「信仰」のようなものを失っていく課程でもあったと思う。

Thursday, May 8, 2008

『移動の技法』#10

そのときカフェは心おきなく思考を爆裂させることのできる場所となる。なぜなら誰にもわたしは見えず、わたしはそこに流れている音楽にすぎず、たとえば街のどこででも聞こえる流行歌のワンフレーズであるからだ。そしてわたしはこっそり下宿をぬけだしカフェにおもむき、わたしの思考を誰も盗みはしないことを確認しているのだ。そこでわたしは宛名のない手紙を何通も書き、それが湿った曇り空の西風にふッと飛ばされていく様を目にしたりもするのだ。ウェイターは手を前に組んだまま何事もなかったかのようにそこに立っており、“camarero!” という声に反応してくるりと歩みを進ませるのだった。そのときだ。「どうしたの?これは、いったいどうしたことなの?」そんな女性の戸惑いの叫びを聞いたのは。しかし、音楽のように微かに響いてくるその声がどこから届いてきたのかと考えていると、それは、ジル・ドゥルーズロッセリーニの『ストロンボリ』について語ったくだりからだった。テーブルが砕けて、冷房の部屋から夏の光へと粒子となって飛びだしてゆく。ふせてある10個のグラスが融けて店主の声のあたりを、すッと流れ落ちてゆく、大理石の床がぐっしょり波立って、老人が三人りサーフしている。南洋の観葉植物には「取扱注意」のラベルが、、。、さあ、時間だ。(しかしいったい何の?)

Thursday, May 1, 2008

『移動の技法』#9

この部屋は静かすぎるので、すこし、ざわつかせてみよう、と考えた。いや、ざわついているのはむしろこの部屋だ。そう、ここはひとつのカフェで、みなが5時のお茶のために集まってきているのだった。ここはひとつのカフェであるからここはすべてのカフェであるのだ。そして無限のわたしがここにいるのである。(ヘンデルのバロック音楽がこのうえない心地よさを享受させている)。名もない女がわたしのまえにコーヒーを一杯はこんできたが、その女は《グロリア》と名づけられている。それはわたしの知っている《グロリア》と肌の色はおなじであったが、年恰好はまるで違ってまぎらわしいので、わたしはその女を《グロリアおばさん》と呼ぶことにした。グロリアおばさんがはこんでくるのは、コーヒーだけではなく日替わりの定食もはこんできていた。わたしは彼女を愛したが、わたしは《彼女》を愛したわけではない。わたしが愛したのは彼女の滑るように歩くその仕方であり、わたしが食べた後、「どうだった?」と訊ねたその口もとと目つきだった。そして、微かにしわがれたその声。、つまり、わたしは彼女を愛していたわけだ。ある日いつもするようにその声を聞きに行くとそこに居たのは若いウェイターで、わたしは二度と彼女のその声を聞くことはなかった。その瞬間から世界は崩壊しはじめた。マリアを捜しにわたしはその階段を上ってゆき、「マリアを捜しているのだが....」と言うと、そこにいた若い女は、「わたしがマリアよ」と言った。《注意》。千のマリアがわたしを待ち伏せにしている。1992年10月5日。サンティアゴ。バスはイタリア広場を回ってメルセに入る。公園の緑。ブローニュの森はこんな匂いがするのだろうかとわたしは考えている。

Wednesday, April 30, 2008

『移動の技法』#8


そして、当然のようにわたしはこの部屋でひとりでいるのだ。部屋がそこになんの感情も情緒も満たされぬとき、ひとつの窓があれば救いとなるだろうか。天空がフレーミングされ、それは記憶へと変容する。(血を引き裂く夕映え!)。カルメンは、大通り沿いの部屋でテレヴィを観ている。わたしは通りと反対側の個室。冷たくなった乳白色の壁。その冷たさを感じるためにそれを愛撫している。頬、そして掌。感じる、冷たさ。もうひとつの姿勢。アラン・ドロンモニカ・ヴィッティ<の>冷たい熱情。天空。壁。世界。愛。

Tuesday, April 29, 2008

『移動の技法』#7

そしてまた曲線の主題。夕刻、西日射す頃その緑色のバスはアラメダを右折してマルコレタへ入りビクーニャマッケンナへ向かうカーブをゆっくり曲がる。バスの小窓からフッと風が流れて「移動の技法」がやって来た。至福なる時間。しかしながら起こったことはこれだけ。つけ足すことも差し引くこともなにもない。それをわたしは「移動の技法」と名づけた。サンティアゴ。

