Thursday, May 29, 2008

ランジェ公爵夫人

今日は、職場の障害当事者スタッフが、シンガポール航空に搭乗拒否されたことに対して起こしていた裁判の控訴審判決の日。午後から大阪高裁に集まって判決を聞く。結果は棄却されたが、原告が搭乗拒否される理由はないとつけ加えられており、実質勝訴と同じ。みんなまあまあ満足な感じで散会した。

夜の仕事まで時間があるので、シネ・ヌーヴォまで行って、79歳になるジャック・リヴェットがバルザックの小説を映画化した『ランジェ公爵夫人』を見る。19世紀パリの社交界を舞台にした恋愛映画。恋愛と言っても、ひたすら微妙なやりとりと駆け引きが繰り返されるだけ。即興の演出で知られるリヴェットは今回、かなりきっちりしたプランを立てて、そのとおりに演出したらしいけど、一見した感じはいつものリヴェットの感じから遠く離れたような気はしない。テロップが間にはさまってつづいていく語り口もいつものリヴェットと同じだった。映画が自動的に語られるのではなく、明らかに語っている何かがあるという感覚。でもそれは監督かというとそうでもない。

(あらすじ)パリの華やかな舞踏会でランジェ公爵夫人は、モンリヴォー将軍と出会う。公爵夫人に激しい恋心を抱くモンリヴォー。公爵夫人は思わせぶりな振舞いで彼を翻弄し続ける。追い詰められたモンリヴォーは、たしなみや信仰を理由に拒絶する公爵夫人を、誘拐するという手段に打って出る。それを機に恋に目覚めた公爵夫人。彼女はモンリヴォーに熱烈な手紙を送りはじめるが、彼は徹底的に無視する。拒絶されたと思いこんだ公爵夫人は、失意のうちに世俗社会から離れてゆく・・・。

Wednesday, May 28, 2008

『レモン』・闘争の最小回路

せっかくなので、かつてラティーナに書いた『レモン』の紹介文を再掲します。たかとりコミュニティセンターへこのビデオ作品の上映会を見に行ったのは、2003年の、たしか少しひんやりし始めた頃だったと思う。ぼくのこの年の春に今の職場の職員になり、それ以降もそれまで書いていた雑誌へ気になった音楽や本や映画のレビューを投稿したりするのをつづけていた。そうするうちに、日常障害者の人たちを過ごす時間がどんどんリアリティを高めて行って、文章を書く方がなんていうか、電気製品の使い心地を試して書いているのとあまり変わらないような気がして、空虚であまり身が入らなくもなった。なんか解離した感覚をもっとぴったりさせたいと思っていたときに出会ったのが、この上映会で、書くこととここで生きていることがうまく重なってくれ、それまでのフラストレーションも解消した。
でも結局、関心の比重は日々関わっている障害者運動の方へシフトして行ったし、この上映会で、ぼく自身がビデオに関心を持ったり、障害者運動とビデオを結びつけるような方へ行ったりしたので、記事はあまり書かなくなった。久しぶりにこの『レモン』のことを考えていると、これも闘争の最小回路のいい見本だと思う。日本に暮らす民族的なマイノリティの女の子が、周囲の支援を得て、ビデオと編集ソフトというごくごくささやかな武器を手にしただけで、これだでの表現ができるというのは、ぼくらすべてにとって希望になると思う。

