Saturday, April 19, 2008

『移動の技法』のための覚書



職場の若い友人が、ぼくが昔に書いた文章をおもしろがってくれるもんだから、調子に乗って別ブログに載せていたものをリンクつきで再掲してみた。10年も前に書いたもので、もう書いた当時のことは忘れていもするのだけれど、まったくプライベートに書いたもので、自分の書いたものの中ではやはりもっとも愛着があるものだと思う。
これは1997年に書かれていて、その前年には大量服薬で病院に運ばれたりしているし、98年にはすでに今の仕事を始めていたので、何か狭間の移行期に書かれていて、どこかそれまでのことにけじめをつけたかったのだと思う。

これは、一言で言うと、何年も旅をつづけていて「消尽」してしまい、あの旅の一瞬が捕らえられなくなった様子を描いている。散文詩のような形式はボルヘスの影響だし、当時読んでいたベケットや、ドゥルーズのベケット論の影響も見られる。昨年かその前の年かに読んでいた本に、次のような一節を見つけて、自分がやっていたことが、ほぼ正確な形で定式化されていると感じた。遅かれ早かれ留保された到着はやって来ざるを得ず、これを書いた時がそうだったのだと思う。ちなみに、ぼくはここで初めて「わたし」という一人称を使った。これ以後、媒体に書くときは「ぼく」ではなしに「わたし」で書くことにしたと記憶している。

「ニューエイジ・トラベラーは1970年台末にイギリスに登場し、非常に多様な階級を出自とする新しいコミュニティによって構成されている。彼らは職業や体面、家族についての支配的な価値観を拒否するという点で共通性を持ち、持続可能で、より有機的な生活様式に基づくオルタナティブなライフスタイルを求めている。彼らは脱物質的な価値観の表現とみなされ、純粋に「文化的な」社会運動を代表している。ニューエイジ・トラベラーは、支配的な社会を変革しようと望むよりも、自由の支配するロマンティックなオルタナティブを求めてそこから避難する。しかし、境界的な瞬間や旅の途上の瞬間にしか自由を見いだすことができないのであるから、そこでの要点は到着の一時的な留保につきる。」ジェラード・デランティ『コミュニティ』p201-202
『移動の技法』は、その「瞬間」がどんどん切り詰められて、最後にはなくなってしまう課程である。



『ミスター・ロンリー』→ハーモニー・コリン→ヴェルナー・ヘルツォークという流れで、もう何年かぶりに『小人の饗宴』を見ながらこれを書いているのだけれど、とても素晴らしい。身に染み入るような、この素晴らしいという感覚はいったい何だろう?

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