整理しておこう。夕刻。バスの曲線運動。思いがけない微風。(ローレン・ハットンの髪がフワリと靡いている)。そして、客席に漂う通奏低音のような疲労。天駈ける旋律を奏でているのは誰なのだろう。(誰なのだろう)。隣のバスクセンターでは、名も知らぬ球技に男たちが興じる音がつづいている。血を引き裂く夕映え!サンティアゴ。ビクーニャマッケンナ765番地。

Monday, April 28, 2008

『移動の技法』#6

目を開けても閉じてもその暗闇はかわりはしない。音楽も鳴らぬなら不眠の夜は記憶の映像が封印された霊廟を破って生きたひとさながら耳もとで様々な言葉、言葉にならぬ言葉を囁いていくことだろう。階下のいまは使われていない海岸側の食堂で、ひとり老人が古風な背広姿で立ってこちらを見ていたのはその日の昼のこと。薄い窓からの光に老人は影となっている。「セニョール?。ここは....シニョーレ?」。無言。そして、フェードアウト。(コノデンワハバンゴウガカワッテオリマス)そのコンピュータライズされた音声によって街は崩壊しはじめる。ノン(否)。壊れたのはわたしの記憶だけ。街はキリル文様に変形するだろう。「いいですか。あなたの頭が壊れたのじゃなくって、グランドキャニオンにひびが入ったと思ってごらんなさい(*)」と彼女は言った。彼女とは誰のことだったのか。街の鍵は誰が握っているのか。ベルナルドはそれを放棄した。教皇に糞を投げてやった。老人の影が立っている。彼はどこに行きそびれたのか。そばでテーブルを囲んでいたひとたちはどこへ行ってしまったのか。わたしもそのなかのひとりであったのだろうか。わたしもひとつの影であるのであろうか。マリサに会わなければ、でなければわたしは壊れてしまう。バスはキルプェに向かった。ジョン・セカダのヒット曲ががんがん鳴っている。陽光のもとそれはカーブを回る。(、、、、、、)!

(*)“Listen! The world only exists in your eyes -- your conception of it. You can make it as big or as small as you want to. And you’re trying to be a little puny individual. By God, if I ever cracked, I’d try to make the world crack with me. Listen! The world only exists through your apprehension of it, and so it’s much better to say that it’s not you that’s cracked -- it’s the Grand Canyon.”

“Baby, et up all her Spinoza?”

“I don’t know anything about Spinoza. I know -- “ She spoke, then, of old woes of her own, that seemed, in telling, to have been more dolorous than mine, and how she had met them, overridden them, beaten them.
F. Scott Fitzgerald "The Crack-Up"

Saturday, April 26, 2008

『移動の技法』#5

眠れぬ夜にロンドが舞っている。目を開いても閉じてもその暗闇はかわりはしない。かつて修道院だったとも言われるその宿の夜の静けさ。(「旅に出ると記憶に押しつぶされそうになる」)、いつか旅行者の友人がわたしに呟くように語った。ロンドの速度が増し、舞踏病の姉さんが階上で惚けたように爪先を交錯させるのが見えるようだ。姉さん。そして夜の静けさが破け、天上が破け、姉さんが降ってきた!姉さん、。白い花嫁。1992年12月24日。ウルグアイ69

Thursday, April 24, 2008

『移動の技法』#4

褐色のマリア。その皺の入った年老いた顔。それは何年経っても年老いたままだった。わたしは日毎に老いていく。わたしの青年期と老年期。メキシコ・シティ。たとえば、ホセ=アントニオ。トーニョ。一枚の写真のなかで彼はアロハシャツを着て右手にナイフ左手にバナナを握りベッドに腰かけている。目は笑ってない。そしてわたしの部屋のまえに座り込んで言う。「疲れきっている」。精神的にも経済的にも破綻をきたしている、どうかもっと安い宿を探しにゆくのにつき合ってはくれまいか。そしてわたしたちはセントロ中その安い宿とやらを探しに潜ったり上ったり半日を費やしたわけだ。(インディオの群につぶされそうなひとりの白人とひとりの東洋人。チューブ。管。)疲労はわたしにも伝染しており、ホテルにはあと半ブロック。帰る寸前、にやりと笑って彼はわたしに言うだろう。「と、いうわけで結局ここにとどまることにした」。わたしの部屋の洗面台には洗いかけの衣類が残っている。そんな一日もある。メキシコ・シティ。(そうしたあいだにも老マリアは、モップで廊下を拭っている)。老化と疲労。活力はけっして伝わらないと言ったのはフィッツジェラルド(*)だった。メキシコ、翼ある蛇

