Friday, August 29, 2008

『いま哲学とはなにか』

ぼくは、一応大学で哲学を専攻したんだけど、まぁ、読みたい本だけ読んで適当に論文書いて卒業しただけで、ちゃんと哲学史すら勉強してない。ぼくがつるんでたグループは哲学だけじゃなくて、音楽や映画やアート全般に興味があって、むしろ映画やライブに行くことの方が価値があることだって思ってた(あるいはそうした全部が哲学だというドゥルーズの考えに忠実だった)。それは今でもそう思ってるんだけど、それにしてもオーソドックスなお勉強をないがしろにし過ぎたって思いはずっとあって、なんとか死ぬまでにはちゃんとそんな諸々を帳尻あわせて死にたいななんて思う。

だから、本屋さんでこんな本が新しく並ぶとやっぱり手にしてしまうもので、最初は、哲学史のおさらいをさらっと読めるような感じで買っておいたんだけれど、でもこれはちょっとすごい本だと思う。

ギリシャからハイデガー・レヴィナスの現代哲学を、現代の問題に関連づけながら、シンプルに語って行く。そのシンプルさがちょっと尋常じゃなく、まるで親が子供に本を読んで聞かせるような調子で最後まで読めてしまう。たしかに現代というのは、とても複雑で、何をどこから解きほぐせばいいのかわからないくらい。でももともとは何だったのかって考えて、もう一度ちゃんと基本を押さえて生きていかなくちゃいけないなって思う。

しかし、この人生と同じで、まったくシンプルなだけではない。「他者という謎」という章では、著者のレヴィナスの読解を基にして、ちょっと現代流のコミュニケーションに慣れすぎたぼくたちには、理解を超えた他者論が展開している。「しかし、人はどうして苦しむ他者に惻隠の情を抱くのだろうか。どうして、苦しむ私は他者に助けを呼ぶのだろうか。おそらく、他者の苦しみに巻き込まれる私は、この偶然出会った他者の古い知り合いだったのだ。見知らぬ隣人への私の責任は、私の自由に先立って、記憶を絶した過去のうちにあったのだ。.......」etc..この章をその前の章の終わり、ハイデガーとヘルダーリンを論じて、この私という存在の深遠さを語った箇所から続けて読んでいくと、今日はとりあえずオリンピックを見てうち高じてはいるけれど、日々なにげに感じている不安というものにあらためて目を向けて、それをいとおしく感じたくもなる。そこでの文体はほとんど詩のようだ。

ポストモダンの哲学への批判から始まって、オーソドックスな哲学への回帰は、90年代から現れたと思うけれど、哲学の必要性は現代ではもっともっと高まっていると思う。
(ぼくが書きたかったことは村上陽一郎が毎日の書評でちゃんと書いてくれてるね)。

Wednesday, August 27, 2008

日記

ちょうど4年前の今日から、日記を書きつづけている。といっても、このブログのことではなくて、モレスキンのノートを使った完璧に昔ながらのアナログなものだ。
昔旅行ばかししていたころは記録はつけていたので、その流れで帰国してしばらく日記のようなものを書いた時期はあったが、今回のように継続して何年も書きつづけるのは初めて。日記を書こうかなって思ったきっかけは、ちょうどその頃、ふっと去年の今頃って何してたっけ?って考えてみたのが最初だった。そうしたらまったく思い出せなくて、こんな風に人生が過ぎ去っていくのはあんまりなんじゃないかと思った。そんなときに、本屋をぶらついているとたまたま、昔予備校で英語を習っていた表先生が、日記の効用についての本を出しているのを発見して、立ち読みしているうちに、これは日記をつけるしかないなって思えてきた。
表さんは、ぼくが人生の中で影響を受けた人物の一人で、予備校では英語の授業はほとんどされずに、ほとんどマルクスとかフッサールとかの話ばかし聞いていた。大学で哲学をやったのもその延長線にもちろんあるし、言葉の背景にあるものが理解できずに言語を理解することは不可能だという教えは、今もスペイン語や他の言葉をやるときに、ぼく自身が実感していることでもある。
それでも、おかげで大学に合格して、予備校を卒業して別の文化圏に入ってしまい。彼の名前を口にしたり、聞いたりすることもなくなってしまった。20年以上経って、ふと手にした本はなんとなくビジネスマン向けのハウツーもののようで、その外見にちょっとがっかりもしながら読んでみると、また昔のようにちゃんと影響下にいる自分がおかしかった。