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 松原ルマちゃんの作品上映会を観に行って来た。松原ルマちゃんって誰だ?という人には、ひとまず「未来の映像作家だよ」って答えておけば、あながち間違いでもないと思う。 
場所は神戸市長田区にある鷹取教会敷地内のペーパードーム。震災直後に建てられた「紙の教会」だ。このあたりは、神戸の地震でも最も被害の大きかったところ。鷹取教会も司祭館を残して火災にあって焼け落ちてしまった。ペーパードームは、廃墟から立ち上がった希望の象徴でもあった。松原ルマちゃんは地元の中学の3年生で、2ヶ月の時に日本に渡ってきた日系ブラジル人の三世である。今回の上映会では、2002年彼女が中学一年生の時につくった『かべのひみつ』、翌年の『FESTA JUNINA 23rd June』、そして今回できたばかりの『レモン』が上映された。これらの作品は、鷹取教会を拠点に活動するNPOたかとりコミュニティセンターが、ブラジル、ペルー、ベトナム、韓国など様々な文化背景を持った子供たちの自己表現をサポートする"Re:C"というプログラムの中から出来てきたものだ。 
 "Re:C"というネーミングには、「録画」を意味する[recording]や、~に関しての[re]と[child/comunication/community]の組み合わせ、「子供たちからの手紙」を意味するE-mail返信の[Re:]、などの思いが込められている。活動は、子供たちによる映像制作、作品づくりをサポートするスタッフの勉強会、社会への発信となる作品上映の3点を中心に2002年から始まっている。 
 松原ルマちゃんが、最初に手掛けた『かべのひみつ』は、震災時鷹取教会の外壁や周辺の壁に描かれた壁画の謎について、関係者や近隣の住民にインタビューしていくもの。次作『FESTA JUNINA 23rd June』では、毎年6月に行われる関西ブラジル人コミュニティのお祭りをリポートしている。処女作ではともだちたちと一緒に作っていたのが、ここでは自分一人で企画からつくっている。そして『レモン』。この間のプロセスはそのまま彼女の成長のプロセスにも重なるのだろうが、じっくりと技術を学び、地力をつけ、考え方を深め、そして一気に飛翔するような感覚がある。『レモン』は、思春期に入りかけた彼女のじつに瑞々しい内省の記録であり、ニューヨークやロサンジェルスにおけるラティーノの文化活動を見つづけてきたわたしたちが、ついにはそれがこの国でも生まれつつあることを確認した瞬間でもあった。
 「レモン」は、松原ルマちゃん自身を表現している。ブラジルに生まれながらも、わずか2ヶ月で日本に渡り、姿形も黄色人種の日本人そっくり、搾ってみても中身もレモン。私はこれからどうなるのか?誰もが不安に駆られそうになる年頃に、さらに国籍の不安定さが加わる。どこか不安定なカメラワーク。「編集するのが楽しい」と語る彼女によって、短くカットされた「世界」と「彼女自身」。
 松原ルマちゃんは、3人姉妹の末っ子で、上のふたりがブラジル人、あるいは「外国人」として自分を定義づけつつあるのに比べ、彼女はポルトガル語も十分に話せず、家族の中でも浮いたように感じ孤独感を抱えている。次女のユミちゃんが02年につくった『日系ブラジル人の私を生きる』では、ニューカマーである自分自身が、この社会で生きる困難さをはっきり意識しながらも、それを乗り越えて生きようという意志が告げられている。年代が上がるにつれもっとはっきりとブラジル人として自分を考える長女のユカちゃんとの距離はもっと感じられるだろう。
 「私は誰なんだろう?」こうした問いは、家族にそして自分自身に何度も繰り返されるが、にわかに答えが出るわけでもない。ラストシーンで、須磨の海にプカプカと浮かぶレモンを慈しむような彼女自身のナレーションが救いでもあり、何かしっかりした未来を感じさせもしていた。
 上映会の後、参加者によって作品の感想を述べあう時間が持たれた。関係者やメディアや教育の研究者の発言の後、お父さんのネルソンさんが自身の体験を話された。自分はブラジル生まれの2世で、名前もブラジル人の名前がついているのに、ブラジルでは「日本人」としか呼ばれなかったときもあり、苛められたりもした。今度日本に働きに来たときには逆に、外国人としてしか扱われない。こう話したとき、ルマちゃんは咽せるように泣きだしていた。家族の中で何かが伝わって共有された瞬間であり、見ているわたしももらい泣きしそうになってしまった。そして、この家族、そしてコミュニティの持つ途方もない豊かさを実感した瞬間でもあった。その後ネルソンさんが、国籍なんかどちらでもいいじゃないか、みんな同じ人間なんだから、と話したとき、「人権」という本来抽象的な概念がこうしてはじめて実体を持って生きていくのだと認識した。 子供たちが制作した作品のはホームページでもみることができ(http://www.tcc117.org/tdc/kids/rec/)、またビデオも発売されている。わたしが、他にとくに興味深かったのは白川エリアネちゃんがつくった『2002年 海』。夏の海水浴の思い出をブラジルのポップスとともに編集しただけのものなのに、なぜだが涙がぼろぼろ出てきてしまう。これがサウダージという感情なんだろうか。

