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Tuesday, December 13, 2011

大山崎あたり


もう先々週の週末になるのだけれど、京都の中村のお母さんが、お姑さんが長く住んでいた家を処分するつもりということで、西向日の古い家に残った炭を使って皆に肉などを焼いて振る舞ってくれた。佳代ちゃんの介助者の人を中心に集まった人たちでしばし小宴。付近は閑静な住宅地で、ここに来て一挙に寒くなって庭の木々が赤くなったのが道一面に広がっていた。雨が降ってあいにくの天気だったのだけれど、慌ただしい日常から逃れてほっとした時間だった.
阪急の京都線に乗って高槻までは特急、あとは各停に乗り換えて行った。この路線は大学時代毎日のように行き来していたものの、このあたりをローカル線で走るのは初めてかも知れない。ちょっとした旅行気分で、通り過ぎる駅名をあらためて確認している。

Tuesday, May 19, 2009

Wednesday, May 6, 2009

Rode NTG-3

やっと、ビデオカメラのマイクを純正のあまり役に立たないやつから、もうちょっとましなものに変えて、なんとなく日常を試し撮り。
ソニーのもともと付属してたやつは、もうほんとに子供だましのようなものだと、薄々は気づいてはいたけれど、この業務用ガンマイクの価格破壊と呼ばれている、RODEのNTG-3を試してみると、ちょっと今まで撮った分を全部取り直した気にもなってくる。まったく素晴らしい音が録れていて、撮影自体の楽しみが何倍にもなった感じにすらなる。


読了したばかりのロベール・ブレッソンの『シネマトグラフ覚書』の中のこんな記述。
「天から降ってきた驚嘆すべき機械。わざとらしい作り事を飽きもせずに反芻するためだけにそれらを用いることは、もうあと五十年もたたぬうちに、常軌を逸した愚かしい行為と映るようになるだろう。」

あるいは、
「移植。映像と音は、移植されることでたくましくなる。」

または、
「予見の力、この名を、私が仕事に用いる二つの崇高な機械に結びつけないわけにはいかない。キャメラとテープレコーダーよ、どうか私を連れて行ってくれ、すべてを紛糾させてしまう知性から遠く離れたところへ。」



『ラルジャン』を初めて見たときに強く感じた「倫理的」という言葉を再び思い出すこと。もう二度と忘れないように。

Tuesday, April 21, 2009

『中村のイヤギ』

日曜日。2年ほど前まで職場で介助の仕事をしていた男の子が原一男の指導のもとで作っていたドキュメンタリー作品ができあがって神戸で上映会をするとの知らせを、神戸映画資料館からのメールで知って午後から新長田まで行って見てきた。
その前に、新在家のトレックストア六甲へ寄ってまた自転車を少しチェックする。

彼は、張領太(チョン・ヨンテ)くん。韓国籍の在日の男の子だ。一緒に働いていた頃は日本名を名乗っていて、ぼくらはみんな名前を愛称みたいにして「ヨンテ」と呼んでいた。ぼくが彼と親しく話すようになったのは、ぼくが亡くなった祐樹の死の直前のことを介助者の人たちにインタビューしてビデオに撮っていたとき、その介助者の一人としてインタビューをお願いしたのがきっかけだった。その頃もう彼は、朝日カルチャーセンターの原一男の講座に通っていたし、この映画のために、伊丹の空港のすぐ横にある中村と呼ばれる韓国人が不法占拠してできた部落へ入ってカメラを回し始めていたと思う。

それから半年か一年くらいで、彼は隣の尼崎のやはり障害者に関わる仕事に移って、以来たまに思い出してどうしてるんだろうと思いながらも、なんとなく疎遠になってしまっていた。偶然この映画の上映を知って出掛け、数年ぶりの再会をする。

映画はよくできていたと思った。すでにこの中村地区の集団移転が決まった後、古い家屋を取り壊し、立ち退いて新しい市営住宅へ移るまでを描いている。同じ在日の彼がそこでとても受け入れられているのがよく分かり、それを彼が安心したように喜んでいるのもよく分かった。被写体との間にいい関係を築いていると思ったし、それがこの作品の成功の理由の一つでもあるだろうと思った。

上映の後、ほぼ内輪だけのような観客の中で感想を述べる会になった。ある作品を作るというのは、ほんとに怖いことで、褒められもするだろうけれど、意外なところから批判も受けもする。ヨンテも戦後60年の在日の苦しみが描けていないと批判されていた。しかもそれを言ったのは大学生の女の子だった。活動家とおぼしき人からは、これは闘争ではなくノスタルジーに過ぎないとか。こうしたマイノリティの問題に口をつっこむことっていうのは、こうしたどこから降ってくるとも分からない矢のような攻撃を一々相手にしなくてはならないんだと思うと、ほんとに消耗するだけで前に進まないんだろうな。

たしかに、これはヨンテがはじめてカメラを持って作った作品で、色んな面で未熟だろうし、批判される面もたくさんあるだろうけれど、なんというかヨンテという人のもつ独特の誠実さがあって、自分の感じたもの以上をあえて付け足したりしていないところがこの作品の美点なんだと思う。

こうしたものを見て、何か足りないなんて感じるのは、どういう感性だろう?ヨンテ自身が、みんながカメラを持って表現したらいいと言っていたのは、べつに誰かに向かって言ったのではないだろうけれど、ぼくはあえてそういう批判を向ける人に言ってみたい気分だ。何かが足りないと思うなら、それはあなたが作るべきだろう。ヨンテは無くなってしまう何かを残したいと思い、少なくともそうしたんだから。

