Saturday, March 29, 2008

No Quarto da Vanda

ペドロ・コスタの『ヴァンダの部屋』をシネ・ヌーヴォまで見に行く。新作『コロッサル・ユース』のプロモーションのために監督が来日するのにあわせての再映。明日の日曜はコスタも顔を出すらしいのだけれど、ちょっとこっちは時間的に無理。
『ヴァンダの部屋』は、DVDがレンタルされたときに借りて見ようとしたのだけれど、なにせストーリーらしいものもないまま、3時間ひたすらリスボン郊外のゲットーの日常が映されるだけだから、うちのブラウン管テレビの前にはソファもないし、だんだん前に横たわって枕なんか持ってきて見ているうちに途中で寝てしまってそれ以来。朝一番の上映に行ったのだけれど、やはり前回と同じぐらいのところで、眠気がやって来たのがおかしかった。
それは、ヴァンダの男友達が花を持ってやって来るシーンで、会話が延々とつづいている。
しかし、映画はそれまで、閉じられた部屋の中に閉じこめられたような圧迫感に息苦しさすら感じていたのが、そのシーン以降、少しずつ動きが出てきて、それは立ち退きを強いられたそのゲットーがさらに、取り壊されて行って、その足音が隣の家にまで来ているのだけれど、それにもかかわらず破壊されて空が見えるようになったときに感じる開放感を感じさせている。

映画を見ながら、二つの連想をした。一つはブニュエルの『忘れられた人々』。もう一つは中上健二の路地を描いた作品群。作品のドライさはブニュエルに近い。路地の崩壊というテーマは中上健二と重なる部分が多いけれど、中上健二がとても甘ちゃんに見えさえする。
感想の断片だけで、うまく言葉が見つからないけれど、撮影の仕方も、物語の作り方も、決定的に新しい。イタリアのネオ・リアリスモを刷新しているという表現が一番ぴったりかも知れない。何かを「見る」ためにはそれはいつでも刷新されなければならないものなんだと思う。



4月から休みの日が土曜から金曜に移動。今日は最後の休日らしい休日だった。梅田に帰ったのは2時前くらい。お腹がすきまくっていたので、久しぶりに新喜楽でかきあげおろし丼食べて帰る。

Sunday, March 23, 2008

ゲノム医療時代の鍼灸に向けて

昨年にひきつづき、神戸大学病院の筋ジストロフィー患者と家族の会の定例会[PDF]に行ってきた。ここでの研究が世界でも先端を行っているからか、昨年に増して参加するお父さんお母さんの数が多く、ほとんど座る席もないほどになっていた。昨年も下関から来ていたお母さんがいたが、今年も遠方から訪れる人もいた。プログラムは後半の懇親会の前に講演が2つ。一つは、国療八雲病院の石川医師から、最新の呼吸リハビリと、呼吸器サポートについて、そのネタになっているのは、やはり昨年兵庫頸損連絡会がやった明石での市民講座にも招かれていたジョン・R・バック博士のもので、この分野における彼の影響力の大きさがあらためて感じさせられた。しかし、呼吸器をつけての自立ということが、視野に入ってきたのとほぼ同時に、病院でも、呼吸器の重要性が認識されて、寿命も大幅に伸び、ただ療養するのではなく、仕事やこれからどうやって生きるかということが真剣に考えられ始めているのが、やはり隔離されて生きているようでも、すべてがこのひとつの社会で行われていることなんだと考えさせられた。

もう一つは、ぼくは東洋医学的なものにシンパシーを感じるので、とても興味深かったのだけれど、高岡裕さんという研究者が、鍼灸というこれまで検証不可能だった療法をゲノム解析の方法を使って実証という試みをやっていて、それを筋ジストロフィーなど筋肉が衰える病気にも使えるだろうというもの。
筋肉が発達するのを阻害するミオスタチンという遺伝子を、電気を流した針を打つことによって働かなくすることができるらしく、これはかなり臨床でも効果が出ているらしい。こんな簡単な方法で、筋力の低下が防げるなら素晴らしいことだろうと思う。論文のPDF

