Friday, June 22, 2007

聖マルティン

例の件以来、今年は何だか自分の存在の底が抜けてしまったように感じることが多い。だからではないのだけれど、日常が止まることなくつづいて、疲弊して、自分自身が薄っぺらでどうしようもなく思うとき、ふと休んで、深い森の中へ逃げ込むようにして、そこの新鮮で神聖な空気を身体に深呼吸して取り込むようにしてハイデガーを読みたい欲求に駆られることがある。「崇高なるこの高みの高さは、したがって、それ自体、同時に深さでもあることになる」。たとえばこうした一節に触れると、深く肯いて、そう、こうした文がぼくをハイデガーを読むことに誘っていたのだと思う。何事をも明らかにして、表にしてしまって、フラット化していく世界に疲れて、どこかに隠れて、密かに存在しているものを求めている。
もちろん、この『貧しさ』という本は、ハイデガーの同名の未出版のテキストに、そのもととなったヘルダーリンの「精神のコミュニズム」というテキストに、ハイデガーのテキストを批判的に読んだフィリップ・ラクー・ラバルトのテキストを合わせたものだから、ラクー・ラバルトの趣旨とはまったくの反対の読み方だけれど、まぁいいじゃないか。
深さとフラットという対比を思い浮かべていると、このハイデガーのテキストとはまったく反対の世界が、東浩紀が読み解こうとするアニメや最近のオタクのアートなんだろうと思った。しかし最近の『ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 』では、じつはそうしたフラットな枠組みに、深淵とも呼べる亀裂が入っているのではないか、と主張してもいるので、これがとても刺激的な本になっている。最近の本では必読だと思う。東浩紀はデリダについての本でデビューしたのだけれど、デリダがハイデガーを継いで自分の思想を作ったのはよく知られている。ある意味、西洋のテクノロジーが究極の形で具現したのが秋葉原的なものだとすれば、今考えなくてはならないのは、ハイデガー→東浩紀まで至るプロセスなんじゃないかと思った。<東浩紀がハイデガーについて書いたエッセー>

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