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Sunday, February 7, 2010

シルビアさん


一昨日金曜日、コスタリカより美しい女性の来客があったので、もともと休みの日だったのだけれど事務所まで出かけていった。
シルビアさんはJICAのコスタリカ事務所で働いている現地職員で、ぼくたちが毎年受け入れている研修生たちを募集して、送り出すまでを担当している。障害当事者である研修生たちは、はじめて飛行機に乗ったり海外に出るのも初めての人も多かったりするのでパスポートのとり方から教えたりしていると言っていた。ぼくらが初めてシルビアさんに会ったのは、一昨年6月にその秋から始まる中米研修の下見のためにコスタリカを訪れたとき、初日の打ち合わせでだったが、ぼくらがおもに活動しているのは彼女のいる首都サンホセではなく地方の町でが多いので、それ以後は、そんなにしょっちゅう顔を合わせているわけじゃなく、セミナーがあったときに挨拶を交わしたりする程度だった。彼女がぼくらにとってとくに印象深いのは、コスタリカ人の現地職員であるのに、かなりちゃんとした日本語が話せるからだった。

それもそのはずで、彼女は9歳から15歳にまるまで、お父さんが大学に留学していたので家族で長崎に住んでいたことがあったからだそうで、今年30歳になる彼女は忘れていたらしいのだけれど、JICAで働き出したのを機にだんだん思い出してきたと言っていた。
その間、一家の中ではスペイン語は禁止だったらしく、コスタリカ人の両親と彼女と彼女の弟で日本語で会話している様子を想像すると、なんだかおかしくて笑えてきた。

シルビアさんは今週から始まる2週間の研修に参加するために来日したのだけれど、せっかくだからとその前に一週間前倒しで来ていくつか訪問したかったところを回っている。研修生を送り出す役目なのに、実際に研修所がどんなところか知らないので、それを知っておきたかったと東京と大阪の研修所を回り、そのついでにぼくらの事務所にも立ち寄ってくれた。「ここに来るのが夢だった」なんていう嬉しい言葉も言ってくれていた。午前中ときいていた訪問も、お昼ご飯を食べて、気がついたら午後3時を回っていて、ようやくかつてお世話になった人たちの待つ九州へ去っていった。今年の研修は夏になりそうで、3月か4月くらいにはテレビ回線を使った選考が始まるので、そのときまた顔を見ることができるだろう。

Monday, November 9, 2009

Costa Rica (2)

サンホセでの1日目は、こちらのリハビリ審議会での意見交換会。期せずして、ここの事務局長とまるで行政交渉のようになった。臆せず対等に話すのを見て、ウェンディ、アイーダらの成長が著しいのが一見してわかりちょっと感動ものだった。こうしたときこの仕事がやめられないと心の底から思う。
その後の三日間は、ここHotel Heradurradでの国際セミナー。初日の歓迎パーティでは昨年グァテマラに行って行ったセミナーに来てくれたチョー小さい女の人や、見学させてもらったリハビリ病院の院長先生に再会。こちらを覚えてくれていたのがとても嬉しかった。パナマ、ドミニカ共和国、ペルー、エルサルバドルから招かれてきた当事者たちはみんなとてもエネルギッシュで明るくいつも笑っていて、いつもはパーティといっても何を話していいのか分からなくて居心地の悪い思いもするのだけれど、この夜はほんとに楽しかった。
セミナーの初日は、畑くんの話、2日目の分科会では自立生活センターの介助派遣についてぼくと畑くんと松島くんで話した。金曜の最終日は朝から代表が全体会議で自立生活運動について話した。
自立生活運動に関しては、とてもみんな関心を持ってくれていると強く感じた。パナマから来た当事者もぜひパナマでも展開したいと言ってくれていた。閉会式がそれを象徴していて、専門家集団がCBRを発展させる目的でつづいてきたこのプロジェクトにもはや彼らの姿は後ろに隠れて、まるで当事者たちの決起集会のようになっていた。

昨日今日はここサンホセのホテルでゆっくりしている。明日からまた地方の町を回って来週またここへ戻ってくる予定。

Tuesday, November 3, 2009

Costa Rica (1)