筋ジストロフィーをめぐって、一方で古色蒼然とした療養所があって、一歩外に出ればゲノムの最先端の医療に触れている。なんだか今の日本を象徴しているようでもある。

Wednesday, March 19, 2008

ゴダール伝

ずいぶんと前に買ったものだけれど、400頁超の本で、こればっかしを読んでいるわけでもないから、手間取っていたけれどやっと読了した。ゴダール伝』みすず書房、コリン・マッケイブ著、堀潤之訳。しかし、読み終わった感覚は意外とコンパクトな伝記だったなというもの。ゴダールの祖父の時代から、最近の出来事まで、丁寧に彼の人生を追っている。知っているようで知らない、ヌーベルヴァーグの頃の人間関係など、ゴダールとこの頃の映画が好きな人なら興味が尽きないと思う。
この本が俄然生き生きとしてくるのは、イギリス人の著者が映画制作者として個人的にゴダールと関わり出す1979年以降の記述で、主観が入り、立ち位置がはっきりしたところから観察される文体は明らかに、生気が生まれていると思う。それはゴダール自身の人生が、政治の季節を脱し、映画の世界へ戻り、作品がどんどん深みを増していく時期と重なり、この後3分の1くらいはあっという間に読んでしまった。
昔、別なゴダールの本を読んでとても影響を受けたのだけれど、忘れてしまっていた感覚を思い出すことができた。

Saturday, March 15, 2008

Julian Schnabel

神戸までジュリアン・シュナーベルの『潜水服は蝶の夢を見る』を見てきた。
先々週だったかも、見に行こうかなって思ったんだけれど、なんとかく気乗りがしなくやめた。今朝も今日は映画でも行こうかなとMovie Walkerを調べていたら、村上隆がこの映画について語ったインタビューが載っていて、たいそう褒めていたので、ちょっと行ってみる気になった。村上隆は、ぼくと同じくらいの年齢なので、やはり彼のジュリアン・シュナーベルのファンだったんだと思ったが、今の彼の作風とはあまりにもかけ離れているので、少し意外でもあった。
それにしても、80年代のシュナーベルの勢いはもの凄く、とにかくかっこよかった。ここに載せた、皿をばらばらにして、油絵のキャンパスにはっつけた一連の巨大なキャンバスは、今見ると懐かしくすらあるけれど、当時の精神をぴったり表したものだった。当時のロックのシーンとも完全にシンクロしていて、とくに、ジョイ・ディビジョンのイアン・カーティスの肖像があって、それなシュナーベルのキャリアの頂点だったのではないかと思う。

さて映画の方は、村上に寄ればこれはシュナーベルが、表現するものの苦悩のようなものを描いたものらしいが、ぼくには映画で表現できることを素朴に信じすぎているように感じた。むしろ脳梗塞によって、全身が麻痺し、ロックト・イン状態になった主人公やそれらを取り巻く、家族や友人医療関係者との関係を見て、以前関わっていたALSの利用者の人のことなどを思い出していた。映画を見に行ったというより、仕事の延長のようだった。そうした観点ではよくできていたと思う。文字盤を通したコミュニケーションやもろもろ。主人公はそれで、本を書いてしまったのだけれど、それが奇跡的だとは言ってほしくない。本を書くことはなくてもみんなこの方法で、ふつうに会話をしている。今はコンピュータを使って、文字を書くことももっと普通になっているだろう。

