Wednesday, May 21, 2008

『移動の技法』#11

そうして陽もおちる。わたしはマリサにいとまを告げて彼女の家を後にしふたたびバスを捕まえ宿へと戻るのだった。(おそらくそれを《ただしく》示さねばなるまい!)。それは《いちまい》のガラス板であるが、それには、“Valparaiso”と行先が告げてあり、基本的にモノトーンの光と闇、揺れ、そして記憶で構成されている。記憶とは楽譜のようなもの。失われもすれば、ひょんなところからあらわれ、様々な仕方で演奏されるための。ビーニャ・デル・マルをこえてそのバスは光の岩礁となったその街へと突入する。速度が光の記憶と擦れる音がしている。「バルパライソは昼間は汚いけれど夜はとってもきれい」。若い女が耳もとで囁く。その寂しげな声にたまらずわたしはバスを飛び降りた。人気のない広場。船のない港。男たちがいない港。女たちがいない港。モートン・フェルドマンの乾いたエロティシズム。いかにして「移動の技法」はそこなわれるか。卵(*)。壊れた、。


(*)ドゥルーズ『シネマ2時間イメージ』にこんな一節があった。
.....われわれは身体を信じなくてはならないが、生の胚芽を信じるように、聖骸布やミイラの包帯の中に保存され、死滅せずに、舗石を突き破って出てくる種子を信じるように、それを信じなくてはならない。それはあるがままのこの世界において、生を証言するのである。われわれは一つの倫理あるいは信仰を必要とする。こんなことをいえば、馬鹿者たちは笑いだすだろう。それは他の何かではなく、この世界そのものを信じる必要であって、馬鹿者たちもやはりその世界の一部をなしているのだ。

『移動の技法』は、何か「信仰」のようなものを失っていく課程でもあったと思う。

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