Tuesday, May 22, 2007

「きみを見つめていたい」

何年ぶりだろう?こんなものを取り出して聞いていると、やはり胸がキュンとなって、繰り返して聞いてしまう。たぶん、学生時代の友人たちと、新潟へ旅行に行った車の中に持って行って聞いていたので、そしてその車の中ではアメリカでやっていたワールドカップでの、ベベットのシュートの話しをしていたから、このアルバムは、1994年のリリースだったと思う。ぼくは気に入ってみんなに聞かせたかったのだったけれど、反応がいまひとつだったのが、悲しかったのも覚えている。楽しいはずの旅行だったのだけれど、ぼくは当時飼いはじめたばかしの幼い犬が、原因が不明の肝炎で入院していたのが気になって、あまり、馴染めずに帰ってきた。
翌年、震災があり、それに伴うごたごたとともにぼくの人生も、壊れはじめるのだけれど、この頃は、南米から帰ったばかしの勢いで、なんでもまだノリで乗り切ることもできていたと思う。
ダビッド・セデーニョは、扇町にあるラテンアメリカ音楽ショップ「スイート・ココ」の親爺が、前から気に入っていて、行くと無理やり買わされたりしていたのだけれど、前作まではヒット曲を英語のサルサに変えて演奏するコピーバンドって呼ばれても仕方がないところもあった。この一枚はしかし、根性を入れて、ここで決めるって感じで作った力作、会心作だった。1曲目の「プエルトリカンからコロンビアの友人へ」は、当時盛りあがっていたコロンビアのサルサへの露骨な歩み寄りなんだけれど、たんなるパーティーソングにせずに、マイナー調の、ちょっと別れの悲しさを思わせる曲に仕上げてあるのがさすがだなぁって思った。いい曲が他にもたくさん入っているのだけれど、もう一曲あげると8曲目の「きみを見つめていたい」だろうか。自分で作曲して自分でアレンジしていて、曲も冴えているし、アレンジも鬼気迫っていて、今聞いてもゾクゾクするのは当時と変わらない。アレンジは他に、ペリーコにラモン・サンチェス、マリオ・オルティスにホセ・フェブレスと超豪華な人たちを揃えているけれど、ぼくはセデーニョが自分がやったものが優れていると思う。ちなみに、1曲目の「プエルトリカンからコロンビアの友人へ」は例によって今はYouTubeでも見ることができる。セデーニョはたしか、デラルースの菅野さんがプロデュースした、サルサクラブに半年くらい出ていたと思うけれど、ぼくは結局一度も足を運ぶことはなかった。サルサは音楽ではなく、ダンスのことを指すようになってきたのもこの頃から。ぼくは、あれはラテンとは関係なくむしろ、クリントン政権の金融バブルが生んだ、アメリカ文化の輸入だと一貫して批判的だった。興味は次第にレゲトンなんかの新しいラテン音楽に変わっていった。
サルサは、これから世紀末にかけて、「終わり」に向かって一歩づつ歩みを進めていくのだけれど、これはその歩みの中でのきらきら光る宝石のような一枚。レコード会社ではなく、個人が作りたいもの作った希有な一枚でもあった。思い返すと、何となく自分の人生とシンクロしていたような気もするし、何かが破れて、自分のやりたいことはとにかくできるような社会へぼくらは移行したような気もする。

Saturday, May 19, 2007

英語で書くフゲー

先日の、アルベルト・フゲーが、ワシントンポストに書いた記事について、いくつかブログで反応があった。そのうちのひとが、「Fuguet en inglés(英語で書くフゲー)」。筆者のジャン・フランソワ・フォーゲルはフランス人のジャーナリスト。リベラシオンなどに記事を書いているらしい。
もともとは、英語のネイティブだったフゲーが、その後チリに帰って、苦労して「チリ人になった」。自分はスペイン語で書くチリ人の作家である、と書いたフゲーに対して、冒頭でまず「チリでは、フゲーは北米の作家という風にみられている」と嫌みを一つかましている。ぼくには、こうした見方がなかったので、フォーゲルが何を言わんとしているかが、最初よく分からなかったのだけれど、どうやら彼はフゲーが、自分はバイリンガルの作家であるといったり、英語~スペイン語の二重性を生きていると白状したりせずに、スペイン語で書く、チリ人作家であると言っているのが気にくわないらしい。
いわゆる、チカーノの作家のように、二つの言語の間でアイデンティティを分裂させて、その混乱した生き方を見せて欲しいかのようなのだ。しかし、Las peliculas de mi vidaは、まさにフゲーがいかに自分の中の英語を抑圧してきたかを告白した小説だし、それがまるで、地震で生じた亀裂からあふれ出てくるように自分の人生そのものを語ったもののはずなのだけれど、フォーゲルにはそれでは不十分だったのだろうか。一度抑圧したものを、再び取り出してそれをまた自分のものとして受け取り直す、この作業は人間の成熟の過程そのもののようにぼくには思えるのだけれど。

