Wednesday, April 30, 2008

『移動の技法』#8


そして、当然のようにわたしはこの部屋でひとりでいるのだ。部屋がそこになんの感情も情緒も満たされぬとき、ひとつの窓があれば救いとなるだろうか。天空がフレーミングされ、それは記憶へと変容する。(血を引き裂く夕映え!)。カルメンは、大通り沿いの部屋でテレヴィを観ている。わたしは通りと反対側の個室。冷たくなった乳白色の壁。その冷たさを感じるためにそれを愛撫している。頬、そして掌。感じる、冷たさ。もうひとつの姿勢。アラン・ドロンモニカ・ヴィッティ<の>冷たい熱情。天空。壁。世界。愛。

Tuesday, April 29, 2008

シネマ2*時間イメージ


最近家では、ドゥルーズの『シネマ2*時間イメージ』を読みながら、参照されている映画を借りてみたり、モティベーションを高めて、ビデオの編集をしたりということをつづけている。
このブログに『移動の技法』をアップロードし始めて、サンティアゴの下宿で、持って行っていたドゥルーズのインタビュー集を何度も繰り返し読んでいたことを思い出し、『移動の技法』にも引用されているのだけれど、そのおおもとが、『シネマ2*時間イメージ』から来ていることがよく分かる。

『シネマ2*時間イメージ』は、映画が、今は娯楽の一つでしかないように思われてもいるのだけれど、ではなくて20世紀に始まった、思考のまったく新しい方式であることを述べている。ドゥルーズの最初の本はベルグソンについてのものだったのだけれど、ベルグソンが活躍していた時代と映画の誕生は同時期で、その思想との関連性はよく言われていて、この本にも何度もベルグソンは参照されていて、ほとんどベルグソンについての本であると言ってもいいくらい。
頭おかしいくらいのアイデアで溢れていて、ほとんど理解不能なところも多いのだけれど、ときおり、こんなため息がでるような文章が現れる。

現代的な事態とは、われわれがもはやこの世界を信じていないということだ。われわれは、自分に起きる出来事さえも、愛や死も、まるでそれらがわれわれに半分しかかかわりがないかのように、信じていない。映画を作るのはわれわれではなく、世界が悪質な映画のようにわれわれの前に出現するのだ。『はなればなれに』でゴダールはいっていたものだ。「現実的なのは人々であり、世界ははなればなれになっている。世界のほうが、映画で出来ている。同期化されていないのは世界である。人々は正しく、真実であり、人生を代表している。彼らは単純な物語を生きる。彼らのまわりの世界は、悪しきシナリオを生きているのだ」。引き裂かれるのは、人間と世界の絆である。そうならば、この絆こそが信頼の対象とならなければならない。それは信仰においてしか取り戻すことのできない不可能なものである。信頼はもはや別の世界、あるいは、変化した世界にむけられるのではない。人間は純粋な光学的音声的状況の中にいるようにして、世界の中にいる。人間から剥奪された反応は、ただ信頼によってのみとりかえしがつく。ただ世界への信頼だけが、人間を自分が見かつ聞いているものに結びつける。映画は世界を撮影するのではなく、この世界への信頼を、われわれの唯一の絆を撮影しなくてはならない。われわれはしばしば、映画的幻覚の性質について問うてきた。世界への信頼を取り戻すこと、それこそが現代映画の力である(ただし悪質であることをやめるときに)。キリスト教徒であれ、無神論者であれ、われわれの普遍化した分裂症において、われわれはこの世界を信じる理由を必要とする。これはまさに信仰の転換なのだ。........


サンティアゴの下宿で、何度もドゥルーズを読んでいたのは、まさに「世界への信頼を取り戻す」ためだっただろうし、今でも基本的に日々やっているのは、自分をこの世界に繋ぎ留めるための努力であると言い換えられるかも知れない。

『移動の技法』#7

そしてまた曲線の主題。夕刻、西日射す頃その緑色のバスはアラメダを右折してマルコレタへ入りビクーニャマッケンナへ向かうカーブをゆっくり曲がる。バスの小窓からフッと風が流れて「移動の技法」がやって来た。至福なる時間。しかしながら起こったことはこれだけ。つけ足すことも差し引くこともなにもない。それをわたしは「移動の技法」と名づけた。サンティアゴ。

整理しておこう。夕刻。バスの曲線運動。思いがけない微風。(ローレン・ハットンの髪がフワリと靡いている)。そして、客席に漂う通奏低音のような疲労。天駈ける旋律を奏でているのは誰なのだろう。(誰なのだろう)。隣のバスクセンターでは、名も知らぬ球技に男たちが興じる音がつづいている。血を引き裂く夕映え!サンティアゴ。ビクーニャマッケンナ765番地。