タイトルの『中村のイヤギ』のイヤギとはハングルで「話し」という意味だそうだ。

Monday, March 23, 2009

フラハティ

忘れないための覚え書き。


そうです、生きていくってことは、動き続けるということなのです。このことがどんなに深い真実であるかといことを、一本の素晴らしい映画がはっきり見せてくれます。顕微鏡によって捉えられた、原形質の中で繰り広げられる、律動感にあふれた生命の流れと正確に測られた動き、私たち生命体の原素材というべきものが、そこにはあります。この動きがふと途絶えたとしても、それを測るものさしまでも壊すことは出来ませんし、動きが再び始まって、ほら、まるで音楽のように、美しいメロディを作り出し、ビートを刻みます。この映画が美しいのは、この律動感あふれる神秘の世界に、素直に奥深く入り込もうとしているからなのです。それは一方で、私たちを物理や化学の世界へ誘い、他方で、哲学や宗教や詩への領域へと連れて行ってくれます。レオナルド・ダ・ヴィンチは言っています、「暖かさのあるところに生命は宿り、生命のあるところには愛の運動があるものだ」。愛の動き、生命の神秘的な律動—これこそ、映画にいのちを吹き込むものです。例えば、陶工が粘土から見事な形を作るのを、映像にして心に思い描いてみましょう。映画のカメラは、この動きの流れと密接で親密な関係を結んで映像を織り上げ、私たちの視界に引き込みます。見ているうちに、私たちは陶工の手の動きを自分のもののように感じ始めるのです、まさしく陶工が心と技を込めて粘土に触っていくように。その瞬間、私たちは陶工の魂に触れ、そのまま溶け込んでしまいます—その想いを共有し、まるで生命を分け合ったかのように一体化していくのです。ここにいたって私たちは、『モアナ』の世界を満たしていた、あの微細なこころの動きを通り抜け、『ナヌーク』で見出した、あの「神秘的な参入」の世界に再び足を踏み入れるのです。これこそカメラという機械(マシーン)に導かれて、私たちがたどる「道」なのです—それは、私たちの見ている世界に全く新しい次元を切り拓きます。生き生きと脈打つ生命という神秘のリズムに揺れ、愛の力に引かれながら、私たちは魂のさらに奥深くへ、魂の合一へと運ばれていくのです。

フランシス・H・フラハティ『ある映画作家の旅』ロバート・フラハティ物語(小川伸介訳)

Thursday, January 15, 2009

オリバー・ストーン X クリスティーナ・フェルナンデス

先日の記事で紹介したオリバー・ストーンの南アメリカ行脚。今日はアルゼンチンで大統領のクリスティーナ・フェルナンデスを取材している。この記事によれば、昨日水曜はボリビアのモラレス大統領とも会っているようだ。

Friday, October 31, 2008

『小川プロ訪問記』

父親が癌で入院、手術という慌ただしい毎日に、スペイン語講座の講師をしなくてはならなかったり、単発の泊まりの介助が入ったり、嵐のような日々だったけれど、なんとか通常ペースに。なんとなくここから外へ出たくて、神戸に映画を観に行った。新長田の神戸映画資料館で、『小川プロ訪問記』と『帰郷―小川紳介と過ごした日々』の2本立て。平日の昼間とはいえ、前に小川伸介の『峠』を観たときは、38席しかないこの劇場もかなり埋まっていたのだけれど、今日はぼくを含めて2人とやや寂しい。
小川伸介本人には興味があっても、その関連ものにはそれほどということか。『帰郷―小川紳介と過ごした日々』は、2005年の作品で、映画学校の学生の卒業作品だというが、その中でインタビューを受けている当時の助監督飯塚俊男は、そうしたすべて小川伸介のために周囲が献身し尽くしていたかつての状況を、反省と批判めいた口調で答えている。『小川プロ訪問記』では、牧野で大島渚にインタビューを受ける小川伸介の後ろで、微笑みながらそれを聞いているまだ若く初々しい飯塚も一緒に記録されている。そうした姿を思い浮かべながら後年の話しを聞くとまるでユダのようだと思いながらも、飯塚の気持ちもほんとによくわかるとも感じていた。そして、これ自体がもうすでにドラマなんだと思った。他にも小川の映画に出演した牧野の人たちのその後も追っていて、丁寧なとてもいい作品だった。
『小川プロ訪問記』では、大島渚がインタビュアーだったのだが、小川プロの人たちも含めて、みんな百姓で、つまり農作業をする場所でそれなりの作業着を着ている中に、ひとりとってもおしゃれな茶色の革のスーツで現れて、長靴を履いて小川にインタビューしているのが笑えた。しかし、やはり小川伸介の迫力がやはり違った。圧倒的で、今日もまた世の中にはこういう凄い人がいるんだなって身が引き締まる思いで帰ってきた。
それにしても、こんなまったく金にならない映画を収集公開しているこの団体は、貴重だ。敬意を表したいし、潰れないように何かできることがあればやりたいと思う。

せっかく長田に来たんだからと、帰りに「みずはら」で、牡蠣とすじ肉のお好み焼き。ビールを一杯やりながら、焼いてくれた80は超えてるだろうと思われるおばあちゃんと一緒に、さんまのまんまを見ながら、Daigoとの他愛のない会話に笑っていた。おばあちゃんとてもかわいい。至福だ。