*)Re:Cの活動については、たかとりコミュニティセンターの活動報告を参照しました。

Monday, May 26, 2008

流行歌

この記事を書いてから、ほんとに何年かぶりにアナ・ガブリエルのCDを出してきて、懐かしく聞いてみたり、Youtubeでライブを見たりしてると、たぶん彼女の一番有名な曲で、1989年のヒット曲"Quién como tú"で歌われているシチュエーションが昔から今ひとつよく理解できていなかったことを思い出し、週末ぐらいから再チャレンジしてみた。わたしと彼と彼女が出てくるのだけれど、彼だったはずの所が、彼だか彼女がよく分からなくなって頭が混乱する。
誤解の始まりは、女性が「あなた」と呼びかけているのは、別れた彼のことだとばかし思っていたのだけけれど、よくよく考えると、どうもそうではなく彼を奪った恋敵のことだったんだ、と長年の疑問が氷解した。だから、訳詞はこんな感じになります。



彼の枕の香水の匂いを、あんたはよく知ってるわね、
真っ白いシーツの湿り気も、
あんたは運がいいわ、彼を自分のものにできるんだから、
蜜の味がする彼の唇を感じてね、

あんたが、彼に愛の言葉を語るの見て、時間は止まってくれない、
私は外にいて、待つ人もいない、

あんたみたいな!毎日、毎日彼といる、
あんたみたいな!彼はあんたの腕の中で眠っている、
あんたみたいな!

あんたみたいな!毎夜、毎夜、彼の帰りを待っている、
あんたみたいな!優しく彼の熱を冷ましている、
あんたみたいな!

狂ったような夜を、あんたは味わっているのね、
彼の腕の中では時間を忘れてしまう、知ってるわよ、

あんたが、彼に愛の言葉を語るの見て、時間は止まってくれない、
私は外にいて、待つ人もいない、

あんたみたいな!毎日、毎日彼といる、
あんたみたいな!彼はあんたの腕の中で眠っている、
あんたみたいな!

あんたみたいな!毎夜、毎夜、彼の帰りを待っている、
あんたみたいな!優しく彼の熱を冷ましている、
あんたみたいな!


色々調べているうちに、この曲を作ったきっかけを語る彼女のインタビューを発見。

AG: "Quién como tú"を書いたときは、最悪だったの。人生で最も好きだった人が、他の人と結婚しちゃった。わたしは、結婚しないでって頼んだのだけど。だからこの曲はそのライバルに対して書いたの。

--いくつだった?

AG: 28くらいだったかしら....そのあとその人が戻ってきたとき、"Es demasiado tarde"を書いた("Es demasiado tarde"は「遅すぎるわよ」)。

90年の暮れだったか、メキシコシティからバスで北上して、やっとロサンジェルスに着いた。ダウンタウンのメキシコ人街のディスクショップで、「アナ・ガブリエルの新しいのある?」って聞いたときに店のセニョーラが教えてくれたのがこの曲"Es demasiado tarde"だった。彼女が初めて出したランチェーラの曲だったんじゃなかったかと思う。

Saturday, May 24, 2008

住田雅清インタビュー

かりん燈のブログに『おそいひと』の主演住田さんのインタビューのリンクが張ってあったのを見つけたので、こっちからも行けるようにしておきます。<住田雅清インタビュー>

ちょっと逸れるけど、この映画にも出てくる福永さんが、障害者運動の礎になった人たちを訪ね歩いて、インタビューして作品に纏めた『こんちくしょう』っていう映画が去年上映されて見に行ったんだけど、最後のクレジットを見て監督している村上桂太郎さんってどっかで聞いたことがある名前?ってよく考えたら、ぼくこの方から手紙を頂いたことがあったのでした。

というのは、鷹取で外国人の子供を支援している、たかとりコミュニティセンターという団体があって、そこで松原ルマちゃんというブラジル3世の女の子がビデオを作って上映会をするという集まりがあったので行ったんですが、その『レモン』という作品があんまり素晴らしかったので、ラティーナに送って記事にしたら、後日そのセクションの責任者である村上さんから丁寧なお手紙を頂いた次第。記事を書いても書きっぱなしがほとんどであんまり反応があることはないので、ぼくもとても嬉しくて今でもそれを手帳に入れて持ち歩いているほど。
でもみんなけっこう狭いところで仕事してんだなって思った。

Friday, May 23, 2008

『移動の技法』#12

宿は深夜になっても交通の音でわたしのよこたわっているベッドにもその振動が伝わってくるほどであった。わたしはどこにいるのだろう。わたしの宿だ。朝寝をするために8時にやってくる朝食を夜番の親爺に断って来たところだ。何十年も使われているようにみえる木の椅子が木目の床に置かれている。(スナップ)。わたしはどこにいるのだろう。わたしの宿だ。それをたしかめよう。冷たくなった窓硝子に頬を寄せてみよう。息でそれを曇らせてみよう。(そのなかをヘッドライトが流れてゆく)。友は来ないだろう。(裏切ったのはどちらだ?)ラジオからは流行歌。繰り返し繰り返す「(裏切りの主題)」。(恋にはつねに勝者と敗者がいる....)。運動と静止。いかにして「移動の技法」はそこなわれるのか。ホテル・ビクトリア1992年7月5日。