Monday, April 28, 2008

『移動の技法』#6

目を開けても閉じてもその暗闇はかわりはしない。音楽も鳴らぬなら不眠の夜は記憶の映像が封印された霊廟を破って生きたひとさながら耳もとで様々な言葉、言葉にならぬ言葉を囁いていくことだろう。階下のいまは使われていない海岸側の食堂で、ひとり老人が古風な背広姿で立ってこちらを見ていたのはその日の昼のこと。薄い窓からの光に老人は影となっている。「セニョール?。ここは....シニョーレ?」。無言。そして、フェードアウト。(コノデンワハバンゴウガカワッテオリマス)そのコンピュータライズされた音声によって街は崩壊しはじめる。ノン(否)。壊れたのはわたしの記憶だけ。街はキリル文様に変形するだろう。「いいですか。あなたの頭が壊れたのじゃなくって、グランドキャニオンにひびが入ったと思ってごらんなさい(*)」と彼女は言った。彼女とは誰のことだったのか。街の鍵は誰が握っているのか。ベルナルドはそれを放棄した。教皇に糞を投げてやった。老人の影が立っている。彼はどこに行きそびれたのか。そばでテーブルを囲んでいたひとたちはどこへ行ってしまったのか。わたしもそのなかのひとりであったのだろうか。わたしもひとつの影であるのであろうか。マリサに会わなければ、でなければわたしは壊れてしまう。バスはキルプェに向かった。ジョン・セカダのヒット曲ががんがん鳴っている。陽光のもとそれはカーブを回る。(、、、、、、)!

(*)“Listen! The world only exists in your eyes -- your conception of it. You can make it as big or as small as you want to. And you’re trying to be a little puny individual. By God, if I ever cracked, I’d try to make the world crack with me. Listen! The world only exists through your apprehension of it, and so it’s much better to say that it’s not you that’s cracked -- it’s the Grand Canyon.”

“Baby, et up all her Spinoza?”

“I don’t know anything about Spinoza. I know -- “ She spoke, then, of old woes of her own, that seemed, in telling, to have been more dolorous than mine, and how she had met them, overridden them, beaten them.
F. Scott Fitzgerald "The Crack-Up"

Sunday, April 27, 2008

病院

週末急に呼吸器くんが入院し、病院へは救急車で行ったので、車椅子を届けてほしいということで、昼過ぎから事務所の車に車椅子を積んで、神戸大学病院まで行ってくる。最近、iPod用のFMトランスミッターを使い始めたので、連休に入って道は混雑して、普段よりかなり時間はかかったが、退屈はぜずにすんだ。
肺炎ということだったが、案外顔色はよくたいしたことはなさそうで、一安心。しばらくお喋りして帰ったら、もう薄暗くなり始めていた。いつもはこれから泊まりに入る時刻で、ぼくの最もハードな曜日のはずなのに、仕事がなくなんとなく手持ちぶさたな感じ。
何人かに声をかけてみたけれど、みんな予定があるということで、帰宅し一人でうちの近くにある台湾料理の店龍園で、ビールを一杯やりながら、鶏手羽のからあげと焼き飯。おそらく昔つきあってた女の子と来て以来で、4年ぶりくらいか。そのときは隣の方の席で江本が食っていた。ここはうまいんだけれど、カウンターだけの店なので、店の人との距離が近すぎて一人ではあんまりいかない。一人で行って改めて店の中を眺めてみると、まったく違った店に見えた。

Saturday, April 26, 2008

『移動の技法』#5

眠れぬ夜にロンドが舞っている。目を開いても閉じてもその暗闇はかわりはしない。かつて修道院だったとも言われるその宿の夜の静けさ。(「旅に出ると記憶に押しつぶされそうになる」)、いつか旅行者の友人がわたしに呟くように語った。ロンドの速度が増し、舞踏病の姉さんが階上で惚けたように爪先を交錯させるのが見えるようだ。姉さん。そして夜の静けさが破け、天上が破け、姉さんが降ってきた!姉さん、。白い花嫁。1992年12月24日。ウルグアイ69

