Thursday, June 28, 2007

temblar(7)game over

また怪我。昨日仕事を終えて、立ち上がって帰ろうとすると、左のふくらはぎがピリッとする。こむらがえりのような感覚がどんどんひどくなって歩くのも困難に。自転車はなんとかこげるので、なんとか家に帰ってコーディネーターに連絡して代わりを捜してもらう。一晩たっても痛みは変わらず。むしろひどくなっているようなくらい。整骨院に通うこと自体がかなり困難なほど。今年はほんとにあちこちよく痛める。なんとかだましだまし堪えてやってきたけれど、なんか限界。ゲーム・オーバーな感じ。ずっと抱えてきた孤独感がほとんど病的なくらいに高まってくる。
録ったままおいておいたカサベテスの『オープニング・ナイト』見る。ジーナ・ローランドの主演。人気女優が、年を取っていくことへの不安と混乱。


ぼく自身の中で起こったことを(思い出して、思い出して、思い出して)、きみに語りながら、たくさん書いてしまいましたが(休むことなくこの古いPower Bookのキーボードを叩くことしかしなかった)、でもきみには、この”私の人生の映画”のことを考えるのを止められなかった(そしてまた、ぼくの人生でこんなに書いたのは初めてだった)とだけ言えばじゅうぶんのような気がします。きみが悪いんですよ。反射的に、ぼくは記憶の中でぼくの映画をふたたび見始めていました。ただそれだけにでも、きみに感謝します。きみに借りができました。
 ここに、映画の一部があります。これで、ぼくの幼少期の前半です。ぼくのスペイン語の下には、おそらくたくさんの英語があるでしょう;成人のぼくの下にも、おもらくたくさんの子供がいるのだと思います。
 別メールで添付して、残りを送ります。
 では。
 Best and thanks.
―ベルトラン S.


アルベルト・フゲーは『私の人生の映画』で、自分の幼年時代と和解するのだけれど、ぼくはどうだろう?

Tuesday, June 26, 2007

隠れ家

昨日。泊まり明けで帰宅して、風呂に入ってご飯を食べ、昼寝して仮眠。手許に読むとも読まないともなく置いてあったマルクス・アウレリウスの『自省録』をふと取って、ぱらぱらとめくって、目についたところを読んでみる。神谷美恵子さんの訳。

 人は田舎や海岸や山にひきこもる場所を求める。君もまたそうした所に熱烈にあこがれる習慣がある。しかしこれはみなきわめて凡俗な考え方だ。というのは、君はいつでも好きなときに自分自身の内にひきこもることが出来るのである。実際いかなる所といえども、自分自身の魂の中にまさる平和な閑寂な隠家を見出すことはできないであろう。この場合、それをじいっとながめているとたちまち心が完全に安らかになってくるようなものを自分の内に持って居ればなおさらのことである。そして私のいうこの安らかさとはよき秩序にほかならない。であるから絶えずこの隠家を自分に備えてやり、元気を回復せよ。そして(そこには)簡潔であって本質的である信条を用意しておくがよい。そういう信条ならば、これに面と向うや否やただちにあらゆる苦しみを消し去り、君が今まで接していたことにたいして何の不服もいだかずにこれにもどって行けるようにしえ返してくれるだけの力は充分持っているであろう。
 ところでいったい何にたいして君は不満をいだいているのか....

Saturday, June 23, 2007

temblar(6) Zodiac

アルベルト・フゲーが、彼の映画用のブログで、「けっして、フィンチャーのゾディアックを見に行くのを心から、お薦めするわけではない。彼は、私のお気に入りの映画作家ではないが、しかし今や、おそらく私の新しい良き友人だろう」。そう書きだして、今年の一番の映画だと記していたので、三宮へ出掛けて、公開2週目に入った『ゾディアック』を見てきた。フゲーは、『セブン』が気に入っておらず、この映画でフィンチャーは、それを取り返すことができたようなことを書いているが、ぼくにしては、同じように思えた。どちらもそれほど好きでも嫌いでもない。フィンチャーはよく作家性のつよい映画監督と言われるが、果たしてどこまでそうなのかと思う。むしろ作家風と言った方がいいのではないか。たしかに凝った絵作りはするし、それはとてもいいとおもうけれど、彼はあくまでもハリウッドの中で、その流儀を使ってやっている。むしろそれが上手なくらいですらある。それは、アメリカ映画の中で比べると、たとえば今週WOWOWで特集をやっていたジョン・カサベテスのはずれ方と比較してみるとよく分かるだろう。誰を作家と呼べばいいかは明らかだ。
ゾディアックは60年代後半から、70年代中頃までのカリフォルニアが舞台で、じつに当時の空気が映像になっていると思う。そして、ふと考えると、アルベルト・フゲーが、カリフォルニアで幼少期を過ごしていたのはちょうどこの頃であることに気づく。

「60年代の初めには、ソレールの人間はカリフォルニアに一人もいなかった。しかし、63年から64年頃には、すでに彼らでいっぱいになりはじめていた。66年、二人の叔父が、父とともに私を56年型の巨大な白いプリマスのコンパーチブルに乗せて、あるドライブインに『グランプリ』を見に連れていってくれたとき、町はソレール作戦のベースキャンプになりつつあった。もうすぐ祖父母が到着する頃で、その一年前には、息子たちを送り込んでいた。その従兄弟であり、親戚であるサネッティ家が波になってやって来るのはもうじきだった。」

