アルベルト・フゲーが、彼の映画用のブログで、「けっして、フィンチャーのゾディアックを見に行くのを心から、お薦めするわけではない。彼は、私のお気に入りの映画作家ではないが、しかし今や、おそらく私の新しい良き友人だろう」。そう書きだして、今年の一番の映画だと記していたので、三宮へ出掛けて、公開2週目に入った『ゾディアック』を見てきた。フゲーは、『セブン』が気に入っておらず、この映画でフィンチャーは、それを取り返すことができたようなことを書いているが、ぼくにしては、同じように思えた。どちらもそれほど好きでも嫌いでもない。フィンチャーはよく作家性のつよい映画監督と言われるが、果たしてどこまでそうなのかと思う。むしろ作家風と言った方がいいのではないか。たしかに凝った絵作りはするし、それはとてもいいとおもうけれど、彼はあくまでもハリウッドの中で、その流儀を使ってやっている。むしろそれが上手なくらいですらある。それは、アメリカ映画の中で比べると、たとえば今週WOWOWで特集をやっていたジョン・カサベテスのはずれ方と比較してみるとよく分かるだろう。誰を作家と呼べばいいかは明らかだ。
ゾディアックは60年代後半から、70年代中頃までのカリフォルニアが舞台で、じつに当時の空気が映像になっていると思う。そして、ふと考えると、アルベルト・フゲーが、カリフォルニアで幼少期を過ごしていたのはちょうどこの頃であることに気づく。
「60年代の初めには、ソレールの人間はカリフォルニアに一人もいなかった。しかし、63年から64年頃には、すでに彼らでいっぱいになりはじめていた。66年、二人の叔父が、父とともに私を56年型の巨大な白いプリマスのコンパーチブルに乗せて、あるドライブインに『グランプリ』を見に連れていってくれたとき、町はソレール作戦のベースキャンプになりつつあった。もうすぐ祖父母が到着する頃で、その一年前には、息子たちを送り込んでいた。その従兄弟であり、親戚であるサネッティ家が波になってやって来るのはもうじきだった。」
フゲーは、ブログではそんなことには一言も触れていないが、郷愁かどうかは分からないけれど、なんらかの感情を持って、この映画を見ていたはずである。「良き友人」という表現はだからできるんじゃないか。
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