オハンチャ、サンタクルースのセミナーを終えて、昨日首都サンホセに戻って来ました。
昨日は、移動だけだったのでやっとゆっくりできて、時差ぼけもほぼ解消した感じ。オハンチャは6月に研修に来たウェンディと介助者のカレンの故郷。少し南に車を走らせると海岸に出る暖かい町だ。人口は1万に満たない。
エアコンのない会場は暑く、声も通らないのでこちらの集中力はどんどん落ちて行く。なんとかこなして、ウェンディの家で一服。急な依頼で夜はカレンの高校でぼくと松島くんとが、介助者の仕事について話す。最高に疲れたけれど、同じくらいの達成感があった。
翌日は、近くのサンタクルースという町で、当事者だけのセミナー。バスでオハンチャから道すがら障害者の人たちを拾いながら行ってだんだん増えて賑やかになっていくのが楽しい。
ニコヤという町で一泊。夕食を食べて、夜遅くまでペレスセレドンから来てずっとぼくらと同行しているアイーダ、ジゼルと話す。けっこう深い活動の話になって時間を忘れるくらいだった。

昨日の日曜日、日中の移動でコスタリカの豊かな自然を堪能しながらサンホセまで。もうすっかり忘れていたような生命力のようなものが自分のなかで呼び覚まされていくのを感じる。

Sunday, September 27, 2009

『介助現場の社会学』

長くうちの自立生活センターで、介助の仕事をしていて、この春から神戸学院大学で教鞭をとっている前田くんが本を出しました。『介助現場の社会学』というタイトルから想像できるように、前田くんが実際に介助の仕事から得た様々な体験がもとになっています。昨年出版された山下幸子さんが、青い芝の時代の介助者グループ「ゴリラ」について書いた『健常であることを見つめる』もそうだけれど、立岩さんが95年に書いた『生の技法』に影響を受けた研究者たちの研究の成果が、そろそろ形になり始めたのかなとも思う。
アマゾンにはまだあがってませんが、10月発売とあります。ぼくはこの週末の障害学学会で一足先に手に入れてきました。とりいそぎお知らせと宣伝。ゆっくり読んでまた感想など。BK1はこちら

Friday, August 14, 2009

中米のともだち #7


前の記事に書いたとおりニカラグアに行ってきました。

 JICA大阪が企画、うちの事務所が実施して去年からやっている、中米のコスタリカ、ホンジュラス、グァテマラ、ホンジュラス4カ国の障害当事者を日本に招いて、ゆくゆくは障害者自身が運営して自立支援や介助サービスを提供する自立生活センターを各国で作ってもらおうという研修コースのフォローのためだ。

 コスタリカ、グァテマラは去年すでに事前調査に行っているので、残りのニカラグアとホンジュラスも調査しようというのが、もともとの計画だったのだけれど、未だに解決しないホンジュラス国内の混乱のため、訪問をニカラグアだけにして、そのかわり去年と今年の研修生を全員ニカラグアに招待しようということになった。ニカラグアの去年の研修生サンドラがすでに、ニカラグア最初の自立生活センターを立ち上げたので、そこへ皆を招いて、お祝いして、さらに刺激を受けてもらおうという意図もあっただろう。

ぼくたち日本からのメンバーの一週間の滞在の真ん中3日間が、自立生活センター立ち上げに合わせてのセミナーになっており、研修生たちもそれに合わせて招かれていた。事前にグァテマラの今年の研修生の1人が仕事のため欠席であることが知らされており、直前去年の研修生の1人がお母さんの病気のため急遽来られなくなった。2人の欠席のため研修生12名+介助者2名、来られなくなったグァテマラのホセマリアの介助をする予定だった18歳の青年もやってきていたので、合計15名の大所帯だった。ぼくは、今年の研修生と別れて間もないので、どこかこのグループの一員であるような気がまだしているのが自分でおかしかった。今年のグループはたいへんだったけれど、それだけ関わりも深かったんだと思った。なるたけ色んな人と話をしたかったのだけれど、誰かと話していると誰かと話せないわけで、楽しい再会もかなりフラストレーションが溜まるものになってしまった。

研修の3日間は、自立生活運動についてと、実際の交渉のやり方。3日目は介助者についてで、演習はぼくが担当してやった。夜は夜で、研修生たちが作業が今どれくらいまで進んでいるかをインタビューして、研修生たちからの相談にものったりで毎夜遅くまで話し込んでいたので、なかなかハードなスケジュールだったと思う。

セミナーの他には、去年と今年の研修生が所属する団体の事務所を訪ねたり、障害者の家庭や施設の訪問。最終日には地方の町に行って障害者の雇用に熱心な日本とメキシコの合弁会社の工場を訪ねたり、サンドラの団体の地方支部を訪問したりした。マナグアはどこが中心か分からない、お世辞にも美しいとは言えない町だったけれど、一歩マナグアをでるとニカラグアは美しい。ゆっくり旅するときっと虜になる素敵な国だと思った。