(*)I felt a certain reaction to what she said, but I am a slow-thinking man, and it occurred to me simultaneously that of all natural forces, vitality is the incommunicable one. In days when juice came into one as an article without duty, one tried to distribute it -- but always without success; to further mix metaphors, vitality never “takes.” You have it or you haven’t it, like health or brown eyes or honor or a baritone voice.
F. Scott Fitzgerald "The Crack-Up"

Wednesday, April 23, 2008

『移動の技法』#3

国境を越える、このことが現実味を帯びて感じられていたのはいつの頃だっただろう。メディアが報道していたウェットバックが当たり前のようにして眼下の川を渡っていく。わたしはポケットに一杯になったペニーを数えて通行料を払う。落としたペニーは拾ってはいけない。それなら食べてしまおう。(口腔。暗闇に輝く金属。チリン、と音がする。)「あれは?」教会の鐘の音?「ウルグアイ69」。何度この番地を口にしたことか。D・H・ロレンスホテル(*)。すぐうしろには、巨大な古い教会があって、その筒型の屋根がうずくまっている動物の背のように盛りあがり、円屋根はふくらんだ泡のようで、黄色や青や白のタイルをのせて、きつく青い天空にきらめいている。長いスカートをつけたインディアンの女たちが、せんたく物をかけたり、石の上にひろげたりしながら、しずかに屋根の上で動いている。動いている。うごいて、いる。「何時だい?」。マリアがモップで廊下を拭きながらわたしの部屋に来てそう訊ねるときそれはいつも夕方の5時だった。夕方の5時になるとマリアはわたしの部屋のまえで立ちどまり、モップで廊下を拭う手を休め、スッと腰をのばし軽く息をして、「何時だい?」と訊ねる。それは、夕方5時だった。かくしてリオ・グランデ川を渡る。エル・パソ

(*)Postcard from D.H. Lawrence, Hotel Monte Carlo, Avenue Uruguay 69, Mexico City to Mary Cannan; 12 Apr. 1923.

He likes Mexico better the longer he stays and is tomorrow going to Puebla, then to Tehuacan and Orizaba; may take a house here; he is 'getting tired of travel' but when he tries to come to England something in him 'resists always'; refers to the picture on the verso, 'the third young man is a young Amer. friend [Willard Johnson] - the others the two Mexican chauffeurs'; asks if she is 'sitting good and still'; signed 'D.H.L.'

The card is addressed to 'Mary Cannan, 42 Queens Gardens, Hyd[e Park], L[ondo]n; it bears a red 1.5d stamp and a brown 10 centavos stamp and is postmarked 'Mexico D.F. 12 ABR 1923'; the verso of the postcard is a photograph of Frieda Lawrence, D.H. Lawrence, Willard Johnson and 2 Mexican Chauffeurs.

Thursday, January 10, 2008

Rock Diabólico (Zacatecas 3)

夜、ふたたび街へ出て、ぶらつきながら写真を撮り歩く。まるでライトアップされたかのような灯りだけれど、ここではこれが普通。とてもきれいだ。そしてそんなときどこかから太鼓を鳴らすような音が聞こえてきて、近づいてくる。それと一緒に波になったような人の群れも。先住民時代の民族衣装に身を包んだ一団が、マリア様の像を御輿のように担いで行進している。
そうだ。死者の日の前日にあたり、皆はミサのために教会へ向かっているのだった。思わず、ビデオを撮りだして追っかけながら撮影する。そして、そうしながらこの音楽はどこかで聴いたことがあると感じる。
それは、ここへ来るまでバスの中でずっと聴いていたカフェ・タクーバだった。「異教の音楽」という言葉が浮かび、カフェ・タクーバはまさにロックというキリスト教を、メキシコ化しているバンドなのだと思った。彼らがデビュー以来ずっと人気を保ち、もっともメキシコらしいバンドである由縁である。