終了後、神戸から元町まで歩き、何年かぶりに淡水軒で夕食。ワンタン麺と有名な餃子とビール。おいしい。

Friday, March 14, 2008

3月の雨もいい。

久しぶりにボリンケンさんに会った。おそらく10年前に渋谷でお会いして、その晩浦安のお宅に泊めてもらって以来のことだ。お互いインターネット上に何らかのスペースをずっと保ちつづけていて、それを折々にチェックしていて、頻繁ではないけれど電話でもやりとりがあるので、そんなに会ってなかったかのかという実感をあまり感じない。基本ネットでのつき合いでたまにオフで会う、こうした関係も今どきのものなのかな思う。
しかし、10年前にあったのは、プエルトリコの女性歌手デディ・ロメロのライブのときと記憶していたのだけれど、たしかにぼくはクト・ソトがプロデュースしたデディ・ロメロのアルバムに夢中だったし、彼女の資料を取り寄せたりして、事務所と多少連絡も取っていたので、重点は彼女にあったのはそのとおりだったが、彼女が、あの偉大なエル・グラン・コンボの前座で来ていたことをすっかり忘れてしまっていた。記憶というのはほんとに曖昧なもんだと思った。

それでもまぁ、曖昧かも知れないけれど、記憶を辿ってみると、ボリンケンさんと知り合ったのは、ニフティのラテン音楽部屋でだった。インターネットが今のように普及する以前のパソコン通信の時代だ。94年の秋頃だったと思う。コンピュータが閉じられた箱ではなく、そこを通してどこへでも行けるコミュニケーションツールになった最初の経験で、その興奮はほとんど熱狂的なものがあった。
おそらく翌年、出張で来阪の折に、最初にお会いしたのだと思う。以来、東京と大阪と離れているのもあるし、実際にお会いしているのは数えるほどだけれど、その都度、充実した時間を過ごさせてもらっている。
とくに今回はそうだろう。ぼくたちの共通の話題は、ラテン音楽だったはずなのだけれど、そのシーンはすっかり寂れてしまって語るべき事もない。なのに、延々と途切れない会話。食事をした福島のラ・ルッチョラで、外で降りつづける雨を感じながら、海老や飯蛸やホワイトアスパラガスや、苺など今一番おいしい食材が並ぶプレートを味わって、さらに会話は進んでいる。有名なボリンケン風クローズアップを実演してもらって、ぼくも一枚、苺がきれいなデザートを撮ってみたのだけれど、ここでは遠慮して、ぼくらしいショットを載せておきました。3月の雨もいい。そんな風に思える一夜でした。

Tuesday, March 11, 2008

病棟

後先になるけれど、先週金曜日、呼吸器部門が三田の兵庫中央病院を訪問するというので、便乗して着いていった。
ここはいわゆる国立療養所と言われているところで、筋ジストロフィーや神経難病の患者の養護学校と療養所がセットになった施設。人によるけれど、小学校から入ると、ほぼ人生すべてをそこで過ごすことになる。
西宮北口から阪急に乗って、宝塚でJRに乗り換え、三田からはタクシーを使った。今どき車いすはめずらしくもなくなったけれど、さすがに呼吸器2人で電車に乗り込むとかなりの存在感がある。
小一時間で到着。病院と聞いて、もっと立派な建物を想像していたのでけれど、平屋のかなり年季の入った建物。最初に作業室を見学させてもらったが、そこはとくに病院という感じでもない、どこでもある障害者の施設の雰囲気。作業をするというより、何か時間をつぶしているような倦怠感が支配している。
その後呼吸器くんと病棟の友人を訪問。古い木造の学校が病室になったような独特な雰囲気。どこかの病室で繰り返して何かを叫んでいる人がいるが、誰も気にとめない。友人も呼吸器装着。ほぼ全身が麻痺して動かないが、あごでコンピュータを操作してあちこちとコミュニケーションしている。比較的元気で快活な精神を保っていたが、気になったのは、逆に呼吸器の必要もなく、彼よりもずっと軽度の身体障害に見える人たちが、死んだような目をして、一点を見つめたままベッドに座って動かない様子で、何か、純粋な形の絶望の状態を見たような気がした。ふと昔読んだ、アウシュビッツで生き延びるためにはどうしたらいいかを書いた文章を思い出したりしていた。
帰りは雨になっていた。残してきた人に感じなくてもいいような罪悪感すら感じた。やらなくてはならない仕事はたくさんある。
昨日は、泊まりあけで聴覚部門のパソコンテイクで通訳をした。障害者運動もどんどん多様化していっているのが実感できる毎日ではある。

