サカテカスまでのバスの隣は、モレーノの大男だった。セラーヤに行くと言い、ぼくはサカテカスだと応えたが、交わした会話はほとんどそれくらいだった。なんとなく話しにくい空気があって、窓側の彼の向こうの風景を見るともなく見ていた。「メキシコに住むものは皆、ひと事に余計な口出しをしない術を身につけているようだった...」というバロウズの小説の一節をふと思い出した。
乾いた草原にサボテンが点々として、奇妙な形の山の間をバスは走り抜けていく。することもないので、iPodを取り出して、出発直前にダウンロードして入れてきたカフェ・タクーバの新譜SINOを聴く。この旅の中で何回かトライしたけれど、微妙にちがうという感覚があってすぐにやめていた。カフェ・タクーバの前作はもう4〜5年前で、その間に90年代が頂点だったスペイン語ロックのブームも冷めてきていて、日本にいてカフェ・タクーバというバンドも少し遠い存在になりつつあった。国境を越えてどうだろう?少しは作用するだろうか?麻薬を試すように流してみた新作は、とても新鮮だった。
カフェ・タクーバのメンバーとぼくとはほぼ同年代で、聴いて育った音楽のバックボーンも似ている。そして、ぼくとメキシコとの関わりはほとんどカフェ・タクーバの活動している時期と重なっている。だから今度のカフェ・タクーバのSINOというアルバムで、彼らが自分たち自身の活動や人生を振り返った曲をいくつも入れているのを、あらためてじっくり聴いていると、まるでぼくが自分の人生を振り返っているように歌詞が染み渡るように聞こえてきた。それはたぶん若いときには絶対恥ずかしくて書けなかったような直接的なもので、そうしたものを隠すことなく歌えることが人生と経験を重ねてきたことなんだろうと思った。それはこの旅でぼくが一貫して感じつづけた落ち着いた感情とどこか繋がっているように思った。
深夜になって皆が眠って静かになっても運転手が流すメキシカン・バラードが鳴りつづけていた。一番前の席の女性が、おそらく音を落としてくれと言ったんだろうと思うが、運転手は「何だって?音を上げろって?」と言った。ほとんど嫌がらせに近い。
5時だか6時だか、まだ夜が明けない頃、バスはターミナルに到着して運転手は「サカテカス」と言った。
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