フゲーは、ブログではそんなことには一言も触れていないが、郷愁かどうかは分からないけれど、なんらかの感情を持って、この映画を見ていたはずである。「良き友人」という表現はだからできるんじゃないか。

Friday, June 22, 2007

聖マルティン

例の件以来、今年は何だか自分の存在の底が抜けてしまったように感じることが多い。だからではないのだけれど、日常が止まることなくつづいて、疲弊して、自分自身が薄っぺらでどうしようもなく思うとき、ふと休んで、深い森の中へ逃げ込むようにして、そこの新鮮で神聖な空気を身体に深呼吸して取り込むようにしてハイデガーを読みたい欲求に駆られることがある。「崇高なるこの高みの高さは、したがって、それ自体、同時に深さでもあることになる」。たとえばこうした一節に触れると、深く肯いて、そう、こうした文がぼくをハイデガーを読むことに誘っていたのだと思う。何事をも明らかにして、表にしてしまって、フラット化していく世界に疲れて、どこかに隠れて、密かに存在しているものを求めている。
もちろん、この『貧しさ』という本は、ハイデガーの同名の未出版のテキストに、そのもととなったヘルダーリンの「精神のコミュニズム」というテキストに、ハイデガーのテキストを批判的に読んだフィリップ・ラクー・ラバルトのテキストを合わせたものだから、ラクー・ラバルトの趣旨とはまったくの反対の読み方だけれど、まぁいいじゃないか。
深さとフラットという対比を思い浮かべていると、このハイデガーのテキストとはまったく反対の世界が、東浩紀が読み解こうとするアニメや最近のオタクのアートなんだろうと思った。しかし最近の『ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 』では、じつはそうしたフラットな枠組みに、深淵とも呼べる亀裂が入っているのではないか、と主張してもいるので、これがとても刺激的な本になっている。最近の本では必読だと思う。東浩紀はデリダについての本でデビューしたのだけれど、デリダがハイデガーを継いで自分の思想を作ったのはよく知られている。ある意味、西洋のテクノロジーが究極の形で具現したのが秋葉原的なものだとすれば、今考えなくてはならないのは、ハイデガー→東浩紀まで至るプロセスなんじゃないかと思った。<東浩紀がハイデガーについて書いたエッセー>

Monday, June 18, 2007

呼吸器で繋がる

昨夜。呼吸器くんの家で小宴。名目は、先日の呼吸器のシンポジウムを受けて、これから西宮でもどうやって呼吸器ユーザーに対する理解を広めたり、身近な介助者に技術的なことを伝えていくかを話し合うことだった。事務所のもうひとりの呼吸器ユーザーと仲間が集まって、飲んだり食べたりした。近くの八剣伝からテイクアウトして夜半までなかなか盛りあがった。肝心な話しはあんまり煮詰まらなかったけれど、まぁ楽しかったからオーケーか。
それにしても、呼吸器くんが三田の療養所から出てきてまだわずか半年あまり。その間に自立生活を安定させ、少しずつ行動範囲を広げていって、先月は札幌のベンチレーター使用者ネットワークへ研修に行ってきた。そして先日のシンポジウムを経て、出てきて最初に言っていた西宮で呼吸器のネットワークを作りたいという希望を、もうすぐそこにまで実現可能にしてしまっている。あったことだけをあげていくと、それはとても目まぐるしいことだったように思うのだけれど、ぼくは介助者として横でそれを見ていると、それがまったく、あたふたした様子でもなく、じつに淡々とひとつひとつができあがって行っているという印象で危ういところがまったくない。いつも思うけれど、彼のいいところは何かをやりたいと言ったときには、もう同時にどうやってやったらいいかを考えているところで、だからこっちは、「いいんじゃない」と軽く肯くだけで、後はそれができていくのを見ているだけ。じつに楽ちんで楽しい。
写真は、先日のシンポジウムが終わった後の交流会。『もっこす元気な愛』のプロデューサー神吉良輔氏のインタビューを受ける呼吸器くん。
(シンポジウムで話しをしてくれたカナダの呼吸器コーディネーター、アイリーン・ハンセンさんの講演の原稿。ぼくが翻訳したものをここに置いておきます。興味のある方はどうぞ。原文はこっちです。

Thursday, June 7, 2007

Mi Swing es Tropical

日差しもつよくなって、なんとなくトロピカルな音楽もぴったりなこの頃の天気に合わせるかのようなipodのコマーシャル。クラブ系の音楽にサブロッソなボーカルがのっかって、"rico"とか"borinquen"なんていうフレーズが飛び込んでくる。画面では、ipodを聞きながらくねくねとサルサを踊る男女のシルエット。「あれ?」「誰?」かっこいいじゃない!早速アップルのサイトへ行って調べてみると、タイトルは、"Mi Swing es Tropical"。アーティストは、"Nickodemus, and Quantic featuring Tempo"。コラボしてる2人は、やはりクラブ系のDJらしいが、Tempo?あのレゲトンのTempo?んー。レゲトンはあり得るけど声がぜんぜん違うじゃん。レゲトン系の掲示板を覗きに行ってみると、こっちでも話題になっていて、「はぁ?あのテンポ?あのギャングスタの?務所に行った?」なんていうのもあった。どうも違うのでさらに調べてみると、Quanticのサイトにレコーディングのニュースがあった。テンポ・アロマール。サブロッソなサルサの超大御所だった。納得。日本語で読める情報はmofongoさんブログが詳しい。そう言えば、テンポ・アロマールは、テゴ・カルデロンがやった"Plante bandela"でもフィーチャーされてたんだった。