Thursday, April 24, 2008

『移動の技法』#4

褐色のマリア。その皺の入った年老いた顔。それは何年経っても年老いたままだった。わたしは日毎に老いていく。わたしの青年期と老年期。メキシコ・シティ。たとえば、ホセ=アントニオ。トーニョ。一枚の写真のなかで彼はアロハシャツを着て右手にナイフ左手にバナナを握りベッドに腰かけている。目は笑ってない。そしてわたしの部屋のまえに座り込んで言う。「疲れきっている」。精神的にも経済的にも破綻をきたしている、どうかもっと安い宿を探しにゆくのにつき合ってはくれまいか。そしてわたしたちはセントロ中その安い宿とやらを探しに潜ったり上ったり半日を費やしたわけだ。(インディオの群につぶされそうなひとりの白人とひとりの東洋人。チューブ。管。)疲労はわたしにも伝染しており、ホテルにはあと半ブロック。帰る寸前、にやりと笑って彼はわたしに言うだろう。「と、いうわけで結局ここにとどまることにした」。わたしの部屋の洗面台には洗いかけの衣類が残っている。そんな一日もある。メキシコ・シティ。(そうしたあいだにも老マリアは、モップで廊下を拭っている)。老化と疲労。活力はけっして伝わらないと言ったのはフィッツジェラルド(*)だった。メキシコ、翼ある蛇

(*)I felt a certain reaction to what she said, but I am a slow-thinking man, and it occurred to me simultaneously that of all natural forces, vitality is the incommunicable one. In days when juice came into one as an article without duty, one tried to distribute it -- but always without success; to further mix metaphors, vitality never “takes.” You have it or you haven’t it, like health or brown eyes or honor or a baritone voice.
F. Scott Fitzgerald "The Crack-Up"

Wednesday, April 23, 2008

『移動の技法』#3

国境を越える、このことが現実味を帯びて感じられていたのはいつの頃だっただろう。メディアが報道していたウェットバックが当たり前のようにして眼下の川を渡っていく。わたしはポケットに一杯になったペニーを数えて通行料を払う。落としたペニーは拾ってはいけない。それなら食べてしまおう。(口腔。暗闇に輝く金属。チリン、と音がする。)「あれは?」教会の鐘の音?「ウルグアイ69」。何度この番地を口にしたことか。D・H・ロレンスホテル(*)。すぐうしろには、巨大な古い教会があって、その筒型の屋根がうずくまっている動物の背のように盛りあがり、円屋根はふくらんだ泡のようで、黄色や青や白のタイルをのせて、きつく青い天空にきらめいている。長いスカートをつけたインディアンの女たちが、せんたく物をかけたり、石の上にひろげたりしながら、しずかに屋根の上で動いている。動いている。うごいて、いる。「何時だい?」。マリアがモップで廊下を拭きながらわたしの部屋に来てそう訊ねるときそれはいつも夕方の5時だった。夕方の5時になるとマリアはわたしの部屋のまえで立ちどまり、モップで廊下を拭う手を休め、スッと腰をのばし軽く息をして、「何時だい?」と訊ねる。それは、夕方5時だった。かくしてリオ・グランデ川を渡る。エル・パソ

(*)Postcard from D.H. Lawrence, Hotel Monte Carlo, Avenue Uruguay 69, Mexico City to Mary Cannan; 12 Apr. 1923.

He likes Mexico better the longer he stays and is tomorrow going to Puebla, then to Tehuacan and Orizaba; may take a house here; he is 'getting tired of travel' but when he tries to come to England something in him 'resists always'; refers to the picture on the verso, 'the third young man is a young Amer. friend [Willard Johnson] - the others the two Mexican chauffeurs'; asks if she is 'sitting good and still'; signed 'D.H.L.'

The card is addressed to 'Mary Cannan, 42 Queens Gardens, Hyd[e Park], L[ondo]n; it bears a red 1.5d stamp and a brown 10 centavos stamp and is postmarked 'Mexico D.F. 12 ABR 1923'; the verso of the postcard is a photograph of Frieda Lawrence, D.H. Lawrence, Willard Johnson and 2 Mexican Chauffeurs.