Thursday, May 22, 2008

闘争の最小回路

ラテンアメリカ関係のメーリングリストに著者のトークショーの案内があって、なにげに検索していると、この本を見つけた。『闘争の最小回路』。南米の政治空間に学ぶ変革のレッスン、という副題が付いている。
現在のラテンアメリカは、10年前とは別の大陸のようで、ほぼすべての国で左派が政権を取った。通貨危機があり、国がぽしゃってしまったような状態から立ち直っていく様子は、現地のニュースをWebでチェックしてだいたい把握していたつもりだったけれど、その足下で、国民一人一人が作り上げる様々な「運動」があることは、向こうのメディアを表面的にチェックするだけではなかなか知ることはできないし、じっさいぼくもほとんど知らなかった。最近やっとNHKなどでもドキュメンタリーで取りあげられてかいつまんでは知れるようになったけれど、それ以外は相変わらずだと思う。
この本は、そうした日本での情報の不足のかなりの部分を埋めてくれるものだと思う(出版社の案内)。大ざっぱに言って、南米は、80年代の軍事政権下やその後の民政移行した政権で、合衆国主導の新自由主義的な政策を取るようになる。政府による開発事業は、どんどん国内外の資本に売り渡され、極端な貧富の差が生まれる。ちょうど現在の日本と同じ状況だ。根絶やしにされた民衆は、自分たちでなんとかするしかないような状況に置かれ、持っているものがほとんどなくなった民衆からさらに奪い取ろうとする資本に対する抗議行動も起こった。民衆の判断は、もうどの政権を選ぶかではなく、政治自体を拒否するというものだった。各地に小さな自治組織が生まれ、それは国から何かを受動的に受け取る存在ではなく、自分たちの力で創造的に物事をアレンジして生みだす能動的なものだと著者は評価している(表象代理の拒否や受動→能動といった枠組みはドゥルーズからのものだ)。
現在起こっていることは、それが日本でもかろうじて知ることができるものなのだけれど、その運動の成果を左派の進歩的な政権が吸収しながら国家へ回収している課程だとして、全部を否定するわけではないけれど、いくらかの危機感を留意させながら、運動と国家の関係を細かく分析している。

興味深かったのは、自分が障害者運動に関わっているので、自分たちがやっていることとの比較をしながら読むからなのと、今の日本が、やはり南米と同じように、どっちの政権を選んでも同じような、ほとんど政治が麻痺してしまった状況に置かれてしまっていて、そんな状況で何ができるか?とか何をしたらいいか?などと考えるきっかけになるからだったと思う。

2003年の支援費制度以前の障害者運動は、まさに「闘争の最小回路」だったと思う。ほとんどの団体は任意団体だったし、生存の実体を作ってから、後から制度ができてくるという状態が何年もつづいた。支援費になって、障害者はほぼ24時間の介助が受けられるようになったし、ぼくらが食えているのもそのおかげといえばそう。しかし、しっかり制度に縛られたような感覚がないわけでもない。今は運動の最前線はロビーイングだから、末端の障害者は何をやっているかもわからず、デモの時だけ人数に加えられる。運動の創造性は著しく減少してしまっているというのは否定しがたいと思う。

ぼくも末端の介助者だから、その末端の障害者と日々向かい合っている。そこが生き生きとしていなかったら、何のための運動で何のための交渉なのか?って思わないこともない。それで、だからその「闘争の最小回路」をなんとか作動させられないか?って考えたりする。それはたぶん実体のない「地域」という言葉に実体を与えるものなんだとも思う。

Wednesday, May 21, 2008

『移動の技法』#11

そうして陽もおちる。わたしはマリサにいとまを告げて彼女の家を後にしふたたびバスを捕まえ宿へと戻るのだった。(おそらくそれを《ただしく》示さねばなるまい!)。それは《いちまい》のガラス板であるが、それには、“Valparaiso”と行先が告げてあり、基本的にモノトーンの光と闇、揺れ、そして記憶で構成されている。記憶とは楽譜のようなもの。失われもすれば、ひょんなところからあらわれ、様々な仕方で演奏されるための。ビーニャ・デル・マルをこえてそのバスは光の岩礁となったその街へと突入する。速度が光の記憶と擦れる音がしている。「バルパライソは昼間は汚いけれど夜はとってもきれい」。若い女が耳もとで囁く。その寂しげな声にたまらずわたしはバスを飛び降りた。人気のない広場。船のない港。男たちがいない港。女たちがいない港。モートン・フェルドマンの乾いたエロティシズム。いかにして「移動の技法」はそこなわれるか。卵(*)。壊れた、。