Friday, October 3, 2008

『コロッサル・ユース』

なんとかく、最近よくあるパターンで休日の映画。九条のシネ・ヌーヴォでペドロ・コスタの『コロッサル・ユース』を観る。
先月末から上映されていたんだけれど、職員旅行でマカオなど行っていたものだから、一週間たってやっと観れた。『ヴァンダの部屋』で描かれた、リスボンにある移民街が再開発で取り壊される様を、ヴァンダとその周辺の人物を通してさらに追っている。ほとんど劇的な展開はなく、彼ら家族の日常的なシーンが淡々と進む様子を、例によってときおり睡魔に襲われながら観ていた。
ペドロ・コスタの「サーガ」と呼んでいい物語の続編は、よく話題になる、これはフィクションなのかドキュメンタリーなのかという点で言えば、今回は前作よりかなり明確に演出するという意志が明確だったように見えた。事はこれからに関していて、それには、演出という想像力が必要じゃなかったのかと思う。おそらくショットが固定されているからだろうけれど、ペドロ・コスタは、小津との比較がよくされているけれど、「むしろこれは溝口じゃないか!」と叫びたくなるシーンがいくつかあった。
Youtubeにもいくつか動画がアップされてます。

お腹が減ったので、帰りに九条駅近くの「チング」でお好み焼きを食べながらビールを一杯やって帰る。

Saturday, September 13, 2008

『パルチザン前史』

ふう。昨日作った焼きそばに、すじこん入れてそばめしにして食ってやった。卵を割って半熟にして。超うまい。しかし食い過ぎだな。

昨日の休日は、JR新長田の駅前にできた神戸映画資料館に小川伸介と土本典昭のドキュメンタリーを観に行った。小川伸介は『牧野物語・峠』。土本は『パルチザン前史』。全共闘運動の末期、京大・同志社・大阪市大での闘争を追っている。機動隊に突入されだんだんエネルギーが消耗する課程を、京大パルチを率いる滝口修を中心にカメラに記録している。(「全共闘を解体せよ!全共闘の既成性、自然発生性を解体せよ!全共闘をソヴィエトへ、労学ソヴィエトへ、革命的に解体せよ!」(滝田修、『パルチザン前史-京大全共闘〈秋〉のレポート』69年12月))。
全共闘運動というのは、余程興味を持って色々知ろうとしないと今では過去のものになっているし、当事者も含め、過去のものにしたい人もたくさんいるだろう。映像もそうで、東大の安田講堂が機動隊に突入されるシーンは何度もテレビの番組で引用されるけれど、それ以外は皆無に近い。ぼくも今回初めて、活動家の間近で、卑近な行動を見たと思う。
ぼくらが大学に入った頃は、学生運動=ダサイって感じで、学生運動やっている人は風呂にも入らず、身なりも気にしないなんて思われていたけれど、今回まず最初に感じたのは、みんな意外にちゃんとしていて、しかもオシャレじゃん、って思った。
たとえば、ゴダールの描く活動家は、彼が引用するからおしゃれに見えるんだって思っていたけれど、じつはゴダールはけっこう、当時の若者のファッションをかっこいいなって思って撮ってたんだと思う。
デモに、女の子も混じっているし、街で買い物してそのまま来ましたって感じの女の子が、活動家が会合をしているのを遠巻きに眺めていたり。その感じは、先年ベルトルッチが『ドリーマーズ』で描いたものとほとんど違いがないと思った。世界中の若者たちが(たとえばビートルズを聴きながら)同時に同じことをしていたんだというのが、いくつかの映像を並べてみてみると実感することができる。

ぼくの母校や、大阪市大にも機動隊が突入してバリケードの封鎖が解かれる。思えばここで書いた表さんは市立大学の全共闘の議長だったから、まさにあのバリケードの内側にいたわけだ。この映画の中心人物の滝口修も映画の中で予備校の講師をしているし、よく知られているように東大の山本義隆もそう。ぼくが駿台で表さんの授業を受けていたのは81~82年頃だからこの敗北から10年ほどの時期。10年くらいで色々な思いがこなれているとは思えず、当時の表さんの心うちというのはどんなものだったんだろうと改めて想像する。

そして、この2年後には『さようならCP』が来る。学生運動崩れの活動家が、障害者運動の支援者になったとも聞く。ここで始まった障害者の運動はまだつづいているし、結局運動は必要なところでは否が応でもつづけなくてはならないということだ。ラテンアメリカで解放の神学や社会主義がずっと必要とされつづけているようにね。

Tuesday, April 22, 2008

DOS HORAS

チリの作家・映画監督アルベルト・フゲーが、自作の"Cortos"を映画化しているそうで、自分のブログで公開している。
興味深いのは、これがパナソニックのごくごく普通のデジカメを使って撮られていることで、チリの新聞でもそのことにスポットが当てられて紹介されている。フゲーは、この"Cortos"という作品のDVDヴァージョンを作りたいんだと自分のブログに書いている。それにしても、昨今のデジタル商品の進化のテンポはおそろしいくらいで、おそらく子供の運動会を撮っているお母さんが持ってるHDビデオカメラの方が、一時代昔のカメラよりよっぽどクリアに撮れるんだろうと思う。むしろ、プロのクリエーターと呼ばれる人たちが工夫してヴァージョンダウンした機材を使い始めているような感じもする。それにルミックスのレンズはライカだしね。末端の商品にこうしたレンズが付いている、このごちゃまぜ感が現在なんだろうか。
「ご覧のように、何にもなくて、まるで書くように撮影している」。機材がこれほど軽くなればこうした感覚はどんどん進んで、映像作品はますます個人的なものにならざるを得ないだろう。しかし、こんなことはすでにゴダールが1980年代に考えていたことを忘れてはいけない。彼は、監督が自分で8㎜のように撮影できる35㎜カメラをアトン社の技術者に作らせた。『パッション』の冒頭の息をのむようなシーンはそれで撮られていたはずだ。
アルベルト・フゲーに関しては、『ユリイカ』の3月号に、安藤哲行という方が「マッコンドとクラック 新しいラテンアメリカ文学をめざして」という一文を寄せていて、たぶんぼくがラティーナに載せた以外では、日本では初めてのフゲーの紹介になってるんじゃないかと思う。 

