Sunday, September 9, 2007

temblar(10) una ciudad destruida

一昨日、久しぶりに神戸まで、チャリで出掛けた。いまだに30℃を超える気温で、どれだけ出るんだというくらい汗がでる。神戸はメリケンパークまで。今少しずつ準備している"temblar"というタイトルのビデオのためにいくつか撮影をする。"temblar"は、今翻訳しているアルベルト・フゲーの小説『Las películas de mi vida 』に、ぼく自身の人生を重ね合わせて見ようという試み。以前に触れたこともあると思うけれど、フゲーとぼくはほぼ同世代。『Las películas de mi vida 』は、彼がかつて見てきた映画を振り返りながら自分自身の人生を振り返るというもので、当然ぼく自身も成長の過程で見てきたものも多いし、見てないにしても、だいだいどんなものかは知っている。
フゲーは、10歳くらいまでカリフォルニアで育ち、その後軍事政権下のチリへ戻った。その後、アメリカの大学へ留学して、作家となる修行をした。英語とスペイン語の二重生活が彼の作品を規定している。ぼくは、大学を出た後、南米を旅し、サンティアゴでしばらく勉強していたこともある。日本語とスペイン語の二重生活はぼく自身の人生を規定している。育った場所も文化もまったく違うが、重なる部分もある。
しかし、フゲーというまだ翻訳も出ておらず、まったくというほどここでは知られていない作家と自分の人生を重ねてみるということが可能になったのは、明らかにグローバリゼーションという今の時代が背景にある。あっちとこっちではなく、映画というグローバルな文化に支えられた、一つのぼくらの世界がある。そんなこととかも描ければいいのだけれど。

神戸まで行ったのは、フゲーの小説のこんな一節を読んだからだ。

『ブリット』は、父と母と観た。スティーブ・マックイーンの出ている他のすべての映画と同じように、また車とスピードに関連した他の映画と同じようにだ。『ブリット』は、すぐさま父を思い起こさせる。ほとんど反射的にだ。そのとき、私たちが一緒に観たときのことは曖昧にしか覚えていないのだが。
 数年前に日本で、もっと正確に言えば神戸で、95年の地震の後で、緊急で現場での会合が催された。地表での長い一日を終えて、私の崩れたホテルの微細な部屋へ帰った。テレビをつけ、『ブリット』のスティーブ・マックイーンを見た。マックイーンがパジャマを着ているのが注意を惹いた。そんなことは思いもしなかったのだ。そして何か日本語で言ったが、当然分からなかった。しかし見つづけた。そして、マックイーンが私の父と同じように、彼の家族とほとんど話しをしないのに気づいた。『ブリット』の筋を追うのは、とても容易かった。天才であったり、国連の同時通訳であったりする必要はなかった。起こることは、ごく単純だった:一人の刑事が、護らなければならなかった証人を殺され、自分で制裁を加えることにする。テレビを消さず、つけっぱなしにして、唯一覚えているシーンを待った:サンフランシスコの通りでの激しい追跡劇で、ラロ・シフリンの音楽がバックで鳴り響いている。マックイーンは緑のマスタング390GTに乗って丘を飛んでいる。
 普段は父のことは思い出したくないし、スピードの出る車やきっちり止まらない車のことを考えるのも嫌なのだが、『ブリット』は、私たちに絆のようなものあったわずかな数年間を思い出させる。実際に、私たちが繋がっていたことがあるかどうかもわからないのだけれどだ。おそらく私にとって大きな過ちは、チリに生まれ、コンセプションで数ヶ月を過ごしたこと、そしてソレールよりニーマイヤーであったこと、牛乳屋やパン屋の道に進まず、地震学者になってしまったことだった。あの夜、アクセルを踏んだとき、『ブリット』と『栄光のル・マン』のこと、スティーブ・マックイーンとポール・ニューマンのこと、黒いポルシェと黄色いBMWのことを思ったのを覚えている。

震災の前後、ぼくの人生はかなりめちゃくちゃだった。チリから帰って、精神のバランスを崩して元町にあるクリニックに通って定期的に精神分析を受けていた。箱庭療法なんかもやっていてぼくが使うアイテムといえば、いつでもマリアさまの像と花と、ギターだけだった。毎回毎回そんな日がつづいたとき、ぼくは初めて車を使ったらしく、その後カウンセラーの女性は、それは「父親」を象徴していると説明した。それが妥当なのかどうかわからないけれど、自分の中に父性のようなものが欠けているのはよくわかっていたから、すんなり納得はしていた。フゲーがやはり、車と父親を、結びつけているのは偶然なのかどうなのか。これも世代的な括りで理解した方がいいのか。しかし、ぼくの父親は、たしかに車に情熱を持っていた。当時大阪で2台しかないというポルシェに乗っていたし、外国語の車の雑誌やレースを実況したレコードやミニカーが部屋を一杯にしていた。ぼくこそ、車と父親とを関連づけるのに相応しいとは思う。

このころ、それまで即かず離れずでいた大学時代の同級生との関係がどんどん深くなっていた。彼女には夫も子供もいたけれど、寂しすぎて傲慢になっていたぼくらには、そんなことはどうでもよくなっていた。会うときはよく神戸に来てお互い不安なままよく海を見ていた。だんだんそんな関係に無理に来ていた頃、震災が起こった。薬を取りに行くためクリニックへ行かなくてはならなかった。電車が全てストップしていたので、そのとき唯一の交通手段で、今津から船でメリケン波止場へ着いた。船の上から神戸の方を眺めると、よく晴れた天気で、静かな光景が遠くにひろがっていて、ほんとうに地震が起こったのか?と思うくらいだった。メリケン波止場のぼくらがよく座っていた辺りは、ぼろぼろに崩壊していて、まるでぼくらの関係を象徴しているみたいだった。

色んなことを思い出しながら、撮影を終え、帰りに六甲道に寄り、山手幹線沿いの四川で昼食。香辛料のよく利いた麻婆豆腐がおいしい。そのまま山手幹線を東へ走らせて帰る。工事がつづいているがだいぶ芦屋に近いところまで完成していて、まだそんなに交通量も多くないので、道路を独占して気分もよい。

No comments: