Friday, April 24, 2009

ブランニュー

昨年末、よりによってクリスマスイブの日に、交差点を通過しているところ車に引っかけられて、3年間乗ってたトレックのロードレーサーが廃車になってしまった。つぶれたからまたすぐ買えるような値段のものじゃないし、そのうち考えようと思いつつ4ヶ月。暖かくなってそろそろ欲しいなぁ〜って思い始めると、止まらないんですよね、自転車って。

身近で、最近フレームから組んで完成させた人がいて、そういう手もあるのかななんて調べてみると、結局けっこうな額になっちゃいそうなので、やはり完成車を探す。昔から憧れで前はちょっと手が出なかったクラインの自転車をこの際なので選ぶことにした。

先週の金曜に寄ってみた本町のトレックストア大阪へまた行って、まぁもう決めてしたし、フィッティングしてもらって、そのまま乗って帰ってきた。まるで近くの自転車屋さんでママチャリを買って帰るような感覚。本町から西宮まで、ほんとなら45分くらいで行くはずだったけれど、道がよく分からないのと風がもの凄く強かったりで、1時間ほどかかってしまった。

トレックはもう通勤専用になっていて、楽しみでちょっと遠出してみるなんてこともなくなっていたのだけれど、新しいものを手に入れると、またそんな新鮮な気分もよみがえり、今日は天気もよかったので、午後から西宮の海岸沿いへふらりと出掛ける。西宮浜へ渡ってプントイタリアで雑貨を見たりして夙川まで行って引き返す。こんなに季節を感じながらゆっくりするのはどれくらいぶりだろう。

Tuesday, April 21, 2009

『中村のイヤギ』

日曜日。2年ほど前まで職場で介助の仕事をしていた男の子が原一男の指導のもとで作っていたドキュメンタリー作品ができあがって神戸で上映会をするとの知らせを、神戸映画資料館からのメールで知って午後から新長田まで行って見てきた。
その前に、新在家のトレックストア六甲へ寄ってまた自転車を少しチェックする。

彼は、張領太(チョン・ヨンテ)くん。韓国籍の在日の男の子だ。一緒に働いていた頃は日本名を名乗っていて、ぼくらはみんな名前を愛称みたいにして「ヨンテ」と呼んでいた。ぼくが彼と親しく話すようになったのは、ぼくが亡くなった祐樹の死の直前のことを介助者の人たちにインタビューしてビデオに撮っていたとき、その介助者の一人としてインタビューをお願いしたのがきっかけだった。その頃もう彼は、朝日カルチャーセンターの原一男の講座に通っていたし、この映画のために、伊丹の空港のすぐ横にある中村と呼ばれる韓国人が不法占拠してできた部落へ入ってカメラを回し始めていたと思う。

それから半年か一年くらいで、彼は隣の尼崎のやはり障害者に関わる仕事に移って、以来たまに思い出してどうしてるんだろうと思いながらも、なんとなく疎遠になってしまっていた。偶然この映画の上映を知って出掛け、数年ぶりの再会をする。

映画はよくできていたと思った。すでにこの中村地区の集団移転が決まった後、古い家屋を取り壊し、立ち退いて新しい市営住宅へ移るまでを描いている。同じ在日の彼がそこでとても受け入れられているのがよく分かり、それを彼が安心したように喜んでいるのもよく分かった。被写体との間にいい関係を築いていると思ったし、それがこの作品の成功の理由の一つでもあるだろうと思った。

上映の後、ほぼ内輪だけのような観客の中で感想を述べる会になった。ある作品を作るというのは、ほんとに怖いことで、褒められもするだろうけれど、意外なところから批判も受けもする。ヨンテも戦後60年の在日の苦しみが描けていないと批判されていた。しかもそれを言ったのは大学生の女の子だった。活動家とおぼしき人からは、これは闘争ではなくノスタルジーに過ぎないとか。こうしたマイノリティの問題に口をつっこむことっていうのは、こうしたどこから降ってくるとも分からない矢のような攻撃を一々相手にしなくてはならないんだと思うと、ほんとに消耗するだけで前に進まないんだろうな。

たしかに、これはヨンテがはじめてカメラを持って作った作品で、色んな面で未熟だろうし、批判される面もたくさんあるだろうけれど、なんというかヨンテという人のもつ独特の誠実さがあって、自分の感じたもの以上をあえて付け足したりしていないところがこの作品の美点なんだと思う。