Saturday, March 8, 2008

京都

障害者の生存権と介助システムを検証する』というシンポジウムがあったので、久しぶりに京都へ行ってきた。去年秋に、呼吸器くんと障害学会へ行って以来だから、ほぼ半年ぶりくらいか。日本自立生活センターの主催で、おなじみの立岩さんや夢中センターの平下さんがシンポジストとして並んでいた。
自立生活センター立川の加藤みどりさんの基調講演が午前にあり、昼食を挟んで午後からシンポジウム。今日の特徴は、障害当事者からだけではなく、労働者としての介助者という問題を、当事者としての介助者の立場からの発言が多かったこと。シンポジストとして来ていた杉田俊介さんと主催者でもある、かりん燈の渡邊さんらが、その立場から発言していた。
ちょうど真ん中へ座っていた立岩さんが、まさしく両者のバランスを取ったという形だった。

介助者の待遇が悪ければ、どんどん介護の現場から介助者が逃げていくという悪循環が簡単に言えば、今日のテーマだったと言うことができる。ぼくが勤めている事業所も今年は赤字で来年度から給料が下がるし、介助料の単価が据え置きだったらじり貧になるのは目に見えているので、人事ではない話だった。
障害者と介助者はお互い理解し合ってという話にはなるのだけれど、なかなかそう簡単なことでは終わらない。

終わって、大学時代の恩師と食事でもしようと思って電話してみたらあいにく大阪のご実家へ行っているようで入れ違い。小学校3年生のときから知ってる娘さんに子供ができてもう2歳だと聞いた。長らく連絡もしていなかったしなぁ。凍っていた時間が急に溶けて動き出したようだった。
夕方になった京都は、どんどん冷えて寒くなる。この季節はいつもこんな感じ。遠い昔にあったことと、ここ数日のことをごっちゃにして思い出す。淋しすぎて吐き気がしそうだ。いつまでつづくんだろうこんな人生。

Saturday, March 1, 2008

患者学・生存の技法

すでに店頭に並んで発売中の『現代思想』3月号は、「患者学・生存の技法」という特集。病や障害に纏わる経済学や、権力関係、テクノロジーとの関係等々などの論文が並んでいる。その中に、去年立命館で行われた障害学会第4回大会で、呼吸器くん共同発表した伊藤佳世子さんの論文「筋ジストロフィー患者の医療世界」も一緒に載っていて、呼吸器くんが雑誌に寄せた文章や直接交わした会話からの引用もある。

立岩さんは、この伊藤論文についてこんな論評をしている(全文はこちら):
伊藤佳世子「筋ジストロフィー患者の医療的世界」は、「メディア」に載る文章としてはたぶん筆者の最初のものだが、しかしそれは、医療や看護の学界・業界全体においても――その世界にとってもまったく残念なことに――正面から書かれることのなかったことを書いていて、その意味でも最初のものになっている。

内容はまさに、立岩さんの言うとおりで、伊藤さんが当事者と会って話したことや、実際に全国の国立療養所を回って見聞きしたことが下敷きになっていて、学者が調べて書いたこととは一味も二味も違っている。執筆の動機は「怒り」であり、知ってしまったことは伝えなければならないという使命感だと思う。
願わくば、この論文が学者や知識人の世界だけで留まるのではなく、ぜひ国立療養所や病院などの現場の人に広く知ってもらい、なんらかの動きが出てそれが変化へと結びついてくれたらと思う。そしてさらにそこに収容されている人たちの当事者運動へとなってくれたらと。

それにしても、ぼくは大学時代哲学なんてものをやってたもので、この雑誌は以来、その時々にチェックしているものなんだけれど、こんな身近な人が関わるなんてのは、はじめてで何かおかしな感じ。