自立生活センター立ち上げという「名目」で一連の行事は行われているのだけれど、じつはこの自立生活センターには、ちょっとなんちゃってなところがあって、サンドラの団体自身が、女性障害者の団体として始まっていることやポリオや片足切断など比較的軽度な障害者の団体であることで、どこまでぼくらが求める重度障害者のニーズやサポートが考えられているのだろうか、ぼくら自身やや疑問に思っている部分もある。開所式に行って事務所がスロープになっていなかったのが何より印象が悪かった。

しかしながら、実際に介助派遣用に、イギリスのNGOと政府から予算を取っていて、制度とはなっていないから、期間限定で介助派遣も行われることになる。こうしたことを僅か半年でやってしまったサンドラのエネルギーと政治力も侮れなく、最後空港でまた涙を見せている彼女と別れるとき、結局彼女が誰よりも情に篤いのだとも感じて帰った。

3日目のセミナーが終わって、最後に研修生全員と集まっているとき、iPhoneを持ち歩いていつでもメールチェックできるぼくのところにグァテマラのJICAの担当者からメールが来て、病気だったホセマリアのお母さんが亡くなったと知らされた。みんなが集まっているこんな時にタイミングがよすぎるなぁと思いつつ、彼と仲のいいホンジュラスの研修生に知らせた。この集まりが終わる頃には、みんなで彼を励ます言葉を書いて寸志を贈ることに纏まっていた。それまでぜんぜん見ず知らずだった人たちが、こうして集まって、もうみんな家族のようになっているから、その家族に不幸があってももうそれを自分の家族に起こったことのように感じている。そうした当たり前のことを感じた。

Friday, July 31, 2009

中米のともだち #6

研修生たちが帰って、考えるとまだひと月もたってないのに、彼らがいるときと今の日常とがあまりに差違がありすぎるので、なんだかずっと昔の話か、あるいはもともとなかったことのようにすら思えたりする。

彼らが帰る間際、6月の28日にホンジュラスでクーデターがあり、研修できていたメンバーのうち2人の女の子がホンジュラスから来ていることもあり、夜ネットで知った事態を朝事務所で伝えると、そのひとりのお父さんが警察で働いていることもあってずいぶんと心配していた。ちょうど彼女らが帰国するとき、クーデターで隣国コスタリカに追い出された前大統領セラヤが、飛行機で強行帰国しようとしたところ、クーデター派が軍隊を使って閉鎖。彼女らは一晩マイアミで足止めを食らう羽目になった。

以来、コスタリカのアリアス大統領が仲介して、話し合いで決着を付けようとしてはいるのだが、なかなか両者が譲り合うことなく現在まで膠着状態がつづいている。今日入ったニュースでは前大統領支持派と軍隊が衝突して、けが人と逮捕者が出ている。

そういうわけで、本当だったらすでに今頃はホンジュラスとニカラグアへ調査へ行っていたはずだったのだけれど、こちらの予定も変わり、一週間遅れで明日からニカラグアだけの調査とセミナーに行ってくる。そのかわりじゃないけれど、去年と、先日お別れしたばかりの今年の研修生たちが、マナグアに集合することになった。ホンジュラスで待っていた研修生たちには可愛そうだけれど、またみんなと会えるのが嬉しい。

今回は、iPhone持参で行くので、Twitterをチェックしてもらえれば、Wifiを拾えるところで、むこうの様子も伝えられると思う。Twitterfonでは、ビデオもアップできるようになったしね。
http://twitter.com/tksh21

Wednesday, June 17, 2009

中米のともだち #4

先週の月曜から一週間、東京での研修を終えて、今週からやっと西宮へ帰っての本番。今年は西宮に帰ってくるまで3週間もあって、ここまでに結構疲弊した。体調を崩す人が多かったり、メンバー間のコミュニケーションがうまくいかないのでその仲介をしたりで、予想外の労力がかかった。たいへんだけど、それだけ「関わっている感」も高く、やりがいも感じている。
西宮に帰ると、こちらのスタッフががっつり関わってくれるので、やっとホッとして一休み。
写真は1986年設立、日本で初めての自立生活センターヒューマンケア協会での中西正司さんの講義。グァテマラから来たロレーナの食いつきぶりが見ていて面白かった。