(*)ドゥルーズ『シネマ2時間イメージ』にこんな一節があった。
.....われわれは身体を信じなくてはならないが、生の胚芽を信じるように、聖骸布やミイラの包帯の中に保存され、死滅せずに、舗石を突き破って出てくる種子を信じるように、それを信じなくてはならない。それはあるがままのこの世界において、生を証言するのである。われわれは一つの倫理あるいは信仰を必要とする。こんなことをいえば、馬鹿者たちは笑いだすだろう。それは他の何かではなく、この世界そのものを信じる必要であって、馬鹿者たちもやはりその世界の一部をなしているのだ。

『移動の技法』は、何か「信仰」のようなものを失っていく課程でもあったと思う。

Saturday, May 17, 2008

The Arcade Fire


このあいだ、アルベルト・フゲーのブログをチェックしていると、あるバンドが気に入ってるという記事があった。

actualmente escuchando, por freeways
ardiendo de calor mientras cae la noche en la ciudad de los angeles y los demonios,
The Arcade Fire
el disco se llama The Neon Bible
como la novela perdida de Kennedy O´Toole

confieso que no los conocia
no tenia idea
una amiga me los pasó
gracias
great gift

ahora estan entre mis bandas favoritas---
ya asocio ELEI con ellos

tema favorito:
uno q dice que Mi cuerpo es una celda..

eh...como el tema de Hormigas, de la banda sonora de Se arrienda...
el tema de Valdivia y Heyne mas letra de...
más letra mia?

si, igual
sincronía
hermandad cósmica


今、日が落ちて燃えあがるような天使たちの町(あるいは悪魔の...)ロサンジェルス
のハイウェイを走らせながら聞いている。

ザ・アーケード・ファイア
アルバムタイトルは、「ネオン・バイブル」
失われたケネディ・オトゥールの小説と同じだ。

正直、彼らのことは知らなく、よく分からなかったのだが、
女友達がくれた。
どうもありがとう。
すごい贈り物だ。

今は私のお気に入りのバンドの一つになった。
LAは、彼らと結びついている。

気に入っている曲はこう歌っている。
「私の身体は独房のようだ」。

ああ、"Se arrienda"のhormigasのテーマと一緒だ。バルディビアとヘイネの曲だが、むしろ私の詞に近い。

そう同じ。
シンクロ。
宇宙的な友愛だ。







ジョイ・ディビジョンのイアン・カーティスを描いた映画を観たあと、一緒に行った職場の若い友人にこのバンドのことを話すとよく知っていた。昨年のライブにも行ったという。後日、今出ているかぎりのCDを焼いてもらって、ぼくも今とても気に入って聞いている。とくにインフォーマルで出ている、オースティンのロックフェスでやったものを収めたやつがいい。どうもありがとう。グレート・ギフトだ。

Monday, May 12, 2008

ラテンアメリカの自立生活運動

コスタリカでは、通訳もしなくてはならなくて、日常的なものはまぁ問題ないにしても、専門的な用語は少し仕込んでおいた方がいいので、ネットで色々調べていると、ちょうど自立生活運動の歴史を書いたPDFファイルが見つかったので、ダウンロードして読み始めている。[PDF]
自立生活運動の哲学から、歴史、そして各国の歴史、これからの未来と課題などが書かれていて、本一冊がファイルになっているので、300Pにもなる。ひとまず、ラテンアメリカの自立生活運動のところから読み始めたら、日本の歩みとも重なるところもあってなかなか興味深い(同じ文章の英語版がここにあった)。

ラテンアメリカの自立生活運動はブラジルから始まっているようで、実際スペイン語で自立生活センターを意味する、Centro de Vida Independienteを検索すると、そのほとんどがブラジルのものであることが多い。自立生活運動の考え方が80年代に広まったのは、日本と同じで国連の障害者年がきっかけになっているのも同じ。88年の8月にアメリカの障害者運動のリーダーとの接触があり、その12月には、リオデジャネイロに初めての自立生活センターができている。[Centro de Vida Independiente Rio de Janeiro]2003年時点で、ブラジル国内では20の自立生活センターがあり、1999年には、日本のJILにあたる、CVI Brasilができている。西宮の友好都市であるロンドリーナ市にもセンターがあるようだ。2001年には、メキシコでラテンアメリカの自立生活センターのネットワークができており、19の国が参加している。