Saturday, January 5, 2008

Capricornio (Zacatecas2)

あけましておめでとうございます。今年最初のブログです。
それにしても、年末から今年にかけての展開は、速すぎて、あるいはちょっと現実的でさえないほどにも思えるものだった。星の運行というものがあって、それは全然関係ない周期を回っていても、ある日突然そのリズムを合わせたりする。出会いたい人にはどんなにがんばってもまったく会えないのに、出会う人にはほんとに簡単に出会ってしまう。人智を超えたまるで神のような力が働いているようにしか思えない時もある。そうした運行を美しい音楽のように表現するのがアートでもある。

そして?だから"Capricornioか。

サカテカスの宿に朝早く着いて、少し眠った。アメリカの時差を横断し、国境を越えたりし、正確な時間がわからなくなってしまっていたが、昼少し前に起き出して町へ出る。バスターミナルではドルで支払ったから、初めての両替などする。迷路のように入り組んだ町を、さっき通った道をまた通ったりしながら、ぶらぶら。
お腹がすいてきたので、ホテルと同じ通りを少し北へ行った庶民的だが小奇麗なレストランで昼食。サカテカス風のエンチラーダを食べる。おいしくいただいて、食後にコーヒーを頼むと、マグカップにぼくの星座である山羊座のカップで出てきた。まさかぼくの星座を知っている訳じゃないだろうけど、メキシコ最初のレストランで何か縁起のいいものを感じた。

その昔、チリのサンチャゴで勉強しているとき、大学へ行く前、朝ご飯を食べ、シャワーを浴びて着替える頃にちょうど朝のトークショーで今日の運勢をやる。「山羊座〜〜....」とその日の運勢を教えてくれるのだけれど、まだよくわからないスペイン語が多い中、この箇所は不思議とよく理解できた。星占いで言われる内容はどこでも大抵似たようなことだったからだと思う。さっき検索して見つけたこのページによると、今年の山羊座はまぁいいようだ。一人でいる人には情熱的なロマンスが待っているそうだから期待しておこう(笑

Monday, December 31, 2007

Zacatecas

昨日は半日、今日は、思わぬ休みで大掃除ができた。部屋をきれいにしてやまとの湯へ浸かりに行く。ららぽーとへ忘れていた買い物に行って、年越しの準備完了。世間では明日から正月と言うことなんだろうけれど、われわれはいつもどおり仕事。ぼくはどちらかというと年末家のことをやりたい性分だからそれができたら正月はどちらでもいい感じ。

で、いつものように旅行記のつづき。

サカテカスへは、今回を含め、3回行っている。最初は87年の秋。2回目は90年の終わり頃。そして今回。行く毎にまるで違う町へ訪れたようで、不思議な気分になった。最初のときはエル・パソのユースで知り合ったイギリス人、ジムという青年とだった。今回と同じようにエル・パソからバスに乗り朝早く着いた。ローカルバスに乗ってセントロへ向かうと、朝霧の中をコロニアル風の建物が石畳の道路から立ち上がって、信じられないくらいチャーミングに見えた。ぼくは当然気に入ったのだけれど、同行のジムは「こんなチープな町はいやだ」と言いだし、ぼくも初めてのメキシコで一人で旅行するには不安もあったので、しかたなくそのまま彼の言うとおり、メキシコシティ行きのバスに乗って、数時間の滞在でこの町を去った。
2回目は、大学時代の友人が、ぼくがメキシコシティの大学でスペイン語を学んでいるときに訪ねてきて、彼と一緒にロサンジェルスまでバスで行く途中に寄ったのだった。その時は偶然、ゼネストか何かそんなときに巡り合わせて、町は所々封鎖されているし、車も人もほとんど見かけなかった。町は誇りっぽく、廃墟のように見えた。
そして今回。メキシコ自体が以前より、景気もよくなっているのだろうけれど、活気があって人も多く。これまでで一番居心地がいいと思った。

やはり今回も、朝早く着いた。
バスの運転手が「サカテカス」というので、降りたのはいいのだけれど、どうも前に来たときとは雰囲気が違う。間違えた?と思うが、売店に置いてある新聞がサカテカスなんとかという名前だったので、気のせいかと思い直す。
外へ出て、ガイドブックでチェックしたホテルへ行こうと、客引きをしているタクシーの運転手に告げると
、それはサカテカスだよ、ものすごく遠いからバスに乗った方がいいと言う。「でも運転手はサカテカスって言ったよ?」というと、「たしかにサカテカス県ではあるけど..」だと。