Saturday, February 23, 2008

草間彌生など

休日の今日はなんだか盛りだくさんな日だったような気がする。
午前中EL adiósの編集。編集と言っても、何か物理的な作業というよりも私的な手記でも書いている気分に近い。実際ナレーションは書いている。書いて読んで、うまく読めなかったり語呂が悪かったら書き換える。
昼は食うものが何もなかったので、ぼくにしてはめずらしくインスタントラーメンで済ませた。冷蔵庫に残っていた水菜をオリーブオイルで炒めてのせて、微かにだけれど料理っぽくした。食後、昨夜最後まで読んでしまうつもりだったのだけれど、少しだけ残してしまったチャンドラーの『ロング・グッドバイ』を読んでしまう。もともとナレーションはハードボイルドっぽくしようと、あまり訳のわからない動機で読み始めたもの。それでナレーションはぜんぜんハードボイルドっぽくならないんだけれど、極力「心理的な」ものは排除して、あったことだけを積み重ねようという視点は共有できるんじゃないかと思う。
この小説は、訳者の村上春樹と同じように、ぼくも最初、高校生くらいに読んだと思う。友人のお姉さんに借りて読んだような記憶がある。しかし記憶に残っているのは同じ頃にテレビで観た、ロバート・アルトマンの映画の方だった。今回興味深かったのは、主人公がメキシコへ逃げて自殺したり、メキシコ系の召使いとマーロウがスペイン語で会話したり、以前はあまりよく分からなかった背景の方だった。そのメキシコ系の召使いは、じつはチリからの移民ということが後で明らかになり、そうなるとほとんど放ってあるtemblarのための資料にもなることがわかった。さらにリンチの『マルホランド・ドライブ』『インランド・エンパイア』もこのロサンジェルス〜ハリウッド近郊を舞台にしていて、最近のぼくの興味と偶然にもかなり被っていたことになる。

ひと眠りして、夕方から九条のシネ・ヌーヴォで今日から始まった、『≒草間彌生 わたし大好き』観に行く。草間彌生は80年代からずっとすごいと思って来た。こんなに売れちゃうとは思わなかったけれど。喜寿を迎えてもまだ自意識の固まりのような人。色んな賞の名前をあげて、取れたことを喜んでいる様は、中井久夫が、統合失調症の人は、例外なく俗物的な権力欲に囚われているような謂のことを書いていたのを思い出させた。上映が終わると監督した松本貴子さんが挨拶した。しかしこの人の強烈な着るものの趣味の悪さはなんだ。彌生さんを少し見習うといいと思うけれど。

帰り梅田に寄って、Que ricoで、ミチェラーダとワカモレ、エンチラーダで夕食。夜になるにつれ、どんどん寒さが増してきた。

Saturday, February 2, 2008

el adiós #2

祐樹の二回忌で、氷上の実家までお参りに行ってきた。去年兄と一緒に、一回忌で帰ったときには行けなかったお墓へも参ってきた。
それと、お母さんがぼくが去年渡した、撮影した原テープに不満があると兄から聞いていたので、そのことを話す目的もあった。お母さんの不満は、知らなくてもいいことまで、知らされたということだった。子供にも親には知られたくないプライバシーというものがあるのだから、それは尊重してほしかったということだ。とくに女の子とのことなど、親には知られたくないだろうから。ほとんどはもっともなことだと思った。配慮も足りなかっただろう。
しかし、作品にして、何を切って何を残すのかがとても難しいのと同じで、結局のところ万人や、誰それのためでも、正確な線引きをするのはとても難しい。お母さんは、知りたくないことも知ってしまったのかも知れないけれど、でなければ、まったく知ることができなかった可能性もあった。どちらかを選べと言われるたら、果たしてどちらがよかったのか。
今回お母さんの言い分も撮影しようと、カメラを持って行っていたが、結局使わずじまいで帰った。今回ぼくはまったく福祉的な人だった。お母さんの言葉を受け止め、自分の中で消化して、馴染ませるようにして返していた。カメラは、その場にとげとげしいものを入れるような気がしてどうしても手にすることができなかった。
だめだなぁって思いながら、帰りの舞鶴道の雨降りをワイパー越しに見て車を走らせていると、これも現実だから、あえて追加に撮影などいらない気もしてくる。
このビデオは、祐樹のことを作品にしているぼくのことを語ったものにもなるし、彼に対する愛憎の物語、結局人生は愛したり憎んだりして、進んでいくのだという。