Tuesday, April 22, 2008

DOS HORAS

チリの作家・映画監督アルベルト・フゲーが、自作の"Cortos"を映画化しているそうで、自分のブログで公開している。
興味深いのは、これがパナソニックのごくごく普通のデジカメを使って撮られていることで、チリの新聞でもそのことにスポットが当てられて紹介されている。フゲーは、この"Cortos"という作品のDVDヴァージョンを作りたいんだと自分のブログに書いている。それにしても、昨今のデジタル商品の進化のテンポはおそろしいくらいで、おそらく子供の運動会を撮っているお母さんが持ってるHDビデオカメラの方が、一時代昔のカメラよりよっぽどクリアに撮れるんだろうと思う。むしろ、プロのクリエーターと呼ばれる人たちが工夫してヴァージョンダウンした機材を使い始めているような感じもする。それにルミックスのレンズはライカだしね。末端の商品にこうしたレンズが付いている、このごちゃまぜ感が現在なんだろうか。
「ご覧のように、何にもなくて、まるで書くように撮影している」。機材がこれほど軽くなればこうした感覚はどんどん進んで、映像作品はますます個人的なものにならざるを得ないだろう。しかし、こんなことはすでにゴダールが1980年代に考えていたことを忘れてはいけない。彼は、監督が自分で8㎜のように撮影できる35㎜カメラをアトン社の技術者に作らせた。『パッション』の冒頭の息をのむようなシーンはそれで撮られていたはずだ。
アルベルト・フゲーに関しては、『ユリイカ』の3月号に、安藤哲行という方が「マッコンドとクラック 新しいラテンアメリカ文学をめざして」という一文を寄せていて、たぶんぼくがラティーナに載せた以外では、日本では初めてのフゲーの紹介になってるんじゃないかと思う。 

Monday, April 21, 2008

Cervantes TV

ミクシーのコミュニティ経由で知ったのだけれど、スペイン語学習の膨大な情報を網羅しているヴァーチャル・セルバンテスなんかもやってるスペインのセルバンテス協会が、ネットテレビも始めている。
この手のサイトは、とくにスペインでどんどんできていて、毎日の話題が見られるMobuzzTVもそう。今どんどんできているこんなサイトを色々集めたこのサイトも便利。

セルバンテスTVのプログラムに、コロンビアのカルタヘナで行われたガルシア=マルケスへのオマージュの模様を映したものがあったのだけれど、バジェナートの演奏に囲まれたガボのなんという幸福そうな表情。このしっかり保存されている「文化」の香しさはなんということだろう!
それに比べてぼくらの毎日なんてまるで紙切れみたいだ。

『移動の技法』#2

友人がひとりいた。旅に出るまえに一本のカセットテープを作ってくれ、そのなかに、ビーチボーイズの 『Party』が入っていた。ビートルズのヒット曲を彼らがパーティ仕立てで吹き込んだものだ。当時のわたしの宿はグレイハウンドの座席で、一日街をぶらついて、夜になるとバスに乗り込んで犬みたいに、眠る。眠るまえのわずかな時間、ウォークマンでそれを聴きながら、頭のなかでひとりパーティをやる。(点滅するライト。10トントラックが追い抜いていく。)一日誰とも話さなかった夜。どこからともなく立ちのぼってくる消毒液の匂い。(それはアメリカの匂いだ)“You got to hide your love away ”が流れて来たとき、更けた夜の空に月が浮かんでいて、グレイハウンドは波のうえをアップダウンする。ゆっくり、、そう、ゆっくり。サクラメント=「移動の技法」。

Saturday, April 19, 2008

『移動の技法』のための覚書



職場の若い友人が、ぼくが昔に書いた文章をおもしろがってくれるもんだから、調子に乗って別ブログに載せていたものをリンクつきで再掲してみた。10年も前に書いたもので、もう書いた当時のことは忘れていもするのだけれど、まったくプライベートに書いたもので、自分の書いたものの中ではやはりもっとも愛着があるものだと思う。
これは1997年に書かれていて、その前年には大量服薬で病院に運ばれたりしているし、98年にはすでに今の仕事を始めていたので、何か狭間の移行期に書かれていて、どこかそれまでのことにけじめをつけたかったのだと思う。

これは、一言で言うと、何年も旅をつづけていて「消尽」してしまい、あの旅の一瞬が捕らえられなくなった様子を描いている。散文詩のような形式はボルヘスの影響だし、当時読んでいたベケットや、ドゥルーズのベケット論の影響も見られる。昨年かその前の年かに読んでいた本に、次のような一節を見つけて、自分がやっていたことが、ほぼ正確な形で定式化されていると感じた。遅かれ早かれ留保された到着はやって来ざるを得ず、これを書いた時がそうだったのだと思う。ちなみに、ぼくはここで初めて「わたし」という一人称を使った。これ以後、媒体に書くときは「ぼく」ではなしに「わたし」で書くことにしたと記憶している。