こうしたものを見て、何か足りないなんて感じるのは、どういう感性だろう?ヨンテ自身が、みんながカメラを持って表現したらいいと言っていたのは、べつに誰かに向かって言ったのではないだろうけれど、ぼくはあえてそういう批判を向ける人に言ってみたい気分だ。何かが足りないと思うなら、それはあなたが作るべきだろう。ヨンテは無くなってしまう何かを残したいと思い、少なくともそうしたんだから。

タイトルの『中村のイヤギ』のイヤギとはハングルで「話し」という意味だそうだ。

Sunday, April 19, 2009

ガレアーノ

トリニダード・トバゴで開催されていた米州首脳会議で、ベネズエラのチャベス大統領がオバマに対して「あなたと友人になりたい」と言ったというニュースは昨夜のニュースで繰り返して流れていたけれど、同じニュースでチャベスがオバマに一冊の本をプレゼントしているシーンもあって、なんだろうって思ってたら、スペインのEl Paisに記事が載っていた。本はウルグアイの作家エドゥアルド・ガレアーノのもので、タイトルは"Las venas abiertas de América Latina"『収奪された大地 ラテンアメリカ五百年』という名で邦訳も出ている。
記事によれば、このニュースのおかげでアマゾンで60280位のランキングだったのが、いきなりベストテンに入っちゃったそうだ。

Saturday, April 18, 2009

『罪の天使たち』

若い友人の誕生パーティで、帰ったのは3時くらいになっていたけれど、せっかくの休日でもったいないので、朝から起きて九条まで映画を見に行く。阪神なんば線に
乗って初めて九条の駅に降りた。朝の下町の雰囲気が新鮮。乗り換えせずに到着できる気安さがいいね。

映画はブレッソンの『罪の天使たち』だ。先月シネフィル・イマジカで4本の作品が一度にやってたり、今は彼のメモを本にした『シネマトグラフ覚え書き』を読んでもいるのでちょうどいいタイイングだった。
ブレッソンは、映画を演劇からどれだけ遠く離れて持って行けるかを終生試みていた監督だったけれど、1943年のこの映画は、まだ戦前からのフランス映画のスタイルで撮っている。ただ、すべてが「善悪の彼岸」で起こっているような感覚を覚えさせる筋書きは、ここからすでに見ることができるだろう。

年末に事故って、ロードレーサーが廃車になったままで、そろそろ新しいのがほしくなってきたところ。近くにトレックのストアがあったので、ちょうどいいから九条から阿波座まで行き、ちらっと覗いてくる。

Wednesday, April 15, 2009

Desaparecidos (行方不明者たち)

ついでに訳してみた。ルベン・ブラデスの有名な曲。1984年リリースのBuscando America、アメリカを探してというアルバムに収録のDesapariciones行方不明。英語版のWikipediaによれば、今年はこのアルバムがリリースされて25周年ということで、バンドのSeis del solarとの活動を再開してツアーに出る予定だそうだ。



「どなたか私の主人をご存じじゃないででょうか?」
婦人は訊ねていた。
「名前はエルネストX、40歳です。自動車販売の店で
守衛をしていました。
黒っぽい色のシャツに、明るい色のパンツを履いていました。
一昨日の夜、出掛けたまま、戻って来なくなりました。
どうしちゃったんでしょう。
こんなことはこれまでなかったんです」。

「もう3日も姉を捜しているんです。
名前はアルタグラシア。祖母と同じです。
職場から学校へ出掛けました。
ジーンズに、白っぽいシャツを着ていました。
恋人じゃないんです。彼女は家にいるタイプでしたから。
PSNでも病院でも誰も知らないって言うんです」。

「誰かお願いですから、私の息子をご存じじゃないですか。
医科予備校の学生です。
名前はアグスティン。とってもいい子なんです。
何か言い張るときにはとても頑固ですけど。
どの軍隊かわからないのですが、息子を連れて行ってしまったんです。
白いパンツに、ストライプのシャツでした。一昨日のことです」。