Sunday, January 27, 2008

el adiós #1

このブログのタイトルは、El Documentalistaといって、もともとぼくが一本のビデオ作品を作り上げた後に書き始めたもので、2作目3作目と続くはずのものの、メモのようなものとして拵えたものだった。"temblar"と題されている一連のシリーズはたしかにそうした役割だったけれど、この一年ほとんど実作はしてなかった。メキシコへ行ったときにもビデをを回していたし、呼吸器系の題材もだいたい撮っておいた。それはいつか纏めるはずの、二つの作品のための取材ではあるのだろうけれど、なんだかものを作ってる感覚とはちがうんだな。
イメージという言葉はまったく一般化していて、陳腐でさえあるんだけれど、ものを作ることは、持っているイメージにいかにして現実的な手立てをしていくのか、だと思う。メキシコで撮ったりしているものは、漠然としたイメージは持っているけれど、そこへ動こうとする力がまだ働いてないというか、労力とか精神力が働いていない。だからものすごくエネルギーが使い切れていないような不満がつねにある。じっさいには、temblarにはまだ少し準備しないといけないことがあるし、呼吸器系の方はまだイメージができていない。
でも、年末頃からこのままぼくは何もしないのでは?という不安ももたげ、気合いを入れるために、デビッド・リンチが、インランド・エンパイアーで使ったソニーのカメラ(正確にはその後継機だけれど)を買っちゃった。このカメラは、DVCAMという形式で、これまで業務用の定番だったのだけれど、だんだんHDに移行してきて値崩れだしたので思い切って買っちゃった。重さ2.6キロで前に使っていたのが1キロを切ってるから、どうかと思ったけれど重さはそう感じない。むしろ小さすぎてほとんど触れないボタンにきっちり指が行くので、ものすごく使いやすい。映像はHDに慣れているとかなりぼけた感じに思うかも知れない。むしろフィルムを扱っている感覚に近い。
で、今年になってひとつ作り始めてる。"el adiós"と名付けた。Orquesta Zodiacの曲からとったが、もともとの連想はチャンドラーだ。一昨年末に纏めた、亡くなった筋ジスの男の子のことをインタビューした作品を元にして、それから2年後のことを何か語れるんじゃないかって思ってやっている。彼の死はほんとにショックで、何をどう考えたらいいのかも分からなかったから、うまく作品にならなかったということもあるし、纏めたものを見た人には色々反響も与えた。そうしたものも含めてやっと客観的に何か語れるんじゃないかと思ってる。当時のものはハンディカムで、新たに撮る分はソニーのPD170を使って撮りそこにはめ込むような形で編集も始めてる。編集の作業はやっぱり一番楽しいね。自分の無意識も現れるので怖くもありますが。

Sunday, September 9, 2007

temblar(10) una ciudad destruida

一昨日、久しぶりに神戸まで、チャリで出掛けた。いまだに30℃を超える気温で、どれだけ出るんだというくらい汗がでる。神戸はメリケンパークまで。今少しずつ準備している"temblar"というタイトルのビデオのためにいくつか撮影をする。"temblar"は、今翻訳しているアルベルト・フゲーの小説『Las películas de mi vida 』に、ぼく自身の人生を重ね合わせて見ようという試み。以前に触れたこともあると思うけれど、フゲーとぼくはほぼ同世代。『Las películas de mi vida 』は、彼がかつて見てきた映画を振り返りながら自分自身の人生を振り返るというもので、当然ぼく自身も成長の過程で見てきたものも多いし、見てないにしても、だいだいどんなものかは知っている。
フゲーは、10歳くらいまでカリフォルニアで育ち、その後軍事政権下のチリへ戻った。その後、アメリカの大学へ留学して、作家となる修行をした。英語とスペイン語の二重生活が彼の作品を規定している。ぼくは、大学を出た後、南米を旅し、サンティアゴでしばらく勉強していたこともある。日本語とスペイン語の二重生活はぼく自身の人生を規定している。育った場所も文化もまったく違うが、重なる部分もある。
しかし、フゲーというまだ翻訳も出ておらず、まったくというほどここでは知られていない作家と自分の人生を重ねてみるということが可能になったのは、明らかにグローバリゼーションという今の時代が背景にある。あっちとこっちではなく、映画というグローバルな文化に支えられた、一つのぼくらの世界がある。そんなこととかも描ければいいのだけれど。

神戸まで行ったのは、フゲーの小説のこんな一節を読んだからだ。

『ブリット』は、父と母と観た。スティーブ・マックイーンの出ている他のすべての映画と同じように、また車とスピードに関連した他の映画と同じようにだ。『ブリット』は、すぐさま父を思い起こさせる。ほとんど反射的にだ。そのとき、私たちが一緒に観たときのことは曖昧にしか覚えていないのだが。
 数年前に日本で、もっと正確に言えば神戸で、95年の地震の後で、緊急で現場での会合が催された。地表での長い一日を終えて、私の崩れたホテルの微細な部屋へ帰った。テレビをつけ、『ブリット』のスティーブ・マックイーンを見た。マックイーンがパジャマを着ているのが注意を惹いた。そんなことは思いもしなかったのだ。そして何か日本語で言ったが、当然分からなかった。しかし見つづけた。そして、マックイーンが私の父と同じように、彼の家族とほとんど話しをしないのに気づいた。『ブリット』の筋を追うのは、とても容易かった。天才であったり、国連の同時通訳であったりする必要はなかった。起こることは、ごく単純だった:一人の刑事が、護らなければならなかった証人を殺され、自分で制裁を加えることにする。テレビを消さず、つけっぱなしにして、唯一覚えているシーンを待った:サンフランシスコの通りでの激しい追跡劇で、ラロ・シフリンの音楽がバックで鳴り響いている。マックイーンは緑のマスタング390GTに乗って丘を飛んでいる。
 普段は父のことは思い出したくないし、スピードの出る車やきっちり止まらない車のことを考えるのも嫌なのだが、『ブリット』は、私たちに絆のようなものあったわずかな数年間を思い出させる。実際に、私たちが繋がっていたことがあるかどうかもわからないのだけれどだ。おそらく私にとって大きな過ちは、チリに生まれ、コンセプションで数ヶ月を過ごしたこと、そしてソレールよりニーマイヤーであったこと、牛乳屋やパン屋の道に進まず、地震学者になってしまったことだった。あの夜、アクセルを踏んだとき、『ブリット』と『栄光のル・マン』のこと、スティーブ・マックイーンとポール・ニューマンのこと、黒いポルシェと黄色いBMWのことを思ったのを覚えている。