Friday, June 5, 2009

中米のともだち #3

2週目に入った今週、研修生たちは、午前と午後一日使って、日本語の勉強をしている。去年の研修生たちがあまりにも日本のことを知らないということが反省として残ったので、今年から加わったプログラムの一つだ。名前と出身を話す自己紹介や店に入って困らないように料理を覚えたりしている。もちろん、一週間でちゃんと話せるようになんかはならないので、どれだけ効果が期待できるかは分からないけれど、少しずつ片言のことでも毎日口にしているのが見ていて可愛らしい。
今は授業中だ。昼間の宿泊棟は誰もいなくて静か。昨日、カレンが甲状腺を腫らしていたので、同行して千里中央のクリニックまで行ってきて、さっきまたロレーナが熱があると言うと、発熱外来まで連れて行かれた。インフルエンザじゃないかと、ちょっとした騒ぎになって、部屋を変えたりしてばたばたしている。少し休息できるはずだった、今週の日中が何か慌ただしいまま週末になってしまった。

今日は授業が終わったら、キッチンルームを借りているので、みんなで国の料理を作ることになっている。ロレーナが来れなかったらちょっとかわいそうだけど。

Thursday, June 4, 2009

中米のともだち #2

JICA大阪宿泊10日目。毎日があっという間に過ぎていくので、数えて10日も経っているのでびっくりする。昨日は、同僚と交代で日中少し西宮に帰って気分転換。帰りにデパ地下で、葛まんじゅうを買って帰って、研修生たちと一緒に食べる。なんとなく「帰ってきた」という感覚でいる自分に気づいておかしい。

今年のグループは去年のグループほど纏まりがない。けれど、それはでもいいこと何じゃないかって思っている。何かを作っているというプロセスが、毎日目の前で繰り広げられていて、これはどこかのリアリティーショーじゃないのかと錯覚するほどだ。今日は先ほどまで、この建物にいかにバリアーが多いかを、所長に訴えに行く相談をみんなでしていた。話は脱線して、様々な方面へ流れていくのだけれど、それのひとつひとつがお互いを知る手がかりになっているのだろうと思う。

写真は、先週土曜日海遊館へみんなで出掛けたところ。どこを歩いていても、カルガモの親子みたいに見える。

Friday, May 29, 2009

中米のともだち #1

たぶん自宅以外の出先かブログを書くという初めての経験だと思う。
中米4カ国からの障害当事者を研修生として迎えて、中米での自立生活運動の促進をすすめるJICAのプログラムで、今週の月曜日から大阪吹田の万博公園の近くにある大阪国際交流センターに宿泊中。
今年は3年の予定の2年目。昨年と同じように、コスタリカ・グァテマラ・ホンジュラス・ニカラグアの4カ国から7人の研修生が来ている。研修生と同じ部屋で寝起きを共にして、ここと東京と西宮での研修でのサポートをする生活が約一月つづく。なかなかヘビーだけれど、とてつもない喜びも感じることも出来る希有な仕事だ。まだ5日目が終わったところだけれど、もうすでにかなりの喜びを感じながら毎日暮らしている。

写真は昨日、雨にもかかわらず梅田まで出掛けた様子。ほぼ全員電車は初めての図。

Friday, March 27, 2009

再会

もともとは、今あちこちで話題の、Pokenを注文したところから始まる。Pokenというのは、キーホルダーに付けるようなマスコットで、マスコット同士の手と手とを合わせると、お互いのEmailアドレスや、ブログのURLなんかが、交換できるようになっている。「電子名刺」みたいな感じで売り出されている。もともとスイスの会社が発売したらしく、ヨーロッパではもうすでにかなり広まっているようで、ようやく日本でも発売になった。プロモーションもかねて、あちこちでPokenオフ会や、パーティなんかも開かれている。

で、TwitterやFacebookのIDもそこに登録できるので、すでに登録しているTwitterに、せっかくだからFacebookもやっておこうと思った。今はぼくはもうほとんど書くことはなくなっちゃったけれど、90年代半ばから、2001年くらいまでは、ずっとプエルトリコのサルサをフォローしていて、ずいぶん雑誌に記事も書いた。
最初に、記事にしたクト・ソトというプロデューサーが、彼の知ってるミュージシャンを紹介してくれて、スタジオ・ミュージシャンにはかなりの知り合いが増えた。ぼくが記事を書き始めた頃というのは、ちょうど、Windows95が出た頃で、本格的に世の中がインターネットというものを使い出したときだった。
クトは、昔気質のミュージシャンで、そうしたツールとは無縁で、現在でもそうだけれど、「ぼくのコンピュータで調べる」なんて言いながら、電話の向こうで手帳を広げて、ぼくがコンタクトを取りたい音楽家の連絡先を教えてくれていた。

