新潟で地震が起こり、ペルーでもまた起こった。揺れに感化されるかのように市場も揺さぶられ株が暴落している。まるで世界中が揺れているよう。このシリーズで何度も触れたように、ぼくらはひっくるめて「地球」なんだから、おそらくこれらはみんな同じ出来事の、様々に見える局面に過ぎないのだろう。
しかし、ペルーの地震は、時間が経つにつれ被害がどんどん拡がっていく。500人以上の人が死んでいる。記録に残る大地震の規模になってしまった。今朝のニュースでは、分配品を奪い合ったり略奪が起こったりと、二次的な被害が問題となりつつあるようだ。被害のニュースをテレビでみていると、「Las películas de mí vida」のこんな箇所を思い出した。
チリの首都サンティアゴ北部にある、コキンボ近郊の村プニタキで起きた地震の調査で研究所を代表して現地に赴いた主人公は、この活躍をきっかけに出世の道を歩む。サンティアゴとプニタキの関係と、今回の首都リマとピスコとの関係がどこか同じように見える。どちらも太平洋岸に近い乾燥した地域にある。自ずと住居は泥を重ねた簡便なものになりやすいのだろう。
--------------------------Las películas de mí vida----------------------------
1997年10月14日午後10時3分、時報を知らせたちょうどその後、私はセニョーラ・メルセデスの店でこしらえたソーセージとライスを食べながら研究所にいて、地震計の針が振り切れたのを見た。すぐに、これは私にとって試金石になると思った。研究所の職員として初めての地震だった。
この地震は、第4行政区に被害を与えた。震源地は、イジャペルの南西23キロだった。コキンボとラ・セレーナ、コンバルバラ、オバージェ、ラ・チンバ、パイウアーノ、そして小さなプニタキの町で強い揺れを感じ、プエブロ・ヌエボの農家で、岩が屋根を直撃し、一家がまるごと瞬時にして命を奪われた。
電話が鳴った。ラジオ・コーオペラティーバからだった。また鳴り、それはラス・ウルティマス・ノティシアス紙からだった。電話は鳴りつづけた。私が上司に電話を入れると、彼は、
「スポークスマンをやってくれ。君は若く、真面目そうに見える。しっかり貢献してくれるだろう。パリで博士号を取ったって言うのを忘れるなよ」と言った。
取材陣を研究所に呼んだ。彼らが到着すると、まったくたくさん来たのだが、こう発表した。
「地震の規模はマグニチュード6.8でした。被害にあった人の数はまだわかっていません。しかしおそらく犠牲者はいるだろうと思います。国家安全局と第4行政区庁からまもなく発表されるでしょう。しかし、これは断言できますが、地震計が指した値と同じだけの被害はあるでしょう。このあたりは貧しい地域です。住居はアドベで出来ています。こういった場合、メルカリ震度を用いた方が体感を計るのには適切で、現在までの情報を鑑みると、震度9のプニタキは、皆さん、もう跡形もありません。いまだに揺れつづけている地面の上に倒れているのでしょう」。
朝になって、私が読んだ新聞は全紙、プニタキの町は全滅していると書いた。私の不幸な発表以来、プニタキは大災害ということになったが、バルディビアよりも被害が軽いのは明らかだった。大地に亀裂が入ったわけでもなく、津波が来たわけでもない、記録的な何かがあったわけでもなかった。その崩壊した町では、8人の死者が出たが、その場所の住宅の半数以上が倒壊したと考えられるにしては、考えられない数字だった。
プニタキとその周辺には5日間滞在した。私は自分を俳優のように感じた。何年もの下積みの後、とうとう本物の舞台の上に立ち、入場料を払った観客がそこにいるのだ。人々は私に寝床と食事を提供した。皆が私のことを信頼していた。新聞は一面に私を載せ、国中のいくつものラジオで何時間も話した。
意図したわけではないが、あるいはおそらく、ずっと前からそうしようはしていたのだろうが、私はその町、その地域についての権威になっていた。自分が有用な人間であると感じたり、敬意を持たれたり、何某かの者として扱われるのは心地よかった。
「また起こるだろうか?」、エドゥアルド・フレイ大統領が、プエブロ・ヌエボで私に尋ねた。
すぐに答えずに、しばらく考え、砂漠とアンデス裾野の強烈な太陽の日差しを受けた彼の顔を見た。その瞬間私はこの国の運命の支配者だった。
「その質問は、大統領、起こるかどうかではなく、いつ起こるか、です。この国では誰もその質問をしないし、したくないのです。チリでは、すべて皆死んでしまうのです。たしかにそれはすべての人間の運命かも知れませんが、私たちにはさらにもう一つ掛けられる十字架があるのです。すべて私たちは、おそらく私たちを全滅させてしまう、私たちが勝ちとってきたものすべてを破壊してしまう地震に見舞われるのです」。
朝になるまでに私は、プニタキの最も権威ある機関の重要人物になっていた。大きな余震が起こった後、人々は自主的に様々なことを私に告白し始めた:「父親から盗みをはたらきました」、「娘を犯しました」、「女装するのが趣味なんです」、「弟の息子は私の子供なんです」。
サンティアゴに戻ると当時の研究所の所長は、私を停職させると脅した。スポークスマンをすることを禁じ、起きたことは忘れろと言った。
「これは科学なんだ。見せ物じゃないんだ」、こう真面目な顔をして言った。
「仰るとおりです。もちろん見せ物じゃなんかじゃありません。スポークスマンをやりたいわけじゃないんです。ただ、もう少し多く知ることができたらいいと思ってるだけです。次の学期は授業を受け持ったらと思ってるんです。現場に行って調査がしたいんです」。
これは5年前のことだった。そして今は私が研究所の所長だ。
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