最近読んだ、『抵抗の場へ』は、戦後すぐ大学を出てアメリカへ渡り、アメリカで初めての日本人の英文学の教授になったマサオ・ミヨシのインタビュー。サイードの古い友人でもあった。ここには、日本人であることをやめて、アメリカ人になった人がいる。彼は自身の経験から、「日本」や「日本人」という括りで考えるのはやめて、地球や惑星のことを考えるよう勧めている。

Tuesday, May 15, 2007

más allá de la corriente


夕方、週末危篤になった利用者の方のお見舞い。
想像していたより、穏やかな顔をしていたので、なんとなくほっとした気持ちになる。偶然一緒になったまだ若い介助者は、それでもやはりショックだったらしい。ああいう風に何本もの管に人が繋がれているのを見るのも初めてだそうだから無理もない。ぼくは、こうした仕事で色んな人の死にも立ち会うようになって、なんとなくこうしたシチュエーションにも慣れてきつつある、のがいいのだろうか悪いのだろうかと考えてみる。
病院は、西宮から武庫川を越えて尼崎に入ってすぐのところにある。病院の方へ左折して、大通りではなく地元の人が通る、それと平行した路地へ入ってみると、そこはもう何か外国へ行ったような気分。風景がすべて初めて行く町で見るようなものに見える。最近仕事が詰まっていて余裕がないのと、イベントの準備で時間が取られたりもしているので、休みの日も家にいたりして、あまり変化のない生活になってしまっているので、こんなちょっとのことでものすごく解放された気分になれる。旅に出るとは、脳を作っているソフトウェアを、一時書き換えてみることなんだと思う。何も、外国へ行ったりすることだけでは、もちろん、ない。
más allá de la corriente、流れの向こう側にあるものを、もう一度捜してみる。

Monday, May 14, 2007

temblar(5) Gringo Latino

アルベルト・フゲーが、昨日のワシントンポストに自分が使う、英語とスペイン語の二つの言葉について書いている。彼はもともと、幼い頃両親とともにカリフォルニアで過ごしたから、英語も話せる、それをいかに捨てたか(I worked hard, did my best to erase the English from my head, heart and tongue.)、チリに帰ってスペイン語をいかに獲得して、スペイン語で書く作家になったかなどが書かれている。
ぼくがアルベルト・フゲーという作家を知ったのは、4年前チリに行った(帰った?)とき、サンティアゴの書店で"Se habla español"という、アメリカ国内で住んだり、あるいは留学体験があったりするスペイン語圏の作家たちを集めたコンピレーションを見つけたのが最初だった。フゲーは、その中に短編も収められてもいたが、編者のひとりだった。ぼくは、ずっとラテンアメリカにかかわってきたけれど、興味の中心は、サルサやレゲトンを生みだしたような、アメリカ国内でスペイン語を使って生活する人々、英語とスペイン語がぎりぎりにせめぎ合って、ちょっと奇妙な文化に変形していくところにあった。だから、この本は、そうした文化を文学の面で確認するのにちょうといいと思った。"Se habla español"は、店先などで「スペイン語通じます」と書くときに使う。そして、帰りの空港で時間つぶしにロビーをぶらついていると、書店で電話帳のような厚さの彼のエッセイ集("Primera Parte")をまた見つけ、そのときこっちではかなりよく知られた作家なんだとわかった。
サンティアゴに、アメリカ人が自国の文化を伝える施設があって、そこの中のスペイン語クラスで、スペイン語を勉強していたとき、やはりロサンジェルスで大学行っているという若い男の子が、同じクラスに来たことがあった。医者になりたく、アメリカよりこちらの方が資格を取りやすいということで、大学に入って勉強するのだという。それで、スペイン語も学び直し。このクラスは上級のクラスで、文法もそれなりに複雑になっていた。例題を当てられても、まったく答えられなかったのが不思議でおかしかった。彼の両親はチリ人で、会話は問題なく話せているのに。But before I became a writer, I had to become Chilean, and, to be a Chilean, I had to conquer the language, excel in it. Not just the written one, but the spoken one, too. 彼はすぐにクラスに姿を見せなくなったけれど、果たして彼は医者になれたのだろうか。
「揺れる」シリーズ5回目。(4)はこんな感じだった。