国連の障害者年があって、アメリカの自立生活運動の指導者との出会いがありというのは、日本とまったく同じ。代表が障害者自身でなければならないとか、組織の決定の過半数は障害者でなくてはならないなど自立生活センターを規定する諸々の項目もそのまま敷衍している。まだそこまで読んでいないが、ブラジルやラテンアメリカ、第3世界特有の問題もあるようだ。というか、今やブラジル・ベネズエラなどは資源大国で、アルゼンチンは食糧資源の宝庫。第3世界という用語ももはや死語ですね。昔読んだセリーヌの小説で、第一次世界大戦前のヨーロッパで、南米からの移民が大威張りで歩いているといったシーンがあったのを思い出した。日々きな臭い匂いがしてきて怖いね。

Saturday, May 10, 2008

コスタリカ

昨夜、第七藝術劇場へ入ろうと、ビルの下へ向かっていると、ふと隣にコスタリカという喫茶店があるのに気づく。コーヒーがうまそうな昔ながらの喫茶店風。七藝には何度も来ているのに、この喫茶店がコスタリカという名前だったとは知らなかった。あるいは、気にしなかった?
やはり、来月仕事で、コスタリカへ行くことになったから、無意識にアンテナを張っていて、こうしたものは引っかかるんだなぁって思いながら、一枚。付近は風俗の呼び込みのお兄さんであふれている。

職場では、もう何年もアジアから障害者の研修生を受け入れていて、そこで学んだ研修生が伝える形で、韓国、台湾、ネパール、パキスタンにどんどん障害当事者による支援団体が生まれている。今回はじめて、中米からも受け入れることになって、来月その事前の調査に通訳がてら行くことになった。
ぼくの人生には、いくつかの段階があって、映画ばかり見ていた思春期。大学へ入って、ポストモダン系の哲学を勉強したこと。大学を出たあと長いことラテンアメリカをぶらぶらしたこと。などなど。

こんな下地を持って、あんまりこれといった考えもなく今の障害者の世界に関わりだして10年。とりわけ職員になったここ数年は、自分は今までやってきたことをここで総合しているんだという意識を強く持つようになって、実際、映画を作ってみたり、一時あまり読まなくなっていた本をもう一度取り出して、そのアイデアを再確認したりしてみるなんてことをつづけていた。ふしぎなもんで、そういう風に思い出すと、自然と向こうから流れはやってくるようで、職場ではアジアから研修生が来てるから、こんな風にラテンアメリカから来たら面白いなって思ってたらホントになってしまった。これまでやってきたことは、一時まったく自分の中から消えていたものもあるけれど、スペイン語だけは忘れちゃいたくないなって思ってたから、細々とでも継続的に触れてきた。インターネットの時代になって、そんなに苦労せずとも毎日習慣のように向こうのサイトにアクセスできるようになったのも大きい。何でも続けておくもんだなって、普通に思う。語学というのは、仕事になると緊張感があるから、それでやったことでまた一段上達するので、今回もまたうまくなれればいいね。

Friday, May 9, 2008

おそいひと

十三の七藝に、西宮の障害者、住田さんが主演している『おそいひと』を見に行って来た。
9時からのレイトショーなので、やまもとで、すじネギ焼きでビールを一杯やってから行く。卵が多めの生地がやわらかくおいしい。ふだんは西宮市内で暮らしているので、たまにこんな時間に大阪へ出てきて、隣の方で、ドラマに出てくるようなサラリーマンの人たちが、会社や仕事の話しをしているのが妙に新鮮に感じる。

じつはこの映画のエキストラとして、おそらく5~6年前くらいだったと思うけれど、利用者の男の子と一緒に狩り出されて行ったことがあって、その後完成したという話しも聞かなかったし、なんとなく時間とともに忘れてたのが、先日七藝のサイトをチェックしているといきなり上映の予告があってびっくりした。
主演の住田さんは、ぼくが働いている団体とはまた別の西宮の障害者団体の事務局長で、ぼくはこの映画にも出てくる、そこの代表の福永さんの介助に1年くらい入っていたから、住田さんにも何回か会ったことがあった。