震災の前後、ぼくの人生はかなりめちゃくちゃだった。チリから帰って、精神のバランスを崩して元町にあるクリニックに通って定期的に精神分析を受けていた。箱庭療法なんかもやっていてぼくが使うアイテムといえば、いつでもマリアさまの像と花と、ギターだけだった。毎回毎回そんな日がつづいたとき、ぼくは初めて車を使ったらしく、その後カウンセラーの女性は、それは「父親」を象徴していると説明した。それが妥当なのかどうかわからないけれど、自分の中に父性のようなものが欠けているのはよくわかっていたから、すんなり納得はしていた。フゲーがやはり、車と父親を、結びつけているのは偶然なのかどうなのか。これも世代的な括りで理解した方がいいのか。しかし、ぼくの父親は、たしかに車に情熱を持っていた。当時大阪で2台しかないというポルシェに乗っていたし、外国語の車の雑誌やレースを実況したレコードやミニカーが部屋を一杯にしていた。ぼくこそ、車と父親とを関連づけるのに相応しいとは思う。

このころ、それまで即かず離れずでいた大学時代の同級生との関係がどんどん深くなっていた。彼女には夫も子供もいたけれど、寂しすぎて傲慢になっていたぼくらには、そんなことはどうでもよくなっていた。会うときはよく神戸に来てお互い不安なままよく海を見ていた。だんだんそんな関係に無理に来ていた頃、震災が起こった。薬を取りに行くためクリニックへ行かなくてはならなかった。電車が全てストップしていたので、そのとき唯一の交通手段で、今津から船でメリケン波止場へ着いた。船の上から神戸の方を眺めると、よく晴れた天気で、静かな光景が遠くにひろがっていて、ほんとうに地震が起こったのか?と思うくらいだった。メリケン波止場のぼくらがよく座っていた辺りは、ぼろぼろに崩壊していて、まるでぼくらの関係を象徴しているみたいだった。

色んなことを思い出しながら、撮影を終え、帰りに六甲道に寄り、山手幹線沿いの四川で昼食。香辛料のよく利いた麻婆豆腐がおいしい。そのまま山手幹線を東へ走らせて帰る。工事がつづいているがだいぶ芦屋に近いところまで完成していて、まだそんなに交通量も多くないので、道路を独占して気分もよい。

Saturday, August 25, 2007

cien niños esperando un tren

昨日、シルビオの記事を書いた後たまたま借りてきていたイグナシオ・アグェロのドキュメンタリー『100人の子供たちが列車を待っている』を見る。1988年のチリ映画で、ピノチェットの政権がほとんど終わりかけている頃に撮られている。サンティアゴ郊外の小さな村で、アリシアという女性が、教会で子供たちに映画を教える模様を追っている。子供たちはその地区に住む経済的に恵まれない家庭から教会に通い、学校もろくに行ってない。冒頭で映画を見たことがあるかと訊かれるのだけれど、ほとんどが劇場に行ったことすらない。わずかに答えていたのが「ロッキー」だったので、80年前後の話しだろうか。
教会の映画教室といっても、そこがふつうと違うところなのだけれど、子供が歓びそうな映画を選んで見せるだけでなく、写真からエジソンとリュミエールを経て、映画が誕生する様を当時の実際の映画と、穴あきカメラや、パラパラ漫画のような実験を作ってみたりしながら、再体験しながら学んでいくのだ。最後に子供たちは、政権に抗議する映画をみんなで作るのだけれど、そこでしっかり「表現する」とは何かを彼らは学び取っていた。映画もさることながら、こうした試みが当時のチリで行われていたことが凄いことだったと思う。たしかにピノチェットの時代も終わりにかかっていて、一時はよかった景気も傾いて、政権の求心力も衰えていた時期とは言えだ。ここにはいくつかの子供時代が重なっていると思う。映画の子供時代と、子供たち。だから子供たちは違和感なく、映画の創世を学んでいく。そしてアリシアが子供たちに託した新しいチリがそこまで来ている。
それにしても、チリは少し中心を外れると、ほんとにみんな貧しくボロボロだったことを映画を見てあらためて思い出した。それはこの映画の80年代だけでなく、2003年に行ったときも変わっていなかった。おそらく今もそれは変わっていないのだろうと思う。

イグナシオ・アグエロの最近の映画がここからまるまる見ることができるようだ。
"La mama de mi abuela se lo conto a mi abuela"video→
"Aqui se construye"video→

Tuesday, August 21, 2007

Inland Empire

昨夜。シネカノン神戸のレイトショーでデイヴィッド・リンチの『インランド・エンパイア』。
平日の夜でもあるし、客は5人ほどしかいなかった。いわゆる大作でも、歴史を描いた史劇でもないのに3時間もある。しかしそれがまったく退屈することもなく、終わりのない音楽を聴くような気持ちで酔ったように観ていた。宣伝のコピーである「3時間の陶酔」がぴったりだと思った。
リンチの映画を劇場で観るのは何年ぶりだろう。ひょっとして『ローラ・パーマー..』以来かも知れない。数日前に『ストレート・ストーリー』をビデオを借りて観て、そういえば今新しいのをやっているはずだと思い出して観に行った。これは、傑作であったり映画史に残ったりするような作品じゃないのかも知れないけれど、ただとても好きな映画だとは言える。発売予定のDVDには、編集でカットされた部分が大量につけられるという話し。この作品は、初めてデジタルヴィデオのカメラで撮っていて、撮るのは簡単だし、安いのでどんどん撮ったのをカットするのは忍びなかったのだろうと思う。カメラはソニーのDSR-PD150。すでに生産は中止されてPD-170に引き継がれている。実物は見たことがないけれど、知り合いでドキュメンタリーを撮っている男の子が持っているやつと同じだ。手持ちができるハンディなタイプで、映画でも、監督自身が持ったふらふらした映像が活躍している。
ちなみに、ウサギの役はナオミ・ワッツがやってるらしいけど、これじゃどれだかわかんないね。(^_^;

