HAT神戸にある109シネマズに『バベル』を見に行ってきた。
公開初日を待って行くなんていうのは、ぼくにはかなりめずらしいこと。でもアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥの3年ぶりの新作で、菊池凛子がアカデミーにノミネートされたこともあって話題にもなってなので、ずっと楽しみにしていた。混むといやなので、最近はネットで席を予約するシステムもあって前日に席もキープしておく。
なんだけれど、そんなみんなが押しかける映画じゃないっていうのはよく考えればわかることで、初日一回目の上映は、2割くらいしか客席は埋まってなかった。団塊の世代の夫婦らしいカップルが多かった。
『バベル』は、イニャリトゥの映画にしては解りやすくなったと言えるんじゃないかと思う。それとも3つのストーリーが時間が前後して同時進行するというギジェルモ・アリエガの脚本にぼくらが慣れてきたんだろうか。物語がライフル一本でつながってしまうというのは彼らにしてはシンプルすぎたような気がする。それでも日常が、ちょっとずれただけでどんどん予想外の方向へ転がっていってしまう、この映画の展開は、ぼくらがどんなあやふやなものにのっかって生きているのかを思い出させるにはじゅうぶんに説得力のあるものだった。
イニャリトゥとアリエガの映画がストーリーを複数にして様々な観点である物事を描いていくことを考えていると、最近新しい翻訳で出たロレンス・ダレルの『アレキサンドリア四重奏』を思い出していた。あるストーリーを4人の人物の視点で描いていくこの小説の複雑さに比べればこの映画は、まるでお子様向けだけれど、既成の何かに挑戦してオルタナティブなものを提示しようという姿勢は共通している。ダレルは、視点を分割するのはアインシュタインの相対性理論に基づいたと言っているが、このイニャリトゥの映画は、グローバル化する世界を描くごく当たり前の形式になってしまったと見ることも可能。現実に追いつかれてしまったということか。
この映画の舞台の一つは東京で、そういえば日本の映画やアニメがハリウッドに徐々に浸透していっているのと、彼らのメキシコの映画が進出しているのとは同じ現象なのだと気づく。ラストシーンに流れる深くて、繊細な感情は、アメリカ人には表せないもののひとつなんだと思う。ぼくたちもいい加減サラウンドがぐるぐる回るだけの映画を見るのをやめてもう少し繊細なものをわかるようにならなきゃね。
それにしても、『アモーレス・ペロス』の頃は、ラテンアメリカに興味ある人たちの中での限られたブームだったのに、あっと言う間に世界的な監督になってしまった。ずっと音楽をやっているグスタボ・サンタオラージャにしても、ラテンアメリカ・ロックの優秀なプロデューサーという地位から、どんどん世界に名前を知られるようになってしまった。坂本龍一がアカデミー音楽賞を受賞して一気に世界的な音楽家になったのをふと思い出した。
アリシア役のアドリアーナ・バラサのいかにもメキシコのおばさんといった優しいスペイン語がとても気持ちいい。ぼくはもうちょっと限界かも知れないね。スペイン語が当たり前に話されているところに戻りたい。
1 comment:
初めまして。
ロレンス・ダレルでたどってきました。
『バベル』は未見ですが、違う視点からいくつかの物語を描くというのはイニャリトゥの十八番なのでしょうね。でもまあ、『アレクサンドリア』ほどの小説世界は2時間そこらの映画ではとうてい無理ってもので。
でも、この小説を思い出させた、ということで、ちょっと観てみたくなりました。
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