エキストラに行ったときは、どんな映画を作っているのかまったく分からなく、たぶん少し寒い時期で、早く終わってくれないかなって思って待っていたくらいだったと思う。今日はじめて、仕上がった作品を見ると、想像していたものとまったく違っていて驚いた。
まず、色彩がぜんぶ落とされて、モノクロームになっていて、所々最近のデジタル技術を使ったギミックで、映像がデフォルメされている。住田さんの特徴的な顔がクールでうまく仕上げてあると思う。障害者の映画というのは、無意識にドキュメンタリーか、それに類するものと思いこんでいるから、これだけでも、なかなかじゃないかと思った。
映画は、住田さんと大学生の介助者の女の子との交流が、恋心めいたものへと移る前半と、それが叶わず通り魔になって、殺人を繰り返す後半に別れる。なぜそれがいきなり人殺しってことになるのか?よくわからなかったのだけれど、最後の最後、友人たちが住田さんを驚かせようと誕生日の準備をしているところに、血みどろの住田さんが帰って来るところで、なんか監督の意図はよく伝わっていて、それはとても説得力があったと感じた。
つまり、ぼくらの団体はそれほどでもないと思っていたけれど、それでも普段かなり「いい人」モードで生きてるよなって思わされた。なんかあればケーキを用意してしまうような。まぁ、それはとてもいいことなんだけど、そんな白い感情ばかりだけじゃなくて、血みどろなものとか、どす黒いもんがあったり、そうした色んなものがあって、自然なんだろうと思う。これは、障害者をノーマルに描くという、最近の潮流とじつは、そんなに違いはないのだけれど、そこに監督流の「表現」が加わっているところが新しいと言えるか。

Thursday, May 8, 2008

『移動の技法』#10

そのときカフェは心おきなく思考を爆裂させることのできる場所となる。なぜなら誰にもわたしは見えず、わたしはそこに流れている音楽にすぎず、たとえば街のどこででも聞こえる流行歌のワンフレーズであるからだ。そしてわたしはこっそり下宿をぬけだしカフェにおもむき、わたしの思考を誰も盗みはしないことを確認しているのだ。そこでわたしは宛名のない手紙を何通も書き、それが湿った曇り空の西風にふッと飛ばされていく様を目にしたりもするのだ。ウェイターは手を前に組んだまま何事もなかったかのようにそこに立っており、“camarero!” という声に反応してくるりと歩みを進ませるのだった。そのときだ。「どうしたの?これは、いったいどうしたことなの?」そんな女性の戸惑いの叫びを聞いたのは。しかし、音楽のように微かに響いてくるその声がどこから届いてきたのかと考えていると、それは、ジル・ドゥルーズロッセリーニの『ストロンボリ』について語ったくだりからだった。テーブルが砕けて、冷房の部屋から夏の光へと粒子となって飛びだしてゆく。ふせてある10個のグラスが融けて店主の声のあたりを、すッと流れ落ちてゆく、大理石の床がぐっしょり波立って、老人が三人りサーフしている。南洋の観葉植物には「取扱注意」のラベルが、、。、さあ、時間だ。(しかしいったい何の?)

Wednesday, May 7, 2008

オタクという謎

この放送局のいいのは、30分毎に時報が鳴ることで、この「同期」している感覚がなんか大切なんだなって気づく。たんにスペイン語が聞きたいのではなく、今この時にやっている放送を聞いていたいという欲求だったんだなって。
何だろうそれって?

このあいだ、こんなことを書いた後に、大澤真幸の新刊『不可能性の時代』を読んでいると、「オタクという謎」という章に、こんな一節を見つけて、ああ、たぶんこんなことなんだろうと思った...

鉄民さんのこうしたオタク的情熱の前史を探るとすれば、切手マニアではないか。切手蒐集は、鉄道マニアと並んで、古典的な趣味である。郵便のネットワークは、電気・電子メディア以前には、鉄道と並んで、あるいは鉄道以上に、人々にとって広域の普遍的な世界へのつながりを実感させてくれる手がかりだったのだ。外国の切手が好まれたのは、単に意匠がめずらしかったから、だけではない。その切手が、遠隔地へと広がる社会空間への想像力を刺激したからである。

大澤真幸のこの本は、彼の最近の、ナショナリズムと多文化主義を同時に超える、という離れ業をコンパクトに新書にしたもの。あまりにコンパクトすぎて、簡単な例を引いて、論証が終わってしまうので、説得力という面では今ひとつ。ホントかな?という思いが最後まで消えない。『ナショナリズムの由来』のような大著をやはり読まなくてはならないのか。

Tuesday, May 6, 2008

病院(2)