そうした中に、すぐにコンピュータを、連絡を取るためや、もちろん作曲やアレンジにも使い出したのが、ヒルベルト・サンタ・ロサやビクトル・マヌエルのプロデューサーをしている、ラモン・サンチェスやホセ・ルーゴという、当時はまだクトのもとでアレンジを頼まれていた人たちがいた。90年代のサルサはほぼ、この人たちが作っていたというくらいの活躍だった。

彼らは色んな話をしてくれたし、ぼくはそれで色んな記事を書いた。
が、サルサからレゲトンへという流行の移り変わりは、顕著だったし、ぼくの関心も自然にそちらの方へ行って、本業の方で手一杯になってだんだん、雑誌に記事を書くこともやめてしまった。

Facebookに登録する途中で、コンピュータの中にあるメールアドレスをFacebookが勝手に調べたら、プエルトリコのミュージシャンたちがみんなFacebookに入っていて、そこで繋がって色々、情報交換や仕事を見つけたりしているのがわかった。ホセ・ルーゴ、ラモン・サンチェス、ドミンゴ・キニョネス、ロニー・トーレスなんて言う人たちと再会して、ホセ・ルーゴが送ってくれたメッセージに添付してあったのが、このビデオだ。ぼくは彼が初めて自分名義で出したアルバムを記事にしたことがあったが、今度はもっと本格的。ボビー・バレンティンへのオマージュのこの曲の冒頭で、並ぶ2人の真剣な眼差しがかっこいいね。プエルトリコのミュージシャンには与太公みたいなのが多いけれど、ラモン・サンチェスとホセ・ルーゴは、音楽への興味、様々な分野への情報網の張り方、などなど別格に他の人とは違う。こうして生き残っているのは当然なんだろうと思う。

Pokenから思わぬ展開で、かつての人脈が復活したのだけれど、肝心のPokenは、人気沸騰でまだ届いてない。

Friday, March 14, 2008

3月の雨もいい。

久しぶりにボリンケンさんに会った。おそらく10年前に渋谷でお会いして、その晩浦安のお宅に泊めてもらって以来のことだ。お互いインターネット上に何らかのスペースをずっと保ちつづけていて、それを折々にチェックしていて、頻繁ではないけれど電話でもやりとりがあるので、そんなに会ってなかったかのかという実感をあまり感じない。基本ネットでのつき合いでたまにオフで会う、こうした関係も今どきのものなのかな思う。
しかし、10年前にあったのは、プエルトリコの女性歌手デディ・ロメロのライブのときと記憶していたのだけれど、たしかにぼくはクト・ソトがプロデュースしたデディ・ロメロのアルバムに夢中だったし、彼女の資料を取り寄せたりして、事務所と多少連絡も取っていたので、重点は彼女にあったのはそのとおりだったが、彼女が、あの偉大なエル・グラン・コンボの前座で来ていたことをすっかり忘れてしまっていた。記憶というのはほんとに曖昧なもんだと思った。

それでもまぁ、曖昧かも知れないけれど、記憶を辿ってみると、ボリンケンさんと知り合ったのは、ニフティのラテン音楽部屋でだった。インターネットが今のように普及する以前のパソコン通信の時代だ。94年の秋頃だったと思う。コンピュータが閉じられた箱ではなく、そこを通してどこへでも行けるコミュニケーションツールになった最初の経験で、その興奮はほとんど熱狂的なものがあった。
おそらく翌年、出張で来阪の折に、最初にお会いしたのだと思う。以来、東京と大阪と離れているのもあるし、実際にお会いしているのは数えるほどだけれど、その都度、充実した時間を過ごさせてもらっている。
とくに今回はそうだろう。ぼくたちの共通の話題は、ラテン音楽だったはずなのだけれど、そのシーンはすっかり寂れてしまって語るべき事もない。なのに、延々と途切れない会話。食事をした福島のラ・ルッチョラで、外で降りつづける雨を感じながら、海老や飯蛸やホワイトアスパラガスや、苺など今一番おいしい食材が並ぶプレートを味わって、さらに会話は進んでいる。有名なボリンケン風クローズアップを実演してもらって、ぼくも一枚、苺がきれいなデザートを撮ってみたのだけれど、ここでは遠慮して、ぼくらしいショットを載せておきました。3月の雨もいい。そんな風に思える一夜でした。