今回日記をつけるのに、はっきり決まりを作ったわけではないけれど、できるだけ余計なことは書かないでおこうと思った。自分の考えとか、何々についての考えとかはできるだけ書かない。時間が経ってその日がどんな日だったかを思い出せるように最低限のことだけ書いていく。朝何時に起きて、何を食べ、どこへ行って何をした。夕食は何を食べ、何時に就寝したか。天気も毎日は書いていない。記憶に残るくらい寒い日とか暑い日に記すくらい。

読み返すと、毎日はおそろしく淡々と過ぎて行っている。日記をつけ始めた1年後には、頭を坊主にしていてそのときはそのときでテンションも上がったのだろうが、数年前の頃のこととして振り返ると、その淡々とした日常に飲み込まれるように収まっている。最近はばたばたしていて、2〜3日分を纏めて書くこともあって、1日分はもっと簡潔になっている。だいたい筆が乗って文字の量が多い時期は、なんとなく調子がよく、逆は体調が悪かったりしている。法則がないようで、じつはちゃんとバイオリズムにそって進んでたりしている。ブログにその日あったことを書いた日は、ほんとに淡泊。

Thursday, August 21, 2008

temblar(11) google maps

生来の飽きっぽさと、なかなかテンションを保ちきれなかったりして、このtemblar「揺れる」シリーズはもう1年もほったらかしている。次々新しい状況が現れてそれに対応しているうちにだんだん集中できなくなるというのもあるだろう。そんな間にも、日本でも大きな地震があったし、もちろん四川省の地震があった。まるでそうしたことをみんな忘れてしまったようにオリンピックを楽しんでいるけれど。

きのう、たまたまグーグルマップにアクセスしたら、現在の地球上での地震の発生状況がリアルタイムで確認できるコンテンツがあることを知った。新しいサービスではないようだけれど、これはなかなか興味深い。<Real-time Earthquakes>
一昨日、福島の方で地震があったけれど、その直後には最近行ったコスタリカでも揺れていることがわかる。コスタリカの地震について知りたければさらに詳しいこんなページにアクセスできるようにもなっている。震源は首都サンホセの南85キロ、プンタレナスの南東130キロということだ。
その後も、フィリピンやギリシャ、ソロモン諸島などで地震があった。マグニチュード6くらいまでの地震ならほとんど恒常的に起き続けているのがわかる。

それは揺れつづけているぼくらの人生と同じだろう、というのがぼくが言おうとしていることだった。さっき確認すると、今日の日付ではまだ地震は確認されていない。その平安な時期はどれだけつづくのだろう。『私の人生の映画』にもこんな一節がある。

 数ヶ月後、チラカ叔母さんは帰ってしまっていたが、ラ・ポッチーはまだ帰るつもりはなかった。そこへひとりのチェロキーインディアンが現れた。それともスーだったか。来たのは夜明け前で、午前4時頃、父はすでに仕事へ出かけていた。インディアンは、やけになって戸を叩きだし、ほとんど壊してしまいそうだった。それは、ダコタ・リーの父親で、混じりっけのないインディアンだった;肌は赤くはなかったが、銅の色のようで、まるでチリ人のようだった。そして、ハーレーのバイクに乗っていた。インディアンの髪は、私がこれまで見たことものないくらい長く、ベニスビーチのヒッピーたちよりももっと長かった。母とラ・ポッチーは、叔母の一族の畑からとれた赤ワインで彼を落ちつかせることができた。
 イングルウッドは、危険な地域になりつつあった。ある夜、向かいに住むメキシコ人家族のまだ未成年の息子が、車で通った若者のグループに撃たれた。母は、怯えて生活するのにも限度があると言って、テオドロ爺に、お金を借りた。父は、牛乳からパンへと替え、アッシュ通りのアパートから、サンフェルナンド渓谷のいちばん町外れへと移った。そして、イングルウッドへは、誰かが空港へ到着したり、出発したりするときだけ戻った。一方、ラ・ポッチーはマイアミへ行き、数年後フリオ・イグレシアスの秘書になった。誰も気づいていなかったが、私たちは人生で最良の時期を迎え始めていた。