そこらでぶらぶらしている若い衆が、チップ欲しさにローカルバスの乗り場に案内してくれた。
まだ夜は明けていない。バスに乗り込むと、大学生くらいの女の子たちがたくさん乗り込んできて、空いているぼくの横へも座った。いったい何時に起きたんだろう?きれいに化粧や身支度もしていて、窓もきっちり閉まらないぼろバスとのギャップが激しかった。

小一時間で、サカテカスのセントロに着いた。後で調べてみると、サカテカスにはセントロに近い新しいターミナルと、この郊外のターミナルと二つあるらしかった。荷物を担いで、さらに町の中心をめざす。時間は通勤時間になっていて、学校へ行く学生や、職場に向かう車で道はごった帰している。安い宿へ泊まるつもりだったが、まだ一晩バスに揺られて到着すると、弱気の虫が顔を出して、まぁいいかともう少しましなところを捜す。

メルカードに近い宿へチェックイン。カードが使える宿に泊まったのはメキシコではたぶん初めてだった。部屋は小ぎれいで、やはりここでよかったと思う。熱いシャワーを浴びようと思い蛇口をひねってしばらく待ってみるが、なかなか出ない。しかたなく生ぬるいお湯で、暗いバスの中でカバンの中が、こぼしたコーラでびちゃびちゃになっていたので、洗濯する。しばらく洗濯していても、いっこうにお湯が熱くなりそうもないので風呂は諦める。サカテカスはかなりの高度で、朝はもの凄く冷える。さすがに水を浴びる気にはならなかった。

諦めてテレビにスペイン語版のCNNを流したまま、毛布を重ねたベッドに潜り込んで、一眠りする。

Saturday, December 22, 2007

SINO

サカテカスまでのバスの隣は、モレーノの大男だった。セラーヤに行くと言い、ぼくはサカテカスだと応えたが、交わした会話はほとんどそれくらいだった。なんとなく話しにくい空気があって、窓側の彼の向こうの風景を見るともなく見ていた。「メキシコに住むものは皆、ひと事に余計な口出しをしない術を身につけているようだった...」というバロウズの小説の一節をふと思い出した。
 乾いた草原にサボテンが点々として、奇妙な形の山の間をバスは走り抜けていく。することもないので、iPodを取り出して、出発直前にダウンロードして入れてきたカフェ・タクーバの新譜SINOを聴く。この旅の中で何回かトライしたけれど、微妙にちがうという感覚があってすぐにやめていた。カフェ・タクーバの前作はもう4〜5年前で、その間に90年代が頂点だったスペイン語ロックのブームも冷めてきていて、日本にいてカフェ・タクーバというバンドも少し遠い存在になりつつあった。国境を越えてどうだろう?少しは作用するだろうか?麻薬を試すように流してみた新作は、とても新鮮だった。
 カフェ・タクーバのメンバーとぼくとはほぼ同年代で、聴いて育った音楽のバックボーンも似ている。そして、ぼくとメキシコとの関わりはほとんどカフェ・タクーバの活動している時期と重なっている。だから今度のカフェ・タクーバのSINOというアルバムで、彼らが自分たち自身の活動や人生を振り返った曲をいくつも入れているのを、あらためてじっくり聴いていると、まるでぼくが自分の人生を振り返っているように歌詞が染み渡るように聞こえてきた。それはたぶん若いときには絶対恥ずかしくて書けなかったような直接的なもので、そうしたものを隠すことなく歌えることが人生と経験を重ねてきたことなんだろうと思った。それはこの旅でぼくが一貫して感じつづけた落ち着いた感情とどこか繋がっているように思った。
 深夜になって皆が眠って静かになっても運転手が流すメキシカン・バラードが鳴りつづけていた。一番前の席の女性が、おそらく音を落としてくれと言ったんだろうと思うが、運転手は「何だって?音を上げろって?」と言った。ほとんど嫌がらせに近い。
5時だか6時だか、まだ夜が明けない頃、バスはターミナルに到着して運転手は「サカテカス」と言った。