Tuesday, April 29, 2008
シネマ2*時間イメージ
最近家では、ドゥルーズの『シネマ2*時間イメージ』を読みながら、参照されている映画を借りてみたり、モティベーションを高めて、ビデオの編集をしたりということをつづけている。
このブログに『移動の技法』をアップロードし始めて、サンティアゴの下宿で、持って行っていたドゥルーズのインタビュー集を何度も繰り返し読んでいたことを思い出し、『移動の技法』にも引用されているのだけれど、そのおおもとが、『シネマ2*時間イメージ』から来ていることがよく分かる。
『シネマ2*時間イメージ』は、映画が、今は娯楽の一つでしかないように思われてもいるのだけれど、ではなくて20世紀に始まった、思考のまったく新しい方式であることを述べている。ドゥルーズの最初の本はベルグソンについてのものだったのだけれど、ベルグソンが活躍していた時代と映画の誕生は同時期で、その思想との関連性はよく言われていて、この本にも何度もベルグソンは参照されていて、ほとんどベルグソンについての本であると言ってもいいくらい。
頭おかしいくらいのアイデアで溢れていて、ほとんど理解不能なところも多いのだけれど、ときおり、こんなため息がでるような文章が現れる。
現代的な事態とは、われわれがもはやこの世界を信じていないということだ。われわれは、自分に起きる出来事さえも、愛や死も、まるでそれらがわれわれに半分しかかかわりがないかのように、信じていない。映画を作るのはわれわれではなく、世界が悪質な映画のようにわれわれの前に出現するのだ。『はなればなれに』でゴダールはいっていたものだ。「現実的なのは人々であり、世界ははなればなれになっている。世界のほうが、映画で出来ている。同期化されていないのは世界である。人々は正しく、真実であり、人生を代表している。彼らは単純な物語を生きる。彼らのまわりの世界は、悪しきシナリオを生きているのだ」。引き裂かれるのは、人間と世界の絆である。そうならば、この絆こそが信頼の対象とならなければならない。それは信仰においてしか取り戻すことのできない不可能なものである。信頼はもはや別の世界、あるいは、変化した世界にむけられるのではない。人間は純粋な光学的音声的状況の中にいるようにして、世界の中にいる。人間から剥奪された反応は、ただ信頼によってのみとりかえしがつく。ただ世界への信頼だけが、人間を自分が見かつ聞いているものに結びつける。映画は世界を撮影するのではなく、この世界への信頼を、われわれの唯一の絆を撮影しなくてはならない。われわれはしばしば、映画的幻覚の性質について問うてきた。世界への信頼を取り戻すこと、それこそが現代映画の力である(ただし悪質であることをやめるときに)。キリスト教徒であれ、無神論者であれ、われわれの普遍化した分裂症において、われわれはこの世界を信じる理由を必要とする。これはまさに信仰の転換なのだ。........
サンティアゴの下宿で、何度もドゥルーズを読んでいたのは、まさに「世界への信頼を取り戻す」ためだっただろうし、今でも基本的に日々やっているのは、自分をこの世界に繋ぎ留めるための努力であると言い換えられるかも知れない。
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