Saturday, May 12, 2007

『わたしたちに許された特別な時間の終わり』

最近はほんとうに小説を読むなんていうのはほとんどなくなってしまったのだけれど、朝日新聞に、斎藤美奈子が書評を書いていたのが興味をひいて、岡田利規の『わたしたちに許された特別な時間の終わり』をちょっと買って読んでみた。著者のことは知らなかったのだけれど、チェルフィッチュというソロ・ユニットで演劇をやっている人で、収録されている「三月の5日間」は、岸田國士戯曲賞を受賞した戯曲をノベライズしたもの。
それでも、ぼくは小説を読みたかったのだけれど、小説を読もうとしたのではなく、「若手の演劇人が虎視眈々(こしたんたん)といい小説を書いてるんだよねという印象を私は最近もっている。宮沢章夫や松尾スズキがそうであったように、前田司郎も本谷有希子も、戯曲と小説、両方の賞に名前があがる。彼らの特徴は「彼はそのとき思った」式の、これが小説でござい、な書き方とは少しズレていることかな。」ここにある、「少しズレ」た感覚を味わいたかったからだと思う。
それで、それは充分に味わえたと思う。
収録された、2編の短編は、大部分を登場人物の独白で物語が語られ、それはそのまま、現代の若い人たちを描く風俗小説ともなっている。だらだらと独白がつづき、それが妙に微視的な視点にそのまま繋がるのがリアル。後半の「わたしの場所の複数」は、フリーターの夫婦のなんとも浮かび上がれない日常を描いたものだけれど、なぜか樋口一葉の小説の文章の連なりと、彼女の小説の登場人物の貧乏とを思い出していた。
何か色んなことをぼくらはやり直しているんじゃないかという感覚。もう一度の明治と、小説のやり直し、のような。

Saturday, May 5, 2007

梅田で募金をする。

大阪梅田の阪神百貨店からJR大阪駅へ流れる歩道橋で募金。夏に韓国でやるイベントの資金集めのためのもの。3回目だけど、ぼくが行くのは今回が初めて。関西の団体が集まってやるので、なかなか盛りあがって楽しい。天気はだんだんと曇って、蒸し暑い。幸い雨に降られることは避けられた。
しかし、こんなことでもなければ、最近わざわざ大阪まで出ることはほんとうに少なくなった。たいていのことは身近で済ませられるし、必要があってそれが神戸で間に合う用事だったら間違いなく神戸に出る。映画も最近は、ほとんど神戸。こぢんまりしてあるときは刺激がなかったりすることもあるけれど、確実に落ち着ける。
梅田に出る電車から外を眺めていて、ひさしぶりだなぁって思いながら、ここまで極端に大阪に出なくなったのは、やはり阪神大震災からだったと思い出していた。震災当初、最寄りの甲子園から西は完全にストップしていて、それ以東と被災地とを分けていた。震災をきっかけに、やはり自分は関西人というより、阪神間の人間だと強く思うようになった。震災から何日かして、大阪に出ると、阪神百貨店の地下では「北海道物産展」のようなものが当たり前にやっていて、電灯が煌々と輝いていた。ライフラインが断絶してしまっている被災地とのあまりの落差に驚いてしまった。あの奇妙な違和感は今でも忘れられない。

Wednesday, May 2, 2007

iGoogle

以前にも書いたことがある、グーグルのパーソナライズド・ホームページがiGoogleと名前を変えて、昨日からサービスを始めています。26カ国語にも対応するようになったということで、日本では使えなかったテーマも使えるようになりました。写真は天候によって変化して、雨が降ったところ。かわいいでしょ。
他に、自分でガジェットを作って、色んな写真とか映像もつけ加えることもできるようになりました。詳しくはCNET Japanで。(ってこんなページに飛ぶとすごくブログっぽいね)。