Saturday, August 18, 2007

temblar(8) sismo, perú

新潟で地震が起こり、ペルーでもまた起こった。揺れに感化されるかのように市場も揺さぶられ株が暴落している。まるで世界中が揺れているよう。このシリーズで何度も触れたように、ぼくらはひっくるめて「地球」なんだから、おそらくこれらはみんな同じ出来事の、様々に見える局面に過ぎないのだろう。
しかし、ペルーの地震は、時間が経つにつれ被害がどんどん拡がっていく。500人以上の人が死んでいる。記録に残る大地震の規模になってしまった。今朝のニュースでは、分配品を奪い合ったり略奪が起こったりと、二次的な被害が問題となりつつあるようだ。被害のニュースをテレビでみていると、「Las películas de mí vida」のこんな箇所を思い出した。
チリの首都サンティアゴ北部にある、コキンボ近郊の村プニタキで起きた地震の調査で研究所を代表して現地に赴いた主人公は、この活躍をきっかけに出世の道を歩む。サンティアゴとプニタキの関係と、今回の首都リマとピスコとの関係がどこか同じように見える。どちらも太平洋岸に近い乾燥した地域にある。自ずと住居は泥を重ねた簡便なものになりやすいのだろう。

--------------------------Las películas de mí vida----------------------------
 1997年10月14日午後10時3分、時報を知らせたちょうどその後、私はセニョーラ・メルセデスの店でこしらえたソーセージとライスを食べながら研究所にいて、地震計の針が振り切れたのを見た。すぐに、これは私にとって試金石になると思った。研究所の職員として初めての地震だった。
 この地震は、第4行政区に被害を与えた。震源地は、イジャペルの南西23キロだった。コキンボとラ・セレーナ、コンバルバラ、オバージェ、ラ・チンバ、パイウアーノ、そして小さなプニタキの町で強い揺れを感じ、プエブロ・ヌエボの農家で、岩が屋根を直撃し、一家がまるごと瞬時にして命を奪われた。
 電話が鳴った。ラジオ・コーオペラティーバからだった。また鳴り、それはラス・ウルティマス・ノティシアス紙からだった。電話は鳴りつづけた。私が上司に電話を入れると、彼は、
 「スポークスマンをやってくれ。君は若く、真面目そうに見える。しっかり貢献してくれるだろう。パリで博士号を取ったって言うのを忘れるなよ」と言った。
 取材陣を研究所に呼んだ。彼らが到着すると、まったくたくさん来たのだが、こう発表した。
 「地震の規模はマグニチュード6.8でした。被害にあった人の数はまだわかっていません。しかしおそらく犠牲者はいるだろうと思います。国家安全局と第4行政区庁からまもなく発表されるでしょう。しかし、これは断言できますが、地震計が指した値と同じだけの被害はあるでしょう。このあたりは貧しい地域です。住居はアドベで出来ています。こういった場合、メルカリ震度を用いた方が体感を計るのには適切で、現在までの情報を鑑みると、震度9のプニタキは、皆さん、もう跡形もありません。いまだに揺れつづけている地面の上に倒れているのでしょう」。
 朝になって、私が読んだ新聞は全紙、プニタキの町は全滅していると書いた。私の不幸な発表以来、プニタキは大災害ということになったが、バルディビアよりも被害が軽いのは明らかだった。大地に亀裂が入ったわけでもなく、津波が来たわけでもない、記録的な何かがあったわけでもなかった。その崩壊した町では、8人の死者が出たが、その場所の住宅の半数以上が倒壊したと考えられるにしては、考えられない数字だった。
 プニタキとその周辺には5日間滞在した。私は自分を俳優のように感じた。何年もの下積みの後、とうとう本物の舞台の上に立ち、入場料を払った観客がそこにいるのだ。人々は私に寝床と食事を提供した。皆が私のことを信頼していた。新聞は一面に私を載せ、国中のいくつものラジオで何時間も話した。
 意図したわけではないが、あるいはおそらく、ずっと前からそうしようはしていたのだろうが、私はその町、その地域についての権威になっていた。自分が有用な人間であると感じたり、敬意を持たれたり、何某かの者として扱われるのは心地よかった。
 「また起こるだろうか?」、エドゥアルド・フレイ大統領が、プエブロ・ヌエボで私に尋ねた。
 すぐに答えずに、しばらく考え、砂漠とアンデス裾野の強烈な太陽の日差しを受けた彼の顔を見た。その瞬間私はこの国の運命の支配者だった。
 「その質問は、大統領、起こるかどうかではなく、いつ起こるか、です。この国では誰もその質問をしないし、したくないのです。チリでは、すべて皆死んでしまうのです。たしかにそれはすべての人間の運命かも知れませんが、私たちにはさらにもう一つ掛けられる十字架があるのです。すべて私たちは、おそらく私たちを全滅させてしまう、私たちが勝ちとってきたものすべてを破壊してしまう地震に見舞われるのです」。
 朝になるまでに私は、プニタキの最も権威ある機関の重要人物になっていた。大きな余震が起こった後、人々は自主的に様々なことを私に告白し始めた:「父親から盗みをはたらきました」、「娘を犯しました」、「女装するのが趣味なんです」、「弟の息子は私の子供なんです」。
 サンティアゴに戻ると当時の研究所の所長は、私を停職させると脅した。スポークスマンをすることを禁じ、起きたことは忘れろと言った。
 「これは科学なんだ。見せ物じゃないんだ」、こう真面目な顔をして言った。
 「仰るとおりです。もちろん見せ物じゃなんかじゃありません。スポークスマンをやりたいわけじゃないんです。ただ、もう少し多く知ることができたらいいと思ってるだけです。次の学期は授業を受け持ったらと思ってるんです。現場に行って調査がしたいんです」。
 これは5年前のことだった。そして今は私が研究所の所長だ。