「クラーラ・キニョネス、というのが私の母の名前です。
彼女は、本当に信心深い人で、誰とも揉め事を起こすようなことはなかったです。
証人として連れ去られたのです。
私にしか関係のない事件だったのに。
それで、今日の午後出頭したのですが、
誰も留置場から彼女がどこへ行ったのか知らないって言うのです」。

昨夜爆発音が何度も鳴るのを聞いた。
パトゥン、パタ、パトゥン、ペテ
散弾銃やリボルバーの音が。
車が急停車する音。
ブーツの音が通りに反響している。
扉をどんどん叩く音。怒鳴る声に。許しを請う声。皿が割れる。
テレビでドラマをやっていたから、
外で何が起こってるのか誰も見てなかった。

行方不明者たちはどこへいったのだろう?
池や藪の中まで探しているのに。
なぜ彼らがいなくなってしまっただろう?
他の人ではなく彼らが?

いつ彼らは戻って来るのだろう?
頭に浮かぶのはいつもそのこと。
行方不明者の名はなんて言うのですか?
感情が心を締めつける。



Que alguien me diga si han visto a mi esposo
Preguntaba la Doña
Se llama Ernesto X, tiene cuarenta años
Trabaja celador, en un negocio carros

Llevaba camisa oscura y pantalón claro
Salió anteaoche y no ha regresado
Y no sé ya qué pensar
Pues esto, antes no me había pasado, ooo

Llevo tres días buscando a mi hermana
Se llama Altagracia igual que la abuela
Salió del trabajo pa' la escuela
Tenia puestos unos jeans y una camisa clara
No ha sido el novio, el tipo está en su casa
No saben de ella en la PSN ni en el hospital, ooo

Que alguien me diga si han visto a mi hijo
Es estudiante de pre-medicina
Se llama Agustín y es un buen muchacho
A veces es terco cuando opina
Lo han detenido, no sé que fuerza
Pantalón blanco, camisa a rayas pasó anteayer

Clara, clara, clara quiñones se llama mi madre
Ella es, ella es un alma de Dios, no se mete con nadie
Y se la han llevado de testigo
Por un asunto que es nada más conmigo
Y fui a entregarme hoy por la tarde
Y ahora dicen que no saben quién se la llevó del cuartel

Anoche escuche varias explociones
Patún pata patún pete
Tiro de escopeta y de revolver
Carros acelerados freno gritos
Eco de botas en la calle
Toque de puertas por dioses platos rotos
Estaban dando la telenovela
Por eso nadie miró pa' fuera

A dónde van los desaparecidos
Busca en el agua y en los matorrales
Y por qué es que se desaparecen
Por qué no todos somos iguales

Y cuándo vuelve el desaparecido
Cada vez que lo trae el pensamiento
Cómo se llama el desaparecido
Con la emoción apretando por dentro

© RUBEN BLADES PROD. INC.

Friday, April 10, 2009

独裁者

ちょっとしたシンクロニシティだ。アルゼンチンの行方不明者のことから、当然ルベン・ブラデスの有名な曲のことを連想して、Youtubeを検索したりして、そういえばLPしか持っていなかったからこの際ダウンロードしてしまおうと、iTunestoreへ出向いたり。なんども聴いた曲なのによく聞き取れないところがあるからチェックしていると、PSNという耳慣れない名詞にぶち当たって、なんだろう?とGoogleにかけてみる。100%たしかかは分からないかけれど、Policia Secreta de Panama(パナマ秘密警察)ではないかという示唆。ふーん、と思ってなにげに別ウィンドウのEl Paisを見ると、あれ?見覚えあるかぼちゃ顔。アメリカで拘束されているノリエガ元パナマ将軍が、フランスへ移送されるというニュースだった。(*

ノリエガは、1989年の米軍のパナマ侵攻時に、コロンビアからの麻薬をパナマを経由させてアメリカへ密輸しているという罪状で、拘束され有罪になった。記事に寄れば40年の禁固が、30年になり、品行がよかったので20年で昨年刑期を終えたところだった。そして、フランスとパナマがそれぞれ、マネーロンダリングと人権侵害の罪で、移送を求めていたところ、米最高裁判所はフランスへの移送を決定したという。ノリエガ側は、フランス行きを嫌がって、戦争捕虜の身であるからパナマへ移送させるべきと訴えたが認められなかった。

