先週から昨日まで、衛星放送のシネフィルイマジカで、この夏になくなったイングマル・ベルイマンの特集をやっていた。朝から夕方まで、3本くらいの映画を連続で毎日やるのだけれど、さすがに全部見ることは不可能で、昼に家に帰ったときに、1本か、1本半の作品を見るという生活をしばらく過ごした。
ベルイマンを知ったのは、小学校6年くらいの時、淀川さんがやっていたラジオ番組でだったと思う。中学になって親に隠れて映画を見に行くようになった頃、これくらいは見ておかなくてはならない、教養として見る映画監督のリストのひとりだった。当時はそれほど過去の映画をすぐに見れる環境ではなかったから、2本立てでどこかの映画館に廻ってきたときにはなるべく見るようにしていた。写真を載せた1973年の作品『叫びとささやき』は、そんな中の一本で、このあたりからベルイマン作品はリアルタイムで見るようになったのだと思う。『野いちご』とか『処女の泉』(淀川さんはいつもこれをお上品に[おとめ]と読ませていた)などはNHKの名画劇場で見たような記憶がある。なかなかその後、見なおすという機会もなく、今まで過ごしてきて、今回初めて見る作品とともに、あらためて見て色々感じることがあった。
ぼくがもともとそういう性向を持っていたのか、あるいはベルイマンの映画に影響を受けたのか、今となってはどちらがどうなのかよくわからなくなってしまったが、人間の生きる表面的なものだけではなく、その奥に隠れていることとか、それを動かしている原理を考えたり、突き詰めていくような傾向は、彼の映画やそれに登場する人物とよく似ていると思った。よく難解だと言われるベルイマンの映画を、昔はやはりそのとおりだと思って見たりもしていたのだけれど、今回はその流れや、登場人物が感じたり考えたりすることが本当によく理解できて、それに身を任せて見ることが気持ちいいくらいだった。
面白かったのは、一面北欧的な真面目すぎるような、登場人物たちの行動のきっかけが、思いの外生々しい嫉妬や、欲望だったりするのに気づいたことで、それはイタリアのネオリアリズムにあったような終戦直後の貧しさからくる苦しみや悩みではなく、ある程度満ち足りた人たちが感じる倦怠や空虚感といった現代のわれわれが感じるような悩みに近く、戦火を逃れた北欧だからできたのか、とくに50年代の作品は、当時の他の映画と比べてかなり先を行っていたのではないかと思う。
昨日は、起きて出掛ける支度をしながら、『ファニーとアレクサンドル』と『リハーサルの後で』を横目で見る。雨の中事務所の大掃除。介助の仕事で抜けて、作業所のお疲れさまパーティへ戻る。今年の初めにごちゃごちゃあった女の子としばらくぶりに顔を合わした。自分でも意外なくらいどきどきして動揺しているのに気づく。すでに済んでしまったと思った感情が甦ってきて苦しいくらい。こちらで会話しながら向こうの会話の輪でお喋りしている彼女のことが気になってしようななかった。こうした感情こそ、ベルイマンの映画に登場する人物が感じていたことだろうと、また映画のことを思い出し、感情の繋がりがまた繋がりを生む。
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