Sunday, March 25, 2007

仕事


昨日。あいにくの雨。神戸大学病院内の会館で行われた筋ジストロフィーの患者の会の集まりに、利用者、スタッフ、介助者とともに行ってきた。100名ほどの人が集まっていた。
内容は、筋ジストロフィーが進行してきた場合の概説と注意点。近年の研究の進展具合の報告。リハビリの重要性についての講演など。神戸大学で臨床に携わる4氏によって話しがあった。その後交流会。主催者はもっと小規模の集まりを予想していたらしく、お茶を飲んでのざっくばらんな話しにするつもりだったようだったが、急遽シンポジウムのような形で、前に教授たちが並び、患者の会の人たちが質問をするスタイルになった。
患者の会の人たちの多くは、家族、まだ子供が小さいお父さんお母さん方で、興味の中心は治療の進み具合とそれを知るための方法についてにあった。子供さんが成人近くなってき、まるで明日にも自分の子供が死んでしまうのではないかと心配してせっぱ詰まったお母さんもおられて、こうした精神状態とは少し違った生活を選んだ人たちとともに生活しているぼくらとはかなり意識とか関心の違いがあった。
なんとなく発言しにくいなぁと思っていたら、若いスタッフの男の子が、筋ジストロフィーであっても明日死ぬわけではないし、そのひとそれぞれの生活があってそれは、楽しいものでもある。そうした人が地域で暮らすためには、どうしても医療と連携を取らないとやっていけないが、それについてのアドバイスを求める質問をしてくれて、あえてそれに対する発言はなかったが、場の雰囲気は好意的でこうした若い親御さんたちともぼくらは繋がっていけるのではないかと思わせた。
呼吸器をつけた利用者が二人行っており、それだけで、呼吸器をつけてここまで生きて充分生活できること身を持ってを示せたと思う。
自立生活センターらしい仕事の一日だっただろう。ぼくらのやっていることが、彼らにとって幾ばくかの希望のようなものであれば、こんなすばらしい仕事はないだろう。

Wednesday, March 21, 2007

「ビル・ヴィオラ はつゆめ」


兵庫県立美術館に、「ビル・ヴィオラ はつゆめ」展を見に行ってきた。ビル・ヴィオラは、1951年ニューヨーク生まれのヴィデオアーティスト。ナム・ジュン・パイクなどからヴィデオを学んだらしい。これまであまり知らない作家だったので、どんなものかほとんどイメージがないまま行った。1時間ほど上映時間がある「はつゆめ」の最終が、4時半だったのでその前に行ったのだが、すでに満席になっていた。今日は最終日だったので、もう1回上映が追加され、何とか1時間後に見ることができた。何を期待していたか、自分でよくわからないのだけれど、期待以上のものを見たという感想を持って帰った。はじめて見るようなものばかりなので、感想自体をどう書いたらいいのかもよくわからない。どの作品も異常ににモーションを落とした速度で、上映され、日常では気づかされないような人間の行動とか心理とかが、浮き彫りになっている、とでもとりあえずは書いておけばいいのだろうけれど、でも、感動している点は、どこかそういった言葉では表せないものだと思う。映像に連動して、いままで感じたことのないような感情が、自分の中に表れて、どんどん興奮していくのが自分で分かる、といった感じだろうか。
「はつゆめ」は、1981年、ヴィオラが1年日本に住んで、ソニーの協力を得てつくったものだ。今回のはデジタル・リマスター版ということ。1981年の日本は、まるでぼくが初めて韓国へ行ったときに感じたような印象だ。ほとんどこの国とは思えないくらい違和感がある。日本ではないどこかのアジアの国。手法は同じ、映像はどんどん速度を落とし、ほとんど気持ちいいくらいにそれを感じてくる。ぶれて使い物にならないような映像も挟み込まれて、結局映像の質なんてものは二次的なものなんだと思う。それをどう使うかという問題。

予定より遅くなって、おなかがすいたので、元町まで出て、「丸玉食堂」で焼きビーフンとハムとビールで夕食。なんとなくひとりで手持ちぶさたなときとか、落ち込んでるときはここへ行ってしまう。台湾人の一家で経営されているこの店の人たちはひたすら、料理をつくったり店を切り盛りしているので、余計なおしゃべりをする必要もない。ぼくはたいてい、親父さんが中華鍋を、小刻みにリズムを取りながら動かしているコンロの前に座り、親父さんがつくったまだ熱々のやつをそのまま、直接もらって食べ、何というかつくった料理の熱を身体の中に伝えるような感覚で満足感を得る。ホッとしてなんだか救われたような気分でビールを一本。今日もまたなんとか凌いだかな。