Thursday, April 9, 2009

『闘争のアサンブレア』

去年ここでも書いた(*)廣瀬純さんが、『闘争の最小回路』のついで書いた、ラテンアメリカの新しい政治・文化運動について書いた本の2冊目、続編というのとは少し違うか。むしろこの本のデータをもとに前著が書かれたという印象もある。今回はアルゼンチンの事情を、運動が起こった経緯を細かく現地の活動家へのインタビューしながら詳述している。おのずとペロンから軍事政権時代へと遡って解説せざるを得ないので、ちょっとしたアルゼンチン現代史のようにもなっています。大まかな紹介は今月のラティーナに書評を書いたので、そちらを見てほしいのですが、字数の関係で触れられなかったエスクラチェについて少し補足しておきます。

エスクラチェ(escrache)というのは辞書を引いても出てこない、アルゼンチンでの用法らしい。アルゼンチンは、1976年から先日亡くなったアルフォンシンが大統領になって民政に移管した1983年まで、軍事独裁政権時代がつづいてたのですが、その間、秘密警察に連れ去られて行方不明になった活動家や一般人が多数いました。民政移管以降裁判で訴えられて有罪になるのですが、その度に恩赦になったりで結局うやむやになるという繰り返し。エスクラチェというのは、そうして恩赦されて一般人として暮らしている犯人を、探しだし、何ヶ月も準備して付近の住民に罪を明かして、周知させていくという運動だそうです。

現在アルゼンチンでの人権活動の中心は、そのときアルゼンチンの首都の中心5月広場に集まって抗議活動を行った「5月広場の母たち」だそうで、ただ行方不明になった自分の息子・娘を捜すだけではなく、ジェノサイドというのは、資本制から生じたというその根っこから変えないといけないと主張して、ラディカルな人権活動をしています。(もともとの活動に限定すべきというグループと分裂してるらしい)。

「母たち」は、あらゆる類の妨害に抗して、ジェノサイドは、資本制を母体とするものであって、何らかの「悪い政府」がもたらした結果ではないと主張し続けてきました。「私たちは妥協しない」というスローガンは、虐殺者全員が逮捕されても平和はない、闘争は終わらないということを意味しているのです

エスクラチェの活動の中心となっているのは、逆にそのとき行方不明になった人たちの子供たち。団体の名称は、そのものスペイン語で「子供たち」をあらわす<H.I.J.O.S>。一見、ちょっと法を超えた民衆裁判のようで、ぼくらには怖いと思える部分もあるのだけれど、この本の他の部分に出てくる、失業者の運動や住民の集会などみな、経済や政治が破綻して、空白になったときに民衆が自分自身で作り上げた運動で、司法が機能しなくなっているとしたら、自分たちで機能させるしかない、という意志が、この運動には込められている。H.I.J.O.Sの活動の模様はYoububeで見ることができます。

この本を読んだ後には、おそらくぼくらを包んでいる様々な制度とか規制とかは、ほんとはほとんどフィクションなんじゃないかと思えてくる。だだ、この国は、それがぎっしり包み込まれすぎて分からなくなっているだけでね。

Tuesday, April 7, 2009

Beirut


Watch the full concert at baeblemusic.com

最近お気に入りのBeirutです。
2月4日イースト・ハーレムのウィリアムスバーグ・ミュージックホールでのライブ。30分以上あります。ラストはアーケード・ファイアーもやってるブラジル。

Saturday, April 4, 2009

Tommy Olivencia Orq

Facebookにリノ・イグレシアスが載っけたものの再掲。シモン・ペレスが歌うトミー・オリベンシアです。
これを含めた、先週日曜に行われた今年のプエルトリコ・サルサの日の映像がいくつかYoutubeにアップされてます。

Friday, April 3, 2009

Café Tacvba 20 años

メキシコのロックバンド、カフェ・タクーバが結成20周年を迎える今年、それにあわせ20のアメリカ大陸と、ヨーロッパの都市を回ってツアーを行うというnotimexの記事をメキシコの様々な新聞が配信している。<La Jornada>

ツアーは、来月21日エルサルバドールの首都サンサルバドールから始まり、アメリカ大陸を南下、メキシコ国内を回った後、合衆国、最後はヨーロッパで終わる予定。記者会見はEl hijo del cuervo で行われた。