すぐ退院のはずが、体調はそれほど悪くはないそうなんだけれど、血液検査の値がなかなか平常値に戻ってくれないようで、入院はつづいている。で、今週は病院での泊まり介助。夕方6時に入って、翌朝10時まで。けっこうな長さ。
5時に、病院近くの洋食屋さんが、開く時間に行って、カツカレーを食べて病院へ行く。日付がかわる前にはお休み態勢に入ったが、呼吸器の高圧設定が、低めに設定してあるらしく、眠ったらすぐアラームが鳴り出す、本人は気にせず気持ちよく眠っているみたいだが、そうなればなるほど、アラームは鳴りつづけこっちはたまらない。ほとんど、一睡もできないまま朝。
洗面して、買っておいたサンドイッチを食べ、カーテンを開けて、曇り空の朝の空気を感じると、どこかの旅先で目覚めたような気分になった。案外気分はよく、眠っていないようで、どこかで眠っていたんだと思う。

10時に終わって、大倉山から歩いて、降りる。新開地、西元町、元町と歩き、途中本屋へ寄っていたりすると、昼近くに。うどんでも食べて帰ろうかなと思っていたが、三宮で通りがかった洋食屋さんがおいしそうだったので、入って食べることに、また揚げ物で、疲れてなんだかそんなものが欲しいのかとも思う。ミンチカツの定食に、昼間からワインを一杯やって帰る。
昨日もそうだけれど、神戸の洋食屋さんは仲のいい家族で経営されてて、そのチームワークが見ていて楽しい。どこか懐かしい雰囲気と味。

Saturday, May 3, 2008

時報

そういうわけで、スカパー!のTVEは終了し、最近はiPodにダウンロードしたBBCやNHKのスペイン語ニュースを聞いたり、インターネット経由で、スペインの国営放送を見たりして、スペイン語に触れるようにしているんだけれど、コンピュータのモニターに画面がちらちらするとどうも気になるので、ここのとろ同じ国営放送のラジオを聞き流していることが多い。
どうも、スペイン語を聞くということに関して、オンデマンドというのは、ぴったり来なくて、なんとなくお勉強している感じになってしまうし、目の前に画面があると見てしまう。ながらでやる方法はないかなぁって思っていて、結局ラジオを流しっぱなしにしている。部屋のテレビの音を消して、つけっぱなしにして、ネットのラジオでスペインの放送を流して、コンピュータに向かうというスタイルに落ちついた。
この放送局のいいのは、30分毎に時報が鳴ることで、この「同期」している感覚がなんか大切なんだなって気づく。たんにスペイン語が聞きたいのではなく、今この時にやっている放送を聞いていたいという欲求だったんだなって。
何だろうそれって?

Thursday, May 1, 2008

『移動の技法』#9

この部屋は静かすぎるので、すこし、ざわつかせてみよう、と考えた。いや、ざわついているのはむしろこの部屋だ。そう、ここはひとつのカフェで、みなが5時のお茶のために集まってきているのだった。ここはひとつのカフェであるからここはすべてのカフェであるのだ。そして無限のわたしがここにいるのである。(ヘンデルのバロック音楽がこのうえない心地よさを享受させている)。名もない女がわたしのまえにコーヒーを一杯はこんできたが、その女は《グロリア》と名づけられている。それはわたしの知っている《グロリア》と肌の色はおなじであったが、年恰好はまるで違ってまぎらわしいので、わたしはその女を《グロリアおばさん》と呼ぶことにした。グロリアおばさんがはこんでくるのは、コーヒーだけではなく日替わりの定食もはこんできていた。わたしは彼女を愛したが、わたしは《彼女》を愛したわけではない。わたしが愛したのは彼女の滑るように歩くその仕方であり、わたしが食べた後、「どうだった?」と訊ねたその口もとと目つきだった。そして、微かにしわがれたその声。、つまり、わたしは彼女を愛していたわけだ。ある日いつもするようにその声を聞きに行くとそこに居たのは若いウェイターで、わたしは二度と彼女のその声を聞くことはなかった。その瞬間から世界は崩壊しはじめた。マリアを捜しにわたしはその階段を上ってゆき、「マリアを捜しているのだが....」と言うと、そこにいた若い女は、「わたしがマリアよ」と言った。《注意》。千のマリアがわたしを待ち伏せにしている。1992年10月5日。サンティアゴ。バスはイタリア広場を回ってメルセに入る。公園の緑。ブローニュの森はこんな匂いがするのだろうかとわたしは考えている。