「ニューエイジ・トラベラーは1970年台末にイギリスに登場し、非常に多様な階級を出自とする新しいコミュニティによって構成されている。彼らは職業や体面、家族についての支配的な価値観を拒否するという点で共通性を持ち、持続可能で、より有機的な生活様式に基づくオルタナティブなライフスタイルを求めている。彼らは脱物質的な価値観の表現とみなされ、純粋に「文化的な」社会運動を代表している。ニューエイジ・トラベラーは、支配的な社会を変革しようと望むよりも、自由の支配するロマンティックなオルタナティブを求めてそこから避難する。しかし、境界的な瞬間や旅の途上の瞬間にしか自由を見いだすことができないのであるから、そこでの要点は到着の一時的な留保につきる。」ジェラード・デランティ『コミュニティ』p201-202
『移動の技法』は、その「瞬間」がどんどん切り詰められて、最後にはなくなってしまう課程である。



『ミスター・ロンリー』→ハーモニー・コリン→ヴェルナー・ヘルツォークという流れで、もう何年かぶりに『小人の饗宴』を見ながらこれを書いているのだけれど、とても素晴らしい。身に染み入るような、この素晴らしいという感覚はいったい何だろう?

Friday, April 18, 2008

『移動の技法』#1


「移動の技法」は予告なくやって来る。そのときわたしは古びたサニーの後部座席に身を包まれており、その夜は大晦日の晩で、女友達の家族とともに新年を祝ったのだった。(クンビアがまがりくねっていた)。わたしをゲレロ地区にあるその家からセントロのホテルへと送り届けようとしていたのは誰だったのか。その男をもうわたしは覚えていない。むしろ、こう言うこともできるだろう。その匿名性は、「移動の技法」のためのひとつの条件であったと。車がレフォルマ・ノルテからラサロ・カルデナスを通って、どこかの小道から突如としてソカロのサーキュレーションに入ったとき、「移動の技法」はやって来た。ソカロは12月になるとその四面に巨大な電飾のモザイクを描き、クリスマスと新年を光り輝かせる。(..feliz navidad..feliz año nuevo..)それは一瞬のことである。その瞬間を捉えたものに幸いあれ。そしてまたそれは永遠でもある。が、永遠は捉えられない。車はゆっくりとその循環に入り、大統領府と反対側の車線を走る。ゆっくりと、そう、ゆっくり。あるいは停車したかも知れない。車窓が電飾を切り抜き、そのとき「移動の技法」が訪れた。彼の顔面には電飾が明滅していたのだろう。彼は気づかない。記憶されているのは疲労とある種の姿勢。それを形容することは、むずかしい。疲労とある種の姿勢。移動の技法。

Saturday, April 5, 2008

Mr.lonely

昨夜、シネカノン神戸のレイトショーでハーモニー・コリンの『ミスター・ロンリー』見に行く。最終日だったからか、8時半の開映にもかかわらずそこそこお客さんも入っていた。
デビュー作の『ガンモ』や前作『ジュリアン』は、かなり話題になっていたようだったけれど、前作はすでに8年前、このころぼくはまったく映画を見ていなかったので、これらの映画も、監督のハーモニー・コリンについても今回初めて知った。
しかしこれはとてもいい映画だと思う。感動した。マイケル・ジャクソンの真似をする、パリに住むアメリカ人のものまね芸人が、やはりアメリカ人で、マリリン・モンローのもの真似をする女性に出会って、彼女に誘われて、スコットランドのものまね芸人のコミューンに行く、というメインのストーリーに、ニュージャーマンシネマの監督、ヴェルナー・ヘルツォークが演じる神父が布教するパナマのストーリーが平行して挿入される。
これだけ書いてしまうと、訳わからないだろうけれど、この映画には、孤独とか行きすぎてしまう欲望とか、人間であったらどうしようもなく持ってしまう様々な感情が詰まっていて、胸が苦しいくらい。日本でも一時やたらモノマネ番組が流行った頃があったけれど、あれは、モノマネの方が真実っぽいという風に、みなが感じるようになった転換点だったのだと思う。この映画はそうした人の本質をよく見ていて、一見おかしな人たちも物語だという風に見ていたのが、これはまさしく現実の私たちがやっていることそのものなのだと思えてくる。

『ジュリアン』にも出ていた、ヘルツォークの映画から神父のストーリーのモチーフは出ているのだろうけれど、それが常軌を逸した人の物語ではなく、ごくごく目の前で行われているように淡々としているのは、『ジュリアン』を評した浅田彰が言うように、時代がそうしたものに飲み込まれてしまったということか。
浅田彰も、ここでヘルツォークの『小人の饗宴』と対比をしているけれど、この映画の最後芸人たちが、一世一代のショーをするところは、まさしく『小人の饗宴』そのものだった。
過去の作品もチェックしようと思う。監督のインタビューはこちら